第三話
朝焼けが雲海に瑠璃色の影を落とし、空平線とも呼べるような雲と空の間を赤く焼き始めた。
そんな光景には似つかわしくない、にぶい痛みがリットを襲った。
こめかみ辺りを蹴られて目を覚ませば、この世の憎悪を全て一手に引き受けたような。谷のように深いシワを眉間に寄せたチルカの顔が目に入った。
「忘れなさいよ」
チルカは一度目を大きく見開いてからリットを睨んだ。
「忘れるってなにをだよ」
リットは寝起きの言うことの聞かない体を無理やり起こして、気だるくこたえた。
「わかるでしょ。乙女の口から言わせる気なの?」
「尻に羽の鱗粉をつけてホタルのマネをしたことか? それとも、マックスの羽をむしって、それを自分の鼻に突っ込んで白ひげの老人のマネをしたことか? あるいは、脱いだパンツを人差し指に引っ掛けて、投げ縄に見立ててぶん回して、「街の平和は私に任せなさい」って言いながらロデオごっこをしたことか?」
つい昨夜までハイテンションだったチルカを思い出しながら、リットはチルカの失態を適当に並び立てた。
天望の木の頂上に着いてから既に一週間が経過しており、一週間もテンションの高い状態が続けば、失態は一つや二つではすまなかった。
チルカもおぼろげに記憶があるようで、眉間の怒りのシワは困憊のシワへと変わっていった。最後の一つの希望が、どうにか口元に強がりの笑みを浮かべることができた。
「最後のは嘘ね」
「最後のだけ本当だ。嘘だと思うなら、馬代わりに乗っかったノーラのシャツを見てこいよ。背中の部分に、オマエのケツの跡がしっかり残ってるぞ」
チルカは演奏するように長いいびきを響かせるノーラを見たが、肩をすくめてからリットに向き直った。
「一回乗ったくらいで跡が付くほど、私のお尻は汚れてないわよ」
「一週間も続けてやってりゃ跡くらいつく。こっちはオマエのせいで寝不足なんだ。わかったら、早く悪人でも捕まえてこいよ。街の平和は任せたぞ、ロデオガール」
リットが悪意たっぷりに言うと、チルカは怒りに羽を強く光らせて。リットの鼻先を蹴り上げた。
しかし、蹴りは当たらず、チルカは蹴りの勢いに負けて空中で一回転してしまった。
「なにすんだよ」
「蹴って、鼻血を出させて、のたうち回らせようとしてんのよ」
チルカはそう言って、今度はしっかりリットの鼻先に命中させた。
蹴り上げられ、リットの顎が上がると、今度はすかさず上向いた鼻に踵を下ろす。
鼻血は出なかったが、苦痛に歪むリットの顔はチルカを笑顔にさせた。
「痛ぇな……。いつもなら一発だってのに、元気良すぎだろ……。」
リットの鼻には朝の空気だけではない、ツーンとしたニオイが広がる。
「ハイにまでならなくても、調子はいいのよ。今ならアンタの顔を殴ったついでに、落書きもできそうよ」
「潰そうとしても、手の隙間を素早く通り抜けていく夏の蚊と一緒か」
「アンタねぇ……。私のフィールドで、勝てるとでも思ってるの?」
チルカは勢い良く拳を突き出して、素振りを始めた。
その風切り音を聞いてか、リットとチルカの言い合いが続いているからか、寝ていたノーラが面倒くさそうに上体を起こした。
「もう……朝から騒いでなんなんスか……。もう、馬役はごめんですぜェ」
そう言ってあくびをするノーラに、チルカは人差し指を向けて「犬の服従ポーズ!」と叫んだ。
言われたノーラはお腹を見せるように仰向けになると、手を差し出すように伸ばして「ワン」と鳴いた。
「満足したら、私は寝ますよ。今度起こす時は、夢の中より凄いご馳走が出た時にしてくださいなァ」
ノーラは背中を向けると、そのまま寝息を立て始めた。
汚れたノーラの背中を見ると、チルカは満足に頷いた。
「ノーラの背中からケツの跡が消えても、オレの記憶からは消えねぇぞ」
「殴れば消えるわよ」
チルカはアルラウネが髪枝から花を伸ばした時に、余力で咲いた蕾をむしり取る。そして、蕾の下を握り花蜜を押し出すと、そのまま蕾をコップのようにして一気に飲み干した。
チルカが一息付くのと同時にアルラウネからツタが伸びて、チルカを殴り飛ばした。
「なるほど、殴れば消えるな」
リットは飛ばされるチルカが見えなくなるまで目で追った。
「あの妖精は……花をむしるなと聞いていなかったのか」
「馬に乗ってはしゃいでたからな。それよりどうした。ツタを伸ばしすぎて疲れたのか? 顔が枯れ枝みたいだぞ」
リットはわざとらしく心配した顔と声色で言うが、言われたアルラウネはきょとんと顔で瞬いた。
「なんだ、まだ寝てんのか?」
反応の薄いアルラウネの眼前で、リットは手を振った。
「起き抜けに嫌味を言われたことがなかったからな。初めて経験すれば、誰でもこの顔になる」
「そりゃ良かった。これで初経験を自慢できるな」
