第二十五話
ホワイトリングの穴から見下ろす景色は、ほとんどが緑々しいジャングルで、それを大雑把に割る川と、ぽつぽつと建てられた石の神殿が、美しい緑に傷をつけるように別の色で存在していた。
リットはここ数週間のほとんどを、穴のそばで過ごしていた。
リットの家の庭の光の柱を探すためだ。
監視塔の天使に、見つけたら知らせてもらうように頼んだのだが、なぜか自分で見付けたいような感情が湧き上がってきていた。
しかし、光の柱を見つけることができても、グリム水晶の望遠鏡がなければ、それがどこの光の柱かはわからない。
今日もリットは酒瓶を片手に、次第に薄暗くなっていく地上を見下ろしていた。
丸葉を乾燥させて作られたコップに酒を足そうと瓶を傾けると、コップに一滴の波紋が広がった。二滴目はなく、波紋は消え、手の振動で僅かに揺れる波だけが残った。
「一杯やらんかね?」
中身が見えるほど透明な酒瓶を片手に持ったメディウムに声を掛けられたのは、リットが意味もなく瓶口を覗き込んでいた時だ。
「一杯って気分じゃねぇよ」
リットは空の瓶を投げ捨てるように置いた。
「そうか……。なら、またにしよう」
「二、三杯なら付き合うぞ」
リットはコップの残りを飲み干すと、メディウムに空になったコップを逆さにして見せた。
メディウムは「それはよかった」と、年寄りくさいため息を付きながらリットの隣に腰を下ろした。
リットは瓶口から栓が抜かれるのと同時に口を開いた。
「前から思ってたけどよ。なんで瓶なんだ? 浮遊大陸なら、木樽のほうが主流だと思ったが」
「だから高い酒なんだ。焦げた樽の色や匂いが移らないよう瓶に入れている。空になったら酒場に預け、新しいのを入れてもらうように頼む」
そう言ってメディウムが酒瓶を軽く傾けると、リットは瓶口の下にコップを滑り込ませた。
開けたての酒瓶は中身がたっぷり入っており、夜の冷えた空気が酒を押して、瓶の中で波打つトクトクという心地良い音が響いた。
「めんどくせぇな。次飲むのに、時間が掛かるだろ」
「うまい酒を飲むのには、自分の時間も熟成させるのが大事だ。忘れた頃に飲むから、味も新鮮なんだ」
「国王が飲まずに、後生大事に取っておいた酒か。いちいち雲の上に空瓶を届けるわけにはいかねぇしな」
リットは酒を眺める。ロウソクの火の一番端のような赤みを帯びた薄い琥珀色の液体に、笑みか困りかわからないものを口元に浮かべる自分の顔が映っていた。
「なんのことだ?」とメディウムに聞かれると、その表情は波にさらわれたかのように消えていた。
「なんでも。なんなら、そっちの分を注いでやろうか?」
メディウムは黙ってリットに酒瓶を渡すと、ガラス製のコップを突き出した。
「住んでる奴が、郷に従わなくてもいいのか? ガラスなんて浮遊大陸的じゃないだろう」
「これが好きなんだ。明かりをつけると、よく映えるだろう」
メディウムはリットの傍らにあったランプに勝手に火をつける。
すると、ガラスがランプの明かりを透かし、メディウムの白い布服に酒色をした太陽のように広がる光の染みが浮かんだ。
「引っ掛けられた小便が渇いたようにしか見えねぇよ」
リットが鼻で笑うと、メディウムも鼻で笑い返した。
「これが大人の飲み方だ。大人は酒だけではなく、雰囲気にも酔う」
「男二人。人気は他になし。年を食って趣味でも変わったのか? 雰囲気に酔っても何も起こらねぇぞ」
「年寄りのおせっかいだ。酔って、吐いて、惰性で過ごすしか知らないと見えるからな」
「からんで、愚痴って、管を巻くのも知ってるぞ。あとな、大人の飲み方は知らなくても、大人の付き合いくらいは知ってる。じいさんの「一杯どうだ?」は、話を聞いてくれってこともな」
リットはコップに口をつけながら微笑した。
どこかで嗅いだかであろう花の香りが煙るこの味は、ヴィクターの形見の酒と同じ味だ。
「帰るんだろう? 少しここで働いていかんか?」
「そうもいかねぇ。地上にいる奴に用があるからな。だから、働くのは飛ばして給金だけなら貰ってく」
「急ぐものでもないんだろう?」
「どうだろうな。オレはともかく、世界にはずいぶん急かされてるような気がする」
