第二十二話
同じ森の同じ場所。
今回は最初からチルカの道案内付きなので、迷うことなく辿りつくことが出来そうだ。
泥沼のようだった足場は、風の強さのせいか乾いており、歩く度に干ばつのようなひび割れた足跡を残していく。
明るい森から迷いの森へと迷い込んだヤナギの綿毛が、強風に吹かれ舞い上がり、クルクル回りながら遠くまで飛んでいった。
チルカはその風に流されないように、リットの腰辺りでふわふわ飛んでいる。
リットは包帯が巻かれた頭を時折擦りながら、ランプの調節ネジを回し芯を少し上げて火を強めた。赤みがかった橙色の光りがチルカの背中を照らす。
チルカは一度リットを見たが、すぐにまた前を向いた。
「……謝らないわよ」
リットの朝目覚めは衝撃とともにやってきた。痛みとともに目を開ければ、割れた鉢が枕元に散らばっているのが見えた。
次に聞こえてきたのは、ぜぇぜぇという荒い呼吸音。
しかし、リットはすぐにそれに目を向けることなく、しばらくは頭を押さえてベッドの上でのたうち回っていた。リットが動く度に、髪にこびり付いていた土がパラパラと音を立てて落ちていく。
鉢を落とした張本人はさぞ楽しそうにしているのだろうと思っていたが、痛みが和らぎ顔を上げて確かめてみると、チルカは青白い顔の疲労困憊の様子でリットの顔を覗きこんでいた。
窓際からベッドまで鉢を運ぶには相当大変だったらしく、肩で息をしている。
再びズキッとした痛みが走りリットが頭を押さえると、チルカが苦しそうな咳が混ざった笑い声をあげるのが聞こえた。
「打ちどころが悪かったら、本当に死んでたぞ」
「三日前のことなんか忘れなさいって。というより、元々はアンタが悪いのよ」
リットの目の前まで急上昇したチルカは、しっかりと視線を合わせて眉をひそめた。
「妖精なんて、裸でうろついてるだろう」
「妖精がみんな裸でいるなんて思わないでよ。現に私は服を着てるじゃない。妖精だって色々いるのよ。人間だってそうでしょう」
「人間が裸でうろついてたら、街中の精神科医のいい研究対象になるな」
「良かったじゃない。医者を探す手間が省けて。早く診てもらいなさい」
チルカは鼻で笑うと、リットから視線を逸らした。
リットにとってチルカの裸は人形を見るのと同じようなことだったので、ムラムラと欲情をかきたてるものではなかったのだが、流石に悪いことをしたと思い、それ以上なにも言わなかった。
一旦足を止めて振り返ると、ノーラがリュックを大きく揺らしているのが見えた。短い足を忙しそうに動かして懸命に歩いている。
「旦那ァ、歩くの早いっスよォ」
「オマエに合わせてたら日が暮れるだろ」
「昼か夜かもわからない迷いの森でなに言ってるんスかァ。それと、旦那が一歩歩くのに、私は二歩必要なのをお忘れなく」
ノーラは額の汗を手で拭うと、少し口を尖らせるようにして言った。
「喋るよりも、その短い足を動かせって」
「短い足でも良いことはあるんスよ」
「そりゃ、知らなかったな」
「ショートブーツでも、ロングブーツになるとか。あっ、でも、ショートブーツを履きたい時はどうしやしょうか」
立ち止まったノーラは、腕を組み考える仕草をする。「むぅ」と声を出しそれらしく見せるが、ただ休む為の時間を稼いでいることにリットは気付いていた。
「サンダルでも履いとけ」
「いけずっスねェ……。私もコンプリートの靴とか買おうとか考えてるんっスよ」
「おう、買え買え。ついでに土地と城も買え」
「……旦那。私が買えないと思ってますね」
「つーか、金のないオマエに買うのはオレじゃねぇかよ」
「ドワーフに贅沢をさせると、百倍になって返ってくるのを知らないんスか?」
「知らねぇな。そして、この話を覚えておくつもりもない」
喋りながら歩くことで疲れを忘れたのか、いつの間にか歩く速度を上げていた。
汗を掻くほど歩いたところで、ようやく森の鬱蒼とした閉鎖感から開放感に包まれた。
敷き詰められた白ユリの隙間にある土の上に荷物を下ろすと、リットは枯れ枝を集めて火をおこした。枯枝をくべると焚火が燃え上がり、火花を散らしながら周囲を明るく照らす。
ノーラは三つ編みにしたおさげを一本ずつつまみあげると、地面に影が映るように踊らせた。
「ふっふっふ……。この地は闇の魔王ノーラが支配したっス。命が惜しくば、私に靴を献上せい」
ノーラは、リットの顔におさげの影を伸ばした。
「おい、闇の魔王様。ついでに花畑を荒れ地にしてくれよ」
リットは気にせずに妖精の白ユリを指した。
「いかほどで?」と聞いてくるノーラに「そうだなオマエの手に持てるだけは持ってこい。別に秘宝ってわけでもねぇんだろ」と、リットはチルカに確認を取る。
「そうね。ほっとけば勝手に生えてくるから、雑草と変わりないわよ。――って、本当に荒れ地にするわけじゃないでしょうね」
