第四話
風が木々の合間を吹き抜け枝葉を揺らし、静かな夜にざわめきを歌う。
月明かりが映し出す揺れる枝葉の影絵は、瞬間ごとに様々な形を作っている。
町は月の流れとともに静寂の色に染まっていくが、一つだけ反抗するように色を強くする場所があった。
カーターの酒場からは、ドアの隙間から漏れる明かりとともに、酔っぱらいのろれつが回っていない会話と、これから酔っ払いになろうという注文の声が漏れている。
リットは両開きのドアを、手を使わずに腕を押し付けて開けると、中へと入っていった。
酔って気が大きくなり乱暴な言葉遣い、何が楽しくて歌っているかわからない鼻歌、一口飲むたびにコップをぶつけて乾杯する音。
そんな中でも、「いつものでいいか?」と言うカーターの声は、リットにしっかりと聞こえていた。
「いや、いらねぇ」
リットの声も大きくはないが、カーターにはしっかりと聞こえていた。
酒を断ったリットに驚き、褐色の肌によく映える白い目玉を大きく見開いた。
「嘘だろ? テーブルにこぼした酒でも惨めったらしくすするような男が、今日は飲まないっていうのか?」
「飲まねぇとは言ってねぇよ」
リットはテーブルで眠りこける男が抱えている酒瓶を引っこ抜くと、それを持ってカウンターに座った。
「おいおい……注文はこっちにしてくれよ」
「こっちに注文したら金を取られるだろ」
「金はあるだろ。最近ずっと店を開けてるじゃねぇか。まぁ、リットが店にいるのはあんまり見ないけどな」
「あれは溜めてんだよ。旅の資金用にな」
リットは空のコップを受け取ると、まだ栓の空いていなかった酒瓶のコルクを勢い良く抜いた。
「また、どっかに行くのか。親父さんの後でも継ぐつもりなのか?」
「王様なら、もうアニキが継いでる」
「冒険者の方のことだ」
「冒険者ってのは、自由気ままに野垂れ死ぬってことだぞ。後を継ぐも糞もねぇよ。オレがつぐのは酒だけだ」
リットが酒をコップに注いでいると、「サイテー!」と叫ぶ女性の声と、ビンタの音、そして酔っぱらいの冷やかしの歓声が、セリフの決められたお芝居のようなタイミングで連続して響いた。
そこから一つの足音がドアに向かい外へと出ていき、遅れてもう一つの足音が近付いてきた。
声を聞かなくても、顔を見なくても、リットにはそれが誰かがわかっていた。
「ずいぶん良い音が鳴ったな」
リットが右を向くと、左頬を赤く腫らしたローレンが、カーターに新しくお酒を頼んでいた。
「音ほど痛くはないよ」
「心ほどはだろ」
「まさか。ダメな男を演じて、向こうにフッてもらう作戦だったからね。後腐れがないためにも必要なことさ」
ローレンは涼しい顔で言ってのけた。
「聞いたことのねぇ声だったな。この町の女じゃねぇだろ」
「旅商人だからね。ずるずると手を出してたせいで、危うく一緒に来てって誘われるところだったよ」
「最終的にフラれる予定なら問題ねぇだろ」
「問題はあるさ。でも、この町は国境近くにあるから、別れた後に顔を合わせる必要がなくていいよ。去った後は、また新たな女性が来るしね。まぁ、それがこの町を選んだ理由だけどね」
「思うんだがよ……。ダメなとこを指摘してやるのも友情だぜ」
カーターがワインをローレンの前に置きながらリットに言った。
「新しいのを連れてたら、前の彼女の名前で呼ばないのが友情だ。不満があるなら自分で言えよ」
「こっちは友情の前に商売だからな。ローレンが女を連れて高い酒を頼んでくれるおかげで、儲けさせてもらってるからな」
カーターは注文に入ってないリットの酒瓶を見ながら言った。
「金は払ってるだろ。払ったのはオレじゃないけどな。安心しろ。朝までいるから、一杯くらいは自腹で払ってやるよ」
「いつも宣言なんかしなくても、朝までいるだろ」
「今日は帰れねぇんだよ。どうせ椅子で寝るなら、中身の入った酒瓶に囲まれてたほうがいいってもんだ」
言いながら、リットは肘でローレンを突いた。
シャツの肩あたりの匂いを嗅いできたからだ。
ローレンは大自然の空気を楽しむように鼻を鳴らして空気を吸うと、ゆっくりと吐き出した。
「君から胸の大きな女性の匂いがする。それも二人もだ」
「嗅ぐなよ。気持ちわりい……。今、エミリアとグリザベルが来てんだ」
「そういう情報ははやく言いたまえ。僕は失礼するよ。赤く腫れた頬を癒すには、柔らかい胸の谷間に泣きつくと決めているんだ」
そそくさと立ち上がろうとするローレンの腕をリットが掴んだ。
「何言ってんだ。オマエがいなくなったら、誰がこれから頼むツマミの金を払うんだよ」
