第八話
太陽と、静寂の月。
古くから人々は、入れ替わるように昇り沈む太陽と月の物語を数多に生み出した。
そんな物語をいくつも聞かされたように、退屈に時間は流れ、幾日も過ぎていった。
ハズレジマに来て何日が経ったかを数えることもやめた、ある日の早朝。笛の音が、高い音域で抑揚をつけて鳴り響いた。
リット達は休憩所で寝ているのだが、床で寝るにしても人数分のスペースはなく、蔓で作ったハンモックを段違いに垂らして寝ていた。
それによって、リットが突然の笛の音で上体を起こすと、上のハンモックで寝ていたノーラの背中に頭をぶつけてしまった。
ノーラが揺られていたハンモックは、下からの衝撃と、それを制御しようとする力によって、ねじれて半回転し、ノーラの体は真っ逆さまにリットのお腹の上へと降ってきた。
ノーラはしばらく咲き終わり、落ちた種のようにじっとしていたが、空気を求めて、うずめていたリットの腹から顔を上げた。
「いったい私になんの恨みがあるんですかァ……」
予期せぬ目覚めを強いられたノーラは目を半眼に強めたが、あくびをすると糸のように目を細くした。
「……こっちのセリフだ。酒が入ってたら、間違いなく吐いてたぞ……」
リットはノーラを端に追いやると、顔を苦痛に歪めて、痛むお腹をさすった。
ノーラはでんぐり返しをするようにして大げさに床に降りると、ハンモックからほころんだように伸びる蔓を伝って、上のハンモックへと戻っていった。
その数秒後には寝息が聞こえ始めた。
リットは目やにのついた目尻をこすると、まだぼやける視界で辺りを見回した。
足元のハンモックにいるマックスは寝ており、窓辺で多肉質の葉をベッドにして、気持ちよさそうに寝ているチルカの羽はまだ光っている。
この二人から考えると、まだ太陽が昇り始める前の時間だということがわかった。
リットはこんな時間に何の音だったのかと、訝しげに眉をひそめた。
それにより、期せずして焦点が定まった視線の先には、空のハンモックが二つ。揺れることなくぶら下がっていた。リンスプーとロールの分だ。
だが、わかったのはそれだけで、どこで音がなっていたのかはわからなかった。
もしかしたら夢の中のできごとかもしれないと、リットは再び目を閉じる。
それから数秒もしないで、突然ドアが開いた。
入ってきたのはリンスプーで、足音はなく、飛んできたのがわかる。
すると、そのわずかな音でマックスが体を起こした。
「おはようございます」
マックスがハンモックの上から挨拶をする。
リンスプーは「あぁ、おはよう」と返すと、外窓に張り付くように伸びていた蔓をどかした。
邪魔するものがなくなり、部屋に光の枠が入り込む。
どうやら、朝日が昇り始めたようだった。
マックスはハンモックから起きるなり、丸葉をナイフで切って、中の水で顔を洗い始めた。
「アサガオより正確に起きる奴だな」
リットは体を起こすことなく、ハンモックの上から言った。
「もう少し早く起きてましたよ。まだまどろんでいようと思いましたが、ちょうどよくドアが開いたので」
「オマエも笛の音で目が覚めたのか」
リットが言うと、マックスは濡れた顔を拭く布の隙間から、不思議そうな瞳を覗かせた。
リットがやはり勘違いだったのかと思っていると、リンスプーが「そうだ」と肯定してきた。
「笛を鳴らしたのに誰一人として起きてこないから、呼びに来たんだ」
「なんの話だ?」
「別の島が見えたら、笛で合図をすると言わなかったか?」
リンスプーは持っていた葉っぱを見せた。
手のひらサイズの大きさで、他の浮遊大陸の植物同様膨らんでおり、涙滴状の形をしていた。穴がいくつかあけられており、オカリナのような見た目をしている。
リンスプーが口をつけて息を流すと、さっき聞こえていた高い音が流れた。
リットが「聞いてねぇよ」と言うと、リンスプーは葉笛から口を離した。
「そうだったか。まぁ、問題はない。まだ遠くに小さく見えてるだけだ。近付くのは夕方くらいだ。それまでに準備はできるだろう」
リンスプーは葉笛をテーブルに置くと、棚から服に使う大きな白い布を数枚取り出してたたみ直した。
「朝から掃除は勘弁してくれ……」
リットはこれ見よがしにあくびをする。
「キミ達を運ぶと言っただろう。ちょうど任期の終わりだから、私もハズレジマから出るんだ。またここの管轄になるわけじゃないからな。帰り支度をしなければ」
「島に近付くのは夕方だろ。昼過ぎに支度をすりゃ、充分間に合うだろうが。引っ越しでもするんじゃなければな」
「そうでもない。昼からは近付く島を見張らないといけない。ロールに任せっきりは少々不安だからな」
リットはたしかにと頷く。
