第八話
太陽に乾かされる前の、雨上がりの冷気に響くのは馬車の音。
軽快な馬の足音と、ぬかるんだ土を巻き上げる車輪の音の後ろには、城と街を囲むリゼーネの城壁がそびえ立っている。
「いやー、リゼーネに来る時の馬車とは大違いですねェ」
ノーラはソファーのように柔らかな座席に、お尻を弾ませるようにして上下させている。
「ありゃ、商人の馬車に無理やり乗り込んだからな。商品が入ってる木箱に、ケツを乗せてるのとは訳が違う」
リットはまだ眠そうに背もたれにもたれていた。
「これなら長旅も楽っスよね」
「人生楽に生きるには、バカになるより金持ちの知り合いを作ることだな」
リットは幌の天井を見上げた。
適度に日差しが透けているのは、エミリアの体質に合わせて作られているからだ。
薄いといっても安物というわけではなく、しっかり編み込まれた糸を見るに、雨風にはびくともしないだろう。そこらの厚手の幌をつけた荷馬車よりも頑丈そうだ。
「アンタだって賭けで稼いだんだから、ちゃんとした御者を雇えばいいじゃない。あんな得体の知れない御者じゃなくて」
リットとノーラが座る対面の座席に一人で座るチルカは、御者台に座る後ろ姿を見ていった。
御者台に座る頭越しにも空が見えるほど、背の小さい男だ。
すでに雨が降り止んでから時間が立つというのに、まだフードをかぶっていて、耳に引っ張られ猫耳に布が尖っている。
その大きな耳は、チルカの声が聞こえても反応することはなかった。
「余計な金を使ってみろ。立ち寄る街立ち寄る街、いちいち残金を確認しながら酒を飲まねぇといけねぇだろ。そんなんじゃ、満足に酔えねぇよ」
「のんきなこと言ってるけど、素人だったらどうすんのよ。アンタと一緒に路頭に迷うのは死んでも嫌よ」
「馬車が動いてる。それだけで充分だろ」
リットがあくび混じりに言うと、ようやく御者が声を出した。
「大丈夫ですよ。地図も預かってますから」
「そりゃ、迷うことはねぇな」
リットは座席から腰を浮かせると、御者の持っている地図を後ろから覗き込んだ。
「今はこの道ですね。森を抜ければ完璧です」
御者は地図を指すが、リットにはその地図を読むことができなかった。
「そうだな。あとは地図の向きを直せば完璧だ」
リットは逆さまになっていた地図を取り上げると、正しい向きに直して御者に渡した。
「あの……引き返します……」
「そうしてくれ」
あまり広い道ではないので、馬車がUターンするには草むらに入る必要があり、車輪が小石に乗り上げてガタガタと揺れた。
その振動がチルカの不安を煽った。
「本当に大丈夫なんでしょうね……」
「誰にでもあることだろ。スイカと間違えて人の頭をかち割ったり、肉と間違えてパンを食べたり。些細な事だ」
「そう言ってもらえると助かります」
御者は前を向いたまま頭を下げた。
「今のは嫌味っスよ」
ノーラの言葉に、御者はピクリと肩を上げた。
「そうなんですか。すいません……僕はそういうのに疎くて。妹にもよく言われるんですよ。冗談が通じなくて、頭の中は硬い石でできてるのかと言われたり、その反応がかえって嫌味だって言われたり。あっ、すいません、自分の話ばかりして」
「気にすんな。そういうのが聞きたくて、ランプ屋をしてんだ」
「人相手の商売だとお話が好きなんですね」
「今のも嫌味っスよ」
「やっぱり不安よ……」
チルカは意思の疎通ができない御者に向かって、訝しげな視線を送る。
「せっかくの乗り心地の良い馬車で、不安ばかり感じてたらもったいないっスよォ」
「それもそうね。とりあえずは軌道修正したし、しばらくは安心ね。本当にこの馬車は良いわね。今まで乗った馬車で一番よ」
チルカは幌から入り込む、木漏れ日のような光を浴びて、気持ちよさそうに腕を伸ばした。
「エミリアと似たような体質だから、チルカの肌に合うってことっスね。まぁ、でも高いんでしょうねェ。オーダーメイドは高いもんだって、旦那がよくお客さんに言ってますから」
「そうよね……。アンタ、御者の代金をケチってるけど、変に走らせて事故ったら、修理費のほうが高く付くんじゃないの?」
チルカの言葉は聞こえていたが、リットは横を向いたまま黙っていた。
「聞かなかったことにして、安い修理ですませる気みたいっスね。ところで、御者さんは暑くないんスか?」
御者のフードは頭だけではなく、全身を包むようなコートになっている。
「大丈夫です」
「毛皮の上にコートっスよ。蒸れないんスか?」
