第二十三話
最後の灯火のように夕雲を真っ赤に焦がすと、次第に濃紫に侵食され始め、わずかばかりの金色を残す。
それはエミリアにとって、本物の黄金よりも大切な黄金だった。
あの残像のように雲に残る金色が消えれば、嫌な感覚が体の中心から広がり始める。
胃液が沸騰したような気持ち悪さ。喉を掻きむしりたくなる苦しさ。心臓の動悸が耳奥で聞こえ、それがやがて耳鳴りに変わる。
耳ざわりな苦痛のうめき声を止めることは出来ず、か細い四肢で動物のように踏ん張り、シーツを裂くように握りしめ、熱で濡れた眼で月を睨んでいる。
いつもよりひどいエミリアの耐え忍ぶ声に、たまらずメイドがノックをした。
「リリシア様。大丈夫ですか?」
そう言ってメイドがドアノブを掴んだところで「開けなくて大丈夫だ。少し暑くなってきたから、寝苦しくなっただけだ」と、ドア越しに声が聞こえた。
いつもと変わらない調子の声色で話すエミリアに、メイドは血が滲みそうなほど下唇を強く噛んだ。自分が部屋に入ってもなにも出来ない。
しかし、メイドという立場上、部屋に入ったらなにかをしなくてはならない。エミリアがそのことに気を使っているのがわかったからだ。
メイドは気を使ったつもりが逆に気を使われている悲しさに、なにも出来ない悔しさに、声が震えそうになったが、懸命に感情を飲み込み「なにかあったらお申し付けください。では、失礼します」とお決まりのセリフを言い、ゆっくりとドアノブを戻した。
メイドの足音が遠くなると、エミリアは額の脂汗をベッドに押し付けるようにして拭いた。
何度も喉の奥で呼吸を繰り返すが、酸素が入ってこない。それなのに吐く息は重く、体を縛り付けていく。
幾星霜にも感じる長い時間を痛みと苦しみに耐えていると、ようやく白く透明な朝の斜光が闇を溶かし始めた。
エミリアは亡者のようにのそのそとベットから這い出ると、テーブルの上にある水差しの水をコップに注いで一気に飲み干した。
口の端からこぼれた水を手の甲で拭き、汗で蒸れた髪を掻き上げながら部屋のドアを開けた。
「おはようございます。リリシア様」
夜に様子を見に来たメイドとは違うメイドがドアの前に無表情で立っていた。
メイドはエミリアの脂汗を見て心配そうに瞳が揺らいだが、エミリアがいつも通りの顔を繕っている姿を見ると笑みを浮かべて対応した。
「あぁ、おはよう。相変わらず朝が早いな、ヘレン」
ヘレンと呼ばれたメイドはまだ日が昇り始めたばかりだというのに、既に身なりはしっかりと整えており、血色の良い顔をほころばせた。
「それはもう、リリシア様の乱れたお姿を拝見できるのなら、小鳥のさえずりよりも早く起きるのも苦になりません」
ヘレンは、汗でエミリアの胸にピッタリと張り付いた黒いインナーに目を向けて頬を紅く染めると、くびれた腰、女らしく適度に張った臀部へと視線を下ろしていった。
「そう、じろじろと視線を向けられては流石に恥ずかしい」
「すいません、つい……。ライラ様のネグリジェもセクシーでいいのですが、リリシア様のスポーティーなお姿も……。すっかり成長なさいまして」
ヘレンはもう一度上から下までエミリアのことを見ると、恋する乙女のようなため息を吐いた。
エミリアを幼少時代から専属のメイドとして付いていたヘレンは、親よりもエミリアの成長を見ていたことになる。
起伏の乏しい体から、男の視線を釘付けにする体になるまでの過程を熱のこもった視線で見守っていた。
当のエミリアは、成長の意味を単純に子供から大人への成長と受け取っているので、昔話をされた気恥ずかしさのようなものを感じていた。
「汗を流してくる」
「すぐに湯を沸かしてきます」
「いや、水でかまわない。その方がスッキリする」
「では、お背中を流しましょうか?」
「子供じゃないんだ。あまり世話を焼くな」
