第十三話
「キミは学習するということをしないのかい?」
根を張るように手足を伸ばしてベッドでうつ伏せに寝るリットに向かって、リンスプーは十四日目の朝日を背中に浴びながら言った。
「オレは学習するより、させる派なんだよ。いいか、酒場の前に昼間から居座り続けると、学習した店主は昼間から店の中に入れてくれるようになる」
「だが、この宿を何日も使っていいとは言われてないはずだが」
「何日も使うなとも言われてねぇよ。つーかよ、喋らせるな。言葉以外のものも口から出てくるぞ」
リットは上質なシーツに頬をなすりつけるようにして、ベッドに深く沈んだ。
そのままリットは寝たが、寝たといっても影の位置が僅かに動いたくらいの時間だ。
起きると、部屋は風だけが呼吸をしているように静かだった。
艶のあるテーブルにかけられた布が踊るようにひらひら揺れているだけで、他に影を動かすものはない。
リンスプーはどこかに出かけたようだ。
リットはベッドから驚くほどスムーズに起き上がると、頭痛もだるさも消えていることに気付いた。
予想していた二日酔いはなく、リットは顔も洗わないまま宿を出た。
浮遊大陸の天気はいつも同じだ。雲ひとつなく、押しつぶすような濃い青空が広がっている。
柔らかく重い多肉質の葉を踏みながら、リットは空いた腹を満たそうと街をブラブラ歩いていた。
エージリシテンと同じく高床の家が立ち並ぶが、バストナ・イスは染料を作っている街ということもあり、柱やドア枠がカラフルに塗られている。
いつのまにか天望の木を登ってきた冒険者や商人も少なからず増えており、多肉質の草を踏んで少し低くなった緑の道がうっすらとできていた。
リットがその道を歩こうと足を伸ばした時、「今朝もぎたてで新鮮だよ。カッカの実とサァの実だ。買っていってくれ」と景気の良い声を掛けられた。
家に限らず店も高床式なので、リットは階段や梯子を上った先にあるはずだと思い見上げたが、声は床下から聞こえていた。
「どっち見てんだ、兄ちゃん。店はここだよ」
店主の男が、天井の高い床下から手招きをしてリットを呼んだ。
「用はねぇよ」
「そう言わず、ちょっと来てみろって。太陽にさらされてばかりいたら、倒れちまうぞ」
店主の言うとおり、季節は夏に片足を入れている。肌の上に薄い熱を纏うようになってきていた。
腑に落ちないものの、リットは店主に呼ばれるがまま床下へと向かった。
床下の日陰に入るだけで、空気は心地よくひんやりしている。
「天望の木を登ってきたんだろう? 足がだるいならカッカの実。めまいがするならサァの実が効くよ。どっちにする?」
床下の高い天井から地面すれすれまで、枝がついたままの二種類の果実が、枝に紐を結ばれて吊るされていた。
こぶし大の丸いガラスに、色のついた水を入れたような果実だ。カッカの実は茜空の一番赤いところを抜き出したような色をしており、サァの実は夕暮れが消えた瞬間の夜空のような濃い青色をしている。
見慣れない果実に、リットが思わず手を伸ばすと、「おっと、そこを持っちゃダメだよ。皮が破れちまう。底に手を当てるようにして持つんだ」と店主に注意された。
「なら、おさわり厳禁とでも書いとけよ」
そう言って手を引っ込めようとしたリットの手のひらに、店主は枝をつまんで赤いカッカの実を置いた。
「いいか? こうやって皮が硬い下の部分を持つんだ。で、あとはこうだ」
店主はつまんでいた枝をポキっと折ると、カッカの実のヘタの部分に突き刺した。
ハズレ島で出されたものと同じく、枝は中心が空洞になっており、これで中身を吸い上げるらしい。
問題は薄い皮に透けて見る果実の中に、小さな黒い塊が浮いてることだ。
「おい、虫が入ってるぞ」
「種だよ。いいから飲んでみろって」
店主に急かされ、リットは果汁を吸い上げた。
甘酸っぱいというよりも、酸っぱ甘い味が口の中に広がる。一つの果実の中に、二、三種類の果実が入っているかのようだ。