「あー……えぇ、寒がりなもので。そういえば、お名前をまだ」
「ノーラっス。旦那がリットで、妖精がチルカですよ」
「僕はドリーです。『ドリー・コロット』」
自己紹介を終えてから、しばらく馬車を走らせ、リット達はドムドという街で昼食を兼ねた休憩をすることになった。
まだリゼーネから近いということもあり、それなりに大きな街だが、これといった特色もない。
無理やり探すとすれば、一本道の長い街路樹があるだけだ。
「それでは、失礼します」
ドリーはリットから昼食代を受け取ると、一人街の中へと消えていった。
「飯代だけで働くとはな。世の中珍しい奴もいるもんだ」
リットは小走りで去っていく、ドリーの小さな背中を見ながら言った。
「恥ずかしがり屋っスねェ。一緒にごはんを食べればいいのに」
「ハゲでもできてんだろ。前にパッチワークが、毛がないのは恥で笑い者みたいなこと言ってたからな」
「そんなの気にすることなんてないのに。誰もバカにしませんよ」
「オレはするぞ。喉まで出かかった言葉をムリに飲み込むと、ストレスでこっちがハゲる」
「まぁ、旦那はそうっスよねェ。せっかく飲み込むなら、言葉よりごはんにしましょ」
そう言うとノーラは自分の鼻を頼りに、ご飯を食べる店を探し始めた。
リットとチルカはその後をついて回る。
少し進めばリゼーネがあるからか、ドムドの住人以外にとって、この街は補給地のような街だ。
料理店よりも食料品店。宿よりも酒場の方が多い。
リット達のように一息つくか、買い忘れた旅支度の品を買いに寄るような街だ。
数少ない料理店を見つける頃には、ノーラの口数は少なくなり、代わりにお腹がグーグーとせわしなく鳴くようになっていた。
「ようやくご飯を食べられますねェ」
ノーラはいただきますと手を叩いた。
店の小さなテーブルには、肘を置く場所もないほど皿が並ぶ。ほぼ全部と言っていいほど、ノーラが食べる分だ。
いつもはテーブルの上に座るチルカだが、そのスペースはない。しかたなくコップの縁に腰掛けて、ちぎりキャベツのサラダをさらにちぎって食べている。
リットは二人の咀嚼音を聞きながら、時折酒を飲み、エミリアに貰ったボロス大渓谷までの地図を眺めていた。
腹半分まで膨れて落ち着いたノーラは、食事に手を付けないリットに向かって「食事中に読み物は、お行儀悪いっスよ」と、食べかすがついた口で注意をした。
「食前酒だ。まだ食事中じゃねぇよ」
「そんなこと言ってると、地図から目を離した時には、もう料理がなくなってますぜェ。せっかく美味しいのに」
「んなのいつものことだろ。パン半分くらいは残しとけよ」
リットは一度テーブルに置かれたパンを見ると、また地図に視線を戻した。
ここからボロス大渓谷に行くまでには、いくつも街があるので食事の心配はいらない。予定通り街に着かなくてもノーラとチルカ、それに御者のドリーも小さいので、雨が降っても馬車で寝泊まりができる。
街と街を線で繋ぐように見ていき、最後にボロス大渓谷に辿り着くと、リットはあることに気付いた。
ボロス大渓谷の丸い谷から架かる四つの橋と、東西南北を示す方位記号の四つの線が同じ方向を向いていた。
「それ以上ブサイクに顔を歪ませたら、食事が喉を通らないでしょ」
眉をひそめるリットの目の前に、下からチルカの背中が現れた。
チルカの羽ばたきで起こる風が、リットの鼻をくすぐった。
「おい、邪魔だろ」
「地図を見て、眉をひそめてたら不安になるでしょ。ただでさえ、初っ端から道を間違えられてんのよ。それで、なんなのよ」
「この地図の方位記号が間違ってんじゃねぇかと思ってな」
リットは不自然に一致する橋と方位記号を順に指しながら言った。
「そういうのは黙って見てないで、声に出していいなさいよ!」
「今言っただろ」
「バカ! 本当バカ! 信じられないほどバカ! 思ったらすぐ言いなさいよ! どうなるかわかってるの?」
チルカは羽の光を強めながらリットに詰め寄った。
「どうなるんだよ」
「見たらわかるでしょ、パニックよ! パニックってわかる? 普通じゃないってこと! 普通じゃないってことは、パニックなのよ!」チルカは強い口調で言い切ると、眉をしかめた。「……なにひいてんのよ」
「オマエ、そんなんで錯乱するような奴じゃねぇだろ。みっともねぇぞ」
「じゃあ、聞くけど。アンタは方向がわからないように目隠しされて、振り下ろされる網から逃げるような体験したことあるわけ?」
