第二十二話
ドリーはぽかんと口を開けて立ち尽くしていた。それからぎゅっと目をつむり、悪夢から目を覚ますように目を見開いた。
ドリーの大きな目には、バーロホールよりも汚れた部屋が映っている。
元より掃除をしていない部屋は、家を空けている間に埃の絨毯が敷かれていた。
リットが歩く度に足元から埃が立ち上る。
その埃が自分の方へ来ないようにと、いつもより力強く羽を動かしガードするチルカのせいで、さらに埃は風で四方へと舞っていた。
リットが裏庭側の窓を開けると、出遅れた渡り鳥のように、一斉に埃が風に乗って外へ逃げていく。
手で口を覆ったチルカは、風で作られた埃の道に沿って飛び、早々と庭へと逃げていった。
チルカを迎える蜂の羽音と小鳥の声、それと埃を照らす鈍い陽光を背にリットは椅子に座った。
一息つこうと足元にある埃をかぶった酒瓶を手に取ったが、栓をしていなかったせいで、中にカビのように埃が浮いているので諦めた。
そして、目の前にかざした酒瓶と同じくらい小さく見える、遠くにいるドリーに話しかけた。
「遠慮すんな。少し休めよ」
ドリーは大きく見開いたままの瞳をキョロキョロさせて座れる場所を探したが、どこも埃まみれで座れそうな場所はなかった。
リットに「年中砂埃にまみれる種族がなにを気にしてんだ」と言われると、これ以上埃を立たせないように慎重に床に足を置きながら、それ以上に慎重にお尻を埃まみれの椅子に下ろした。
それっきりリットは口を閉ざしたので、ドリーも黙っていたが、あまりにも退屈で短くも長い時間が流れるので、思い切って口を開いた。
「グリム水晶の酒瓶を探さなくていいんですか?」
「三本のうち、二本は上だ。棚で本立ての代わりになってる」
リットは天井に向かって指した人差し指を、ちょいちょいと動かして取ってこいと示した。
ドリーは文句を言わず立ち上がり階段の前にまで行くと、振り返った。
「場所がわかってるなら、もう一本も取ってきますよ。暇ですし」
「もう一本は下の工房だ。そっちは荒らされたくねぇから、自分で取ってくる」
ドリーは「それじゃあ、寝室に失礼します」と断ってから、階段を上っていった。
ノーラと同じ間隔の短い足音と、ノーラとは違う控えめな足音が家の中に響く。
リットは旅疲れに気合を入れるように太ももを叩くと、立ち上がった。
埃に隠れた地下の工房への下扉を開けると、冷えた埃のにおいがする工房の階段を下りていった。
工房の天井付近の格子窓からは、庭にいるチルカの声が漏れて聞こえてきた。
埃を手で追い払いながら酒瓶を探していると、格子の間をすり抜けてチルカが入ってきた。
リットの存在など気に留めないように中まで飛んで来ると、蒸留器が置かれている机の下に入っていった。
そこには直射日光に当たらないように木箱にオイルの入った瓶が保管されているのだが、そこからチルカが見慣れない小瓶を持って出てきた。
リットは「ちょっと待て」と格子に手を置いて、チルカの行く手を遮った。
「なによ」
「なんだそれは」
「ハチミツよ。見たらわかるでしょ」
「なんでそんなもんがあんだよ」
「ディアナからついてきたミツバチに集めさせてるのよ。ここは保存場所にちょうどいいの。直射日光は当たらないし、涼しいし」
「最初に、ここには入ってくるなって言わなかったか?」
「なに言ってんのよいまさら。皆ここを使ってるわよ」
チルカは格子の間を指した。
指の先を見ると、リスや小鳥の足跡などが工房へ向かってついていた。
「今まで気づかないなんてどうかしてるわよ。言っとくけど、あそことあそこには冬越しの巣があるんだから、壊しちゃダメよ」
最後にチルカは「トイレは外でさせてるんだから感謝しなさいよ」と言い残し、ハチミツの入った瓶を抱えて、格子の隙間から庭へと飛んでいった。
リットはチルカが指していた、棚の一番上にある空き箱に手を伸ばした。自分でもこんなものを置いていたことを忘れていたので、箱がどうなろうと問題はなかったのだが、この工房が勝手に使われていることが問題だ。
箱を開けると、寝床に使う枯れ葉や木の実の殻など、今年の冬をここで過ごしたあとがしっかりと残ったままになっていた。
