第二話
リットが動かなくなったのを感じたのか、太いツタは肩をもう一度叩き、腕に絡みついた。
これが頂上にいるアルラウネが垂らしたツタなのかと、リットが触ってみたところ、急にツタが活発に動き始めた。
ツタはリットの体に巻き付くのではなく、胸ぐらをつかみ引き寄せた。
リットは尻餅をついたまま樹洞を引きずられ、あっという間に折り返し地点の外へと飛ばされてしまった。
内臓を口から抜かれるような奇妙な感覚は頂上に着くまで続き、引き上げられる時の風圧でできなかった呼吸は、頂上についても息がうまく吸えなかった。
吸っているのか吐いているのかわからない呼吸をしばらく繰り返しながら、リットはまだ地に足がついていないことに気がついた。
足元に年輪は見えるものの、まだツタに抱えられたままでいる。
そのツタを目でたどると、目の前には枯れ枝が髪のように長く伸びているアルラウネがいた。
アルラウネがなにか言っているが、耳元で心臓が鳴っているかのような激しい動悸で、リットには向こうが何を言っているか聞こえなかった。
ほんの十秒位経つと、風の音に混じってアルラウネの声が耳に届き始めた。
「……何か言うことは?」
アルラウネは腰下で、自分にとぐろを巻くようにして重ねたツタの溜まりに肘を乗せて、不機嫌に眉をひそめている。
リットは「二つある」とゆっくり慎重にこたえた。余計な刺激を与えては、すぐに爆発しそうだったからだ。「――一つは腰が抜けた。――もう一つは尿が棒のところまできてる」
「つまりなんだ?」
「このまま漏らしていいかを聞いてんだ」
リットが言い終えるか言い終えないかのあたりで、「尿は毒!」というアルラウネの言葉とともに、リットは頂上から空中へとツタによって飛ばされた。
リットは用を足しながら、外側から天望の木を眺めた。
天望の木の頂上の周りにはなにもない。枝も葉もなかった。切り株を上から見下ろしたようだ。
つまり、誰かが天望の木の頂上を切って、平らにしたということになる。
リットがモノをズボンの中におさめ終えると、さっきいた場所までものすごい勢いで引き戻された。
「さぁ、スッキリしたなら言うことがあるだろう」
アルラウネは眉間の皺をよりいっそう深くした。
「覗くなよ……」
「覗かないと、終わったか終わらないかわからないだろう。それより、早く謝ってもらおうか」
「何をだよ」
「私が育てている花をちぎっただろう! 花は見て楽しむものだと知らないのか」
始めこのアルラウネがなにを言っているのかがわからなかったが、リットはチルカが木の実と間違えて花びらをかじっていたことを思いだした。
「ありゃ、オレじゃねぇよ。犯人は下にいるから、ついでに残りも引き上げてくれ」
リットが言うと、ようやく体に巻き付いてたツタが解かれた。
アルラウネはまだ何か言いたそうな顔をしていたが、腰辺りから新しい太いツタを下に向かって伸ばし始めた。
「ツタを伸ばすのは疲れるんだぞ。特にこの栄養が少ない天望の木の頂上ではな」
「栄養なんて、天望の木からとるんだからいいじゃねぇか」
「そんなことをずっと続けていたら、そのうち枯れるだろう。中腹は腐葉土が溜まるから、こうやって中腹まで寄生根を伸ばして栄養をとっているんだ」
アルラウネは足を高く上げるように根を伸ばすと、それを天望の木へ突き刺した。
「枯れるか? こんなでかい木が」
「すぐには枯れない。だが、いずれは枯れる。ツタを伸ばすのに必要なエネルギーなど、人間にはわからないだろう」
「まぁ、たしかにわからねぇけどな。……ところでだ、ここは本当に頂上であってるのか?」
