第二十二話
メディウムの屋敷の近くに、大きな四つ葉の木が生えている。太い幹、大きく延ばした枝には、岩を輪切りにしたかのような大きくて肉厚な葉が一枚生えている。
枝は四本。ひとつの枝には葉が一枚で、四つ葉の木というわけだ。
その大きな葉陰の下に、ノーラとチルカとラージャの三人がいた。
一人ひとつの葉陰に身を潜めて涼んでいる。
「まぁだ怒ってるスかァ?」
ノーラは葉陰で強く羽を光らせるチルカを見ながら言った。
「なにをよ。私が最後に食べようと、楽しみにとっておいたデザートをノーラが食べたこと? それとも、最初に食べようと思っていたサラダをノーラが食べたこと?」
チルカの羽が少しだけさっきより強く光った。
「そんな私が不利になる話じゃなくて、旦那のことですよ」
リットの名前が出ると、火種が落ち、木を焼いたかのようにチルカの羽が強く光った。
「……べつに怒ってないわよ」
「またまたぁ、怒ると羽に出るんだから誤魔化せないですぜェ」
「誤魔化してないわよ。毛穴から酒の汗を流す男の味方に、なにを言っても無駄だから、なにも言わないだけよ」
「旦那の味方ってわけでもないんですけどねェ……。旦那がどっかに出掛けてから、もう十日以上過ぎてるんスよ。いないのにカリカリしてても疲れるだけっスよ」
ノーラはカッカの実の真っ赤な果汁が入ったコップから突き出ている枝を咥えた。
中身はほとんどなく、残りを空洞の枝で吸い上げると、ズズッと不快な音を鳴らした。
チルカは嫌悪感が混ざった苛立ちに眉をひそめた。その音に対してではなく、リットに丸葉の水に沈められたことを思い出したからだ。
「いないから、カリカリしてんのよ。いたらバラのトゲで耳に穴をあけて、その穴に毛虫のピアスをさせてるわ。なのにどこ行ったのよ」
「だから、旦那は逃げたんじゃないっスかねェ……。どこ行ったか知ってます?」
ノーラはおとなしく葉陰でくつろぐラージャに聞いた。
「マックスを連れて行ったくらいしか聞いていないわ。誰に聞いたわけでもないけど、こそこそと出掛けていったらしいわ。浮遊大陸に詳しくないのにフラフラと……。迷子になっても知らないから」
表情は変わらないが、ラージャの声は刺々しくなっていった。リットにではなく、マックスに対してだ。
それに気付いたノーラは「マックスは旦那のお気に入りですからねェ」と、フォローを入れる。
「私のほうが飛ぶのも、光の階段をかけるのも上手なのに」
「なに、純情筋肉と張り合ってるのよ。ラージャが争うようなレベルの男でもないでしょ。これしか能がないんだから」
チルカは枝のように細い腕に力こぶを作ってみせた。
「私も、少しくらいなら荷物持ちはできるわ」
ラージャがつまらなさそうに口を尖らせると、ノーラは驚いた顔で見つめた。
「おやおや、奇特な人っスねェ。旦那とお出かけしたいとは」
「リットとってわけじゃないわ。狭いカゴの中から、連れ出してくれるのが羨ましいだけよ」
「あんな奴に連れ出されたら、酒代稼ぎに利用されるだけよ。羽をむしられて、むしられた羽で布団を作られて、その布団は売られて酒代になるの。で、ラージャは丸裸になって帰される。それでもいいの?」
チルカは一気にまくし立てると、最後に地面に向かって唾を吐きかけた。
「そこまで酷いことをする人には見えないけど……」
「するわよ! 私がどんな目に合わされたか、もう忘れたの?」
チルカはラージャの目の前まで飛んで行くと、踵を返し、背中の羽を見せつけた。羽は思い出した怒りに反応して強く光っている。
「旦那の気持ちもわかりますけどね。私も料理のアクセントに、たまにチルカの鱗粉がほしくなりますよ。味が薄い時とか」
「……いいかげん鱗粉の味を忘れなさいよ。なにが悲しくて、体の一部をドワーフに舐めさせなければいけないのよ」
「でも、妖精の鱗粉は調味料にも使われているわよ。それも高級品」
ラージャは過去に妖精の鱗粉を使ったデザートを食べた経験を話した。
妖精の鱗粉は口当たりのよい甘さがあり、キラキラと光るので、味にも見た目のアクセントにも使われるらしい。
「ラージャだって嫌でしょ。いくら高級品でも、天使の羽を抜いて売るのは」
「そうねぇ……。天使の羽も羽箒に使われるけど、わざわざ抜いて売ろうとは思わないわ。使われるのは抜け羽で、その中でも質の良いものしか使われないし」