リットは「おい、チルカ!」と格子に向かって怒鳴る。
その時に吸った埃でむせていると、チルカがめんどくさそうな顔で戻ってきた。
「なんなのよ。久しぶりに自分の家に帰ってきたからって、テンション上げないでよね」
「庭が森になったのは認める」リットは格子から青々と生い茂る裏庭を見上げた。「でも、ここは工房だ。ここを森にされちゃ仕事ができねぇんだよ」
「アンタねぇ……こんな無機質なところが森になんてなるわけないでしょ」
「じゃあ、捨てても問題ねぇわけだな」
リットは巣箱を重ねると、机の上に置いた。
「困るのはアンタよ。毎回長い期間無人にしておいて、他の動物や虫に荒らされてないのはおかしいと思わないの?」
チルカに言われ、リットは部屋を見回す。
よく見ると、あちこちに動物の小さな足跡がついているが、長い間放置されているものにも、巣箱以外の動物や虫の巣や、虫食いのあと、動物のフンなどはなにもなかった。
取り扱っているオイルの中には虫を寄せるものもあるため、過去には一週間家を空けただけでも、虫が湧いて売り物にならなくなったこともあったのだが、チルカが来てからは、ずぼらなリットの管理にも関わらず、そんなことはなくなっていた。
思い当たる節に納得しつつも、リットがなんと言い返そうかと悩んでいると、チルカは「一冬貸すだけで、安心して家を空けられるんだからケチケチ言うなんてしょうもないわよ」と重ねて言ってきた。
「一つ問題がある……」
「なによ」
「何年も気付かなかったオレがマヌケみたいじゃねぇか」
「アンタは集中してたら周りの声が聴こえてないからでしょ。それじゃあ、もう行くわよ」と飛んでいこうとしたが、チルカは振り返ると「ちょうどいいからアンタ達も来なさいよ」と指で招いてから飛んでいった。
工房でメディウムから貰った酒瓶を見つけたリットは、庭へは行かずに、一階の居間へと戻り椅子に座っていた。
最後にチルカと会話した時に、嫌味が返ってこなかったからだ。
「普通あそこは、気付かなくても充分マヌケよ。だよな」
リットは三本並ぶグリム水晶の酒瓶越しにドリーを見ながら言った。
ドリーは窓を締めながら「いったいなんの話ですか?」と聞く。
「オレ達は今日殺されるかもしれねぇって話だ」
いつもとは違うリットの神妙な声に、ドリーも思わす声を潜める。
「……誰にですか?」
「口も性格も悪い妖精にだ」
「それって……」とドリーがつぶやくと、裏庭のドアが勢い良く叩かれた。
ドリーは思わず悲鳴を漏らすが、慌てて口を抑えた。さっき閉めた窓を見て、しっかり閉まっているのを確認すると、少しだけ胸をなでおろした。
ドアの向こうからは「いるんでしょう。開けなさいよ」という、いつもより高いチルカの声がする。
ドリーはテーブルの下に潜り込んで「どうするんですか?」と声を潜めて言う。
「殺される前に殺すまでだ」
リットが立ち上がってドアに手をかけると、ドリーはそれを止めるために慌ててテーブルの下から出てきたが、それは遅く、リットの服を掴んだ頃には既にドアが開けられてしまっていた。
チルカの影が凶器を持って腕を振り下ろしたかのように見えたドリーは思わず身をかがめた。
「ほら、これ持って」
チルカは葉っぱを筒状に丸めたものをリットに渡すと、背中に隠れるドリーにも「なにやってるのよ」と言いながら、同じものを押し付けた。
庭では井戸を囲むように、小動物が集まっていた。
チルカに前髪を引っ張られながら連れて行かれると、座らされ、先程渡された葉っぱのコップに、ハチミツを注がれる。
周りを見ると、動物や虫も同じようにハチミツが垂らされた葉っぱを持っていた。
「オレは夢でも見てんのか? それとも頭がおかしくなったのか? それともメルヘンの世界に閉じ込めようとしてんのか?」
動物と一緒に井戸を囲み、チルカに酌をされるというありえない体験に、リットは恐怖以上のものを感じていた。
「なに言ってるのよ。お披露目会よ。見てなさい」
チルカは光る棒を高く掲げた。
すると、囃し立てる口笛のように小鳥が鳴き、ミツバチが拍手のように羽音を鳴らす。
ほのぼのした光景に、ドリーは「よかったですね。殺されなくて」と顔を緩めてリットを見た。