のほほんとしているロールなら、ぼーっとしている間に島が通り過ぎてしまうかもしれない。
「浮遊大陸ってのは、どう動いてんだ? 見張んなけりゃいけねぇってことは、法則性はないんだろ?」
「『宿り雲』に身を任せて流れている。だから、いつ、どの島に近付くかという予想は難しい」
「宿り雲とはなんですか?」
リンスプーが帰り支度するのを見て、朝の日課の前に身支度を始めていたマックスが聞いた。
「島の真下にある消えない雲のことさ。浮遊大陸の大地が乾燥して崩れないのもそのおかげだ。そのせいで、地上からは普通の雲と見分けがつかず、帰ってこられなくなる天使族もいるんだ」
「地上から見たらただの雲ですもんね」
マックスは帰り支度を終えた荷物と、朝の運動後に着替える服を分けて置くと、走りに出て行った。
軽快な足音が休憩所から離れていく。
「浮遊大陸に住んでる天使族を見た後じゃ、とても天使族には見えねぇな」
リットはドアの向こうのマックスの足跡を見るように、遠くを見ながら言った。
「そうだね。汗だくになって走るのはあまり見ないかな」
「汗かくのが好きそうには見えねぇもんな」
リットはドアからリンスプーへと視線を移した。
冷ややかな瞳のせいか、動作にどこか気だるさが残るせいか、淡々と物事をこなすせいか、リットのリンスプーへの印象はそんなものだった。
「嫌いではないよ。でも、わざわざ汗をかこうとも思わないね」
「そのわりに、のんびりしてるわけでもねぇな」
「どうだろね。ロールと一緒だからそう見えるだけかもしれないよ」
「自分に興味がないってのは間違いなさそうだ」
「それは当たってるね」
リンスプーが支度を終えて振り返ると、櫛を入れていない髪が軽く揺れた。
そして、荷物を持つと休憩所を出て行った。
次に葉笛の高い音が聞こえたのは、夕方よりも早い時間。昼と夕方の間くらいだった。
それがなんの合図か朝の出来事で理解したリットは、まだ用意を終えていないノーラを急かせて身支度をさせると、塔に向かって歩き出した。
「こっちじゃ夕方ってのは、太陽が昇ってることを言うのか?」
リットは塔の上に向かって言った。
これはリットの皮肉であり、ハズレジマから雲海を焼いて沈んでいく夕日を見たことがある。
忙しない移動をさせられたことに対しての文句だった。
最初に荷物が葉の上に軽い音を立てて落ちると、続いてリンスプーが舞い落ちる花びらのように、ふわりと飛んで下りてきた。
「夕方くらいだ。この時間は充分くらいの範疇に入ると思うが」
リンスプーは落ちたばかりの自分の荷物を拾った。
「急かされてむくれているだけなので、お気遣いなく。それにしても大きな島ですね」
マックスは山を見上げた。
塔の見張り台に登らなくてもわかるほど大きな山だ。
「あの山はパルグレイ。あれが見えるということは、ホワイトリングだ」
リンスプーの補足をするように、塔の上からロールの声が聞こえてきた。
「ホワイトリングは真ん中に穴があいていて、丸い輪っかのような形になってる島ですよ」
「名前のとおり、リング状になってる島でいいんじゃねぇか?」
リットが言うと、ロールは今気付いたように驚きの声を上げた。
「あらあら、そういえばそうですね。ホワイトリングはリング状の島ですよ」
丁寧に言い直すロールに、リットは呆れたように鼻を鳴らして返す。そして、顎でロールを指して「アイツは下りてこないのか?」とリンスプーに聞いた。
「ロールは任期がまだ残ってるからな。それより、用意は終えたのか?」
リンスプーの質問に、リットは鞄の存在を示すように肩を揺らした。
「なら、行くとしよう。後は任せた、ロール」
リンスプーは一度羽を動かして飛ぼうとしたが、リット達が飛べないことを思い出して歩き出した。
その足はハズレジマの端まで来ても止まることはなく、なんの説明もしないまま、そのままのスピードで空中を踏みしめた。
飛ぶのではなく踏む。
リンスプーは立ち止まり、リット達に振り返った。
「どうした、来ないのかい?」
「なにか一言ねぇのか……」
空中で静止するリンスプーを見たまま、リットは腕を組んでいた。
「そうだった。――忘れ物はないかい?」
「そうだな。忘れ物はねぇが、このままじゃ落とし物をする。大切なものをな」
最初リンスプーはなんのことかわかっていなかったが、リットが下に向かって指を差したの見て理解した。
「あぁ、大丈夫だよ。ワタシの後を続いて歩けば、落ちることない」
「そう、それだ」
リットは一度ホワイトリングを見た。
ハズレジマと比べて大きすぎるホワイトリングの島は、小舟でクジラに遭遇したかのような存在感があった。
