第十話
「本当にすいません! ご迷惑ばかりおかけして」
マックスは腰を深く折り、リンスプーに何度も何度も頭を下げた。
その度に背負うように肩に担がれたリットは、大きく揺れた。
「助けに来たのか、とどめを刺しにきたのか、どっちなんだよ……」
リットの口から漏れる、空気の塊を吐き出すような音が聞こえると、マックスの動きは止まった。
「回収しに来ただけです」
そう言うと、マックスは思いついた顔を浮かべて、「すいませんでした」とリンスプーに向かってわざと大きく頭を下げた。
揺らされリットが静かになったのを感じると、マックスはしてやったと子供のように笑顔を浮かべた。
「うーん……それは両刃の剣だと思うが」
リンスプーからは、真っ青になったリットの顔が見えていた。
急流をせき止める防壁の岩が崩れるように、食いしばっていたリットの歯は開いていく。
文字にも起こしたくない音がリットの口から溢れると、音は液体となって流れ出た。
「重ね重ねすいません……」
大丸葉の中で汚れた服を洗うマックスは、玄関先にこぼされた嘔吐物を掃除するリンスプーに控えめに頭を下げた。
「気にすんな。吐いたらスッキリした」
リットの顔にはまだ具合の悪さが残っていたが、朝一の顔に比べるとだいぶましになっていた。
「兄さんに言ったんじゃないです……」
「なら反省しろ。眠れる獅子を起こすときは、前日に深酒してねぇか確認しろって言葉があるだろ」
「そんな長い言葉は知りません」
「もっと勉強しろ。一日酒場にいりゃ、言い訳の百個くらいすぐに見付かる」
「言い訳と認めたら意味がない気が……。いやいや、そうじゃなくてですね。浮かれるのはわかりますが、いきなり吐くまで飲む必要なんてないと思いますよ」
マックスは服を絞ると、絞りきれない水を弾き飛ばすために、その場で服を振った。
パンッという布が伸びる心地の良い音とともに、小雨のようなしずくが周りに飛び散った。
「ずっと酒を飲んでなかったし、浮遊大陸の酒がこんな急に回るもんだっつーのも知らなかったからな」
「アルールの実の酒は飲みなれていても、酔う者が多い。酔って穴に落ちないよう気を付けることだ」
リンスプーは箒で木の実の皮と一緒に嘔吐物を掃くと、纏めたものを焚き火の中に放り込んだ。
嘔吐物のニオイはなく、甘い匂いが灰と一緒に舞った。
「知ってる。酔って落ちてくる天使を見たからな」
「誰でも一度は目にする光景だ。多肉質の葉で落ちて怪我をすることもないから、気を緩ませる者も多いんだ」
「気を緩ませるなって話をするなら、オレはもう一眠りするぞ」
一段目の階段に頭をあずけて目をつぶった。
「兄さん、寝るなら自分の家で」
リットを起こそうと、マックスは肩掴んで軽く揺すった。
「かまわない。今日は天気も良い。風邪を引くこともないだろう。ムリに起こすより、眠らせておいたほうがいい。それより、いいのかい? 遅くなってしまうぞ」
リンスプーは昇りかけの太陽に目を向けた。
マックスがリンスプーの借りた家の前で眠るリットを見付けたのは、朝のランニングをするために家を出た時だ。
走る前に一騒動あったため、結局走れずじまいだった。
「しかし……」
「誰か来るわけでもない。どうしてもと言うなら、走り終わった時にまだ寝ていたら持って帰ってくれればいい。日課を酔っぱらいのせいでなくすこともない」
「それなら……お言葉に甘えさせていただきます」
マックスは深々と礼をすると、新しいシャツを着て、もう一度リンスプーに頭を下げてから走りに行った。
マックスの足音が遠ざかると「ペコペコと忙しないな」とリンスプーが呟いた。
それを聞いて、リットが起き上がった。
「立ったまま腹筋でも鍛えてるんだろ」
「なんだ、寝ていなかったのかい」
「聞きたいことがあったからな」リットは一度立ち上がって階段に座り直すと、両膝に肘をついた。「エロス家ってのは、どの辺にあんだ?」
「本家の屋敷ならボレインという島にあるが、分家ならあちこちの島にあるよ。ホワイトリングだと、バストナ・イスにあったはずだ」
「バストナ・イスってのはどっちだ」
「ここから見て左にある街だよ。ここからでは見えないが、穴に近付いて目を凝らせば風車が見える」
リットは目を凝らすが、リンスプーの言うとおり、ここから穴は見えるが対岸は見えない。
しかし左にはパルグレイの山があり、歩いて行くには穴に沿って右に迂回するしかなさそうだった。
「あの穴を渡る、渡し船みたいのはねぇのか」
「空にあると思うのかい」
「あると思ったから聞いたんだよ」