しかし、リットは変わらず神妙な表情をしたままだった。
「ドリー……。思いっきりオレの頭を叩け」
「え……」
「目を覚ませば、オレは酒場の汚れた空気の中で、酔っぱらいのゲスいシモネタジョークを聞きながら、前途ある若者をからかって泣かしてるはずだ」
「それって……目覚めないほうがいいんじゃないですか?」
「いいから早くしろ。このままじゃ、メルヘンにしばかれる」
リットは目をつむり、後頭部に控えめな痛みが走るのを感じると、ゆっくりと目を開けた。
「ほら、目をあけりゃ、つるっぱげのムサイ男の顔だ」
「悪かったなハゲで」とカーターはリットを睨むと、ついで「良かったな。ずっと探してたんだろ。ドラゴニュートの研磨布」とカウンターの上に座るチルカを見た。
チルカの手には研磨布で磨かれ、輝きを取り戻したフォークがあった。
「やっぱり夢じゃねぇのか……」
「現実を受け入れられないなんて、だらしないわよ」
チルカは磨かれた小さな銀食器に盛られたサラダを見て嬉しそうにしている。
庭での小動物たちとの奇妙なパーティーのあと、リット達はリゼーネに向かう前に、カーターの酒場で食事をしに来ていた。
受け入れられないまま夢うつつのリットは、酒場に来てからようやく正気を取り戻した。
「信じられるか? リスにハチミツのおかわりを勧められるんだぞ」
「いいじゃねぇか。いかにも森の妖精のお茶会だ。オレもあやかりたいね」
カーターはリットの言うことを全て信じているわけではないが、全て疑っているわけでもない。だからこの言葉は、からかいでもあり、本心でもあった。
「ここで小動物が酒を飲んでたら、小便を撒き散らして現実の世界を取り戻してやるぞ」
「嫌な現実だな……。それで、今度はゴブリンを連れてなにをすんだ?」
カーターが物珍しい視線を向けると、ドリーは首を竦めて縮こまった会釈をした。
「とりあえず、おかしくなった妖精をどうにかしたいところだ。ニコニコ気持ち悪くて、たまったもんじゃねぇ……」
銀食器に盛られたサラダを食べることなく、笑顔で見続けているチルカをリットは横目で見た。
「何年越しの夢が叶う嬉しさなんてアンタにはわかんないわよ」
チルカは笑顔のまま、銀の皿から目を離さずに言った。
「僕はわかります。十年越しに家に帰った時の感動といったら」
ドリーが言うと、チルカは皿から視線を外して、笑顔を消した。そして、チルカらしい半眼で睨みつけるような目をドリーに向けた。
「あのねぇ……良い気分の邪魔をしないで」
「僕……なにかしましたか?」
ドリーは助けを求める視線でリットを見る。
「なにかしても、なにもしなくても、女に怒られるのが男ってもんだ。軽い女にみられたくない女の心理ってのは厄介だぞ」
「誰が軽い女よ」
チルカは飛んでくると、リットの耳たぶに蹴りを入れた。
「今もフワフワ浮いてんだろ」
チルカは「そういうこと言ってんじゃないわよ」といつもの調子でリットを睨みつけたあと、今度はドリーを睨みつけた。「だいたい年数が多ければいいってもんじゃないのよ。待ち焦がれる濃密な時間が大切なの。ドリーには、この銀のフォークを磨く喜びなんてわかんないでしょ」
チルカは磨かれていないくすんだ銀のフォークの先をドリーに突きつけた。
「まず女を磨いたらどうだ?」と口を挟むリットをチルカは睨みつけ、話に入ってこないように制すと、つぎにドリーをバカにした顔で見て「アンタじゃ、磨き方もわからないでしょうね」と鼻で笑った。
ドリーはムッと眉をひそめて、フォークに手を伸ばした。
「それくらいできますよ」
「ムリよ。絶妙な力加減が大事なんだから。諦めて返しなさい」
言葉とは裏腹に、チルカは渡すようにしてドリーに研磨布を差し出した。
ドリーは力強く研磨布を掴むと、くすんだフォークを磨き出した。
「言っとくけど、そんなの一個磨いたくらいじゃ認めないわよ」
チルカは残りのくすんだままの銀食器をドリーの近くに置いた。
既に集中に入ったドリーは返事だけをすると、次々に食器を磨き出した。
それを見てチルカは満足げに笑みを浮かべる。先程のように嬉しさの笑顔ではなく、してやったといういやらしい笑みだ。
「扱い方を覚えれば便利な奴ね」