リットにとってただの噂でしかなかった『闇に呑まれる』という現象は、エミリアの依頼を聞いてから、急激に噂から事実へと変わっていった。
ここ最近では、それを中心に人生が進んでいる。
リットはそれを思い出して、自嘲気味に笑った。
「せめてあと半年あれば……」
メディウムはなにか考えるそぶりで顎髭をなでた。
「明日か、一週間後か、一年後か。まさしく風の向くままってやつだ。だいたい、いてほしいのはオレじゃねぇんだろ」
「わかっていたか。マックスのことだ。どうにか残って後を継いでほしいと思っている」
「諦めろよ。ここに連れてきたのはオレだ。元の場所に送り届けるまでが子守。口説き落としたきゃ、ディアナまで出向くのが筋だろ。筋を通すつもりがねぇなら、首輪をつけて屋敷に繋いどくんだな」
「マックスにも生きてきた軌跡がある。それはわかっているのだが……」
メディウムは苦い顔を浮かべるしかなかった。ディアナに行くということは、追い出すようにして別れた娘のミニーにも会うということだからだ。
「よくそんなんで孫娘に説教できるな」
「自分のことは棚に上げるものだ。君だってそうだろう」
リットは「ちげぇねぇ」と笑ってから、少しだけ声のトーンを落として「ここらで素直になっておかねぇと、次に娘に会う時は死に目ってこともあるぞ」と言った。
一瞬の静寂の後、ついで「まぁ、死んでる確率はじいさんのほうが高いけどな」とまた笑った。
「まだまだ死なん。屋敷を大きくするという目標があるからな」
「死んだら雲の上って言うけど、ここは既に雲の上だ。死んだことに気付いてねぇだけかも知れねぇぞ」
「生きていようが死んでいようが変わらないのならば、ゆっくり大きくしてもいいというわけだな」
「じいさんの股間と一緒だな。やる気出しても、でかくなるのは女が寝た後だ」
リットが下品に笑うと、メディウムは眉をひそめたが、口元には笑みを浮かべていた。
メディウムは「もうひとつ聞いておきたい」と、リットのコップに酒を注いだ。
「じいさんの話を聞くのは、一晩に一回って決めてんだ。自慢話だろうが、愚痴だろうが、ただでさえボケて同じ話をするのに、二個も三個も聞いてられるか」
「君の下品なジョークの返しには、充分に釣りがくるほどの高い酒だ。愚痴と昔話を混ぜても足りないくらいだ。それを話し一つで済むなら安いと思わんかね?」
「どうだかな。安いか高いかは、とりあえず話を聞いてから決めてやるよ」
リットは夜風に酔いが冷めないように、一口酒を飲んだ。
「なぜ、闇に呑まれるという現象に向き合うのかね?」
「……考えなけりゃいけないことか?」
「明かりの中を探したらなんでも見付かる。美味しい食事、暖かい家庭。君の大好きな酒も。だが、暗闇の中を探してもあるのは暗闇だけだ」
メディウムは真剣な眼差しをリットに向ける。
「オレはランプ屋だぞ。闇に光を売りつけるのが仕事だ」
「一介のランプ屋だろう?」
「そうだ。でも、ただのランプ屋じゃねぇ。商売人と冒険者が入り浸る酒場で育ったからな。照明にもニッチな需要があるってことを知った。おかげで食いっぱぐれずやっていけてる」
「それは繋がっているのか?」
「変わんねぇよ。ランプの注文も、闇に呑まれるのも、試行錯誤の繰り返しだ」
「たしかに……。ただのランプ屋では、世界を照らそうなんて大それたことは考えんな」
「世界を照らすね……。そりゃいいな。成功したら光学師とでも名乗って、信者を騙して金を巻き上げて、化けの皮が剥がれて刺されるまでは悠々自適に暮らすよ」
「悠々自適に暮らしたいのならば、今の君がまさにそうだ」
「なら、信者なんて邪魔なもんはいらねぇな。解決したら、いつもどおり酒でも飲んで暮らすことにするよ」
「君にはそれが合ってる気がするよ。だが、名を上げたら、友人として自慢させてもらう。君の言うとおり、年寄りは自慢話が好きだからな」
メディウムはコップに僅かに残った酒を一気に飲み干すと、鼓舞するようにリットの肩を叩いてから立ち上がった。
そして、片手に空のコップだけ持って立ち去ろうとするのをリットが呼び止めた。
「おい、じいさん。酒を忘れてるぞ」
「残りは瓶ごと君にやる。きっと必要になるものだ。とっておきたまえ」
