第十九話
ごはん時を過ぎ、人の流れと逆らうように歩き、リットとドリーは階段井戸の三層目にある店に食事に来ていた。
テーブルの上には料理。それも、肘の置き場もないほどたくさんの皿が並べられている。
「このコーンブレッド食べました?」
ドリーはサンドイッチの具になったかのように、高く積まれた皿と皿の間から顔を出す。
片手には割いたコーンブレッドのかけらを持っている。
リットは「あぁ」と空返事をすると、酒瓶に口をつけて一口だけ飲み込んだ。
ドリーはこんがりと焼けたきつね色のコーンブレッドで、皿に残ったチョコレート色のビーフシチューを拭き取る。まるでボロス荒野のようになったコーンブレッドを口に入れて、ゆっくり咀嚼して飲み込むと、おもむろに口を開いた。
「考え事ですか?」
「まぁな」
「相談に乗りますよ。これだけご馳走になったんですから」
ドリーは空の皿とまだ料理が乗っている皿を、端から順に線を引くようにして指していった。
「それが問題なんだよな」
リットはテーブルを一瞥してから、手に持った酒瓶を見つめる。指紋で曇った瓶には、自分の険しい顔が映っていた。
その一連の動作を見て、ドリーは不安に眉をひそめた。
「まさかお金がないのでは……。僕も持っていませんよ」
「心配すんな、金ならちゃんとある」
リットはポケットから袋に入った金を出すと、ドリーが食べていたビーフシチューの空の皿の上に置いた。
ずっしりとした重たい音が皿の上で鳴ると、ドリーはほっと胸をなでおろした。
「よかった……。心配しましたよ。でも、それならなにを考えていたんですか?」
言いながらドリーがコーンブレッドを割ると、ほのかなコーンの匂いが漂いだした。
「考えることは山ほどあるぞ。子供のこと、老後のこと。それに、なぜ神は男と女を作ったかとかな」
「いつもそんなことを考えてるんですか? 難しすぎて、僕が答えを出すには何年もかかりそうですね」
「何回人生をやり直しても答えなんて出ねぇよ。オレが今考えてるのは、愚かな選択と賢い選択のどっちを取るかだ」
「そんなの……賢い選択以外にありますか?」
「だよな。背中を押して貰った礼は、あとで背中を押してやることで返してやる」
そう言うとリットは、眉間に作ったシワを伸ばし、意気揚々と手を上げて、店員にお酒のおかわりと料理の追加を頼んだ。
その様子をドリーは意味がわからないといった表情で見ていた。
「いやー、バーロホールの食事も懐かしくて良かったですが、舌が肥えるとやっぱりこっちのほうが美味しいですね」
ドリーは満足気にお腹を擦ると、調理の匂いが混ざっていない新鮮な空気を目一杯吸い込んだ。そして、ゆっくり吐き出すと「さて、そろそろ帰りますか」とリットに振り返った。
「そりゃ無理だ。帰りの馬車台もねぇからな。歩いて帰るにも、保存食を買う金もねぇ」
リットも酒と料理で膨れたお腹を擦りながら平然と言った。
「それなら、マグダホンさんの売り上げをお借りするのは? 話せばわかってくれますよ」
「オレがこんな豪勢な飯を食う金を持ってきてたと思うのか?」
リットはズボンのポケットを裏返してドリーに見せつけた。
埃だけが虚しく風に流される。
「賢い選択をするって言ったじゃないですか」
「だから、したんだよ。賢い選択をな」
リットは食事のおつりが入った袋を見せてから、ついてこいとドリーを指で招くと、階段井戸をさらに下りていった。
「こんなところなにもありませんよ」
階段井戸の最下層の横穴は苔がむしており、油断すると足が滑って石畳に頭を打ち付けそうだ。
「探そうとしねぇ奴には見つかんねぇよ」
「そう言っても、これで五つ目の横穴ですよ」
「横穴が多すぎんだよ。作ったのはオマエの先祖だろ。文句なら自分に言え」
「まさか背中を押してくれるというのは、奈落の底へ落とすという意味ですか」
「落とされたくなかったら、苔で滑って勝手に井戸の中に落ちてくれ」
言いながらリットは足元の苔を見た。言いながら滑って転んだら笑いにもならないと思って見たのだが、それが功を奏した。今作った自分の足跡以外が、横穴の奥へと続いているのを見つけたのだ。
それを目で追うと、奥ではなく横の壁へと続いていた。
「ほら、あったぞ」
リットが急ぎ足でその壁に向かうと、歩幅の狭いドリーは走ってそれに続いた。
闇に消えていきそうになるリットに「待ってください」と言った瞬間、ドリーの足はみずみずしい苔に滑り、そのまま体制を立て直すこともできず、壁に激突してしまった。
しかし、ドリーの体は壁にぶつかり後ろに倒れるのではなく、前のめりに倒れていった。