「子供じゃないからこその提案でしたのに……」ヘレンは少しの間粘ったが、やがて諦め「水の用意をしておきます」と足取り軽く廊下を歩いて行った。
エミリアは銅製の浴槽に入り、桶を持ち上げて頭から水をかぶると、軽く絞ったタオルで身体を拭いていく。首筋から鎖骨へ、腋を通って腕へ。濡れた髪が顔を縁取り、しずくが胸から腹部へと、白い肌に流れる水は弾くようにしたたり落ちていった。
寝てはいないので寝惚けてはいないが、冷たい井戸水は目を覚ますのには充分だった。
タオルを固く絞り体中の水滴を拭き取っていく。胸の谷間や尻の割れ目の水気も拭き取り、外着に着替えると、ようやくエミリアの朝が始まる。
夜中中起きていて一日の境目がないエミリアは、朝の水浴びで気持ちを入れ替えていた。
夜明け前の白みがかっていた空は、はっきりと青を主張している。
エミリアの瞳には、群青の空に浮かぶ光りを映し出していた。
身体を癒やすあの光は好きだが、そもそもあの光が存在していなければ普通の暮らしが出来たのではないだろうか。答えのない問答を頭の中で繰り広げると、エミリアは太陽に背を向けた。
エミリアとライラとポーチエッドの三人の食卓。
いつも通りのハズだが、心にぽっかり穴が開いた寂しさを感じる。
無作法な男も、飄々としたドワーフも、負けん気が強い妖精もいなかったからだ。
客人三人の会話は、既にマルグリットの屋敷の音になっている。リットの口癖のような嫌味に、いちいち反応して言い返すチルカ。メイドと世間話をしては、よけいな事を覚えてくるなとリットに怒られているノーラ。ポーチエッドの長話を煙たそうにして酒を傾けるリット。そんな情景が頭の中に浮かぶと、知らず知らずのうちにエミリアの口元には笑みが浮かんでいた。
「今日はずいぶん楽しそうですわね」
そう言ったライラの顔にも笑みが浮かんでいる。
「急に静かになった気がして」
「気持ちはわかりますわ。いつもなら、リリシアちゃんがノーラちゃんの食事作法に口を出している頃ですものね。それとも、リット様とチルカ様の口喧嘩の仲裁をしていたかもしれないわね」
ライラはエミリアの頭の中を見透かしたように言った。
そして、音のない静けさに、ライラも懐かしむような少し寂しそうなを表情を浮かべる。
「なぁに、すぐに戻ってくるのだ。二人共そんな顔をする必要はない」空気を変えるように、ポーチエッドは豪快に笑うと「寂しいといえば、自分が演習で森に入った時のことだ。仲間と逸れてしまってな。一人きりで一晩を明かさなくてはならなくなったのだ。最初は気にせずに明るくなってから仲間を探そうと思っていたのだが、暗い森で言葉が通じない動物の鳴き声ばかりが聞こえてくると、急に心細さが襲ってきてな――」
冗長になりがちなポーチエッドの話に三割程度耳を傾けて、エミリアとライラは談笑を続けた。
朝はポーチエッドと共に屋敷を出て城へと向かう。
城には兵士宿舎もあるが、主に金のない若い兵士専用の住居になっている。
下級兵に衣食住を保証することで、戦いに専念させるためだ。
エミリアには屋敷があるので、有事の際を除いては使うことはない。
ポーチエッドもライラと結婚する前からそれなりの役職についていたので、リゼーネに屋敷を持っていた。今は空き家にして、マルグリットの屋敷でライラとエミリアと共に暮らしている。
「義兄上は、姉上が妖精好きの理由を知っていますか?」
エミリアが朝の太陽に伸ばされている街路樹の影の中に映る、なにかによって反射した光を眺めながら言った。
「確かにライラはチルカのことを随分気に入っているな。両親が聞かせてくれる話の中でも妖精の話が好きだったらしいからな。ピクシーではなくて、フェアリーでも知り合いになれたことが嬉しいらしいぞ。その頃のリリシアは、剣の鍛錬ばかりしていて話に付き合ってくれなかったので、寂しかったと言っていたな」
「姉上は昔から妖精が好きで、代わりによく蝶を飼っていましたね」
