第七話
空に広がる厚い灰色の絨毯は、ほころびを見せることなく太陽を遮ったままで、リゼーネに雨で閉じ込められて二日が過ぎた。
本来ならば旅の足止めになる鬱陶しい雨だが、リットにとっては好都合だった。
エミリアに馬車を貸してもらえることになったが、維持費に含まれる御者は別に探さないといけなかった。
最初はエミリアの口利きで紹介をしてもらったのだが、知り合いは優秀な御者ばかり。そうなると、見合った給金を払わなければならない。
この雨の間に、安い給金で働いてくれる御者を探すつもりだった。
しかし、そううまいこと見付かるわけもなく、結局この二日は雨の中街をうろつき、冷えた体を温めるために酒場に入り浸るということを繰り返していた。
この日も、リットは昨夜の酒が残るけだるい体を椅子に預けてぼーっとしていた。
「リット様」とドアをノックしたのは、エミリアの姉のライラだ。
リットは立ち上がってドアの取っ手を掴もうとしたが、触れる前にライラによってドアが開けられた。
「少しお力を借りたいことがありまして」
ライラは困り顔をリットに向けると、閉められないようドアに足をかけてガードした。
「チルカを捕まえたいなら手伝わねぇぞ。仕返しは全部こっちに飛んでくんだ」
「それは、もう少しあと。この雨で弱ってからにしますわ」
ライラは徐々に部屋に入り込むと、ドアの取っ手を後ろ手につかみ、そっと閉めた。
リットは部屋の外に追い出されることになったが、有無を言わせないライラの細い目の笑みに、文句を言う気にはなれなかった。
「なんだよ……ランプでも壊れたのか?」
「それがですね」
ライラはリットの背中に手を添えると、力を入れて押し始めたので、仕方なくリットは歩き出した。
「部屋から出ろ。歩け。言葉にしたらすむだろ」
「いえ、リット様は自分の意思で部屋を御出になって、自分の意思で歩いているんですよ」
「で、自分の意思で人助けをするってわけか」
「お話が早くて助かります」
ライラに押されるがままに連れて行かれたのは、屋敷の玄関が見える広間だ。
扉は開かれており、外に向かってしゃがみ込む三人の後ろ姿も見える。
一人はライラの夫であるポーチエッド。あとの二人はエミリアとグリザベルだ。
「なんだ、あの蹴ってほしそうな背中は。誰から順番に蹴り出せばいい?」
「するのなら、ポチ様だけに。いえ……やはり、それは私の役目ですわ。もっとも蹴るのは背中ではなくて、お尻ですけど」と、ライラは妖しく微笑んでから「猫がいるんです」と、リットを玄関まで連れて行った。
「どうして動かないんだ? そこにいたら、風邪をひいてしまうぞ。ほら、おいで」と、エミリアが子供に話しかけるように優しく猫に語りかけ、「どうしたのだぁ? 我が抱いてやるぞ」と、グリザベルがチッチッチッと舌を鳴らして指で招いている。
「なんで女ってのは、小動物に話しかける時に声が変わんだ?」
という背後からのリットの声に、しゃがんでいた三人がいっせいに振り返った。
「来たのか、リット」とポーチエッドが嬉しそうに立ち上がる。「男だって、猫に話しかける時は赤ちゃん言葉になるぞ。なぁ猫ちゃん」と猫を抱き上げたが、猫はポーチエッドの腕の中で暴れると床に飛び降りた。
「いやですわ。ポチ様はベッドの上でも、赤ちゃん言葉ではないですか」
ライラはつま先立ちをすると、逆だった後ろ毛に手を伸ばして、ポーチエッドの頭を撫でた。
「甘え上手だろ。どうだ、子犬を洗うみたいに風呂に入れたくならないか?」
ポーチエッドはライラの頬に手を添えた。
「まさか、ここに連れてきたのは、この大型犬を風呂に入れるのを手伝えってんじゃねぇだろうな」
リットはポーチエッドの耳を見て言った。
血は薄まったが、ワーウルフの名残があるポーチエッドの尖った耳が嬉しそうに揺れている。
「男同士風呂で一杯というのもいいな。だが、先にこの猫を片付けてからだ」
ポーチエッドは、リットの脚に体を擦り付けている猫を見ながら言った。
「わかった。どこに埋めりゃいいんだ?」