ぶつけた顔面を擦りながら顔上げると、地上でもバーロホールでも見たことないような怪しい明かりに照らされた空間が広がっていた。
「なんですか? ここ……」
「わかるだろ。喉を鳴らすような酒の匂いに、むせ返る女の香水、咳き込むほどのタバコの臭い。――楽園だ。まぁ、奈落の底とも言えるけどな」
リットはドリーの小さい体を跨ぐと、奥へと進んでいった。
奥といっても、それほど広い部屋でもなく、端にいても部屋が一望できる程度だ。ダイスを転がす音や、カードを切る音があちこちで響いている。
「よくこんな場所知ってましたね。何回も来てるのに、僕は知りませんでしたよ」
慣れない光景と匂いに怯えたドリーが、リットのシャツの裾を掴んでいる。目だけは大きく見開いて、勝って両手を上げて喜ぶ男と、負けて床に両手を付け打ちひしがれる男を捉えていた。
「ギャンブルに負けた男ってのは、ちょっと奢ってやると何でもほいほいっと話すからな」
リットは酒場兼賭場の店員から飲み物が入ったコップを二つ受け取ると、一つをドリーに渡した。
ドリーはお礼の言葉代わりに軽く頭を下げて受け取ると「ということは勝ち方も教わったってことですね」と言って、コップに口をつけた。
「負けた男からこの場所を聞いたんだぞ。勝ち方を知ってりゃ、負けた男なんて呼ばねぇよ」
「それなら、今からでもここを出たほうがいいんじゃないですか?」
「そりゃムリだ。なんのために無料で飲み物が出されたと思ってる」
「これ……リットさんの奢りじゃないんですか?」
「金がなくて、ギャンブルで一攫千金を狙うような状況だぞ。それで奢るような奴がいると思うのか? これは入場料みてぇなもんだ。これを飲んでなにもせずにここを出ていったら、どうなることやら。まぁ、どっちかが勝てばいいだけの話だ」
リットは袋からお金を半分取り出すと、それをポケットに入れ、袋の方をドリーに投げ渡した。
「僕は関係ないですよ」
「なに言ってる。その言葉を言わせないために、飯を食わせたんだ。難しく考えるなよ。賭けて、勝って、帰るだけだ」
「……賢い選択ってこれですか?」
「賢いだろ。愚かな選択のほうは、飲んだくれて忘れるだからな」
リットは見てろと言わんばかり肩を高く張ると、空席のあるテーブルに向かって歩いていった。
そのテーブルを仕切っている男が「見てないで、やってけよ。そのつもりなんだろ?」とダイスを二個とトランプの束を持った手をリットに見せつけた。
「どうだろうな。オレは大儲けできそうか?」
リットが言うと、男は鼻で笑った。
「できる奴には声を掛けない」
「なるほど。雑談もできないほど切羽詰まってると見た。得意なんだ。弱ってる奴にとどめを刺すのが」
リットがいやらしい笑みを浮かべて空席に座ると、男は肩をすくめた。
そして、二個のダイスを木製のコップに入れて振ると、ダイスがこぼれないように勢い良く逆さにしてテーブルに置いた。ついで、シャッフルしたトランプの上から一枚引くと、表にしてテーブルの上に置いた。
「カードの数は十だ。二つのダイスの合計はカードより上か下か当てるだけ。簡単だろ。上だと思うならコップの右側に金を置いて、下だと思うなら左に金を置く。カードの数は最高で十三、ダイスの合計は最高で十二。バカじゃないなら、左にお金を置くね」
男は逆さに置いたコップの底に手を添えたまま、賭けるなら早くとテーブルを指で叩いた。
「そりゃ素人のセリフだ。数が悪くても勝てる。みんな左に置いたら儲かんねぇだろ」
リットがコップの右側になけなしのお金を全部積んで置くと、男はコップを上げた。
ダイスの目は五と六で合計十一だ。
リットは同じく右に賭けていた隣の男と勢い良くハイタッチを交わすと、振り返ってドリーを見た。
「な? 勝つのなんて簡単だろ。わかったら稼いで来い」
ドリーは腑に落ちない顔のまま、盛り上がるリット達がいるテーブルとは逆のテーブルへと歩いていった。
すっかり夜になり、降るような星空が階段井戸の底の水面に映り、星溜まりを作っていた。
石壁の間に詰まった砂が落ち、水面に波紋を作るのと同時に、ドリーが扉を開けて出てきた。
酒とタバコで汚れた空気と、賭けの勝ち負けで陽気に響く声は、扉が閉まると夢のように消える。
「とりあえず服は取り返してきましたよ……」
パンツ一枚で高く映る空を見上げているリットに、ドリーが来る時に来ていたリットの服を渡す。
「さすがは時間は掛かっても、最終的にはできる男だ。連れてきてよかった。でも、もう少し遅けりゃ風邪を引くところだ」