「君こそ何を言っているんだい。一人でも双子山なのに、二人いればそれはもう見事な山脈だよ。一目眺めるためだけでも、僕なら迷わず君の家に帰るね」
「オレの家だったら帰るとは言わねぇだろ。説教女だけでも疲れるのに、情緒不安定女までいてゆっくりできるか」
「なるほど……。君はステップ三の段階まで来て、ここに逃げてきたわけだ」
「なんだよ、ステップ三ってのは」
眉をひそめるリットに向かって、ローレンは口の端に薄ら笑いを浮かべた。
「情緒不安定な女性と付き合うには三つの段階がある。ステップ一――庇護欲を掻き立てられ、君はおしゃれな恋愛と思う。ステップニ――このまま付き合っていけるか不安になる。ステップ三――不安は的中」
「最初からステップどころかジャンプしてるじゃねぇか。誰がいつ恋仲だって言った」
酒を飲もうとコップに手を伸ばしたリットだったが、胸ぐらをローレンに掴まれたせいで手がコップに届くことはなかった。
「もし、そうだって言うなら僕は君を刺さなければならない……。今君の家に、胸の大きな女性の匂いが充満しているってだけで、僕は怒りで拳に震えているんだ」
「……どうせなら、情緒不安定な男との付き合い方も教えてくれよ」
「だいたい君は胸じゃなくて、お尻派だろう。なぜ胸の大きな女性を呼ぶんだい? それも僕に隠れて。もし君が胸派になるんだったら、この町に血の雨が降ることになるよ……」
「調べ物を頼んだんだよ。ボロス大渓谷とディアドレの本についてな」
「そうかい……」
そう言ってローレンは真面目な顔で黙り込んだ。
「黙って反省するよりも、酒の一杯でもおごって機嫌を取れよ」
「……ディアドレは胸が大きかったと思うかい?」
「……オマエの脳みそよりはでかいと思うぞ」
ディアドレの胸が大きいか、それともお尻のほうがいいかの談義は夜更け前には別の話題に変わり、それからは頭の片隅にも残らないような会話が続いた。
その会話もいつ終わったのかわからない。
リットは固いカウンターに頭をあずけて、いつしか眠っていた。
「旦那ァ、はやく起きてくださいよ」というノーラの目覚ましの声が聞こえる。
腰を適当なリズムで叩かれ、リットはゆっくり上体を起こした。
「まだ、朝じゃねぇか……」
言いながらリットはあくびをする。
「もう朝なんスよ」
ノーラも大好物な料理を食べるときのように、大きく口を開けてあくびをした。
「眠いならここじゃなくて、ベッドにいろよ」
「私もそうしたいけど、エミリアに起こされたんスよ。健全な精神は早寝早起きからって」
「白ユリのオイルを手に入れるまでは、夜更かし娘だったじゃねぇかって言っとけ」
「ご自分でどうぞ。私は朝から小言を言われたくないっスもん。それに、旦那の為を思ってしつこく言ってるんスよ。このまま一人で帰ったら、次にここに来るのはエミリアっスよ。この光景を見られると、小言じゃすまないと思うんスけどねェ」
ノーラはこぼれた酒と料理で汚れた床で眠る酔っ払い達を見回した。
「何が悲しくて、一人暮らしで制限を設けられなくちゃならねぇんだ……」
「三人ですよ。私もチルカもいるじゃないスかァ」
「あってるぞ。オレ一人。後は二匹みたいなもんだ」
リットは渋々立ち上がると、酔っぱらいが残したツマミを皿ごと持つと歩き出した。
「ペットほど甘やかしてもらった覚えはありませんけどねェ」
ノーラも酔っ払いが残した食べかけの骨付きのもも肉を持つと、リットについて歩き出した。
「さっき朝って言ったよな」
外に出たリットは遮るもののない眩しさに、強く目をつぶりながら言った。
「言いましたよ。ほら、太陽が出てますぜ」
ノーラは歯型のついたもも肉で、生まれたばかりの太陽を指した。
「これはな早朝っつーんだよ。さっき寝たばかりじゃねぇか」
酔いながらも、リットは朝日に染まる窓枠を見ていた覚えがあった。
町はまだ静寂を保っており、鳥の声だけが遠くから耳を掠めている。
「そんなの私に言われても困りますぜ。それに、私は旦那よりもはやく起こされてることをお忘れなく」
そう言ってノーラはもも肉にかじりついた。時間が経って乾いたもも肉からは、一滴も脂が落ちなかった。
「こうやって歩いてると思い出しませんか?」
後ろから聞こえていたノーラの声が、いつの間にかリットの隣から聞こえている。
「思い出すぞ。あの木の根元が、この町に来て初めてオレがゲロを吐いた場所だ」
リットはまだ生活の匂いが混ざっていない朝風に揺れる枝葉の影を顎で指した。