ハーピィの羽は空気を掻き出しやすく扇に使われるが、天使の羽は細かい羽毛が生えているので、埃や灰のような微塵な汚れでも筋を残さずきれいに掃き取り、古紙や古道具を痛めないことから、汚れを取るのに適している。
どちらも毛羽立った物を使っては効果が薄れてしまうため、ただ抜け羽を使えば良いと言うものではない。
妖精の鱗粉も、本来は妖精がいる森の花びらについた物を採取する。花蜜と合わさり、その地方独特の甘さとなるのだった。
そういった経路から、種族由来の物はけして安くはない。
「だから種族物って高いんスねェ」
身の物を使われないノーラは人ごとにつぶやいた。
「いいわよね。ノーラはこっち方面の悩みがないんだから」
チルカは自分の体を抱くように腕を組み、さも世界中から狙われているかのように身をくねらせる。
「ドワーフといえば、この腕二本でのし上がる種族ですからね。それはもう、私もこの腕でばったばったと――」
ノーラは座ったまま、力自慢をするかのようなポーズを取った。
「食べ物を抱えてるの以外に、その腕を使ってるのを見たことないわよ」
「もう二本あれば、もっといっぱい抱えられるんスけどねェ。腕がいっぱいある種族が羨ましいっス。マックスみたいに鍛えたくはないっスけどね。そういえば、ラージャはもう祝福を受けたんスか?」
「ええ、十六の時に受けに行くのが一般的よ。成人の儀みたいなものだから。一人で島を乗り継いで、加護の島まで行くの。着いたら、キュモロニンバスのお城までの坂道をずっと歩いて登っていくのよ」
「天使なのに飛ばないのね」
チルカは皮肉るように、ラージャの周りを飛んだ。
「歩くのに意味があるらしいから」
「でも、ずっとこのホワイトリングにいたわけじゃないんですね。良かったじゃないっスか。他の島も回れたんでしょう?」
ノーラの慰めの言葉を聞いて、ラージャは顔をしかめた。
「最初で最後の自由よ。後は顔も知らない人と結婚させられて、子供ができて、子供は育って自立。そしたら夫婦の会話もなくなって、老後は飼った鳥に言葉を覚えさせて暮らすの」
「根暗ねぇ……」とチルカは眉をひそめる。「こんな年中天気の場所で、どうやったらそんなに暗くなれるか不思議だわ」
「簡単よ。見えない足輪を付けられて、屋敷に括られればいいだけ」
ラージャは恨めしそうに屋敷を睨みつけた。
「卑屈っスねェ。悲観的で得するのは、大人の女性を口説く時だけって知らないんスかァ?」
ノーラはローレンがこぼしていた言葉を、さも自分の言葉のように発言する。
「知ってたら男に生まれて、さっさとこんな家出て行ってるわ」
「男も女も関係ないっスよ。一度きりの人生、家に閉じこもってちゃもったいないですぜェ。どこかで野垂れ死んで、獣の餌になるのも悪くないってなもんです」
「……ありがとう。二度目の人生があったらそうするわ」
ラージャは暗い顔を浮かべたが、すぐに表情を変えた。
「そういえば、あなた達の種族には、成人の儀みたいのってないの?」
「フェアリーはないわね。強いて言うなら……役割がはっきりした時かしらね。枯れ過ぎたり増え過ぎたりしないように草花の世話をしたり、迷い込んだ動物を追い返したり、縄張り争いを仲裁したりの動物の世話とか、大雨後の川の小枝を取って流れを正常に戻したり、あと――そんなものね。他にはないわ」
チルカは言葉を濁すと、強引に話を終わらせようとしたが、かえってそのせいでラージャの興味を引いてしまった。
「あと?」
「聞こえなかったの? あとはないの、終わり。他にはなにもしない。寝て起きて食べて、また寝るだけよ」
「そんなに虫の世話をすることを口に出したくないんスか?」
「……そうよ。私の口から出したくないからって、代わりにノーラの口から出すこともないの。いい? この話は終わり。で、ノーラはどうなのよ」
チルカはノーラの頭に腰を下ろすと、次の話題に移らせようと、軽く頭を叩いて急かせた。
「成人という概念はわかりませんけど、自分で注文を取って、コテステカンと鍛冶でもできれば一人前っスかね」
「ずいぶん簡単に一人前になるのね」
「そうでもないっスよ。火の番から始まり、仕上げができるまで。長い長い半人前の期間がありますからね。一生を火の番だけで過ごすドワーフもいますし」
「ノーラが火の番なんかしたら大変ね。棲家の岩窟が一瞬で、火山になるじゃない」
