第七話
スープの匂いに顔をしかめながら戻ってきたチルカは「まだわかっていないみたいだから言っておくわ」と前置きをしてから続けた。
「ルールその一、スープに肉はいれない。ルールそのニ、私のサイズに合った食器を用意すること。ルールその三……は、えっと……」
チルカは人差し指、中指と順番に指を立てていったが、薬指を立てたところで、首を絞められたように急に言葉を止めた。
「なにも三という数字にこだわることはないんじゃないかい」
リンスプーがスープの入った皿を配りながら言うと、その手の甲にチルカは足を下ろした。
「ルールその三は、私に口答えしないこと」
「それは難しいね。必要な意見というものはある。例えば、食器のサイズにバリエーションはない。どうしても小さいのが使いたかったら、丸葉を半分に割って使うのがちょうどいいと思う」
「それでいいわよ……。こんなの私にしたら、皿じゃなくてお風呂よ」
チルカはリンスプーの手の上から、リットに渡されたばかりの皿に向かってケリを入れると、とろみのあるスープが重く波を立てた。
リットはスープがこぼれそうになるのを防ぐと、黙ってすすり始めた。
先に皿に口をつけていたノーラは喉を鳴らして飲み込むと、皿から口を離し、鳥の脂で光らせた唇を開いた。
「そういえば、もう一人。走るのが好きなワンちゃんは遅いっスねェ」
ノーラは見回して、マックスがいないのを確認しながら言った。
「マックスさんなら、慣れてきたのでハズレジマを一周すると言ってましたよ」
言いながらロールは、既に空になった皿にスープをついだ。
「ハズレジマは浮遊大陸の中でも小さい島だ。心配しなくとも、すぐに戻ってくるさ」
リンスプーはお玉でスープをすくうと、空いた手をノーラに向かって伸ばした。
するとノーラは、僅かに残っていたスープの残りを一気に口に流し込み、空になった皿をリンスプーに渡した。
「地面の上を走り回るのは久々ですからねェ。土の中とか、木の上は走ってましたけど」
「走り回るなんてバカよね。なんの為の羽だと思ってるのかしら」
チルカは早朝のうちに取ってきた、楕円の薄黄色の果実にかじりつきながら言った。
「昔言われたんですよ。グンヴァに。飛んでるのはずるいって、それから飛ぶより、歩いたり走ったりすることが多くなったんです」
戻ってきたばかりのマックスの第一声は、まだ呼吸が弾んでいた。
言い終えてから深呼吸をし、ゆっくり呼吸を整え始める。
「ヤンキー馬に飛ぶなって言われたからやめたの? アンタ、ただのバカじゃなくて、底抜けのバカなのね」
「子供の頃のかけっこの時です。僕は兄ですし、グンヴァはまだ小さくて、いつも僕の後ろを走ってましたから。まぁ……数年でグンヴァには追いつけなくなりましたけど」
「ケンタウロスと一緒に走ったら、そりゃ負けますよねェ」
ノーラに言われてマックスは口元に笑みを浮かべた。グンヴァに負けた悔しさはなく、子供の頃の楽しい思い出が蘇ったからだ。
「それに――足並みをそろえたほうが、同じ景色を見られて嬉しいというか……」
「グンヴァって足並みをそろえるタイプでしたっけ?」
「グンヴァはあれで素直。いや、素直過ぎるというか……父さんの友達の冒険者の影響を受けたせいで、街の人に迷惑をかける存在に……」
マックスは心配する顔を浮かべたが、ノーラの「いやいや、あれでグンヴァは愛されてると思いますよォ。友達もいっぱいいますし」という言葉を聞いて笑顔を戻した。
しかし、雨が降る直前のように顔を曇らせた。
「僕のほうはあまり社交的じゃないせいで、気のおける友人というのは少なかった。グンヴァを心配するには、頼りない兄かもしれない」
「ノーデルはお友達じゃないんスか? 最後まで何か話してましたけど」
「ディアナに戻ったら、スリー・ピー・アロウと国交を深めるように、モント兄さんと話してみようかと」
「王様がいない国っスよ。ムリじゃないっスかねェ……」
口ぶりこそ心配をした感じだが、ノーラのスープを飲む手は止まらない。
「だから僕が架け橋になろうと。ノーデルを介して住民を紹介してもらえば、話し合うことはできますから」
ノーラは目元を手で拭って泣き真似をすると。「立派な弟さんですねェ。ねぇ、旦那」と、リットのほうを向いた。
「オレなら白フードの連中に媚を売って、独占商売に混ざる」
「媚を売るなんて、そんな安っぽい意見は聞いていません」
マックスは冷たく言い放つと、スープをついでくれたリンスプーに頭を下げて受け取った。
「安っぽいってな。媚っつーのは売るのはタダだ」
「でも、旦那は媚売りませんよね。嫌いなお客さんは追い返してしまいますし」
ノーラは、そのうちご飯を食べられなくなりますよ。という視線を送ったが、リットは肩をすくめた。