リットはあらためて辺りを見回した。木ならばてっぺんは葉が生い茂っているはずだが、それを生やすための枝もない。外から見たとおりだ。まるで成長する気がないように見えた。
「言いたいことはわかるぞ。今まで頂上に来た何百人も同じような顔をしていたからな。天望の木は雲の上へ出ると、その部分は休眠状態に入る。葉が生えるのは雲の下だ」
「なら、ここで待ってれば浮遊大陸が来るってことでいいんだな」
「これがあればな」アルラウネは自分の頭から伸びている枝を指した。枝の先端には花芽がついていた。「これを咲かせると、向こうが見付けてくれるというわけだ。天望の木の頂上に咲く花は私一人だけだから――な」
アルラウネは力を入れるように語尾を強めた。すると同時に、マックスが引き上げられてきた。
「さぁ、花をちぎったことを謝ってもらおうか」
アルラウネは凄むが、マックスは何も喋らなかった。
「ムリムリ、すぐには喋れねぇよ。もっとゆっくり引き上げろ。怒りに任せていきなり引き上げるから、呼吸ができねぇんだよ」
リットはマックスの目の前で手を振ってみたが、呆然としていてそれにも反応がなかった。
「怒らせるようなことをするからだろう」
「だいたい、花をちぎったのはコイツじゃねぇ」
「……私をからかっているのか」
「たぶん、次に引き上げるドワーフに引っ付いてくる」
アルラウネは面倒くさそうにため息を付くと、マックスからツタを解こうとした。
「待て待て、まだ早い」
「ツタはいっぺんに伸ばせないんだ。この天使を持っているあいだは、下にいるドワーフは連れてこれないぞ」
「二度手間になるから、ちょっと待てって言ってんだ」
しばらくすると、マックスは「あの……まずトイレを……もう、漏れそうで……」と、苦悶の表情を浮かべながら言った。
「まったく……私は赤子を抱える母親じゃないんだぞ」
その後、同じように引き上げられたノーラにもおしっこがしたいと言われ、アルラウネは頭を抱えた。
「別にその辺でしたってかまわねぇよ」
「私がかまう。キノコが生えるからな」
「あのなぁ……別に男のアレがキノコに似てるからって、胞子みてぇに増えるわけじゃねぇんだよ」
「尿のあとに生えるキノコがあるんだ。そっちは浮遊大陸に行ってここからいなくなるが、私はそいつと暮らさなければならない」
「オレの名誉の為にも、是非とも立派に育ってもらいたいもんだ」
「だから、するなと言っているんだ。するなら、降りてしろ」
アルラウネは樹洞を指した。
「最初から教えてくれりゃいいのに」
「腰が抜けて動けないと言ったのはそっちだろう……」
疲れたようにため息を付くアルラウネを見て、マックスが申し訳なさそうに頭を下げた。
「えっと……すいません……」
「もういい、怒る気も失せた。浮遊大陸が流れつくまで、せいぜい静かにしててくれ」
その言葉と同時にノーラが引き寄せられた。
「なげぇ小便だな」
「旦那達と違って、脱がないとできないんスよ。それで、これからどうするんスか?」
「浮遊大陸がつくまで待つしかねぇな」
「ここで?」ノーラは辺りを見回した。「なぁーんもないっスよ。木の上というより、荒野にいるみたいっス」
「風よけくらいは作ってやれる」
アルラウネは根を伸ばして、網目状の壁を作った。
「そうじゃなくて、食べ物っスよ」
「水は端に行けば、丸い葉が群生している」
「水じゃなくて、食べ物っスよ。お肉とかお魚とか」
「しばらくは持ってきた食料で我慢しろ。中腹から一気に登ってきたから、かなり余ってるだろ」
そう言ってリットが歩き出すと、その後をマックスがついてきた。
「どこに行くんですか?」
「出すもん出したら、喉が渇いたから葉を取りに行くんだよ」