「義兄上が言ったのは、そういう意味ではない。この猫が玄関から動かないんだ。どうしたものかと、リットを呼んだのだが……」エミリアは、リットの脚にまとわりついてる猫を不思議そうに見た。「なぜリットにだけ懐いているんだ?」
「なに、我の堂々たる威風に怯えておっただけだ。我が少し甘い顔を見せれば、このとおり」
グリザベルは猫の鳴きマネをしながら手を差し出すが、猫はまるで聞こえていないと言った風に見向きもしなかった。
「おい、グリザベル。どの生物だったらバカにされねぇんだ?」
「お主以外に、そうそうバカにされることはないわ! それに、猫にバカにされてるのは、お主の方かもしれぬぞ」
グリザベルはニヤリと口の端を吊り上げてから、リットのズボンを指差した。
猫の体についていた泥はリットのズボンの裾に移り、代わりに猫は今日の空のような灰色の毛色を取り戻していた。
「これは蹴り飛ばせって合図でいいんだろうな」
「いいわけがないだろう」
エミリアはリットから猫を守るように抱きかかえるが、先程のポーチエッドの時と同じで、猫は暴れて床に飛び降りてしまった。
「オマエら全員、猫に恨まれるようなことでもしたのか? 交尾の最中に無理やり引き離したとか」
「もう少しマシな例えはないのか……」とエミリアは呆れのため息をつく。
「なにもしてねぇなら、この猫はなにがしてぇんだよ」
「それがわからないから困っているんだ。パッチワークが居てくれれば、言葉がわかるのだが……」
エミリアの口からパッチワークの名前が出ると、リットはあることを思い出した。
パッチワークの使いの猫が手紙を持ってきた時と同じだ。その時も、猫はリットの家の玄関でじっとしていた。
ただ今回は、猫は手紙を咥えていない。
リットの考えていることがわかったかのように猫は歩き出し、外に出てからリットの顔を見上げた。
リットから見える猫の瞳は、ついてこいと訴えかけているように見えた。
試しにリットが歩いてみると、猫は先を歩き出した。
どうやら、ついてこいで正解らしい。
外に出ていくリットに「説明もないまま、どこへ行くんだ?」とエミリアが声をかける。
「猫に聞いてくれ」と返すリットの言葉は、叩きつけるように降る雨の音に消えていった。
リゼーネは森から続く川を隔てて二つに分けられている。一つは城を中心とした城下町がある区域。もう一つは商業都市として役割を果たす区域だ。
兵士の家は城下町にあるのだが、エミリアの屋敷は商業都市にあった。それは、両親が商人であるためだ。
そして、この商業都市は移民が行き交う、他種族国家の象徴でもある。
他種族国家であるリゼーネは、家の形も様々だ。
よく陽が当たるように極端に背の高い家だったり、反対に陽が当たらないように片側の屋根だけ長く大きく作られていたり。
そのせいで、屋根が空に向かって重なり合い、一日中全く陽の当たらない路地もある。
普段は生き物のニオイがしない、敬遠されがちなそんな路地も、雨の日ばかりは違っていた。
リットが猫に連れられてきたのは、雨の日だけ不思議な賑わいを見せる路地だ。
路地の入口で見えていた数匹の猫は、路地を進むたびに数が多くなっていく。街中の猫が一堂に会しているようだ。
雨を避けの寒い路地で、体を温めるように身を寄せ合っている。
最初、リットが鳴らす人間の足音に敏感に反応を示したものの、リットの前を歩く猫が一声鳴くと、安心したように体を丸めた。
更に奥まで歩き、空箱が積み上げられて出来た行き止まりの前に、二回りも三回り以上も大きな猫が二本足で立っていた。
「いらっしゃいニャ」
「普通に呼べよ。エミリアに怪しまれるだろ」
「ニャーが直接屋敷に行ったほうが、エミリアさまは怪しむニャ」
パッチワークはかぶっていた猫耳のローブを取って言った。
ローブ自体が猫耳の形をしているわけではなく、猫の頭でローブをかぶると、自然に耳の形で引っ張られて尖ってしまうようだ。
「わざわざこんな猫臭い場所に呼びせて、悪巧みなら送ったもんで一区切りついただろ」
「そうニャ。まずお礼を言うニャ。お兄さんからの荷物は確かに届いたニャ。おかげでニャーの懐はホクホクと暖まってるニャ」
「暖まりすぎると、蒸れて臭ってくるぞ。臭えといえばこれだ」