チルカの言っている相手は、十中八九ライラのことだ。
「前世でライラになんかしたのか?」
「してたら、生まれ変われないように呪いかけてるわよ! ライラは人を痛めつけて性的興奮を覚える変態よ!」
「男ってのは、大なり小なり女の変態性に惹かれるもんだ。だから、それを引き出そうと色々試す。で、空回りして、ガッカリされるまでがセットってわけだ」
「だからなんだってのよ。この場でアンタと変態談義も、床の話もするつもりはないわよ」
ノーラが肉を刺したフォークを持ったまま「んんっ」と咳払いをした。
「リスみてぇに頬張るから喉につまんだ。水でも飲め」
「旦那」と口に出すノーラの声は、食べ物が喉に詰まってる様子はなかった。そしてまた咳払いをする。
「風邪か? うつすなよ。オマエがかかる風邪をうつされたら、治るのに時間がかかりそうだ」
「旦那ァ、後ろっスよ」
リットが振り返ると、女性の店員が困った顔で立っていた。
「あの……お二人とも。ここは酒場ではなく、食事をするところなので、そう言った話を大きな声でされるのはちょっと……」
リットは「悪かったな」と悪びれた様子もなく言うと、店員を手で追い払った。
「オマエのトラウマに付き合ったせいで、怒られたじゃねぇか」
「割合で言えばアンタが八で、私は二よ。それで、どうすんの? リゼーネに戻って正しい地図をもらうなら、ライラの手足を縛って、口になにかを突っ込んでからにしてよ」
「変態談義はしないんじゃなかったのか?」
「だから!」とチルカが声を荒げると、先程の店員が小走りで戻ってきた。
「あの! お静かにお願いします!」
その店員の声は苛立ちを発散させたかのように大きな声だった。
「わかったわかった。悪かったよ。もう静かにするから、ひとつだけ聞いていいか?」
「……なんですか?」
店員は大声だけでは発散しきれなかった苛立ちの視線をリットにぶつけた。
「この街に地図を売ってる店はあるか? とりあえずの地図じゃなくて、正確な地図を」
「ないです。正確な地図が欲しいなら、リゼーネに行ってお城から貰えばいいじゃないですか」店員はイライラとした口調で言い切ってから、リットが持つ地図に視線を落とした。「もしかして、これのこと言ってるんですか?」
店員が指したのは、ボロス大渓谷の橋だ。
「そうだ。やっぱり間違ってんのか?」
「いいえ、合ってますよ。『旅人の橋』と呼ばれて、迷わないように、方位に合わせて架けられた橋です。初めてボロス大渓谷へ渡る人は、よく不安になるんですよ。方位記号と全く一緒ですから。気をつけないと、これから行く町々で、間違った地図を買わされますよ」
「かえって紛らわしいな……。まぁ、これで戻らなくてすむか」
「あと――」店員は方位記号の北を指した。ついで、その指を店のドアに向ける。「お帰りになるなら、方角はこちらです」
追い出されるように店を出たリット達が歩いていると、「待ってください!」と店員が追いかけてきた。
「ツリならいらねぇよ。迷惑料だ」
「いえ、返しません。それより、さっきの地図をもう一度見せてください」
「……なんだよ。言い忘れたことでもあんのか?」
リットは筒状に丸めてポケットにさしていた地図を広げて、店員に見せた。
「えっとですね……」
店員は地図の上で指を彷徨わせ、このドムドの街のひとつ先にある街を見つけると、そこに指をついて、ドムドの街を避けるように大きく道を逸して、リゼーネにまで線を引いた。
「帰ってくる時は、この街から迂回したほうがいいです」
「これじゃ、遠回りになんねぇか?」
「そうですね。でも、ここを迂回すると、この街に寄らずにリゼーネにつけます」
「二度と来るなってか。ずいぶん遠回しな嫌味だな……。わざわざ走って追いかけてまでよ。やっぱり、ツリを返せよ」
リットがツリを受け取ろうと手を伸ばすと、店員がその手を掴んで握手をした。
「良い旅を」
店員は二度と会うことはないだろうと、気持ちのよい笑顔をリットに向けると、足取り軽く店へと戻っていった。
「ノーラ、この店の料理は美味いって言ったよな」
「言いましたよ。特にお野菜の煮込みがさいこーっス。旦那も食べればよかったのに」
「なら、ボロス大渓谷に行った帰りに、またあの店で食わせてやるから、楽しみにしとけ」
リットは覚えてろよ。とでも言うように店を指して言った。
「アンタの嫌味も相当遠回しよ」とは言うが、チルカに止める様子はなかった。