「それなら僕も。なんか緊張しちゃったのか喉がカラカラで」
三十分ほど歩くと、リンゴくらいの大きな丸い葉が転がるように生えていた。葉はツルでつながり、這うように伸びているので、いくつか葉を付けたまま切り取れば、喉が渇く度に取りに来なくて済みそうだった。
「ここまで来るとまん丸だな」
リットはナイフで葉を一つとり、リンゴのヘタを抜くように穴を開けるとマックスに渡した。
マックスは「ありがとうございます」と受け取ると、一気機に飲み干した。
青臭いにおいはするが、中には透明な水が蓄えられている。無味だが、苔の生えた池の水を飲んでいるようだった。
「それにしても広いな」
リットが葉水を飲みながら遠くを見ると、マックスも天望の木の広さを確かめるように見渡した。
「お城の広間よりも広いですね。このままくり抜けばお城が作れそうです」
「そこまでは広くねぇよ。せいぜい砦くらいなもんだ」
「それでも充分広いと思いますが……」
マックスは足元に、波のように流れる雲海を眺めた。
白波を立たせる滝のようにささくれた雲は、形を変えながらゆっくりと流れていく。時折、飛沫を上げるように大きく盛り上がった雲が、頂上を飲み込むようにして足元を通り抜けていった。
天望の木の頂上に生える葉は、天望の木の内側に伸びる枝から生える葉とは種類が違う。天望の木が吸い上げた水で育つのではなく、この雲の水蒸気を浴びて育つ。地面からいつでも水を吸い上げられるわけではないので、中に水を溜め込められるようにリンゴのように大きく成長している。
これは浮遊大陸の植物と同じような育ち方だった。
「まぁ、そうだな。それにしても……雲の上より、地面の下のほうが賑やかだってんだから、わかんねぇもんだな」
「浮遊大陸に行けば色々あるんでしょうけど、まだ木の上ですからね。……本当に流れ着いてくるんでしょうか」
「来る来ないより、下痢のほうが心配だ」
水分だらけの植物の調理など思いつかず、そのまま食べるのが主流そうだ。
浮遊大陸の植物が全てこんな状態なら、水分のとりすぎでお腹を壊しそうだった。
リットは葉玉を四つつけてツルを切ると、一度肩に担いだが、中に水が溜め込められているので思ったより重くのしかかってきた。
リットは「ほれ」と葉玉のついたツルを投げると、マックスは落とさないようにツタに手を絡めて取った。
「……自分で持たないんですか?」
「好きだろ。筋トレ。オレは嫌いだ」
リットはマックスに早く着いてこいと、指招きをすると歩き出した。
リットとマックスが元の場所へと戻る途中、遠目から染めたように真っ赤な花が咲いているのが見えた。
まるで空に咲いているように見える。もっと近付くと、アルラウネが高く伸ばした髪枝から咲いているのが見えた。
「今は枯れ木で老婆のような姿だが、浮遊大陸に帰れば若々しい緑に戻る」
アルラウネは幹の腰をくねらせて、ノーラとチルカに向かってポーズを取っていた。
「静かに待てって言っただろ。なに一番はしゃいでんだよ」
リットが言うと、アルラウネは間をとるように鼻をふんっと鳴らした。
「はっきり言おう。何年も誰も来なくて寂しかった」
「ここの真下のスリー・ピー・アロウが、人を受けれ入れられる状態じゃないッスもんねェ」
「なに? それは知らんぞ。それならここにいる必要はないではないか」
「どうせここから動けねぇだろ」
リットは天望の木に、血管のように広がり、しっかり張っているアルラウネの根を見た。
「天望の木の頂上管理は数年で交代制だ。浮遊大陸に戻れば寄生根を張らずとも生きていける」
「浮遊大陸生まれなのか?」
「そうだ、『イットウジマ』生まれだ」
「なんだ、浮遊大陸じゃねぇのかよ」