リットは鼻つまみ者とは口に出さずに、実際に鼻をつまんでからかった。
「鼻をつまんでやっかむ人は、空いた片手分しか稼げないのが関の山ニャ」
パッチワークは猫口を横線にして笑うと、空き箱に座る猫とニャーニャーと猫語で話し始めた。
二言三言と言葉をかわすと、猫は木箱から下りて地べたで体をまるめた。
パッチワークは空いた木箱を肉球で叩き「さぁ、どうぞ」と着席を促した。
そして、リットが座るのをしっかり見届けてから、「少し小耳に挟んだことがあってニャ」と切り出した。
「なにが小耳だ。どうせしっかり耳に入ってんだろ」
「困った時は猫の手を借りるのが一番。猫も杓子も皆そう言ってるのニャ。それに、ニャーにはこれがあるのニャ。きっとお兄さんのお役に立つのにゃ」
パッチワークは地面にごろん寝転がり、お腹を見せた。
リットが黙って見ていると、今度は手をついて逆立ちを始めた。
「まだ……わからないのかニャ……」
パッチワークは慣れていない体勢に腕をぷるぷるさせている。
「コネコが逆立ちしても、コネコにしかならねぇよ」と、リットは鼻で笑う。
「そこまでわかってるのなら、始めのコを取って欲しいのニャ……」パッチワークは逆立ちをやめると、少しよろめきながら「そう、ニャーにはコネがあるのニャ!」と強く言い放った。
そして、体勢を立て直してから続けた。
「どうやら、お兄さんは御者を探しているご様子。それも格安で働く奴隷のような御者を。ニャーに貸しがある獣人なんて、腐るほどいるのニャ。今ならニャンと! 紹介料いらずニャ」
「そりゃ、コネとは言わねぇだろ。それで、なんだ。今度はなにを寄越せってんだ」
「お兄さんは話が早くて助かるのニャ。向かう先はボロス大渓谷と聞いたニャ。丸い大渓谷の川を回遊する、蛇のように長く大型の魚。ニャーの愛くるしい鼻が嗅ぎつけた情報では、ボロス大渓谷のドワーフはその魚の干物を肴にお酒を飲むというらしいのニャ。世には出回らないサカナ。猫の間で売れること間違いなしなのニャ」
「乾物じゃなくて干物だろ。なら持って帰るあいだに腐るぞ」
「腐ってからが美味しいとチャコールに自慢されたのニャ。ドゥゴングで船に乗ってるからって、すぐに自慢の手紙を寄こすのニャ。世界中の魚を食べたと。自慢ばかりされると、ニャーの商人としての面目が丸つぶれなのニャ」
「オマエは城の会計係だろ」
「それは表向きニャ。猫にはいくつも顔があるのニャ。怖い人に媚びを売る顔、優しい人に付け入る顔。潤んだ瞳、しなやかな体、ぶりっ子。持ちうる全てを使って、別の自分になりきるのニャ」
パッチワークはネコひげを自慢気に爪で弾いた。
「女の武器と一緒だな」
「そんな甘い武器じゃないのニャ。自分が一番の正義という心を持って、押し入る強い武器なのニャ」
「なら、歳を取っておばさんへと変貌を遂げた女の武器と一緒だな。あれはこの世で一番強い種族だ。同じ年代の男は、一番弱い種族だ。だから酒場で弱い者同士傷を舐め合う」
リットは落ちている酒瓶を拾うが、中身が空なのを確認すると、割れない程度の力で投げ捨てた。
「相変わらず話の腰を折るのが得意なのニャ……」
「腰を折るのは、おばさんを通り越してばあさんだな。まぁ、腰が曲がるのは男も一緒か」
「久しぶりにお兄さんと話すと骨が折れるのニャ……」
「それで、どっかの馬の骨に、本当にあてがあんだろうな。オレは雨が止んだらリゼーネを出るぞ」
「この時期の雨は、まだ二、三日は降り続くニャ。鼻をほじってても間に合うのニャ」
「鼻でもケツでもほじってていいけどよ。変なのは寄こすなよ」
リットは路地の空き箱でできた壁に背を向けて歩き出した。
路地から出て向かう先はいつもどおり酒場だ。
「お兄さんより変な人を探す方が難しいのニャ」
パッチワークはリットには聞こえない小さな声で言うと、路地を曲がる背中を見送った。
その路地に掛かる屋根の上に、猫耳の形に尖ったフードをかぶる影が見下ろすように伸びていたが、屋根の影と重なり溶けてしまっているので、リットもパッチワークもその影に気付くことはなかった。