流石に根絶やしにされるのは困るのか、チルカは慌ててリットの顔を見た。
「そこまではしねぇよ。ただ、量は必要になるからな」
「それならいいわ。でも、花を摘んだらいつまでもその場にいないで、ここに戻ってきなさいよ」
チルカは、今リットが立っている土の辺りの面積を測るように飛び回りながら言った。
「そういえば、前に土がどうとか言ってたな」
「ここ。前にアンタ達が居座ってた場所よ」
妖精の白ユリの絨毯が敷き詰められている中に、ポッカリと穴が開いたように土が露出している。
少し遠くを見ると、前にノーラが倒れていた時の形で土が出ていた。
「少しくらいなら問題はないんだけどね。踏みならしたり掘り返されたりされると、また何年かはその土からは生えなくなるのよ」
「朝にしか光らなかったりと、面倒くさい花だな」
リットは鍋に三分の一ほど水を張ると、その上にすのこを乗せる。中央に回収用の容器を起き、ノーラが摘み取ってきた妖精の白ユリを周りに引き詰め、湾曲の鍋の蓋を逆さにしてハメた。
後は蓋にも水を入れ、そこに冷気の魔宝石を置いて、焚き火に鍋をかければ、鍋の蓋の傾斜を利用して中央の容器に蒸気が集まる。
リットは鍋を火にかけると、リュックから宝石箱を取り出す。すると、空中を散歩していたチルカがリットの元まで飛んできた。しばらく宝石箱の周りを興味深しげに飛んでいたが、リットの手のひらに下りてくると、宝石箱を叩いたり指でつついたりし始めた。
「オマエが開けてみるか?」
「え? いいの?」
思いもよらない提案に、多分なにかあるとチルカはわかっていたが、好奇心旺盛な妖精気質のせいか、その誘惑には抗えなかった。
チルカはリットの手のひらを両足で強く踏み込み、両手を使って蓋を持ち上げる。なかなか蓋は開かなかったが、少し隙間が見えるとそこからはすぐに蓋が持ち上がった。
耳鳴りがしたかと思うと、突如凍るような冷たさが手のひらに襲ってきた。
魔宝石の冷気により羽が凍ったチルカは、リットの膝の上へと落ちてきた。
「こりゃいい。蚊落としにもなるとはな」
リットは落ちてきたチルカをそのままにして、青い宝石を鍋の蓋に落とす。少し待つと、表面に氷が張り始めた。
偽物をつかまされていないことへの安堵感と、やることはやったという満足感からか、リットは何度も頷きを繰り返している。顎を上げたところに、打ちぬくというよりも、押し上げるようなチルカの拳が飛んできた。渾身の力を込めるようにチルカ自体も飛んでいる。
「なっ――にすんのよ!」
「それはこっちのセリフだ! 顎が外れるかと思ったじゃねぇか!」
「私のセリフで合ってるわよ! 妖精が落下するなんて笑い話にもならないじゃない! うぅ……。まだ羽がおかしな感じがするわ」
一度殴ったことにより少しは気が晴れたのか、チルカはそれ以上リットに攻撃をすることはなかった。かわりに何度も羽を動かして違和感を解消しようとしている。
「チルカの羽って頑丈っスよね。妖精の鱗粉とかって出回ってやすけど、取れても大丈夫なんスか?」
「太陽神の加護のおかげで、日光をじっくり浴びれば、また鱗粉が生えてくるわよ」
「フケみたいなもんか?」
「太陽神の加護だって言ってるでしょ! まぁ、そこが“蝶”なんかとは違って、妖精が高等な種族ってわけね。”蝶”なんかと見間違える奴の気がしれないわ」
初めて会った時にリットに言われた言葉を気にしていたのか、チルカは蝶という単語をやたらと強調する。
「オレは蝶じゃなくて蛾って言ったんだけどな」
「せっかく私がアンタの無礼を忘れてあげてたんだから、蒸し返すんじゃないわよ」
「忘れたんじゃなくて、都合の良いように記憶を改ざんしたんだろう。それにしても、乾かせば鱗粉が出るんだから、汗かいて塩ふいたシャツみたいだな」
「……アンタねぇ。太陽神をバカにしすぎよ」
チルカはリットをじとっとした目で睨みつけていたが、諦めたように盛大にため息を漏らしていた。
「人間には関係ない神様だしな。それに困ったときに助けてくる神様以外には用はねぇよ」
「私も困った時に助けてくれる神様のほうがいいっスねェ。例えば、お手伝いをしてお腹が空いてる私に、なにか食べ物をすっと渡してくれるような神様とか」
「オマエは闇の魔王なんだろ? 神頼みなんてする立場じゃないだろ」
「いやだなー旦那ァ。あんなのお遊びじゃないっスか。私は旦那の助けがないと生きていけない、健気でか弱い子猫ですぜェ」
「トイレの場所を覚えてるだけ猫よりマシかもな。餌をねだることには変わりねぇけど」
リットがリュックから干し肉を取り出して、ノーラの目の前でチラつかせると、ノーラは手を使うことなくかぶりつく。「ニャンともはや、お厳しいお言葉を」というと、本物の猫のように、口に咥えたまま干し肉を奪い取った。