「ははは! 確かにチルカと蝶は似ているな。どれ、今度からかってみるか」
「チルカは本気で怒りますよ。それより義兄上……。酒のニオイが」
朝の気持ちの良い日差しを邪魔するような酒臭い息に、エミリアは眉をひそめた。
「臭うか? 実は、きのうは少々深酒してしまってな」
「少々だったらニオイはしないはずです」
ポーチエッドは困ったといった風に顎ヒゲを撫でる。言い訳の言葉が思いつかず「昼には消えるだろう」と言った。
「それでは遅いです。部下に示しがつきません」
エミリアは花屋でミントを買い、ポーチエッドに突きつけるように渡す。
ポーチエッドは顔をしかめると、ミントから顔をそむけた。
「どうも、こういう香草の類は苦手でな……。城の皆も今更自分が酒のニオイをさせていたところで――」
「気さくなのは結構ですが、義兄上は皆の手本となる立場にいるわけです。酒を飲むなとは言いませんが、あまり気を緩めすぎないようお願いします」
元より生真面目な性格のエミリアだったが、リット達といるせいか、すっかりと説教が板についていた。
しかし、その対象となる三人がいないので、いつも以上にポーチエッドへの当たりが強くなっていた。
いつもはポーチエッドの長話を聞きながら城へと向かっていたが、今日ばかりはエミリアが長い説教をポーチエッドに聞かせながら城へ向かうことになった。
昼も過ぎ、エミリアが城で職務をこなしている頃。リット達はリゼーネに帰ってきていた。
「あぁっもう! 臭えな!」
リットは落ち着きなく首をひねりながら、自分の服から顔を背けている。キッとチルカを睨むが、チルカはやれやれという表情で肩をすくめてみせた。
「汗臭いのを消してあげたんでしょう。感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはないわ」
チルカに芳香蒸留水をかけられたせいで、リットの服からは妖精の白ユリのニオイがしている。ユリの花は、甘く、むせ返るような強い香りを放っているので、リットは花粉症のように鼻がムズムズしてしょうがなかった。
「限度があるだろう。オレを花の妖精にでもする気か」
「げぇ……やめてよね。アンタが妖精だなんて、最大級の侮辱よ」
「妖精の最大級なんて、たかが知れてるだろ」
リットはチルカの前に手のひらを立てながら言った。ちょうど手先からチルカの顔一つ分が出ている。
「アンタは、いちいち人の身体的特徴に毒吐かないと喋れないの?」
「円滑に話す為には、多少の毒は必要ってこった」
「アンタのコミュニケーションの取り方間違ってるわよ」
「酒場じゃ結構役立つんだけどな」
「それより、どこに向かってるのよ」
屋敷に向かうには中央広場から東の大通りに曲がるのだが、リットは正反対の西へと曲がっていた。
「屋敷に帰る前には、屋台通りに寄るって決まってんだよ」
「なにそれ。人間の風習?」
「というよりも、中央広場に来ると匂いがするから、ついつい足が向いちゃうんスよねェ」
今までリットの後ろを歩いていたノーラは、屋台通りに着くと前を陣取り意気揚々と歩き始めた。
「確かに、目移りしちゃうわね」
数十以上もの屋台が立ち並んでおり、多彩な味を一度に楽しめるので、ご飯時を過ぎても屋台通りは賑わっている。
「今日こそは! 買って後悔しないように!」
ノーラはリットから金を受け取ると、胸元でグッと拳を作り、急ぎ足で屋台通りの中へと入っていた。
リットがノーラの後ろ姿を見送っていると、眼前にチルカが飛んできて、ノーラと同じように手のひらを差し出した。
「なんだ?」
「なにってお金よ。お・か・ね。それがなきゃなにも買えないじゃない」
「なんでオレがオマエに金を渡さなきゃいけないんだよ。あのまま森に帰ってて良かったんだぞ」
