第六話
中空に流れる雲は、絹のしわのように柔らかに流れていて、その下を泳ぐような鳥の影が透けている。
打たれた投網が円形に広がり、蜘蛛の巣のような網目を朝日に輝かせて、雲海へ沈んでいった。
引き上げる時は、本物の蜘蛛の巣のように獲物を捕らえていた。
リットはうつ伏せに寝転び、島の縁から顔だけを出して、その網をぼーっと目で追っていた。
網は群れが飛ぶタイミングに合わせて投げられているらしく、何度も繰り返し投げていた。
獲物を捕らえたり、捕らえられなかったり、十数回繰り返すと、網が投げられなくなった。
リットが網の代わりに、雲の隙間から漠然と映る蜃気楼のような地上を見下ろしていると、草を踏む音が近付いてきた。
「楽しいかい?」
そう言ったリンスプーの声と混じって、網が引きずられる音も聞こえる。
「そう思うのか?」
「どうだろう。人の趣味はそれぞれだからね。できれば、何をしているかを教えてもらえると助かるよ」
「見てわかんねぇか? よだれを落として、どっかの誰かを不幸にしようと思ってんだよ」
「なんのためにだい?」
リンスプーが心底不思議そうに聞くと、リットは鼻でかすれた笑いを響かせてから、「オレが不幸だからだ」と言った。
「それなら、美味しいものを食べるといい。ロールはいつも幸せそうにしている」
リンスプーは羽と首のない鳥の足を持って、リットに見せた。
「まぁ……首がねぇそいつより不幸ってことはねぇな。――でもだ、もう一週間だぞ。ここに来て」
「そうだね。そして、そのうち四日間くらいは、キミがそうして地上を眺めている姿を見ている。日課なのかい?」
「ホームシックだ。このハズレジマの真下には、酒を飲んでるやつが何人いることやら。好きな時に飲めてた地上が懐かしい……」
そう言って、リットは大きくため息をついた。ため息に重さがあるのなら、落ちた地上に大きな穴をあけそうなほど重いため息だった。
「あまり下ばかり見てると酔ってしまうよ。浮遊大陸は動いているからね」
「酔えるなら、もうそれでもいい」
「病んでるね……。そのまま寝て落ちたら、危ないじゃすまないよ」
リンスプーは「ほら、行くよ」と、リットのシャツの首元を掴んだ。
引っ張られたことによって、首を絞められ、リットは立ち上がるしかなかった。
「夜に酒を飲まねぇと、ちっとも朝が来た気がしねぇ」
リットはリンスプーの後ろ。距離を取るようにして、だらだらと歩いた。
「お酒以外に趣味はないのかい?」
「人をおちょくるのも好きだ」
「あまり健全な趣味とは言えないね」
「そういうアンタはどうなんだ? オシャレ以外の趣味はあるのか? こんななにもないところで」
リットは寝癖がついたままのリンスプーの頭を見ながら言った。
「なるほど。確かにおちょくるのが好きみたいだね」
リンスプーは跳ねた髪を触ったが、直すことはなかった。
「酒の一杯でもありゃ、やめてやるよ」
「やめなくていいよ。なかなか新鮮だからね。今までに会ったことのないタイプだ」
「……そう言われると、かえって何も言えなくなる」
「そうかい。それは惜しいことをした。それで、ワタシの趣味だったね。朝焼けの雲海を眺めるのが好きだよ。青や紫や黄色に染まっていく中で、わずかな時間だけピンクに染まる時間があるんだ」
「そりゃまた――。時間を無駄に浪費するのが好きなのか?」
リンスプーは一瞬考えてから、目尻にしわを作り、あははと風が吹くように爽やかに笑った。
「言われてみればそうかもね。好きだよ。時間を浪費するのが」
感情を濃く表情に出さないリンスプーの笑顔を見たのは初めてだったので、リットは驚きを誤魔化すように肩をすくめた。