「残念ながらないね。キミ一人ならおぶって飛べるけど、二人も三人もおぶって飛ぶのはムリだよ」
「なら、ちょうどいい。オレ一人で行く予定だからな」
「そうなのかい? 自己紹介の時にその部分だけゴニョゴニョしていたけど、エロスというのはマックスの姓だろう。マックスは連れて行くべきなんじゃないのかい?」
「そうなんだけどな。色々と訳ありだ」
マックスの母親であるミニーは、勘当同然で家を飛び出しヴィクターについていったらしく、その息子であるマックスの存在が受け入れられるとも限らなかった。
面倒くさいことになる前に、様子だけ先に見ておこうとリットは思っていた。
「そこは掘り下げて聞いたほうがいいのかい?」
「いいや、説明がめんどくせぇ」
「助かるよ。どうもワタシは心の機微には疎くてね。察してくれとよく言われるよ」
「それでいいだろ。心の機微に聡い奴なんてのは、常時ケツの穴を見られてるようなもんだ」
「お尻の穴を見せ合うような関係になったことがないからわからないね。見なくてはいけないものなのかい?」
「それだけ気恥ずかしいってことだ。おしめを替えてもらった親戚に頭が上がんねぇのと同じ理由だ」
そこまで言うと、リットは朝の冷たい空気に咳き込んだ。爽やかな朝の光に似つかわしくない酒の臭いが流れていった。
「それならなんとか……わかるような……わからないような」
「わかりてぇなら、家に帰ったら誰かにパンツでも履き替えさせてもらえ。そういえば、自分の家がある島には帰る気はねぇのか?」
リットは首だけ振り返って家を見た。
この家は宿であり、持ち家ではないが、リンスプーが迷わずに宿まで案内できたということは初めての島ではないということだ。
「浮遊大陸全体が故郷みたいなものだよ。ホワイトリングにも何度も来たことがある。家がある島は『ポット』という、山だけがある島だけどね。長い休みだ。そのうち近付くだろう。その時には帰るよ」
「いなくなる時は変わりの馬車でも紹介してくれ」
リットはあくびをすると、今度は本当に眠るために立ち上がった。
そして家に戻ると、ベッドで眠るノーラを床に敷いた布団の上に落とし、リットはノーラの体温で温まったベッドで寝息を立て始めた。
「兄さん、いいかげんに起きてください」
リットがマックスに起こされたのは昼過ぎだった。
声を掛けられてから、しばらく起きる起きないの問答を繰り返してから、リットはようやく起き上がった。
酒を飲んだ翌日特有の気だるさは、まだまぶたを重くさせている。
黒く固形物になったスープを口に入れ、ジャリジャリとした焦げを噛んでいると、それを作った本人であるノーラが足でドアを開けて家に戻ってきた。
「ただいまっスよォ」
「珍しいな。オマエが食い物以外のを買ってくるなんて」
ノーラの抱えた両手からは巻かれて筒状になった布が飛び出ていた。
「これは特別な布なんスよ。テーブルに敷けばあっという間に料理が美味しくなるという。魔法のような布なんス」
ノーラは得意気に人差し指を立てた。
「なるほど、そりゃいい。でもな、騙されるなら一枚でいいだろ。三枚も買わされてどうすんだよ」
「買わされたんじゃなくて、買ったんですよ。朝昼晩と三枚。嘘だと思うなら使ってみるのが一番ってなもんスよ」
ノーラが淡黄色の布をテーブルに勢い良く広げると、布についていた埃が舞った。
「こりゃ、すげえな」
リットの目の前には布だけが広がる。
「でしょう」
「不味そうな真っ黒い料理が消えた。これなら食わなくて済むな」
ノーラはテーブルの食器をどかしてから布を広げたわけではないので、焦げたスープの入った器は薄黄色の布に形だけを残していた。
「こんなのもありますよ」
ノーラは淡黄色の布の上に、シックな濃灰色の布を広げた。
「おいおい、灰を見せながら焦げたものを食わせるつもりか。だいたい、ただのテーブルウェアだろ。ディアナの城でも、エミリアの屋敷でも出てたぞ」
リットは布の下からスープの入った器を引きずり出すと、おそらく鳥肉だったと思われる焦げの塊をスプーンでこそぎ取って口に入れた。
「でも、どっちとも白だったスよ」
「そうですね。これは染めてますね」マックスが興味深そうに布の端を持ち上げた。そして、手触りを確かめるように布を指で挟んで擦る。「見たことのない色ですが、なにで染めたんでしょう」
「さぁな。使わねぇもんに興味はねぇよ」
「兄さんが興味を持ってるのはお酒だけでしょう」
「そうでもないぞ。今興味があるのは、なんで表面はカチカチに焦げてるのに、中は生焼けかってことだ」