リットは大きく手を伸ばしてあくびをすると、転がっている丸葉を取って、中の水を飲むためにナイフで切り口を作った。
「久しぶりの下界の男がこんな奴とは……」
「そう褒められると悪い気はしねぇな。これで酒でも出りゃ、言うことなしだ」
リットは酒がない苛立たしさをアルラウネにぶつけていた。いくらマックスがいるとは言え、酒ばかり持って来られるはずもなく、酒はとうに尽きていた。
「よく人の話を聞かない奴と言われないか?」
「名前を呼ばれるのと同じくらい言われる。そんなことより、浮遊大陸に酒はあるんだろうな」
アルラウネが浮遊大陸生まれだということを思い出したリットは、アルラウネの質問を適当に打ち切り、自分の話題を押し付けた。
「熟れるとアルコール分が生まれる果物がある」
「果物を食って酔っ払えってのか? そういうのはなんかちげぇんだよな……」
「浮遊大陸の植物の特徴を忘れたのか? 今持っているだろう」
アルラウネはリットが飲んでいる丸葉を指した。
浮遊大陸では葉だけではなく、木の実も水分を含んだものが多く存在する。
「天然の果実酒か。もいで飲めりゃ、オレにとっては最高の植物だけどよ。その果物の繁殖はどうなってんだ?」
「中の果汁は、そのうち皮を破るほど溜まる。そうして弾けて中の種を落とすんだ。そうして、種に栄養と水を与える」
「その果物が生える周りはネタネタしてそうだな……」
「そうでもない。果実から落ちた水も栄養も、木が自ら吸い上げ、成長するのに使うからな。根の届かない、遠くの種だけが成長するわけだ」
しばらく話していると、アルラウネの髪枝の赤い花が突然どこからか射抜かれた。
血しぶきのように花びらが散り落ちる。
「運が良い。ここで数ヶ月足止めを食らうなんてことはザラだからな」
「運が良いのは、矢が突き刺さらなかったことじゃねぇのか……」
リットは深々と床に刺さる矢を見た。当たっていたら、体を貫いていただろう。
「人に当たるような腕前なら、花を見つけた合図に矢を射ることはない」
「これが合図か。天使族ってのはずいぶん乱暴だな」
「乱暴でも、これが一番良い合図なんだ。矢が届く範囲が、ツタを伸ばせる範囲でもある。届かなければ、浮遊大陸が通っても、そこに行くことは出来ない」
「それで、こっちはどうやって浮遊大陸を見付けるんだ? グリム水晶の望遠鏡でもあるのか?」
「そんなものは必要ない。矢をよく見ろ」
アルラウネに言われ見ると、矢には細い糸がついていた。
アルラウネはそれにツタを巻きつける。すると、今までにない太いツタを絡ませ、糸をつたって伸びていった。
「どうなってんだ?」
「この糸は浮遊大陸の植物から作られている。ツタには気根という、節から空気中に伸びる根がある。それから糸の栄養をとらなければ、ツタをいくつも伸ばせないからな。ツタをいくつも編み込み、人が乗っても切れない太いツタの橋を浮遊大陸までかける。綱渡りをする気がないなら、まだ時間は掛かるぞ」
「ちょうどいい。マックスでも探してくる」
リットはつま先で「起きろ」とノーラのお尻を小突いてから、朝のランニングに出かけているマックスを探しに行った。
探すと言っとも、障害物がない天望の木の頂上だ。動くものがあれば、鳥かマックスくらいである。
簡単に見付けることができた。
「ロデオごっこはやめたんじゃなかったのか?」
リットはマックスではなく、その頭の上にいるチルカに声を掛けた。
飛ばされた先にマックスがいたらしく、飛んで戻るのを面倒くさがり、マックスに運ばせているようだ
チルカは「羽が生えてれば、ペガサスだからいいのよ」というわけのわからない持論を展開し、リットに向かって煙たそうに手を払った。
「兄さんも朝の運動――じゃないですね。酔って迷ったんですか?」
「生憎、酔うほど酒は残ってねぇよ。浮遊大陸まで橋がかかったのに、いねぇから迎えに来たんだ」
「そうなんですか。なんの変化もないので、わからなかったです」
矢が一本飛んだだけ。それだけなので、端まで走りに行っていたマックスは全く気づかなかったらしい。
マックスはスピードを緩めると、リットに合わせてゆっくり歩き始めた。
「雲の上にいるのに、走るってのはマヌケだと思わねぇか?」
「いいえ、むしろ体験できないことなので張り切りすぎました」
いつからかマックスはリットに対して敬語が多くなったが、前のような刺々しさがなくなっていた。
「まぁ、なんでもいいけどよ。戻ったらすぐに支度しろよ」
「兄さんは?」
「酒がねぇのに、支度するものがあるか。散らばってるのは、オマエが几帳面に干してる服くらいだ」
「干さないと、またカビが生えますよ」
「いいんだよ。生えてから後悔すりゃ」
リット達が戻ると、ツタの橋はだいぶ完成に近付いていた。