てっきり食い下がると思っていたが、チルカは「そっ、じゃあいいわ」と驚くほど早く了承した。リットの視界から外れるように飛び「妖精らしく勝手に持っていくから」と言って、スッと屋台に積まれているリンゴの影に隠れた。
「待て待て! こそ泥妖精!」
「こそ泥じゃないわ。イタズラよ。妖精絡みでよくある話でしょ? 食べ物がなくなるなんて」
「一緒にいるところ見られてんだから、オレも共犯者にされるだろ」
「別にいいわよ。捕まっても私は鉄格子の隙間から逃げられるから」
「……わかったよ」
リットは舌打ちを挟むと、しぶしぶ支払いを済ませ、チルカにリンゴを渡す。
受け取ったチルカはリンゴの重みで下に落ちたが、すんでのところでふんばり上がってくると、リットの肩にリンゴを置いて食べ始めた。
「それにしても妖精の白ユリだなんて持てはやしてるくせに、妖精に見向きもしないのね」
屋台主は一度チルカに顔を向けたが、それ以上気にすることなく普通に対応していた。
「大事なのは花の方で、妖精はオマケみたいなもんだからな。妖精の白ユリの話にしたって酷いもんだ。ったく、なにが光る花を持って歩く度に草花が生えるだ。あんなの酒を一杯飲む間も光んねぇじゃねぇか」
「それじゃ、お話が続かないからでしょ」
「どこの国も言い伝えも、裏を取るもんじゃねぇな」
「ここ以外の国のことも知ってるの?」
「さぁな……。まぁ、少しくらいはな」
その後、ソーセージの屋台と睨めっこをしているノーラを待っていたら、屋敷に着く頃にはすっかり陽が陰り出し始めていた。
屋敷の真っ白な壁といくつもの窓が、まぶしいほどに夕日を照り返している。玄関を通りぬけ、部屋に向かおうとしたところで、エミリア、ライラ、ポーチエッドの三人が夕食の為に食堂に向かっているところに出会った。
「前から思ってたんだがよ。兵士ってのは暇なのか?」
「まずは他に言うことがあるだろう」
「「ただいま」ってのも変な話じゃねぇか? オレの家ってわけでもねぇし」
「いきなり雑談を始めるよりも、変なことではあるまい」
エミリアが引きそうにないので、リットは「ただいま」と言うと、エミリアは「うむ、おかえり」と返してきた。
「で、そこそこの地位がある城の兵士二人が仲良く家にいるのは、国として大丈夫なのか?」
「それだけ、この国が平和だということだ。義兄上は夕餉を済ませたら、再び城に戻るそうだが。それよりも、ずいぶん良い匂いがしているな」
エミリアはリットの首元に鼻を押し付けるようにして匂いを嗅ぐ。
「どこがだよ。このせいで、せっかくの屋台通りも食欲が沸かなかったんだぞ」
「いえいえ。確かにちょっと香りが強いですけど、悪くないですわ」と、ライラもリットのシャツの肩口の匂いを嗅ぐ。
「ほら見なさい。アンタだけよ。臭いって言ってるのは」と言ってチルカが辺りを見回すと、一人だけ様子がおかしい。
「リット……近づかないでくれ」と、ポーチエッドが顔面蒼白で呟いた。
「ポーチエッドもこの匂いが苦手なの?」
チルカはリットのリュックから小瓶を取り出して見せつけると、ポーチエッドは二、三歩後ずさりをした。更にチルカが前進すると、ポーチエッドは遠吠えのような声を上げて走り去っていった。
「なにあれ?」
「ポーチエッドは犬っスからねぇ。強い匂いは苦手なんスかね」
「あらやだ、ノーラちゃん。ポチ様は狼ですわよ。それより、チルカ様。まだあるのなら、是非お譲り願いたいのですが」
「そうねぇ……いいけど条件があるわ。まず、私を襲わないこと。当然メイド部隊も禁止。それから――」
商談を交わす二人に耳を傾けながら、リットはポーチエッドが走り去っていた方向を眺めていた。
「どうしたんスか? 旦那ァ」
「ライラ程の金持ちなら、明日にでももっと良いものが買えるのに、今すぐにチルカからあの水を手に入れようとしてる理由を考えてた」
「……考えない方がいいんじゃないスかねェ」
ノーラも、ポーチエッドが逃げ去っていた方を見ながらそうこぼした。