「なら気が合いそうだ」
「そう言われるのは嬉しいけど。それなら、なぜそんなに離れて歩いているんだい?」
リンスプーが足を止めると、リットも足を止めた。
二人の距離は、話をするのには少し離れ過ぎていた。
「気にすんな。これも趣味の一つだ」
「離れて歩くのがかい?」
「離れて歩かないと見えないものがあるからな」
「哲学的だね。ワタシには理解できそうにない」
そう言うと、リンスプーは再び歩き出した。
リンスプーは背筋を伸ばして歩くので、長い脚を前後に動かす度に、形の良いお尻が揺れていた。
リットは真っ直ぐ前を向くわけではなく、視線を少し下げてリンスプーの後に続いた。
「どこまでついてくる気だい?」とリンスプーに言われてリットが顔を上げると、すぐ目の前にはリンスプーの羽があった。
この距離からお尻を眺めるためには、視線はかなり下を向いているので、休憩所の前まで戻っていることに全く気付いていなかった。
「おっと、楽しい時間はすぐに過ぎるってのを忘れてた」
「おっと、じゃないっスよ。こっちがどれだけ待ったと思ってんスか」
リットはずっと下を向いて歩いていたので、ノーラがいるのも目に入っていなかった。
「いたのか、ノーラ」
「いたのか、じゃないっスよ。こっちはお腹をすかせて待ってたんスからね」
「それで早く起きてるのか」
普段なら、ノーラはまだ寝ている時間だった。
チルカとマックスの姿が見えないが、チルカは暇があれば地上で見ない植物を観察しに行っているのでそれだろう。マックスは朝の日課で間違いなかった。
「今日は歩いてきたからね。今作るよ」
リンスプーは、頭ほどの大きさがある白い斑の入った丸葉の上部をナイフで大きく切り取ると、焚き火にかけた。
丸葉の中の水は透明ではなく、白く濁っている。
「旦那は置いて、飛んでいいんスよ。子供じゃないんだから、迷子になることもありませんて」
「せっかく会ったから、二人で散歩をしていたんだ」
「そうなんスか?」
ノーラは珍しいっスね。とでも言いたげに、わずかばかり首を傾げてリットを見た。
「二人で歩いて戻ってくるのを、こっちではそう呼ぶなら散歩だな」
「気晴らしになれば、それは散歩だよ」
リンスプーは言いながら、柑橘系の匂いのする肉厚な草を千切って丸葉の中に入れた。
どうやら、この丸葉を鍋代わりに調理するつもりらしい。
「寝床の提供に、飯の支度まで。そこまでする義務があるのか? こっちは楽でいいけどよ」
「ロールの分をいつも作っているからね。何人分用意するのも変わらないよ。それに、浮遊大陸の食べ物は地上とはかなり違うから、食べられないものをいちいち説明するより楽さ。この丸葉も、斑の入り方でお腹を壊す種類もあるからね」
リンスプーは焚き火にかけた丸葉を拳で軽く叩いた。
響く音からして、普通の丸葉よりも皮が硬そうだ。
「地上じゃ見かけねぇし、そこの区別はつかねぇな」
「丸葉も全部が飲めるものじゃないから、不安に思ったらいちいち聞いて欲しい」
「ロールはそこら辺に生えてるのを適当に飲めって言ってたぞ」
「……ロールはいつも説明不足なんだ。薬として使うものあるから、飲みすぎると最悪死ぬこともある。森の奥に行かない限り生えていないから、この休憩所の近くに生えているものは安心していいよ」
リンスプーは薪を増やして火を強めると、丸葉の中に鳥を丸ごと入れた。
「入れるだけか。オレの作り方と似てるな」
「旦那は香草なんて入れないじゃないっすかァ……。だから、臭くてエグい味がするんスよ」
ノーラが不満げに言う。
「味がねぇよりいいだろ」
「難しいところっスねェ……。確かに味がないのはキツイっス。かと言って、不味いのもどうかと」