「アンタ、ノーラに変な調教してるんじゃないでしょうね」
「調教できれば、今頃料理上手、掃除上手に育ってるっつーの」
リットはチルカの疑惑の視線を受けながら、鍋の中の受け皿を取り替えた。
空焚きにならないように鍋に水を足すと、再び蓋を閉める。
取り出した小皿に溜まった水の上に、透明な油が浮いているのが見えた。精油を小瓶に移し替えると、リットは顔をしかめた。ユリの花の匂いを凝縮したようなニオイが鼻を通り抜けていったからだ。
たまらずに精油を取り終えた芳香成分が残った蒸留水を捨てようとしたが、その手をチルカが慌てて止めた。
「もったいないじゃない!」
「止めるなよ。悪臭っつーのはな、立派な兵器なんだぞ」
リットは自分の鼻をつまんで、芳香蒸留水の入った受け皿を持った手を、なるべく体から離すように伸ばしている。
「良い香りじゃない!」
「ここまでニオイがキツイと悪臭だろう。それに、ムズムズとくしゃみが出そうなニオイだしよ。なぁ、ノーラ」
リットが同意を求めると、ノーラは鼻をヒクつかせた。
「んんー、私は好きっスよ。この匂い」
「ほら、見なさい。二対一で私の勝ち! この水は賞品として貰って行くわ」
チルカはリットの鞄から勝手に小瓶を取り出すと、芳香蒸留水を流し入れ、大事そうに抱きしめた。
「捨てるもんをどうしようと構わないけど。それより、この森の妖精ってのは不用心なのか?」
最初チルカは、なにを言っているのかわからないといった顔をしていたが、リットの視線の先に光の玉が浮いているのを見ると、慌てた様子で飛んでいった。
「アンタなんでこんなところにいるの!」
「あ~、チルカちゃんだ~」
「「チルカちゃんだ~」じゃないわよ! アンタみたいなのんびり屋が人間の前に姿を現したら、すぐに捕まっちゃうじゃない」
「でも~、良い匂いがするよ~」
「わかった。わかったわよ」
チルカはリットがいる場所まで戻って小瓶を拾い上げると、再びもう一人の妖精のもとまで飛んでいった。
「これあげるから――を持ってきなさいよ」
「え~でも~――いいの?」
「別に――で――ってわけじゃないからいいの」
「わかった~」
しばらく密談を交わした後、二人で森の奥へと消えていった。三十分ほど過ぎると、チルカ一人が戻ってきた。
「なんだ、話は終わったのか」
「まぁね」
チルカは小瓶の代わりに麻袋を持っていた。
「勝手にしてていいけどよ。邪魔はするなよ」
「勝手にするわ。残りの水も貰って行くわよ」
そう言ってチルカは、空の小瓶を次々とリットの足元に転がした。
「邪魔はするなって言ったんだぞ」
「疲れることはしたくないの。それにアンタ。これ欲しいんじゃない?」
チルカは麻袋から種を取り出してリットに見せ付ける。
「妖精の白ユリの種か?」
「そうよ。どうせそのうち聞かれると思ったから、今回は先回りしたの」
「妖精らしく嫌味な取り引きを持ちかけやがって」
踊り娘から子供の話を聞いた時から、種のことも考えていたリットは、この森にいる間にチルカに聞くつもりでいた。その考えをチルカに見透かされていたリットは苛立たしく舌打ちをする。
それを聞いたチルカは、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
リットはそれから丸一日掛けて、妖精の白ユリの花びらの精油と、妖精の白ユリの葉の精油をそれぞれ抽出した。
黄色のオイルは葉の精油。透明のオイルは花の精油。それぞれ精油の色は、火を付けた時に燃えた色と同じ色をしていた。
「終わったんなら帰るわよ。早くベッドに横になって寝たいわ」
チルカは、グッと腕を真上に伸ばして大きなあくびをしている。
「すっかり都会派の妖精になりやがって……。まだやることがあるんだ」
「なによ。また、妖精の白ユリが光るところでも見て帰るの?」
「そうだ」
「まだ、朝焼けの時間には数時間あるわよ」
「なに、あと数分後には光りだす」
リットは黄色いオイルと透明のオイルを混ぜ合わせ、朝焼けの太陽に近い色を作る。そのオイルを油壷に移し替え、ランプに火をつけると、オイルと同じ色で炎が燃え始めた。
朝焼け色の光を妖精の白ユリに近づけると、いつか見た光景のように、一つの妖精の白ユリが光りを放ち、それに触発され次々と妖精の白ユリが光り輝きだした。
妖精の白ユリは、リットがランプの火を消すまで光り続けた。
呆然と口を開け、妖精の白ユリが光るのを眺めていたチルカは、光が消えるのと同時に口を動かし始める。
「……アンタって凄い奴なのね」
「そうだろ。ほれ、太陽を作った太陽神様に挨拶はどうした?」
「……前言撤回。やっぱりアンタってひどい奴ね」




