第三話
リットが鍵を外すと、立て付けの悪いドアが笑うようにキイキイと鳴いた。
外は既に夕闇ではなく、夜になっているのが開きかけのドアの隙間から見えた。
夜と同じ色の黒色の布が風になびいている。
グリザベルは三日月のような笑みをニンマリと口元に浮かべると、「フハハハ!」と高らかに笑いだした。
リットがランプを高く持ち上げて顔を照らすと、グリザベルは眩しさに腕をあげて目をかばい、その場にしゃがみこんだ。
しばらく迷子の子供のように身を縮こまらせて、腕の中で当惑しながらまばたきを繰り返していたが、眩しさに目が慣れると、何事もなかったようにすくっと立ち上がった。
「我、参着であるぞ!」
グリザベルは腰に手を当てた尊大な態度で言うが、目尻にはまばたきで垂れた涙の跡があった。
「手紙の返事を寄こすとか考えなかったのか?」
「返事を寄越したことがないお主が言うことか。それに、友が急用だと言うから、返事を書く時間も惜しみ、一目散に飛んで来たんだぞ」
グリザベルは自分の言葉に、誇らしげにふふんと鼻を鳴らした。
「呼んどいてあれだけどな。理由も聞かずにほいほいとついてくるのはマヌケだぞ」
「ふんっ、裸よりマヌケな格好はないわ」
グリザベルが不貞腐れたようにそっぽ向いた顔を、リットは頭を掴んで力ずくで正面を向かせた。
「自分の家で好きな格好してちゃいけねぇのか。だいたい誰のせいで裸になってると思ってんだ。こっちは昼間からな、小太りナマズ人魚と泥遊びをさせられたんだぞ」
「我は関係ないぞ! それに、なんのことかわからぬ。わかったのは、お主が我を仲間外れにしたことだけだ! 我だってマグニと泥遊びがしたいのだぁ! リットのあほう」
グリザベルはリットに頭を押さえつけられたまま、子供のように地団駄を踏んだ。
掃除が行き届いてない店の棚から埃が舞い、リットの持つランプの明かりに霞んだ光の筋を作った。
「まぁいい。さっさと、浮遊大陸から持ってきたもんを確認してくれ」
リットが指招きをするが、グリザベルは鼻をすすってから首を横に振った。
「動かぬ……」
「なんのために呼んだと思ってんだよ」
「そうだ、我は頼りにされて呼ばれたのだ。だから、我が立場が上じゃないと嫌なのだぁ……。お願いされるまで、我はここを動かぬぞ……」
グリザベルはすねた子供の顔そのものをしていたが、リットが「わーったよ。ディアドレ関連のことだから、オマエじゃねぇとわかんねぇんだ。頼むよ」と言うと、不敵な笑みをこぼした。
「しょうのない奴だ。確かに、思慮深く、聡明で機知に富み、深淵のような奥深き心を持つディアドレのことは、鏡に映したように同類な我にしかわからぬ。言うなれば、我は円であり、ディアドレは球体であるということだ。平面状では同じであるが、空間により別のものになる。それは重層魔法陣のように――」
「円でも球でもいいけどな。いいかげんにしねぇと、ケツを蹴って転がしながら部屋に押し込むぞ」
グリザベルは「まぁ、よい」と気を取り直すために咳払いを一つ挟むと、軽い荷物を重そうに引きずりながらリットの後をついて歩いた。
リットが店のカウンター奥にある生活スペースへと続くドアを開けると、これでもかというほど眉間にしわを寄せたエミリアがドア前に立っていた。
「尻でも乳でもねぇんだ。そんなところに谷間を作っても、男は喜ばねぇよ」
エミリアはリットの軽口を無視すると、一度グリザベルの顔を見てから、足元に目を向けた。そしてもう一度グリザベルの顔を見てから、リットを睨みつける。
「まさかとは思うが……泣かせて追い返したんじゃないだろうな」
「泣いても帰るような奴じゃねぇよ。むしろ付きまとってくる奴だ」
「まったく……なにを考えている」
エミリアはリットの脇から体を出すと、子供を探すように視線を下げて店内を見渡した。
「なにやってんだよ。ゴーストでもいるんなら追い出すぞ。妖精とドワーフがいるだけでも、やかましいってのに」
「そうではない。子供が泣きじゃくる声が聞こえていたぞ。泣かせていたんだろう」
「今来たのはこいつだけだ」
リットはグリザベルに向けて顎をしゃくると、グリザベルに見せる羊皮紙を取りに二階へと上がっていった。
その間に、エミリアはグリザベルに向かって深々と頭を下げた。
「すまない、名乗るが遅れた。リリシア・マルグリッドフォーカス・エルソル・ララ・トゥルミルスバー・カレナリエル・シルバーランド・エミリアという」
ポカンと口を開けたままのグリザベルに向かって、ノーラが「名前っスよ。呪文じゃないっスよ」と声を掛けた。