ノーラは丸葉の水が煮える音より低い声で唸り、うーんと考え始めた。
「心配しなくても、この葉っぱの水で煮込むとスープがとろとろになるから、食べごたえがあっていいよ」
リンスプーはかき混ぜていたお玉でスープをすくい上げると、少し高いところから丸葉の鍋の中に落とした。
スープは線を引くように垂れ落ちていった。
「そうっスね。不味いものを考えるより、美味しいものを考えたほうがいいっスね」
「オマエ、本当にオレの作ったスープ嫌いだよな」
「スープと野菜を混ぜたお湯は違いますよ。イミルの婆ちゃんのパンがなかったら、旦那のところに住み込みで働いていたかどうか……。思い出したらパンも食べたくなってきましたねェ。浮遊大陸にもパンはあるんですかい?」
ノーラの質問に、リンスプーはどう言ったらいいかと首を傾げた。
「あるにはあるけど……。たぶんキミ達が想像してるようなパンとは違うね」
「丸くてふわふわのパンとは違うってことっすか?」
「丸くてふわふわのパンとは違うね」
「黒くてカチカチのパンってことはないっスよね……」
「黒くてカチカチのパンではないね」
「……それって本当にパンっスか?」
ノーラは疑いの眼差しを向ける。
「本当にパンだよ。こっちのパンは平たくてサクサクしてるんだ。浮遊大陸の植物は水分を溜め込むものばかりだから、粉にするのが難しくてね。液状の生地を焼いて作るんだ」
「そういえば、スリー・ピー・アロウのパンも平べったかったっスねェ」
「あっちは粉に混ぜ物が多くて、膨らまねぇだけだって言ってたぞ」
スリー・ピー・アロウのパンは、いろいろな木の実の粉を混ぜて焼いてるので膨らまず、中が少しねっとりとしたパンだ。
浮遊大陸のパンは、液状の生地を薄く焼いたものを重ねるのでパイのように層ができ、サクサクとした食感があるらしい。
「最近では、それを棒状に丸めたのが流行っていると風の噂で聞いたが、ワタシもまだ食べたことがないんだ」
ツタの橋がかかる塔は関所のようなものらしく、ロールとリンスプーはそこの管理者だ。二人がハズレジマの専門というわけではないが、特に滞在期限が決められているわけではなく、大きな街がある島と近付くまではずっと働いていることになる。
街がある島で後任者と引き継ぎがあり、そこからは長い休みと入る。
長い期間働き、長い休暇があるというのが、浮遊大陸の管理者のサイクルだとリンスプーが教えてくれた。
「だから仕事明けだと、流行りについていけないんだ」
「流行りについていくタイプにも見えねぇけどな。いろんなことに無頓着だろ」
「二、三年くらい他の島を見ないこともたまにあるからね。流行りが変わるのはいいが、文化自体に変化があることもある。それが困るんだ」
リットは「戻っていきなり酒を飲む文化がなくなってたら最悪だな」と笑ったあと、真剣な表情で「……そんなことねぇよな?」と聞いた。
「風の噂では聞いていないな」
「そんな信憑性のない情報で、安心できねぇよ」
「『風の噂』というのは、渡りハーピィからの情報のことだ。発祥元がわかっているだけに、ただの噂より信憑性がある」
リンスプーは見たことないオレンジ色をした螺旋状の野菜を切って、丸葉の鍋の中に入れた。
リットから見たそれは、野菜と呼んでいいのかもわからなかった。
「そっちの信憑性も気になるんだが……食えるんだろうな」
「旦那はなんでも食べるじゃないっスか。不味いのも、凄く不味いのも、物凄く不味いのも、焦げたのも」
ノーラはスープに指を入れると、「あちち」と言いながら指を抜き、指先についたスープを舐めた。そして、料理長の味見のように意味深く頷いた。
