第二十三話
ベッドに寝転がったリットは、ポケットから取り出したキュモロニンバスの天空城の壁石を瞳の先に掲げた。
月白色の石より更に白く輝く焦げ跡は、白昼の星を見上げているようだった。
当然真昼に星は見えないものだが、そう思わせるような星空が冷たく輝いている。
焦げ跡は不規則だが、規則的に並んでいるようにも見える。『時うつしの鏡』につけられた額縁の宝石のようだ。
気付けば白昼の星は、ありきたりな夜空に変わっていた。
窓から入る夜気が、涼しく頬をなでているのに気付くと、リットはベッドから体を起こした。
辺りはすっかり暗くなっており、目を向けた窓からは、弱々しい月光が空に穴をあけているのが見えた。
目線を正面に戻すと、ぼやけた人の顔が目の端に映った。
それがマックスの顔だと気付くのに数秒かかった。暗い中、集中してひとつのものを見つめすぎたせいだ。焦点が合い、マックスの顔立ちがはっきりするまでに、さらに数秒かかった。
マックスは怒りの形相でリットを睨んでいた。
「なにいきなり怒った顔を近付けてんだ?」
言いながら、リットは石をポケットの中にしまいこんだ。
「いきなりではないです。積み重なって今の顔になってるんですよ。身に覚えがあるでしょう」
「ありすぎてひとつに絞れねぇな」
「夕食に呼んでも来ない。何度部屋に迎えに来たことか……。生返事ばかりで、結局一人分の夕食が無駄になりました。用意して貰っている身だということがわかっていますか?」
「オレが食わなかった分は、ノーラの腹の中に入ってるだろ。無駄といえば、いくら食っても成長しないから、栄養の無駄だな」
「そういう問題ではないです。いらないのなら、いらないと言えばいいだけです。それを適当に返事をするから――」
リットはマックスの言葉を遮るようにベッドから降り立った。
「怒りに火をつける前に、まずランプに火をつけろよ」
リットがランプを灯すと、部屋が淡いオレンジ色に満たされた。そのランプの明かりは、マックスの顔に影を作り、怒りの表情を濃くさせた。
そしてマックスは、ランプの明かりで浮かび上がった物を指差した。
「服も脱ぎっぱなしで、空の瓶も転がりっぱなし。一緒に部屋を使っている僕のことも、少しは考えてください。いったい何度僕が夜中に躓いて転んだことか……」
「加護の島に行く前日の晩は三回だったな。オレからも言っておくぞ。足元くらい確認して歩け。じゃないと、足元を見られるぞ」
「普通こんなに物が散乱してません。自分の家ならともかく、ここは人の家ですよ」
マックスは一度、呆れと怒りの感情をため息にして吐き出すと、続きを話し始めた。
「とにかく、兄さんの夕食はありません。厳しいようですが、自業自得です。どうしてもなにか食べたかったら、僕の鞄の中に携帯食の余りがあるので、それで我慢してください」
「厳しいな。そんなに強く言うと泣いちゃうぞ」
リットが反省の様子を見せずに、笑いながらそんなことを言うので、マックスは強くテーブルを叩いた。
「とにかく! まだ言いたいことはあるんです!」と言うまでは歯切れが良かったのだが、マックスは急にモゴモゴし始めた。「僕の……その……貞操を売ろうとしたでしょう……」
「ようやく売れたのか。感謝しろよ。童貞なんてのは、不良品より売れねぇんだから」
「売ってません! ……お金で対処しました」
リットはからかうように「うー」と高く唸ってから、「売ったんじゃなくて、女を買ったのか。そりゃ、もう一人前だな」と、さらにからかうように言った。
「運賃を払って帰ってもらったんです……。屋敷までついてきて大変だったんですよ」
「地下ではサキュバス、空ではハーピィ。モテるわりには進展なしか、……童貞捨てるきあんのか?」
「ないです。独身の誓いを立てていると言ったじゃないですか。女性をそういう目で見るのは侮辱に値します」
リットは鼻で笑い飛ばしてから、真剣な眼差しをマックスに向けた。
「冗談かと思ってた。だってそうだろ。童貞なんて生ゴミと一緒だぞ。みんな捨てたくて必死だ」
「そんなの人によりけりです。僕は絶対にそういう行為はしません」
「まっ、それもまた人生だな。なら、そのままよそ見せずに歩けよ。よそ見すると色々見えるぞ。リンスのなんか、無防備過ぎて見飽きたくらいだ。……なにが見えるか聞きたいか?」
「いいえ!」
顔を赤くして怒鳴るマックスを見て、リットは満足気に笑顔を浮かべる。そして、寝起きで乾いた喉を、枕元に転がっている酒瓶で潤そうとしたところで、ノックの音が聞こえた。
「誰もいねぇから、後にしてくれ」とリットが言うと、ドアがゆっくりと開き、書類を片手に持ったメディウムが部屋に入ってきた。