サラサラとした果汁ではなく、少し舌にまとわりつくようにとろっとしている。
枝から口を離すと、空気の味がわかるほどに果汁は濃厚だった。
「よくわかんねぇ味だな」
「つまんない感想だ……。まぁいい――まいど」
店主が代金を要求してきたので、リットは差し出された手のひらをまじまじと眺めた。
「金運線が切れてるな。これじゃあ、商売しても儲けがでねぇ」
「金をもらったら、それを手のひらに押し付けて、跡を付けて伸ばすよ。ほら、早く」
普段なら払いたくないところだが、スリー・ピー・アロウで人魚の卵を売って稼いだ分と、カッカの実の値段自体が安かったので、リットは小銭を落としたものだと諦めて代金を払った。
しかし、バストナ・イスに持ってきたお金はこれで最後だった。
「見た目通り、中身も日陰の商売だな」
「しょうがないんだ。上だと日差しや温度で皮が破れるんだ。涼しく暗い床下が安心安全ってわけよ」
「こんなの、生活できるほど売れんのか?」
「そりゃもう、若い人には大人気だ。ここで飲み物を買い、六軒先のパン屋で薪パンを買う」
「植物豊かな国だけどよ。木まで食うのか」
「薄く焼いたパンを巻いたもんだよ。積まれてると薪に見えるから、そう呼ばれてんだ」
「風の噂のパンか」
リンスプーが渡りハーピィから聞いたという流行りのパンの噂だ。
「なんだ、風の噂を知ってるのか。浮遊大陸は初めてじゃないな。でも、そのわりには、カッカの実もサァの実も知らなさそうだったな」
「初めてだよ。この街に来てから十日くらい経ってるけどな。浮遊大陸に着いたのは一ヶ月くらい前だ」
「そりゃ、またずいぶん早く来たんだな。地上から来る人は、普通は今頃着くくらいだ。だからてっきり来たばかりだと。どうだ? せっかくだし、もう一個いるか?」
店主は先ほどとは違う、青いサァの実を取ってリットに向けた。もう片方の手は、代金を要求するように手のひらが上に向けられている。
「いらねぇよ。ここの食い物を食いすぎると、腹を下すって言われたからな」
「知らない土地のご飯は危ないわよって、ママに言われたのか?」
店主はからかいの笑みを浮かべた。
「いーや、パパにだ。だいたい、ここに来てから吐いてばかりだ。オレには浮遊大陸の食いもんは合わねぇのかもしれねぇな」
「酒ばかり飲んでるからだろう。酒臭い息がプンプン臭ってくるぜ。二日酔いならニコの実だ」
店主は奥の方から、またガラスに入ったような薄皮に包まれた黄色い果実を持ってきた。
「それが、寝たらスッキリだ」
「酒場で飲まされたんじゃないのか。ニコの実は翌日にも効くからな」
「覚えてねぇよ。最後の記憶はどっかの天使が酔ってストリップしてるとこだ」
「そりゃ、目の保養になっただろう。地上から来るやつは天使族の男女の区別が付かない人が多いからな」
「顔は女みてぇだったけどな。脱ぐ時に服が股間に引っかかってだいなしだ」
すっかり日陰から出たくなくなったリットが、客が来ず暇をしている店主としばらく話していると、突然店主がリットを押しのけた。
客が来たからだ。
客は天使族の女性で、女性になる一歩手前と言った若さだ。手入れされた長い髪を耳元からかきあげ、不機嫌に顔をしかめていた。
「いらっしゃい。ラージャちゃんか。いつ――おっと……そうだった。何にする?」
「パープルウォーター。サァ多め、クラウドは……シープつけて、あとマウンテンね」
注文すると、顎を台に置いて膝をついて項垂れ、深い溜め息をついた。
「どっかで、見たような光景だな。流行ってんのか?」
リットは羽先を青く染めたラージャと呼ばれた天使に話しかけた。
「パープルウォーターが? それとも、青く染めた羽先が?」
「仏頂面で飲み物を頼んだ後に、顎を突き刺すのがだ」
リットが言うとラージャは台に肘をついて立ち上がった。
「……ごめんなさいね。これでいい?」
ラージャはキツイ口調で言うと、リットに背中を向けて飲み物が出来上がるの待とうとした。
「いいや、もう一つ謝ってもらいてぇな」