「焦げたものは、主にオマエに食わされてんだよ」
「大丈夫。食べられるものしか入れていないよ。心配ならキミも味見してみたらどうだい?」
リンスプーはお玉でもうもうと湯気が立つスープをすくうと、フーフーと口をすぼめて息を吹きかけて湯気をゆらした。
そうして冷ましたスープが入ったおたまで、ノックするようにリットの唇に何度か押し当てた。
リットが口を開けようとしなかったからだ。
「大丈夫。もう熱くないよ」
リンスプーは安心させるように、自分でお玉に唇をつけて少し飲むと、残りをリットに飲ませようとまた近付けた。
「オレは赤ん坊か? それとも老人か? どっちにしろ、そう思ってるなら下の世話まで頼むぞ」
「ただの味見じゃないか。そう強情になることもない。まぁ、ムリにとは言わないが」
リンスプーはお玉のスープを自分で飲むと、丸葉の鍋から飛び出していた鳥の足を掴んで引き上げた。
そして、ナイフで肉を食べやすい大きさにこそいで、スープの中に落としていった。
白濁した色だった丸葉のお湯は、鳥の脂で乳白色に変わる。
「のんびりしてるけどよ。仕事はしなくていいのか? いつ次の天望の木に近づくかわかんねぇだろ」
「わかるよ。夜になると地上からの目印があるからね。『光の柱』を見れば、だいたいの場所はわかる」
「光の柱ってのは、スリー・ピー・アロウの穴に差し込む日差しのことだろ? もうそう呼んでないって、住んでるサハギンが言ってたぞ」
「あそこは根避けの明かりで一日中明るいからね。天井の穴から光が漏れているのが見えるんだ。そういう光の目印のことを、『光の柱』と呼んでるんだよ。アップルダウンの火口とか、リゼーネの迷いの森のように、朝でも明かりが見えてるものもある。それを見付けて現在地を確認すれば、近くの天望の木はどこにあるかがわかるからね」
「迷いの森って言うと、光落としか?」
リゼーネの迷いの森では、鬱蒼と生える木の枝を切り落とし、妖精の白ユリに朝日を当てて光らせて、妖精が日光浴をする。それを『光落とし』と呼んでいた。
「詳しい名前は知らないけど、そういうのが地上には何箇所もあるんだ。だから、地上の光の柱を見付けるためにも、グリム水晶を使った望遠鏡は浮遊大陸では必需品ってわけさ」
「あの森は毎日光落としをしてるわけじゃねぇぞ」
「それでも、定期的に光っていれば目印になる。浮遊大陸から見つけやすい光というのも大事だ。その条件を満たしていれば、光の柱と呼ぶにふさわしい。あとは、光の柱には自然物が多くて、減ったり増えたりするからね。見付けるためにも、特徴的な光というのは特に大事な要素なんだ。最近では『パルジャとレッジャの双子山』近くにも光の柱ができた。あそこは目印がなかったから助かってるよ」
「なんか聞いたことありますねェ」
ノーラはいかにも考えているという表情を浮かべたが、こういう時はなにも思い浮かばない時だ。
しかし、その名前はリットにも聞き覚えがあった。
「カラザ山の二つに盛り上がった場所のことを、そう呼ぶんだよ。マグニが住んでる湖があるところだ」
「ということは、旦那の村の近くっスね」
「というより、オレの家の庭に生えてる妖精の白ユリだろ。それを目印にしてるんだろ。通行料とかとれねぇのか?」
リットが聞くと、リンスプーは少しだけ目を細めた。
「……キミは流れる雲からお金を巻き上げるつもりかい?」
「できるならな」
「それなら、ここにいる間の食事でチャラにしてくれ」
「まぁ、飯を作んなくていいだけ楽か」
リットが肩をすくめて言うと、リンスプーは「さぁできたぞ」と、お玉で最後のひとかきをして、スープに渦を作った。