グリザベルは「そ、そうか……」とどもったあと、何度も咳払いをして調子を整える。そして、「我の名はグリザベル・ヨルム」と区切り、存分に溜めたあと「――サーカス。という」と、威厳を込めた声色で名乗った。
グリザベルが期待していたのは、尊敬と驚きが混ざった感嘆の声だったが、実際にエミリアから出た言葉は「よろしく頼む」という一言と、一層深く下げられる頭だった。
思わずグリザベルも深々と頭を下げるが、こんな挨拶をしたことがないせいで、際限なく曲げられるだけ腰を曲げた。
二階から降りてくる足音が聞こえると、エミリアは「こら、まだ子供の話は終わっていないぞ」と、リットに詰め寄った。
「ガキに会いたけりゃ、そこの自分の股間にキスしそうな奴に聞け」
リットは二階になかった羊皮紙を取りに、今度は地下の工房へと降りていった。
エミリアはため息をつくと、真っ二つに折りたたまれたような、ありえない角度でお辞儀をしているグリザベルに話しかけた。
「手間を取らせてすまないが、リットが泣かせてしまった子供を知らないか?」
「……知らぬ」
「言動からして、おそらく十ほどの女の子だと思うのだが……」
「絶対に知らぬ……」
「そうか。ところで、その格好は疲れないか? 椅子なら空いているぞ」
「疲れぬ……」
グリザベルは十歳の女の子と思われたことにより、羞恥に赤く染まった顔を上げられずにいた。
「私はここの店のものではないが、客を立たせておくわけにはいかん」
グリザベルを椅子へと優しくエスコートしようとするエミリアの腰を、ノーラはちょいちょいっと突っついた。
「グリザベルも、旦那のお友達っスよ。だから、勝手知ったるって感じっスから、大丈夫ですよ。それより、もう一回ちゃんと自己紹介したらどうっスかァ? ほら、友達の友達は友達って言うじゃないっスか」
ノーラが助け舟を出している間に、グリザベルはなんとかいつもの調子を取り戻し、作り顔の真面目な表情を上げた。
そして、つかつかとわざと足音を立てて歩き、椅子に深く腰掛けると、右足を大きく上げて左足に組んだ。
「リットには手を焼いておる……だが、知友なればこその甘えと理解しておる。そなたも我に甘えることを許そう。それが二円が渦巻く中心だ。運命というもの一つで交わるものだ。改めて名乗ろう。我の名は、グリザベル・ヨルム……」
グリザベルはさっきよりも間を開けると、不敵に口の端を吊り上げた。
そして、ディアドレの子孫の証である姓を名乗ろうとしたところで、エミリアと声がかぶってしまった。
「――サー」
「――私の名は。リリシア。おっと……すまない。不自然に間が空いたので、てっきり自己紹介が終わったものだと……」
グリザベルは「かまわぬ……」と、今日何度目かわからない咳払いを挟んだあと、改めて、間を開けずに「グリザベル・ヨルム・サーカス」と名乗った。
「私は、リリシア・マルグリッドフォーカス・エルソル・ララ・トゥルミルスバー・カレナリエル・シルバーランド・エミリアだ」
エミリアは優しく笑みを浮かべて、グリザベルに握手を求める。
グリザベルもその手を掴み、自己紹介は成立したのだが、グリザベルは食い下がった。
自分から説明するのではなく、エミリアからディアドレの子孫であることに気付いてほしかったからだ。
「……サーカスだ。グリザベル・ヨルム・サーカス」
エミリアは「うむ」と頷き、「私は、リリシア・マルグリッドフォーカス・エルソル・ララ・トゥルミルスバー・カレナリエル・シルバーランド・エミリアだ。長くて覚えにくかったら、リリシアでもエミリアでもかまわない」とグリザベルに合わせて、もう一度名前を名乗った。
空回りを重ねるグリザベルを見て、たまらずノーラが「グリザベルはディアドレの子孫なんスよ」と付け足した。
「高名に気付かずもうしわけない……。確かに、サーカスといえばディアドレの姓だ」
エミリアは失礼を詫びる言葉を添えて、また頭を下げる。
「よいのだ。名を上げたのは我ではないからな」
ノーラが「無理しちゃってまぁ……」と、なんとも言えない顔でグリザベルを見ていると、リットが工房から上がってきた。
「これだ。天魔録の下書きみてぇなもんなんだけどよ。全然読めねぇから解読してくれ」
リットは羊皮紙の束をテーブルに置いてから、グリザベル、エミリア、もう一度グリザベルと顔を見比べてから、最後にノーラを見た。
「なんだこの空気は。もう、化けの皮が剥がれたのか?」
「うーん……首の皮一枚で繋がってるってところっスかねェ」
「剥き癖つけとかねぇと苦労するぞ。男ならな」