リットはスプーンにのせた赤い肉の断面を見せるように、ノーラに突き出した。
「コツはお肉を大きめに切るのと、大きな火柱で焼くってことですよ」
「スープってのは煮るもんだ」
リットは肉を口に放り込むと、濃灰色の布で口元についた焦げを拭いた。
「お腹壊しますよ……」
空になった皿を見て、マックスが心配そうな表情を浮かべる。
「酒で消毒するから大丈夫だ。それより、オレはしばらくここを空けるかもしれねぇから、祝福を受けに行くなら、ノーラかチルカに伝えてから島を出ろよ」
「なにかあるなら僕も手伝いますが」
「なら、おひねりを投げるのを手伝ってくれ」
「どこに行く気ですか……」
「踊り子小屋。裸で飛び回って、そりゃもう凄いらしいぞ」
「……行きません」
マックスの軽蔑の視線を受けて、リットは口元に笑みを浮かべた。
「今、少し迷っただろ」
「迷いましたね」
ノーラが頷いて同調する。
「もう、僕のことはほっといてください……」
「だからついてこいとは言わなかっただろ。安心しろ。マックスが戻ってくるまでは、この島のどっかにいるから」
「えっと……島を移動するには、塔に行って島が見えていないか確認するのと、島が流れ近付いた合図を聞き逃さない。あと、なにかありましたっけ?」
マックスが親指、人差し指と順番に折って数えると、ノーラは背伸びをしてマックスの中指を折った。
「あとは、食べ盛りのドワーフにお土産を忘れない。美味しいものならなんでもいいっスよ」
「食べ物じゃなくて、美味しいものね。……それは難しい」
「今すぐ行くわけじゃねぇんだ。土産もゆっくり考えろよ。オレは今すぐ行ってくる」
リットは最小限の荷物を持ってドアに手をかけると、ノーラが慌てて、リットの裾を掴んで出ていくのを止めた。
「おっとと、お帰りはいつ頃で?」
「さぁな。夜になるかもしれねぇし、朝になるかもしれねぇ。もしかしたら二、三日空けるかもしれねぇからな。金はでかい鞄の中に入ってるから、飯は勝手に食ってろ」
「なら、ごゆっくりどうぞ」
食事の心配がなくなったノーラは、裾から手を離すと、その手を出ていくリットの背中に向けてひらひらと振った。
「踊り子を見て何が楽しいんでしょう……」
リットが急いで出ていくように見えたマックスは、リットがさぞ踊り子を楽しみにしているように見えていた。
「そんなの酒場のおっちゃんに聞いた方が答えが返ってきますよ。それより、いつまでドアとにらめっこしてるつもりっスかァ?」
リットが出て行った後も、ドアから目を逸らさないマックスに洗い物の食器を押し付けながらノーラが言った。
「いや、前にもこんな風に誰かを見送った思い出があったような、なかったような」
「そんなの――パパさんしかいないでしょうよ」
「そうだ。あの時は母さんにバレて、城の門から出られなかったんだ」
「そんなことより、さっさと洗って、今度は美味しいものを食べに行きやしょう」
ノーラは使用済みの食器を三個、四個とマックスが持つ食器に重ねると、自分は一つだけ持ってドアを開けた。
先に家を出たリットは隣のリンスプーの家を乱暴にノックしていた。
「おい、こっちは用意ができたぞ」
「キミは予定を立てないタイプなんだね」
寝起きとさほど変わらない髪型のリンスプーが、ドアを開けてのそっと出てきた。
「朝立てただろ」
「思い立ったらとは言うけど……。着替えるから、少し待っていてくれ」
リンスプーはドアを大きく開けると、リットを家の中に迎え入れようとした。
「着替えんだろ? 朝に言った、パンツを履き替えるうんぬんなら、別ば奴に頼めよ」
「下着は脱がないよ。わざわざ外で待つこともないだろう」
「わざわざ家の中で待つこともねぇよ。予定以外のもんが立って、今度は家を出れなくなる」
「それなら、なるべく早く支度をすませるよ」
「そうしてくれ」
「待たせたね」と再びドアを開けたリンスプーだが、リットが女性の支度を待った中では最速だった。
「早すぎねぇか?」
「着替えて、お金を持っただけだからね」
「まぁ、そっちがいいならいいけどよ」
リットはリンスプーと一緒に穴に向かった。
その後ろ姿を、家から出たばかりのノーラとマックスは見ていた。
「旦那はパパさんと違って、無事門の外へと出たようですねェ」
「また、リンスプーさんに迷惑をかけなければいいのですが……」
マックスは申し訳のない顔を浮かべる。
「まだ旦那を良い風に捉えてるんスね。こういう時は大抵迷惑をかけた後っスよ」
ノーラの言葉を聞いて、マックスは更に申し訳のない気持ちを強くした。