ノーラが火をつけると、一本のマッチでも箱ごと火をつけたように燃え上がる。
チルカの頭の中には、岩穴の中を蛇のように駆け巡る炎が浮かんでいた。
「大丈夫っスよ。岩窟と違って、家だとまだ逃げ場はありますから」
「せめて私が出ていってから火遊びしなさいよ。人家で丸焦げの妖精なんて、笑い話にもならないわよ。だから、絶対に火を使わないこと。いいわね」
ノーラの鼻に指を当てて念入りに注意をするチルカに、ラージャの羨望のまなざしが注がれる。
「いいわね。二人共自由で」
「家主が一番自由っスからね」
「あれは自由じゃなくて、自分勝手って言うのよ」
「チルカの旦那の評価は、いつまで経っても上がらないっスねェ」
「妖精の白ユリのオイルを作った時に少し上がっただけで、後はずっと地面の下を進んでるわよ。ミミズみたいなもんね」
そう言って空中で笑い転げるチルカの頭上に、リットの手が振り下ろされた。
叩き落されたハエのように、チルカは地面へと落ちていった。
「おや、思ったよりお早いお帰りですね」
ノーラは立ち上がると、リットの背負っている鞄を受け取った。荷物持ちのためではなく、鞄の中に入っている食べ物を探すためだ。
「帰りは光の階段と、ハーピィを乗り継いできたからな」
「危ないわよ。ハーピィに気に入られると、棲家に連れて行かれちゃうから」
ラージャが心配そうに言う。
「代わりにマックスを置いてきたから大丈夫だ。今頃一緒に飯でも食ってる。その後食われるかも知れねぇけど。まぁ、女に食われるなら武勇伝になるだろ」
チルカは一気にリットの眼前まで飛び上がり、「なにのんきに雑談してんのよ」とまくし立てた。
「ただいまの挨拶だろ。それに笑い転げてたからな。オレの悪口以外でオマエがあんなに楽しそうに笑うわけねぇだろ」
「それじゃあ、お帰り!」
チルカはリットの頬に蹴りを入れると、反撃から逃げるために距離を取ったが、またすぐに近付いてきた。
リットの履き古して薄くなったズボンの生地から光るものを見つけると、チルカはポケットの中に頭を突っ込んで探し始める。
そうして取り出したのは、キュモロニンバスの天空城で拾った輝く壁の石だった。
「なによ。いいもん持ってんじゃない。アンタもやっと、どうやって謝罪するかを学習したのね」
チルカは両手で石を持ち上げると、葉陰の下でキラキラ輝くのを楽しそうに眺め始めた。
「光るのは羽がありゃ充分だろ。返せ」
リットが手を伸ばすと、チルカは拍子抜けするほど簡単に石を手放した。
「なんか企んでるのか?」
「太陽の輝きかと思ったら違うじゃない。そんなのいらないわよ。ただ光る石なら、宝石のほうが見て良し売って良しよ。パチもん掴まされたんじゃないの?」
「そういう目的のもんじゃねぇよ。まぁ、でも……そっちの効果はねぇのか」
光ると言っても、妖精の白ユリのように太陽の光を発しているわけではないらしい。チルカの体質を考えると、少しでも太陽の光を発していれば手放すはずがなかった。
リットは返された石を再びポケットの中にしまったが、今度はラージャがポケットに向けて疑わしい視線を向けていた。
「いくら見てもやらねぇぞ」
「いらないわ。でも……どこかで見たことがあるような気がして……」
「そうか、でも気のせいだ」
「そうかしら」
「そうだ」
「でも――」と続けようとするラージャに、リットは手を振って言葉をさえぎえった。
「でもも、だけどもなしだ。返事は「はい」か、「疲れてるなら、お酒の一杯でも飲んで元気を出してきたら?」のどっちかだ」
「最後のは返事じゃないじゃない……」
「だから、返事は「はい」で済ませろってことだ。わかったな」
「はい……」
腑に落ちない表情で頷くラージャに、リットは満足そうに頷き返してから、一休みするために屋敷へと戻っていった。
「カゴから出られないのは、言いくるめられるラージャ自身に問題があると思うわ」
チルカはラージャに対して呆れた視線を送る。
「だって、意味がわからないんだもの……」
ラージャが困った顔をノーラに向けると、ノーラは得意気に指を振った。
「言い合って喧嘩するか、諦めて流す。丸め込められたら、立場逆転は難しいですよ。結果あぁなりますから」
ノーラが指を差した方向では、ハーピィに抱きつかれたマックスが。精神的疲労に顔を歪めながら屋敷に帰ってくるところだった。