「売ってる。でも、不思議と皆顔をしかめる」
「売ってるのが、媚じゃなくて喧嘩だからじゃないっスか」
「向こうが買うからだ。売り言葉に買い言葉。なんも売れねぇ店よりいいだろ」
「変なことで顔が売れたら、そのうち顰蹙まで買っちまいますよォ」
「買いかぶり過ぎだ。でけぇ町でもねぇし、そうそう広がんねぇよ」
そう言ってリットは肉の塊を口の中に入れた。脂が少ない肉は硬くパサパサしており、噛みしめるとわずかに血の味がしたが、甘いスープにはよく合っていた。
この甘さなら一杯食べたらお腹が膨れそうだ。
太ももに乗りそうなくらい膨らんでいるロールのお腹を見てから、ノーラの小さなお腹を見て、リットはどこに何杯もスープが溜まる場所があるのだろうと不思議に思っていた。
「なに見てるんスか? あげないっスよ。旦那の分は、皿にまだ残ってるじゃないっスかァ」
ノーラは身をよじるようにして、持っている皿をリットから遠ざけた。
「さぞ、でかいクソが出るんだろうと思ってな」
「兄さん……食事中ですよ……」
マックスは口に運ぼうとしていた手を止めて、スプーンですくったスープを皿の中に戻した。
吐かれた力のないため息とは違い、目は非難を浴びせるように吊り上がっていた。
「言ったのが食事中じゃなくても睨むだろ」
リットは最後に一口スープを飲むと、皿を地面に置いて立ち上がった。
「そんなに気にしなくても……僕はそういうつもりで言ったわけでは……」
自分の言葉にリットが席を外したのだと思い、マックスはすまなそうに声を小さくした。
リットは「気にすんな」と言ってから、少し間を開けて続けた。「ただの食後の散歩だ。食ってくうちに、口の中が甘くなりすぎた。もう食えねぇ」
「やっぱり、少しは気にしてください……」
というマックスの声は聞こえたが、リットは気にした様子もなく歩き出した。
リットはただ目的もなく歩くわけではなく、ある場所を目指していた。
散歩とは言ったが、他に言葉が見当たらなかったせいでそう言っただけだった。
目的の場所は森にそびえる塔だ。
踏み心地の良い多肉質の葉の上を歩き、口の中の甘さがほとんど消える頃になると塔が見えてきた。
塔と言っても、物凄く高いわけではない。周りの木より頭一つ飛び抜けているくらいだ。
リットは塔の元まで着くと、外周をゆっくりと歩いた。
塔にしては細く、すぐに一周を終えてしまったが、リットは足を止めることなく、二周、三周と歩いた。
塔の下はツタが巻いており、木の根元のようになっている。これ自体は地上の塔でも見かける光景だが、問題はそのツタに途切れがないことだ。
石の壁を覆い尽くし、塔は新緑と枯れ葉を混ぜた色に染まっている。
入り口があるのならば、どこかに途切れがあるはずなのだが、どこにもない。
見上げると、塔には窓すらなかった。
念のため、ツタをちぎってみるが、ツタの奥にも入り口はなかった。
代わりに見付けたものは、塔を横に一周するように付けられた線だ。それは等間隔にいくつかついていて、リットが確認できたのは三つだった。
一つ、二つ、三つ、と数えながら塔を見上げ、見張り台下の返しの部分に装飾のようなものを見つけたが、ツタと葉の影のせいではっきりと断定はできなかった。
その装飾も線と同じで、一箇所だけではなく、塔に沿ってされているようだった。
何周したかわからないが、ふくらはぎが少し重くなったと感じると、リットは足を止めた。
どこを見ても入り口はなさそうだし、手をかけて上るような出っ張りも窪みもなかった。
リットがひと息ついて地面に座ろうとすると、ふいに後ろから声を掛けられた。
「入り口はないよ。飛んで上まで移動するからね」
リンスプーの声に、リットは一瞬体を硬直させた。
そして、それを誤魔化し、あくまで平静を装うように「ふーん」と鼻を鳴らした。
「まぁ、そりゃそうだな」
「一人で登るのはムリだ。ワタシかロールと一緒に来ないと」
「まるで塔に登らせてくれるみたいな言い方だな」
城も村もないハズレジマ。ならば、重要な情報や物があるのはこの塔ということになる。
リットはそんなものに興味はなかったが、だからと言って簡単に登らせてくれるものとも思っていなかった。
もし、塔に登りたいといって拒否をされれば、興味があるのだと認識され、黙って登るのが難しくなってしまう。
だからリットは、朝の食事中。誰もいない時を見計らって、黙ってこの塔に向かっていた。
しかし、そんな懸念は的外れだと言わんばかりに、リンスプーは無邪気に手を差し出していた。
「行かないのかい? すぐだよ」
「なんだ……その手は」
「引っ張っていってあげようと思って」