「よかった、起きていたな。東の国の灯台のことで聞きたいことが……――なぜ、マックスの顔は赤いんだ?」
メディウムは上機嫌のリットと、息荒く顔を赤く染めたマックスを見て首を傾げた。
「その二つを結びつけるものはねぇな。お望みなら、適当に作り話をするけど、それでいいか?」
「いいや……先に灯台のことを教えてくれ。大灯台のようなものは、いくつも作ることが可能なのか?」
「さぁな。龍の鱗次第としか言いようがねぇな。でも、過去に龍害があったんだろ? なら、島にぶつかった時に剥がれ落ちた鱗があるんじゃねぇか?」
「なるほど伝書を飛ばして聞いてみよう」
メディウムはメモをしながら、頭にも刻み込むように数回頷いた。
「オレもひとつ聞いていいか?」
「かまわんぞ」
「天使族とスリー・ピー・アロウの関係は?」
「天使と魔族か……一から説明すると長くなってしまうな」
「魔族じゃねぇよ。天使とスリー・ピー・アロウの関係のことだ」
「スリー・ピー・アロウは天望の木があるところだな。今では天使族と魔族の関係も良好だ。差別はゼロではないが、それはどちらにも言えることだ。そこからまたこじれるか、解かれるかは、時の流れにしかわからん」
メディウムはしっかりとこたえたが、リットは納得のいかない顔でメディウムを見た。
「わかりにくかったなら、はっきり言うぞ。白フードとスリー・ピー・アロウの関係だ」
森とスリー・ピー・アロウを繋ぐ『ヘル・ウインドウの地下洞』。そこは今、流通を滞らせ、独占商売をするために白フードの商人によって封鎖されているという話だ。
そして、キュモロニンバスの天空城にいた天使は布をフードのようにして被っていた。天使族の服は布。それに色は白だ。巻き方によっては背中の翼を隠すこともできる。
リットの問いに返ってきたのは答えではなかった。
「それは君にどういう関係があるのかね?」
メディウムの声色が変わった。
「たしかに、オレには関係ねぇな。同じセリフをこっちにも言えるんだったら、この話は終わりでいい」
リットは顎をしゃくってマックスを指した。
いきなり話を振られたマックスは、最初のうちはキョトンとしていたが、思い当たる節があると、メディウムの目を真っ直ぐ見つめた。
「スリー・ピー・アロウに友人ができたんです。初めてできた親友ともいえる存在なので、なにかあるのなら知りたいのですが……」
メディウムは口を固くつぐんでいたが、マックスに真剣な表情で見つめられ、まいったと髭を撫でた。
「あまり……話せるような内容ではないのだが……」
「ムリにとは言いません。ただ知っていれば、ディアナに帰った時にモント兄さんと交渉がしやすいと思っただけなので。なにがどうあれ、架け橋になろうとは思っていますから」
メディウムは「君はともかく」とリットを一瞥し、「マックスは天使族だ。話してもいいだろう」と、マックスにだけ話をするように椅子に腰掛けてから続けた。
「スリー・ピー・アロウがあるのはペングイン大陸だ。ペングイン大陸にはふたつの天望の木がある。ひとつはスリー・ピー・アロウにある天望の木。もうひとつは、テスカガンド付近にあった天望の木」
「あったということは」
マックスが言うと、メディウムは静かに頷いた。
「そうだ。テスカガンド付近の天望の木は、闇に呑まれ、枯れ朽ちてしまった。知ってのとおり、浮遊大陸は植物との関係が根深い国だ。植物とはこの国の生命線。枯れてしまっては困るのだよ」
「でも、浮遊大陸は闇に呑まれた場所の上を通過しますよね?」
「そうだ、通過するだけだ。闇の柱というのは、元々テスカガンドにひとつだけ発生していたものだ。しかし、それが今では全国各地にまで発生している。マックスには闇の柱がどうして広がったのかわかるか?」
メディウムに言われ、マックスは困った。ただでさえ情報が少ないのに、ディアナにいた頃には縁のなかった話だ。
そんなマックスの心情を理解したように、メディウムは優しい口調で続きを話し始めた。
「答えを期待しているわけではない。今現在、答えはないようなものだ。それが問題になっている。それが、どういう方法で広がったかはわからない。疫病のように広がったのか、オナモミ種のように旅人にくっついて広がったのか。誰かが広げて回っているのか……。だが、元がテスカガンドということは、紛れもなくペングイン大陸から広がったということになるからな。浮遊大陸にも広がらない保証というものはないんだ」
「それで、商人を名乗らせて規制してるのか?」
リットが口をはさむと、メディウムはマックスの目を見たままリットにこたえた。