「なに?」
「呪いの言葉かけただろ。パッパラパーのバカ多め、暮らしは辛いが、買うってねってやつだ」
「……あなた、どういう耳してるの? パープルウォータは、カッカの実とサァの実を混ぜたもの。クラウドはトワイホワイトという植物から取れる綿みたいな甘い繊維よ。それを羊雲のように乗せて、大きいカップでくださいって言ったの」
口調こそキツイままだったが、ラージャはわかりやすくリットに教えた。
「余計わかんねぇ……。名前を知ってる仲なら、いつものでいいだろ」
リットが言うと、店主はあちゃーといった表情浮かべた。
「なに、いつものって。気が変わることもあるでしょう。それとも、一生同じものを頼まなくちゃダメなの? 今度はなに? 服は代々受け継がれた格式高い服しかだめ? 家を継ぐ男を探せ? 羽先は染めるな、家風が汚れる? 私は決めつけられることが、だーいきっらいなの!」
ラージャは勢い良く言い切ると、急に我に返ったようで「ごめんなさい」とリットに頭を下げた。
冷えた空気に混じって、花の匂いのする髪が風に吹かれる花弁のように揺れた。
「ごめんなさいの一言に対して、前置きが長過ぎるだろ」
「本当にごめんなさい。最近イライラしてばっかりで……。せっかく地上から来たのに、嫌な思いをさせたわね。お詫びにそこのパン屋でご馳走するわ。今、浮遊大陸で流行ってるのよ」
ラージャは店主から夜明け前の空のような紫色をした果汁が入った大きなコップを受け取ると、リットの手を取って日向へと引っ張っていった。
「嫌な思いの詫びは、嫌な思いをさせることなのか?」
ずっと涼しい床下にいたせいで、リットの体は熱に敏感になっていた。少し歩いただけで、額から汗が吹き出ている。
「大丈夫。サクサクして美味しいのよ」
ラージャは大きなコップには慣れていないようで、中身をこぼさないようにフラフラしながらリットの頭より少し高いところを飛んでいる。
ラージャの青い羽先が、時折リットの耳をくすぐった。
「それで頭を叩きゃ、憂さ晴らしはできそうか?」
「薪なんて言われてるけど。パンよ」
「だから、パンって叩きゃいいんだろ」
「……もしかして怒ってる?」
ラージャの影は黄色い花が咲く上で止まり、翼だけが飲み込むように影を動いていた。
「なにをだ? 鬱憤をぶつけられたことにか? 暑い日向に連れ出したことか? それとも、小娘のわがままに付き合わされてることか?」
「十八よ。小娘呼ばわりされるほど、子供じゃないわ」
「そう反論するとこがまだ小娘だ。世のおばさま連中に言ってみろ。泣いてありがたがられる」
リットはラージャがムッとする表情を期待していたのだが、ラージャは寂しさと羨ましさが混じった笑顔を浮かべていた。
「いいわね。地上の人は自由で。特に浮遊大陸に来る人は、本当に自由。せめて、同じ翼を持つなら天使じゃなくて、ハーピィに生まれたかったわ。上にも下にも自由に行き来できるんだもの」
「男女の仲と一緒だな。上でも下でもいける。で、時々横も楽しむ」
ラージャは顔を赤くすると、それがバレないようにリットの少し前を飛び始めた。
またしてもリットの予想とは違う反応だった。
周りでは、羽先をピンクや赤や黄色に染めた若い天使が騒ぎながら通過している。それは軽いシモネタだったり、色恋の話だったり様々だが、人目を気にするようなことはしていない。
同じように青く染まったラージャの羽先だが、リットには場違いのように見えた。
しばらく無言で歩き、パン屋を見付けると、ラージャは取り繕ったような声で沈黙を破った。
「さっきの場所で飲み物を買って、ここでパンを買ってお昼を食べるのが最近の流行りよ。他にも同じようなパンを出すところはあるけど、ここが一番美味しいらしいわ」
「らしい……ね。流行ってるわりには人がいねぇな」
客はリット達の他に二、三人いるくらいだ。それもパンを受け取ると、すぐにいなくなってしまった。