そう言ってメディウムは屋敷へと戻っていった。
リットの傍らには、ランプの明かりで綺麗に透ける瓶が横たわっていた。
それからさらに数日が経ち、リットが穴の近くにいることはなくなった。
リットの住む街がある、ミキシド大陸の光の柱を確認したという情報が入ったからだ。
風を読み違えなければ、パルジャとレッジャの双子山の上空を流れて行く予定だ。
その山が見えれば、リットの家の妖精の白ユリの光の柱も見えてくる。
妖精の白ユリは早朝に光るために、この日は夜に起きて支度をしていた。
「うーん……まだ食べてないものありましたっけ?」
ノーラはリットに聞きながら、手を開くと短い指を親指から順に折って、今までに浮遊大陸で食べたものを数え始めた。
「存分に飲み食いして、人の酒のツマミを盗み食いまでしておいて、まだ食い足りねぇのか?」
「だって、浮遊大陸のみずみずしい野菜とか果物はここでしか食べられないんスよ」
「地上にも流通してるもんはあるだろ」
「地上にも流通してるのは、乾かした皮だけなんスよ。それも香辛料代わり。光の階段でも、天望の木でも、運んでる最中に薄い皮が破れるそうっスよ。たまに、ダメ元で運んで状態が良いものは高値で取引されるそうですけど。旦那が大好きなお酒くらいっスよ。そのまんま流通できるのは」
「そんなこだわるほど、グルメでもねぇだろ。どうせ帰ったらパンにでもかじりついてる」
「旦那に比べたら、乳飲み子でもグルメってなもんです。そういえば――光の階段で帰るみたいっスけど、どれくらいかかるんスか?」
ノーラは話題を変えると同時に、思い出したように手を叩いた。
「四半日もかからねぇとよ」
「天望の木を登るのに、あんなに日にちがかかったのにっスか?」
「川見てぇに流れがあんだとよ。普段は監視塔に向かって登っていくから気付かねぇけど、下りはあっという間らしいぞ」
地上では『天使の階段』と呼ばれている『光の階段』は、その上を歩く者にとってはもっと短く感じられる。浮遊大陸の地面と、地上の地面までの間の時間が切り取られたかのように。
しかし、実際に四半日を歩いてることにより、地上につくと急激に空腹と疲労に襲われてしまう。昔、まだ浮遊大陸との交流がほとんどなかった時代、そのことを知らない高齢の冒険者が地上に着いた瞬間に亡くなり、その噂に尾ひれがついて、地上では天使の階段と呼ばれるようになった。というのがメディウムの書きかけの本に書かれていた。
「天の川っスか。どうせなら、上に行くのもあっという間にしてほしいもんスねェ」
「本当よね。ダメ元で持って帰ってみようかしら」
チルカは赤いカッカの実と黄色いニコの実を交互に胸に抱え、持って帰るのならどちらにしようと頭を悩ませていた。
「わざわざ持って帰るようなものか?」
「物の価値がわからない男ねぇ……。これを持って森に帰ってみなさいよ。皆私の凄さにひれ伏すわ。だいたい、アンタだってお酒を持って帰ろうとしてるじゃない」
チルカはリットの鞄から飛び出ている酒瓶の上に足をついた。
「もらいもんだ。それに酒は腐ることもねぇからな」
「初めてアンタが羨ましいわ……。私もアルールの実のお酒を持って帰ろうかしら」
「普段酒なんか飲まねぇだろ」
「甘いタイプのアルール実のお酒を、甘い蜜に一滴割って飲むのよ。それと一緒に甘いお菓子を食べるの」
「聞いてるだけで、胸が焼けるな。噴火直前の火山はこんな感じなんだろうな」
「甘い生活とは無縁のアンタからしたら、そうでしょうね。冬なんか体が温まって最高よ。……ところで、今は冬なの? 夏なの?」
天気が変わらない上に、世界中の上空を流れる浮遊大陸にいると、季節どころか、日にちの感覚もなくなってきていた。
「春か夏だ。穴の下の景色が緑だった」
「一年も浮遊大陸にいたのね。いや、もしかして二年。……地上に着いたら、おばあさんになってたなんてことないでしょうね」
「妖精のチルカが婆さんになるなら、オレは着いた瞬間に白骨化してる」
「そしたらスケルトンになって、自分で墓まで歩きなさいよ。私がおばあさんになってたら、アンタの骨なんかバラしても重くて運べないわよ。――それで、アンタはあれに混ざらないの?」