「天望の木の下に広がる国との関係もある。公には動けん。それに、これは浮遊大陸だけの問題ではない」
「どう広がるかわかんねぇ以上、雲と一緒に動く浮遊大陸から広がったら大変だな」
「そういうことだ」
メディウムは立ち上がると、重い空気を払うように手を叩いた。
「ところで、マックスの顔はなぜ赤くなっていたんだ?」
「女の裸に怯えてるから」
「兄さん!」
マックスはリットに詰め寄った。
マックスの背中からは、悩ましげに唸るメディウムの声が聞こえる。
「それはいかん。容姿、肉体、心、そのどれもが愛に繋がっている。愛はいいぞ。生まれ、育ち、悩み、学び、消える。まるで人生そのものだ」
「それ、結婚は人生の墓場って言葉が消えてるぞ」
リットはメディウムの言葉を鼻で笑い飛ばした。
「無我夢中に愛せる女ができたら、そんなこと言えなくなるぞ。今と正反対の言葉を言っている可能性だってある」
「そりゃそうだ。無我夢中ってのは我を忘れるってことだからな。戯言くらい吐く」
「戯言でも、熱をもてば愛の言葉に違いない」
「熱がある時はな。冷めた時に後悔するから戯言だ」
「それは違いないことだろう?」
「ベッドの上での愛してるは愛の言葉で、ベッドの上での子供を作ろうは戯言だ。女の場合は反対になる」
そう言うとリットは、話は終わりとでも言いたげに、背中からベッドに沈み込んだ。
「まったく……いったいどういう男なんだ」
「お恥ずかしい……。僕は兄さんとは違い、男女平等の観点から独身の誓いを立てているので大丈夫です」
「男女は平等ではない。場面により、常にどちらかに優劣がつく。だからこそ、思いやる心も生まれるものだ。だが、焦る必要はない。ただ、意地になって過去の発言に縛られる必要もない。ということだけ覚えておいてくれ」
それからメディウムは、しばらくマックスと話すと部屋を出ていった。
翌日、朝食の席でリットは座ったまま、こくりこくり船を漕いでいた。
マックスが「兄さん」と声をかけるが、リットはピクリともしない。仕方なくマックスは、リットの太ももを掴んで揺らした。するとリットはテーブルの裏に膝をぶつけながら目を覚ました。
ノーラはテーブルの上で揺れる皿を押さえながら、「眠そうっスねェ。また、遅くまで飲みに行ってたんですか?」と聞いた。
「いや、気付いたらベッドの上で寝てた」
リットは大きくあくびをすると、目にたまった涙を乱暴に手で拭いた。
「いつもみたいに、部屋で寝てたほうがいいんじゃないっスかァ? 睡眠は大事ですよ。ついでに私のご飯も増えますし」
「そうしてぇけど、どっかのバカに起こされたんだ」
リットは再びあくびをすると、マックスを横目で見た。
「わざわざ起こしたんですから、そんな言い方はやめてください」
「そうだな。オレが間違ってた。ここにいるバカに起こされたんだ」
「すぐに起きなかったじゃないですか。昨日の夜と同じ格好で……」
マックスはリットの背中の汚れを払った。
「食事中に服を払うのはマナー違反だな」
「よくそんなことを言えますね……」
と呆れるマックスの向かいでは「よく何も言わないわね」と、ラージャがメディウムを睨んでいた。
「なにがだ」
「私があの格好で食事に来たら怒るでしょう」
「オマエは子供で、彼は大人だからな。それともラージャは、あの男のような大人になりたいのか?」
「ええ、なりたいわ。無責任で、無愛想で、無粋でも、自由だもの」
「自由のために、無礼で、無作法で、無神経になるのは、オマエには必要のないことだ」
言葉尻が熱くなるラージャとは違い、メディウムは淡々と食事を続ける。
「言われてますよ……兄さん」
マックスは二人の辛辣な言葉に肩身が狭い思いだった。
「そうだな。それにこのままじゃ、無一文にもなる」
「スリー・ピー・アロウで、人魚の卵を売ったお金はどうしたんですか」
「おい、マックス。金がなにかわかってるのか? 使うから金っていうんだ。使わなけりゃ溜まるだけ。埃と一緒だ」
ようやくリットが一口目を食べようと、フォークで鶏肉を刺した瞬間。管理塔から警鐘が鳴り響いた。
「どうやら今年は風が強いらしいな。もう二度目だ」
メディウムは念のため、皆に椅子に座ったままでいるように言った。
やがて、闇が這い寄る慣れない感覚が背中から這い上がってくる。この息苦しさは、子供の手に握られた虫のような気分だ。
だが、前回のように、闇という一色に呑み込まれ、上か下かもわからないような錯覚はない。
リットは自分の視線が下に向いているのがわかっていた。
そして、闇の中からリットに向かってメディウムの声が届いた。
「君のそれはなんだ?」