「まだお昼前だから。あと、並ぶのは疲れちゃうし……」
「流行りもんが好きなのにか? まぁ、オレも蟻の行列に並んで餌にありつく趣味はねぇ」
リットはラージャを追い越して階段を上ったが、店に着くと飛んで登ったラージャに追い抜かれていた。
「薪パン二つください」
ラージャが注文をすると、パンを焼いている女性が振り返った。
「あら」と言うと、顔しかめながらラージャの青く染まった羽先を見て、「おじい様に怒られちゃうよ」と心配の声を掛けた。
「大丈夫よ、おばさま」
「胸元は……よし、しまってるね。若い子の服の着方は自由だと思うけど、ラージャちゃんには似合わないからね」
パン屋は自分にも言い聞かせるように頷きながら言った。
「パン屋なのに、おせっかいも焼くんだな。売れるか?」
リットは売り物台に肘をつくと、商品を見た。
薄く焼いて巻かれたパンは焦げ目がついており、それが積まれている光景は確かに薪のように見えた。
パン屋はリットを見ると目を丸くして驚いた。
「あの小さかったラージャちゃんが彼氏を連れて来るだなんて。……でも、考え直したほうがいいよ。こういう男はろくなもんじゃない」
「まぁ、否定はできねぇな。住んでる町のパン屋にも、手を焼くって言われてるよ。あっちのパン屋も、パンだけじゃなく世話も焼いてくる。なぁ、質問なんだけどよ。パン屋ってのはなんでも焼くのか?」
「焼いても食えない男以外はね。何が目的でラージャちゃんに近付いたかは知らないけど、覚悟しとくんだよ。こわーいおじいちゃんがついてるからね。手を出すなんて考えないほうがいいよ」
「知ってる。エロス家の意地張りじいさんだろ。で、こっちも意地張り小娘。ついでに、ひねくれと反抗と当て付けがトッピングされてる。どっかの誰かが頼んだ飲み物と一緒で、色々トッピングされてるな」
リットは棒状になったパンを手に取ると、それでラージャの頭を小突いた。
予期せぬ出来事に、ラージャは翼を驚きに広げたまま固まった。
代わりに、パン屋が売り物台を飛び越えてきた。
「ちょっと、何をしてるんだい!」
「考えた結果、健全に手を出したんだ。思いの外スッキリした」
「なんなんだいアンタは……メディウムじい様の知り合いかい?」
「できれば、それ以上の関係になりたくねぇと思ってるよ」
リットはそう言い残して、薪パンを持ったまま階段を下りていった。
リットが宿に戻るとリンスプーが昼食をとっているところだった。
「一度宿に帰った時にキミがいなかったから、外で済ませると思ってキミの分は買ってこなかったよ」
「帰りにパンを買ったからいらねぇよ」
「そうかい。顔色がよさそうだね。最後に見た時は今にも死にそうだったけど」
「なんとかの実を飲んだおかげだそうだ」
リットは薪パンをちぎると半分だけ手に持って、残りはリンスプーが食事中のテーブルに投げるように置いた。
「ニコの実だね。確かに、飲んで一眠りすれば二日酔いに効くけど、どんどん効果は薄れていくよ。あんまり頼りにするものじゃないよ」
「好きで飲んだわけじゃねぇよ。親より長く付き合ってる二日酔いがねぇってのも寂しいもんだからな」
「ワタシには気持ちがわからないね。良くなったなら、エージリシテンの宿に帰るかい?」
「そうする。金がねぇから酒も飲めねぇ。出かけに買わされた変な赤い実のせいでな」
「出掛けに買ったんなら、どうやってそのパンを帰りに買ったんだい?」
リンスプーはテーブルにあるパンを見ながら言った。
「金を払った覚えはねぇ……。たしか……奢るって言われたような、言われてないような……」
「あやふやだね。そのうち捕まっても知らないぞ。怖いヴァルキリーがいるからね」
「それに似たようなことは言われたのは覚えてる……。おい、リンス。なにのんびり飯を食ってんだ。変なのが来る前にさっさと戻るぞ」
リットはたいしてない荷物をまとめると、食事中のリンスプーにも帰り支度をするように急かした。
「ずっと、キミ待ちだったんだけどね……」