チルカが顎をしゃくって指した先では、メディウムとマックスが抱き合って別れを惜しんでいた。
「混ざれって、あの不気味な儀式にか? オマエを呪い殺す為でも混ざりたくねぇよ」
「私だって、あんな髭と筋肉が涙ながらに抱き合う儀式で呪い殺されたくないわよ」
「なら、妖精の白ユリが光るまでおとなしく待つだけだな。オレ達は何事もなく帰るだけだ」
リットの言葉どおり、何事もなく、朝焼けとともに光の階段を降りたが、斜めに降りる光の階段はリットの住む町の座標とは少しずれ、疲労の溜まった体を引きずりながら街に戻る頃には昼になっていた。
マックスも数日はリットの家で体力を回復してから帰るため、一緒に棒のように疲れた足を引きずっていた。
家に着くと皆着替える気力もなく、泥のように眠った。
最初に目を覚ましたのはマックスだ。最初といってもまだ夜だった。
二階の客室にいるマックスは、寝ぼけと疲労でまだ重い目で、久しぶりに雲を見上げていた。
空を流れる雲を見ると、旅を終えた実感が湧いてきた。あの雲の上にいて、今はその下に帰ってきた。そう思うと、疲労も心地の良い満足感に変わってくる。
子供の頃にヴィクターに聞かされた、胸躍る冒険談とは似ても似つかない旅だったが、初めて自分の人生の分岐点を渡ってきた気持ちだった。
窓に映る自分の口元の笑みに気付き、さらに笑みを深めたところで、音もなくドアがゆっくり開くのを感じた。
振り返ると、瓶口にふたつコップを引っ掛けた酒瓶と、火のついたランプを持ったリットが立っていた。
「なんだ起きてたのか」
窓に張り付くマックスを見て、リットは幽霊でも見るように目を丸めた。
「ノックはしないんですか」
「気を使ったんだよ。ノックの音で起こしたら悪いからな。起きてるなら一杯付き合え」
「僕はお酒は飲めませんよ」
「知ってる。一杯ですぐ酔いつぶれて寝るからな。ちょうどいいだろ。どうせ寝られないんだから」
リットはマックスの返事を聞かずにコップに酒を注ぐと、押し付けるようにしてコップを渡した。
「兄さんは寝ないんですか?」
マックスは飲まずにコップを持ったまま聞いた。
「オレは三杯か四杯。はたまた瓶を一本開けてからまた寝る」
言いながらも、リットはコップにまだ口をつけない。
「疲れてるんです。飲むと朝がつらいですよ」
「どうせつらいんだ。二日酔いが加わったところで、変わらねぇよ。それより、なにを話してたんだ? 帰り際にメディウムと」
「浮遊大陸への帰り方ですよ。雲の中に星を見つけたら、それが浮遊大陸だそうです」
「帰り方を知らなけりゃ、また来いなんて言えねぇもんな」
「兄さんは良かったんですか? 帰りの挨拶をしなくて」
「良かったから、しなかったんだ。酒の礼の分は、余計な話をしたからな」
リットはメディウムから貰った酒瓶をマックスに見せつけるように揺らした。
そして乾杯を急かすように、マックスに向かってコップを持った手を伸ばした。
「雲に向かって、じいさんに乾杯するか? それとも、その上の月に向かって乾杯するか?」
そう言ってリットはランプの火を消した。
部屋は暗くなり、窓から弱々しい月明かりが差し込んでくる。
「そういえば……もう夏ですね。お墓にずっと行ってません。父さん、怒っているでしょうか」
マックスは月を見上げた。
街灯から暖炉、調理火まで消して、死者を月明かりに送るというのがディアナ国の風習だ。そして、月を見上げて故人を思う。
「一皮剥けて喜んでるだろ。まぁ――剥けたもんを使わずに帰ってきたことは怒るだろうな」
「そんな!――人ですよね……。長くは付き合えそうにありませんけど、そういうことなら一杯付き合います。見上げれば雲も月も見えます。せっかくですし、両方に乾杯しませんか? どちらにも無事に帰ったことが届くように」
「いいぞ。酒に付き合ってもらう代わりに、今日はその青臭さに付き合ってやる」
リットが仕切り直して再びコップをマックスに向けると、マックスは一度躊躇ってからコップを近付けた。
慣れない乾杯の音が汚く鳴る。
そして、一口飲むと、二人同時に空を見上げた。
雲は月を隠すことなく流れ、月は陰ることなく雲を照らしていた。
五章の「闇の柱と光の柱編」はこれで終わりです。