「違いますよ。ほら、最初の頃はよく旦那を酒場まで迎えに言ってたじゃないっスか」
「最初の頃ってのは、最初の一回だけのことか? それも、今みたいに朝飯を漁りに来ただけじゃねぇか」
リットはノーラが持つ、すっかり肉のなくなった骨を見た。
「そりゃあ、ご飯を食べなきゃ死んじゃいますからね。いやー、イミルの婆ちゃんに許されてよかったスよ。おかげで、朝は問題なくパンにありつけるわけですから」
ノーラは残った骨を、通りを歩いていた犬に向かって投げると、汚れた手をズボンで拭いた。
顔馴染みの犬は、ノーラに向かって一度吠えると、骨をくわえて路地へと歩いていった。
しばらく歩き家の前につくと、中からグリザベルの笑い声が聞こえてきた。
「いつからうちは、不気味な声が響く化け物屋敷になったんだ」
「私が起こされた時から、なんかずっと上機嫌でしたよ。理由を聞いても、含み笑いを浮かべてから、また高笑いするだけですし」
店に入り、生活スペースがあるドアを開けると、グリザベルの高笑いを背負うようにしてエミリアがドアの前に立っていた。
「遅いぞ」
「なに言ってんだ。朝の挨拶はおはようだろ。でも、あんまりはやいと言うと男は傷付く」
「リットこそなにを言っているんだ……」
「小言を言われる前に、煙に巻こうとしてんだよ。ほら、土産だ」
リットはカーターの酒場から持ってきた皿をエミリアに押し付けた。
エミリアは皿に目を落として眉をひそめた。
皿の料理は半分ほど食べられており、空いた場所にはナッツの殻がつまれていた。
「これは……食べかけだぞ」
「そういう料理なんだよ」
「この皿は、リットの家にあったものじゃないな」
「なら、その皿が土産だ」
リットはこれ以上追求される前に「それより」と続けた。
「じいさんより早起きさせたのは、健康宗教に勧誘するためか?」
「それもあるが、帰る前に挨拶をしておこうと思ってな。いつものように休暇ではないから、朝一で帰らなければ」
「そういうことだ。深雪のように積もる話は、春の木漏れ日が漂う季節に花を咲かすとしよう」
高笑いを止めたグリザベルが、いきなり会話に押し入ってきた。
リットが床に視線を落とすと、エミリアの荷物の横に、グリザベルの荷物も並んでおいてあるのが見えた。
リットの視線に気付いたエミリアは、初対面同士を紹介するようにグリザベルに手を向けた。
「調査隊に加わって、ついて来てもらうことにしたんだ」
「そうだ。友としてな!」
エミリアの言い終わりに、間髪入れずに言葉を付け足すと、グリザベルは再び高笑いを響かせた。
「グリザベルでいいのか? 頭はいいけど、頭も悪いぞ」
「それでは意味がつながらないだろう」
エミリアは首を傾げた。
「あの様子を見てわからねぇなら。エミリアの頭も相当悪いってことになるな」
グリザベルはしすぎた高笑いのせいで咳き込むが、床に伏せて苦しんだ後、また高笑いを響かせている。
そして急に立ち上がるとリットの肩を掴み、口の端を吊り上げると、咳き込みすぎて出てきたよだれが床に垂れ落ちた。
「お主はボロス大渓谷に行った後に、調査隊に加わるのであったな。ならば、我のほうが先に調査隊に加わることになる。言うなれば、我が先輩で、お主が後輩だ。更に言うなら、一国の王と平民ほどの差があるというわけだ。わかるであろう?」
「わかるぞ」
リットはグリザベルの両頬をつまむと、歯茎が見えるほど横に引っ張った。
「こらぁ! 痛いぞ! なにをするのだ!」
「クーデター起こせってことだろ。ただでさえこっちは、朝から起こされて機嫌がわりいんだよ」
エミリアは「やめないか」とリットの腕を掴んでとめさせると、「リットのあほー……」と頬をさすってしゃがみ込むグリザベルを立ち上がらせた。
「まったく……時間がないという時に。とにかく、ボロス大渓谷から帰ってきたら、急ぎで手紙を出してくれ」
エミリアは馬車を待たせていると、グリザベルの腕を掴んだまま急ぎ足で家を出ていった。
引きずられてバランスを崩したグリザベルが、店の棚に足をぶつけて悲鳴を上げる残響だけが残った。
「いやー、一気に静かになりましたねェ」
慌ただしく出ていく二人を、手を振って見送ったノーラがポツリとこぼした。
「女ってのはなんで、一と一を足したら二以上のうるささになんだ」
「男の見栄と似たようなもんっスよ。ほら、男二人も見栄の張り合いをすると、どんどん大きくなっていくでしょ」
「あのなぁ……言い返さない反論をするなよ」