リットはシャツに袖を通しながら、くしゃみを響かせた。
「……勝つのは簡単なんじゃなかったんですか?」
「簡単だぞ。今日も十回勝って、一回負けただけ。勝つことじゃなく、止め時が難しいのがギャンブルだ」
偉そうに言いながら、外でズボンをはくリットを見て、ドリーは哀れみの視線を向ける。
「とりあえず帰りませんか? 御者代を払える分くらいは勝ったので、来た時に乗っていた馬車で、バーロホールまで送ってもらいましょう。馬車なら朝までにはつきますよ」
「結局賭場に入る前と同じか」
「マグダホンさんには、謝って許してもらうしかありませんね」
ため息を落とすドリーの肩にリットが手を置いた。
「心配すんな。帰るまでには、完璧な言い訳が思いつく」
からからと笑うリットとは反対に、ドリーは小さい体をさらに小さくさせて、もう一度ため息を落とした。
バーロホールについたリットは、早速マグダホンに呼び出されていた。
「それで、なにか言うことあるか?」
マグダホンは空の袋をつまんで、空中でぷらぷらと泳がせながら言った。
「そりゃもう、山ほどある」
「なら、どうして馬車に乗って帰ってくるだけで、お金が消えたのかを聞こう」
「ドリーと二人で、馬車に揺られて星空を眺めていた。すると実に見事ないい女が行き倒れてた。――わかってる。オレならそんな女は放っておくって言うんだろ。まさしく、そのとおりだ。でも、ドリーが助けるって言ったんだ。正直言うとオレは嫌だったね。ユリの花とバラの花の混ざった香水をつけてる女なんて、ろくな女じゃないからな」
「……それをドリーは裏付けできるか?」
時刻は進み、今度はドリーが一人、マグダホンに呼び出され尋問を受ける。
「ユリの花とバラの花の混ざった香水をつけてる女なんて、ろくな女じゃない。そうリットさんが言ったんです。昔、その匂いの人に騙されたことがあるとかで――」
時刻は戻り、リットはマグダホンに続きを話している。
「――案の定、今回も騙された。汗の匂い一つしない女が歩けないなんて嘘に決まってる。それが、なぜ騙されたかだ――」
「――なぜ騙されたかと言うと、御者の人がグルだったんです。怪しいから、その女の人を降ろそうと言いだしたんですよ。でも、その女の人が頑なに降りないと粘るものですから、御者にオレが押すから二人で引っ張ってくれと言われて――」
「――言われて、降りたら一瞬だ。パンッと馬のケツをムチで叩く音が聞こえたかと思ったら、あっという間に馬車が走っていっちまった。あの音は忘れらんねえよ――」
「――なぜ忘れられないかですか? 夜の荒野は音が響くんですよ。あの乾いたムチの音がいつまでも響いていたせいです」
ドリーが言い終えると、マグダホンをこめかみを押さえながら呆れたと息を吐いた。
「もういい……リットを呼んできてくれ」
ドリーが「はい」と返事をして、先に話を終えて工房の外で待つリットを連れてくると、マグダホンはイスに座ったまま背筋を伸ばして、リットとドリーの顔を順に見た。
「それぞれ話は聞かせてもらった。寸分の狂いもない、まったく同じ話をな」
「そりゃそうだ。同じ場所、同じ時間で、同じことを経験したんだからな」
リットは腕を組んで真っ直ぐマグダホンの目を見るが、マグダホン訝しげに目を細めた。
「そう、そこだ。言わせてもらえば、完璧すぎるぞ。まるで、徹夜で劇のセリフを覚えたようだ」
「なんなら、主役の座を譲ろうか?」
「まぁいい……前金分は貰ってるからな。元々ノーラの世話を見てもらった分で、後金はキミに渡すつもりだった」
「だから、オレじゃなくて盗賊団のせいだって言っただろ」
「だから、二人組の盗賊団だろ」
マグダホンはリットとドリーを指さした。
「わかったよ。オレの負けだ。どうやら今日はとことん負ける日らしい」
「これで騙せると思っていたとは、私をあほうだと思っていたらしいな。最後まで聞けば誰でも嘘だと気付く」
「普通は、盗まれたはずの金が入った袋を渡された最初の時点で気付くはずだけどな」
「もう少し悪びれた様子を出してもいいんじゃないかね?」
「最初は悪いと思った。だから、言い訳まで考えたわけだ。でも、あの金はオレにくれる予定だったんだろ」
「だから悪くないと」
「いや、違う。あんなはした金、ノーラの一週間の食費にもなりゃしねぇ。それが、何年アイツが居ついた? なんなら見積もりでも出そうか?」
「おかしいぞ……。絶対にキミのほうが悪いのに、こっちが不利な気がしてきた」
「もっと時間を使えば、チルカのせいにもできるぞ」