リットは意を決したように短く息を吐くと、慎重に空中に足を落とす。
しばらくなにもなく、心臓を掴まれたようにキュッとなったが、板を踏むような感触が靴裏から伝わってくると、安堵のため息が自然と出てきた。
確かに硬い感触はあるのだが、まるで音が吸い込まれるように足音はしない。
「大丈夫だっただろう?」
リットが歩き、その後をノーラが続いて歩いてくるのを見て、リンスプーは再び歩き出した。
リットはその背中について歩く。
「もっと魔法陣とか使うもんだと思ってただろ。こういうのは最初に言ってくれ」
リットは斜面に道がなっていることに気付いた。階段というよりも、坂を歩いているような感じだった。
「魔法陣を使うのは人間だけだよ」
「そうらしいな。で、これのどこが光の階段なんだよ」
リットはなるべく下を見ないように歩いているが、そのせいだけではなく、足元が光るようなことはなかった。
「今は明るいからね。夜だったり、雲の下だと光って見える。それと、踏み外すことはないけど、横にそれ過ぎると落ちてしまうから気を付けるように」
「見えねぇからわかんねぇよ……」
「そんなに幅は狭くないから大丈夫だ。ワタシの後をついて歩けば問題ない」
リンスプーは両手を広げた。
どうやら、手の届く範囲までは階段に幅があるようだ。
「頼むぞ……こっちは玉がどうにかなりそうなくらい、びびりながら歩いてんだからな」
「そうなのかい? キミのお友達は大丈夫みたいだけど」
リンスプーはリットの頭越しにノーラとマックス。それに、マックスの頭付近で飛ぶチルカを見た。
「飛べる二人と、お気楽ちんちくりんと一緒にすんな」
「そんなに怖いなら、おぶりましょうか?」
心配するマックスを、リットは鼻で笑い飛ばした。
「そんなことされてみろ。いい笑いもんだ」
「誰も笑いませんよ」
「その、頭の上でニヤニヤしてる奴を見ても同じことを言えるか?」
マックスが視線を上げると、チルカは自分より弱い立場の遊び相手を見つけた子供みたいに、無邪気のようで残酷な瞳でリットを見ていた。
「私がどうしたのよ。怖いならおぶさってもいいのよ。ついでにオムツも取り替えてもらったら?」
「オマエはおつむを取り替えてもらってこい」
「生まれたての子鹿みたいに、震える足で強がってんじゃないわよ」
「生まれたての馬鹿みたいに、アホな事ばっか言ってんじゃねぇよ」
「二つとも同じような意味じゃないの。バカなのか、アホなのかハッキリしなさいよ」
「オマエがバカなのも、アホなのもハッキリしてることだろ」
リットとチルカの口喧嘩は、口が止まることはなかったが、足も止まることはなかった。
「恐怖心が薄れるなら、それもありかもね」という、リンスプーの声もリットには聞こえていなかった。
光の階段がかけられたのは、ホワイトリングの『エージリシテン』という街の塔のてっぺんだ。
リットもチルカも口喧嘩に忙しく、塔に着くまでは下に街が広がっているのに気付かなかった。
塔の上にいる天使が「お疲れ様です」とリンスプーに挨拶をすると、リット達が全員塔の上についたのを確認してから、ぶつくさ文句を言いながら光の階段を降りていった。
リンスプーの代わりにハズレジマの管轄になるらしい。
エージリシテンの塔はハズレジマの塔と違い、高くそびえ立ち、階段もついていた。
リンスプーはリット達に付き合い、階段を降りて行く。
「街についたら、まず宿を探さないとね」
リンスプーが言うと、マックスが遠慮するようにゆっくりと口を開いた。
「大変嬉しいのですが……せっかくの休暇中に、なにからなにまで手伝ってもらうのは心苦しいです」
「ワタシも宿を探さないと眠る場所がないからな」
「家には帰らないんですか?」
「この島が故郷ではないからな。帰る予定はないが、帰るにしても、故郷の島に近付くまでは時間がかかることもある。帰ろうが、次の任期まで待とうが、その間住む場所が必要だ。浮遊大陸の宿は、一部屋ではなく一軒家になる。あまり広いものではないがな」
「おいおい、家を買う金なんかねぇぞ」
リットが口を挟んだ。
スリー・ピー・アロウで稼いだとはいえ、家を一軒借りてしまえば、あっという間になくなってしまう。
「格安だから心配ない。素泊まりしかできる宿はないが。あと注意をすることは、料金は前払いということだな。後払いだと、なにかあった時に対処が遅れて、せっかく行きたい島が近付いたのに、モタモタしている間に通り過ぎてしまうこともある」
話しながらしばらく階段を降りていくと、暗い塔の中に外の明かりが差し込んでできた光の扉が現れる。
それに飲み込まれるように外に出ると、賑やかな街が広がっていた。