一本だけ伸ばしていたツタは複雑に絡み合い、縄梯子のように足場ができていた。
「旦那ァ、これ凄いんスよ。ナーっと伸びて、サワサワっとツタが編み込まれていくんスよ」
ノーラはツタの橋が完成されていくのを楽しそうに眺めていた。
リットも、マックスを探しに行く前とは比べ物にならないほどしっかりした橋を、興味深そうに覗いた。
「おい……橋の床がスカスカじゃねぇか」
足場は網目状になっているが、踏み外しそうになるくらいの隙間があった。
「気を付けて渡れば心配ない。それに落ちるほどの隙間はないはずだ」
「踏み外して真っ逆さまに落ちるならいい。でもな、踏み外して落ちないとどうなると思う? 死ぬより痛い苦しみが股間に襲ってくんだよ」
「まったく……これだけわがままな登頂者は初めてだ。……これでいいか?」
アルラウネは網目を狭めた。同時に幅も狭くなったが、むしろこの方がツタの手すりを持ちやすいので、安全に歩けるだろう。
「いっそ中腹から引き上げてくれたように、浮遊大陸までツタで届けてくれて良いんだぞ」
「構わんが、途中でツタを伸ばす栄養が切れて落ちるがいいのか?」
それでもいい。という答えが返ってこないはわかっているので、アルラウネは気にせずツタの橋を作り続けた。
そして、出来上がったばかりの橋を神妙な面持ちで眺めるリットに、ノーラが気楽な様子で声を掛けた。
「旦那ァ、もしかして怖いんスか?」
「もしかしなくても怖えよ。生まれてこの方、植物に命を預けたことなんてねぇからな」
「それじゃあ、私が記念すべき第一歩を」
ノーラが片足を上げたところで、リットは肩を掴んで止めた。
「まぁ、待て。浮遊大陸はマックスの第二の故郷とも言える。マックスに第一歩を譲ってやろう」
「それもそうっスね。ささ、どうぞ」
ノーラはマックスに道を開けた。
「兄さん……。僕で安全かどうか確かめるつもりですね……」
「マックス……。オマエなら橋が崩れても、ここまでは戻ってこれるだろ」
リットはマックスの肩を掴むが、アルラウネの「早く渡ったほうがいいぞ。即席の橋だから、時間が立てばツタが枯れる」という言葉を聞いて、マックスの肩から手を離した。
「オレが先に行って安全を確かめるから、後を続いてこいよ」
「兄さん……情けなさすぎますよ」
「オレは勇者でも英雄でもないんでな」
リットはツタの橋に足を下ろす。
軋む音とともにツタの橋が揺れた。
しかし、思っていたよりも不安定ではなく、縄橋を渡っているような心地だ。
「大丈夫そうっスね。今行きますよォ――っと」
立ち止まらず歩くリットを見て、ノーラはツタの橋に飛び乗った。
ノーラの体重に合わせて、ツタの橋は大きく揺れ、リットの体は危うく外に飛ばされそうになった。
「……今行くってのは、殺しに来るってことか?」
リットはツタの手すりにしがみつき、お気楽に歩いてくるノーラを睨みつける。
「いやですよォ。つい弾みですよ」
そう言ってノーラはリットの股の下をしゃがんでくぐり、スタスタと歩いていく。
「足が短えのは得だな。恐怖心ってものがねぇ」
リットはツタの手すりに掴まりながらノーラの後を続いた。
取り残されたマックスはまだ踏み出せずにいた。
橋を見つめる意味に気づいたアルラウネが、マックスに声を掛ける。
「大丈夫だ。十人の団体だっていっぺんに渡れる」
「よかった。それなら安全ですね。それでは、お世話になりました」
マックスはアルラウネに向かって一礼すると、頭から落ちたチルカにしばかれながら、リットを追いかけるように足早に橋を渡った。
マックスは合流するなり、リットに頭を叩かれた。
「いいか、もう二度とするなよ」
「本当っスよ……旦那が駄々をこねて網目を狭めて貰わなければ、私は隙間から落ちて、真下のスリー・ピー・アロウでゾンビになってましたよ」
マックスが走って追いかけてくる間、リット達がいたツタの橋の上は荒波に浮かぶ小舟のように揺れていた。
「すいません……。速く追いつこうと思ったものですから」
「そんなことより、これって本当に浮遊大陸に続いてるんでしょうね」
チルカは遠くを見て目を凝らした。
橋の先は霧のような雲のようなものに包まれて見えなかった。
「そんなことで片付けんなよ。飛べるからってよ」
「飛べたって、こんなところで放り出されたら、食べるものがなくて死ぬわよ。どうすんのよ。先に浮遊大陸がなかったら、行くも戻るも地獄よ」
だいぶ歩いてきたので、何かあっても戻るには時間がかかる。しかし、あとどれくらい歩けば浮遊大陸に着くかもわからなかった。
「止まったら、それこそ地獄だ。ツタが枯れなくても、風でちぎれんじゃねぇだろうな……」
上空の風は強い。時折歩けなくなるほどツタの橋が揺れる。
しかし、その風が白いもやを払い、徐々に浮遊大陸の姿を露わにし始めた。