「浮遊大陸のイットウジマだ。浮遊大陸は一つではない。いくつもある小さな島の総称を浮遊大陸と呼ぶ。私が生まれた場所は高い木が一本生えていて、塔のように見える。だからイットウジマと呼ばれている」
「それじゃあ、お目当ての島じゃない時は、ずっとここで待ってないと行けないんスか?」
ノーラはマックスが持ってきた葉玉に歯を突き立てて、穴をあけながら聞いた。
「浮遊大陸の流れる速さは別々だ。空で島同士が近付くこともある。その時に、花粉を運ぶハナバチのように、天使族に運んでもらえばいい」
「まぁ、なんにせよ。こんな何もないところからは早く離れたいっすねェ」
「私もそうだ。こんなに乾いた場所とは離れたいものだ。浮遊大陸に戻ったら、さっさと伸びた髪枝をバッサリ切りたい」
「頭重そうっスもんねェ」
「それだけではない。枝を剪定すると、芽が萌え出、柔らかく光沢のある美しい新葉をなびかせる」
アルラウネは葉が生えたのを想像するように、枝に指を通した。
リットは指の隙間から伸びる髪枝を見上げた。その先には、遠くからも見えていた赤い花が咲いている。
「そういえば、その花が天使族が見付ける花なのか?」
「そうだ。ここで赤色は、この花しか存在していないからな」
「確かに。殺風景なこの場所でその花は目立つ。でも、目立つと言っても限界があるぞ。やっぱり、天使族ってのは鳥なのか?」
リットはマックスの白い翼に目を向けた。
「やっぱりとはどういうことですか……。天使族は天使族。ハーピィと同じ有翼種族ではありますが、鳥ではありません。ずっと一緒にいるんだから、それくらいわかるでしょう」
マックスは僅かにからかいを含んだリットの目に、若干苛立ちながらこたえた。
「天望の木の端まではギリギリ目立つだろうけどよ。流れてくる浮遊大陸からは見付けられないだろう」
「浮遊大陸には『グリム水晶』があったからな。天望の木に近付くと、浮遊大陸からそれを使った望遠鏡で覗く。私が赤い花を掲げていたら客がいるということだ。それを見て、向こうは出迎えの準備をする。そして私はそこにツタの橋をかける」
アルラウネは簡単だろうとでも言いたげに肩をすくめた。
「言うだけならな。それより、チルカはどこにいんだ?」
「ここよ!」
チルカの声はアルラウネの花の上から聞こえてきた。
花びらの上に腰掛けて、偉そうにふんぞり返っている。
「なにパンツを見せてふんぞり返ってんだよ」
「見たいなら見ればいいわ!」
「……オマエの花から、頭がおかしくなるニオイでも発してるんじゃねぇだろうな。元々頭がオカシイやつが、よりオカシクなるなんてよっぽどのことだぞ」
リットが聞くと、アルラウネは「そんなはずはないんだが……」と首を傾げた。
「雲の上! 太陽に近い場所! もう――チルカちゃん絶好調よ!」
チルカが思いっきりふんぞり返ると、頭から落ちていった。
しかし、床すれすれのところで羽を開き衝突を避けた。
「落ちると思ったでしょ? アンタの話と一緒! オチなし!」
そう言ってチルカは高笑いを響かせてから、床を転げ回った。
「オレの酒でも飲んだんじゃねぇだろうな……。弁償させるぞ」
「あれですよ。ローレンが一日で五人の女の子とデートした時に似てます。ほら、むかぁーしむかし、変な薬草の汁飲んでたじゃないっスか。そのあと、何日も寝込んでましたけど」
「あぁ、滋養強壮みてぇなもんか。いきなり強い太陽の光を浴びてハイになったわけだ……」
しばらくして、雲海に夕日が落ちて、遠くの雲が枯れ葉が燃えるように縁だけ赤を混じらせた黄金色に光り始めたが、チルカのハイテンションが続いていたせいで、それに心を奪われる事はなかった。