「背負うか、抱えるかできねぇのか? 引っ張られて、肩が外れたらどうすんだよ……」
「できるよ。てっきり、触ったり触られたりするのが嫌なんだと思っていたからね」
リンスプーはリットに背を向けてしゃがんだ。どうやら背負って飛ぶつもりらしい。
リットは羽の間に体をおさめると、落ちないようにリンスプーの肩から手を伸ばした。
脇腹をくすぐるような風が吹いたのと同時に、リットの足は地面から離れた。
ほんの数秒の空中遊泳の後、リットは見張り台の上へと降ろされた。
見張り台の上は思っていたよりも散らかっており、暖を取る為の毛布や、ひからびた丸葉などが散乱していた。
「久しぶりに人がハズレジマに来たんだし、片付けておくべきだったね」
リンスプーは毛布を持ち上げると、見張り台の塀に干した。
「オレの家と似たようなもんだ。ただ、片付けるタイプだとは思ってた。休憩所も掃除してたからな」
言いながらリットはハズレジマを見渡した。
森の木は、上から見ると草原のように広がっていた。
「必要以上に綺麗にも汚くもしないさ。でも、狭い部屋というのは、掃除を後回しにしてしまわないかい?」
「広くても後回しだ。口うるせぇ婆さんがおせっかいを焼きに来ない限りな」
言いながらリットが目を凝らしていると、リンスプーに望遠鏡を渡された。
「何を見たいのかはわからないけど、こっちで見たほうが早いよ」
リットは受け取ってから考えた。リンスプーが持ってる望遠鏡というのは、当然レンズにグリム水晶が使われたものだ。
今はもう採れなくなってしまったもので、なくしたり盗まれたりすれば代わりはきかない。
リットは望遠鏡を覗くと、島の端から端をじっくりと見ながら「こういうのって簡単にしていいのか?」と聞いた。
「こういうのとはなんだい?」
「塔の見張り台に関係のない奴を登らせたり、貴重で高級なもんを人に渡したりだ」
「ダメなものはダメと言う。だから、不安に思ったら聞いてほしいと言ったんだ。この塔のことも含めてね。それとも、ダメな場所に忍び込むようなタイプなのかい?」
リットは何も返せない。無言は肯定を意味していた。
「キミは……結構思い切ったことをするんだね。ここは何もないところだけど、別の島では気を付けたほうがいいよ」
「他にも二人しかいないような不用心な島があるのか?」
「ないね。何もないから二人しかいないんだ」
「なら、もう忍び込むようなことはねぇよ」
そう言ってリットはリンスプーに望遠鏡を返した。
「お目当てのものは見れたのかい?」
「あぁ、骨付きのモモ肉のような形をしてた」
「ハズレジマの形かい? 確かに、そんな形をしているね」
「浮遊大陸に、こんな形をした島はあるか?」
リットはディアナでウィルから地図を貰ってくればよかったと思いながら、落ちていた石壁の欠片を使って、床に歪な丸を描いた。
それは『ティアドロップ湖』の形だ。これと同じ形をした浮遊大陸の地図をウィルは持っていた。
「うろ覚えだが、だいたい合ってるはずだ」
リンスプーは「うーん……」と眉を狭める。「覚えがないし、たぶん『浮島』の一つだね」
「浮遊大陸ってのは、浮いてる島の総称だろ? 一つ一つの島のことを浮島って呼ぶのか?」
「本来、小さい島は浮遊大陸に換算されないんだ。ハズレジマも浮遊大陸の中では小さい島だが、天望の木に近付くことが多いから浮遊大陸に換算されている。それ以外の意味のなさない島の総称を『浮島』といって、天使族も常駐していないんだ」
「地図もあるのにか?」
「キミが探しているのは、大きな島なのかい?」
「いや、湖としては結構でかかったが、島として見たら小せぇな」
「なら、地図は簡単に描けるし、誰かが気まぐれに描いたものかもしれないね。でも、他の浮島と一緒に描かれていたら、なにか意味があるのかもしれない」
リットは思い出してみたが、確かに地図に描かれていたのは一つの島だけだった。
見渡せるような小さい島だけの地図なんてものは必要がない。
「ありゃ、偽物か?」
「そうとも言い切れないけどね。ホワイトリングに着いたら色々聞いてみるといいよ。ワタシとロールだけでは、情報が偏るかもしれないからね。ワタシも特別詳しいわけではないから」
「そうするよ。無事着きゃな。今のところ、大海原に投げ出された小舟だ。他の島になんて、着きそうにねぇ」
「ゆっくり待つといいさ。浮遊大陸では、風に身を任せる雲と同じで、気長な心が必要だよ」
「言葉通りゆっくりさせてもらう。明日から早起きして、投網の行方を見ながら、塔に忍び込むチャンスを伺う必要もねぇからな」
そう言うとリットは大きなあくびする。
そして、見張り台の塀に干してある毛布を取って、その場で横になり眠り始めた。