リットは下品な笑いを響かせるが、誰ひとりとして反応する者はいなかった。
「なんだよ……。ノリがわりいな」
「そりゃあ、周りは女の子ばっかりっスからねェ」
「オレとしたら、何歳まで女の子って呼ばれりゃ気が済むのかの問題も気になるけどな。それより、こっちの問題を先に片付けてくれ」
リットが押し付けるように羊皮紙を渡すと、グリザベルは黙って目を通し始めた。
「そんなに専門的なことが書かれているものなのか?」
先ほどとは打って変わり、自然な真剣な表情を浮かべているグリザベルを見ながらエミリアが聞いた。
「製本された天魔録がありゃ、必要ねぇけどな。下書き段階、それも古くて文字が穴抜けになってるから、オレが読んでもわかんねぇんだよ」
「グリザベルならわかるのか?」
エミリアに名前を呼ばれたからか、はたまた読み終えたからか、グリザベルは笑みを浮かべて羊皮紙をテーブルに置いた。
「古書の解読に、妖精の鱗粉を使ったことは褒めてやろう。だがお主の頭では、美しく羅列された五線譜のような文脈を、読み解くまではいかなかったと見える」
「だから読めねぇって言ってんだろ。で、なんて書いてあったんだ」
グリザベルは「すぐにはわからぬ」と言い切ったあと、リットが反論の口を開く前に、手をかざして止めた。「正確に読み解くには、他の文献も読み漁り、隙間を埋めなければならぬ。文章の癖というのは、魔法陣の癖にも似ているものだ。ならば、長年ディアドレについて調べている我にしか解読できぬものだ」
「だから、それで呼んだって言っただろうが」
リットがイライラと歯を食いしばったのを見て、今度はエミリアが手をかざしてリットを制した。
「私からもお願いしたい。代わりに私ができることなら、なんでもしよう」
エミリアの言葉を聞いて、グリザベルは一瞬チャンスとばかりに目を見開いた。
「……な、ならば……。と、友と……呼べる存在にだな……」
不器用に顔をほころばせたグリザベルだが、その表情が崩れるのははやかった。
「すまない。それはムリだ。友とはその場の言葉だけでなれるものではないからな。これから時間を掛けて交流し、改めて友と――」
エミリアが一度目を伏せた瞬間に、グリザベルは床に膝を抱いて座り込んでしまっていた。
「ダメですよォ、グリザベルに否定から入っちゃ。せっかく勇気を出したのに」
ノーラは自分と同じ位置にあるグリザベルの頭を撫でる。
「すまない……。だが、友人とは時間を掛けてなるものであってだな……」
エミリアは困った顔をリットに向けて、助けを求めた。
「少しは固い頭を殴って柔らかくしたらどうだ? 酒を飲めば次の日には友人になってることもあるだろ。――だいたい、オマエも年下の小娘に翻弄されんなよ」
リットはつま先でグリザベルの背中をつつくが、グリザベルは無言で払いのけるだけだ。
エミリアは「こら、女性を足蹴にするものでない」とリットを止めてから、グリザベルを見て、困り眉を一層深めた。「それにしても困った。こういう時にどうすればいいかわからない……」
「喧嘩して、相手を泣かせたことくらいあるだろう」
「それはあるが……。私が言っているのは、大人になってからのことだ。大人の女性を泣かせてしまうことはなかったからな……」
グリザベルは膝にうずめた口から「泣いてないもん……」とくぐもった声を出した。
「言いたいことを、迷わず口に出す癖を治したらどうだ?」
「それはリットには言われたくないぞ」
「オレは男だぞ。女を泣かせるってのは、勲章もんだ」
「意味が違うだろう……」
「まぁ、相手を知りたけりゃ、ゆっくり一晩付き合うこったな」
リットは木桶に入っているシワだらけのシャツに手を伸ばす。
「あら、お出かけですかい?」
シャツを着たリットを見て、ノーラが「また」という顔をした。
「部屋が甘ったるくて女臭えから、酒場に行ってくる。どうせ、オレのベッドはねぇしな」
二階の空き部屋は一部屋。客はエミリアとグリザベルの二人。
エミリアは初めから一晩泊まる予定だ。グリザベルも荷物を部屋まで引きずってきたとなると、別に宿などとっていないだろう。
いちいち確認するのも面倒になったリットは、いつもどおり酒場で一晩を明かすことに決めた。
「普通はおじさんの臭いより、女の子の匂いのほうが良いと思うんスけどねェ」
「こんな匂いの中で飲んだらな、別の店と勘違いして金を払いそうになんだよ。グリザベルが泣き止んだら、オレの部屋のベッドを使えって言っとけ」
リットは店のカウンターに無造作に置いてある小銭をポケットに入れると、夜が深まる外へと出て行った。




