第二十三話
二日酔いは過ぎたものの、その後数日、リットは風邪のような症状に見舞われていた。
原因は間違いなくヒシンという酒のせいだ。
スリー・ピー・アロウに住む魔族には影響がなくとも、人間であるリットにはなんらかの影響があった。
リットは熱でうなされるようにボーっとする頭で、きっと別の飲み方があったに違いないと後悔していた。
今までさんざん寝ていたせいで寝られず、棺桶の蓋の裏を眺めていると、ズズズと重い音を立てて棺桶の蓋が引きずり開けられた。
半分ほど開けられたところで、真っ暗な世界が光とおさげの影に変わった。
「いやァ……棺桶の中からうめき声が聞こえるって、なかなか怖いもんスねェ」
地底湖から汲んできた水の入ったバケツを、半分開けられた棺桶の蓋に置く音が聞こえた。
「本当にオレが死んだ時は、酒と本とランプを棺桶に入れてくれ。蓋の裏を眺めるのは、すぐ飽きるからな」
「死んだ後くらいお酒を控えたほうがいいですよ。もし中でこぼして棺桶に染みができたら、漏らしたと思われますよ。だいたい火は食べるものじゃなくて、食べるものを作るときに使うものですぜェ」
ノーラはバケツから手ぬぐいを取り出すと、リットの額に置いた。
「当たり前のこと過ぎて反論もできねぇな……」
リットの額に置かれた絞りきれていない手ぬぐいからは、雪解けのようにポタポタ水が流れて頬を伝い肩を濡らしたが、それをどうにかしようとする元気もなかった。
「でも、お酒じゃなくてお肉とかだったら、チャレンジする気がわからないでもないですね。こう、お肉の脂がドワドワっと燃えるのを見るのは、ほっぺが落ちるほど美味しそうなんスよねェ」
「やめとけ……。オマエが火をつけたもんを食ったら、胃が焼け落ちるぞ」
「焼くといえば、冬眠ガエルの焼きスープを買ってきましたよ。私が寝る間以外の時間を惜しまず使って調べた所、スリー・ピー・アロウで一番美味しいのは、冬眠ガエルの焼きスープだということがわかったんです」
ノーラが棺桶の蓋に石の皿を置くと、冷えて乾いた空気を潤すように、温かく湿った空気が流れた。
宿を経営するノーデルは大人数の料理を作るため鍋を使っているが、スリー・ピー・アロウでは石の食器ごと火にかけるので、まだグツグツと煮える音が聞こえていた。
「こんな状態で食えるかよ……」
「眠れないんでしょ? 私はお腹いっぱいになったら眠くなりますけどねェ。それに、ドワーフには長年続く民間療法があるんスよ。病気は食べて治せという」
ノーラはスープをすすりながら言った。
元からリットが食べる気がないのがわかっていたので、スープに手を付けるのは早かった。そもそも石の皿を棺桶の蓋に置いただけで、スプーンは自分の手に持ったままだった。
「そりゃまた……頭の良い種族だな」
「でも、食べないとよくなりませんよォ」
「別に風邪をひいたわけじゃねぇよ。二日酔いが長引いてるだけだ」
「だいたい、そのお酒の材料はなんなんスかァ?」
「知らねぇよ。聞いたらよけいに具合が悪くなりそうだ……」
そう言うとリットは目を閉じた。
眠くなったわけではなかったが、そうした方が楽になる気がしたからだ。
視界が暗くなる代わりに耳が研ぎ澄まされ、ノーラの育ちの悪い咀嚼音が耳に響くが、不快になるものではなく、リットにとってはむしろ家にいるような安心する音だった。
最後に満腹を知らせる満足気なため息が聞こえると、ノーラは「お大事にしてくださいよォ」と言い残して、どこかへと足音を向かわせた。
リットは「おう」と短く返すが、それが聞こえる前にノーラは行ってしまった。
しばらく経ち、リットが眠りの世界へと腰まで浸かっていると、思い出を確認するように、それでいて夢の中へ語りかけてくるようなセイリンの声が聞こえてきた。
岩浜にこびりついた海藻を洗い流すさざ波と、緑の匂いを連れてくる山風が子守唄だった。
生まれた時の記憶はなかったが、生まれてから数年が経っているのはなんとなくわかった。どことなくイサリビィ海賊団の隠れ家と似たような島だ。
魚を捕り、木の実を採り、沢で水を汲む。生きていくのには不自由のない場所だったが、自然ばかりでなにもない場所だった。
無人島ではないが、急傾斜の崖のような下に突き出した岩浜にいるせいで、誰かと顔を合わせるようなことはほとんどなかった。
たまに山の麓にある村へ、服や食器などの日用品と交換するため海の幸を持っていくくらいだ。
初めは小屋に住んでいたが、幾度かの嵐で壊れてしまい、慣れない大工仕事で直していくうちに、寝るスペースしかなくなってしまった。
それで、打ち上げられてあった小舟に葉で屋根をつけて貯蔵庫にして、木の実などの食料や、火付け用の枯れ草や薪などを入れていた。
魚を捕り、木の実を採り、薪を拾い、ご飯を食べて寝る。ルーティン化された生活の中には、誰のものともわからない頭蓋骨を思い出すというのもあった。
母親は生まれてしばらくしてすぐに死んでしまい。その亡骸を埋めるために掘っていた穴で見つけたものだった。
墓がある場所は岬の先端。山を見上げ、海を見下ろせる場所だ。
母親の遺言はセイリンに向けられた「いつまでも愛している」の一言と、その場所に埋めて欲しいと言う願いだった。
セイリンはまだ幼く、慣れない一本と一尾の足取りで埋めに行った。
先に埋められていた骨はほとんど分解されていたが、不思議と頭蓋骨と大腿骨一本は白骨化したてのように傷一つなく残っていた。
それが誰のものというのは気にならなかったし、恐怖もなかったが、なぜか強烈にその頭蓋骨のイメージが頭に残った。
安堵とも高ぶりとも違う、詩人だったらなにか名付けるような感情を、名前を付けないまま胸に置いて、空に似たような形の雲を探すくらいだ。
そのせいか、短い期間だけ一緒に過ごしたおぼろげな母親の姿よりも覚えている。
そして、自分の歳を数え始めるようになってから十年ほど経ったところで、大きな嵐がやってきた。
今までの嵐とは違い、風が塊で押し寄せてくるような嵐だ。
朝になり、寝るためだけのボロ小屋が全壊すると、代わりに小さな来訪者が二人現れた。
岩浜に打ち上げられた人魚は、何も言わずセイリンを見て、錆びた鉄をこすり合わせたようなキュルキュルした音を、お腹から鳴らしている。
一人の人魚が「あの……なにか食べ物を……」と言うと、もう一人の人魚が尾びれで背中を叩いた。
「しっ! 黙ってやり過ごすのよ。人魚が高潮に流されたなんて、知られたら恥じよ」
「プライドじゃお腹が膨らみませんよ……」
「あと何年かして産卵期を迎えるようになったら、勝手に膨らむんだから我慢しなさいよ」
「その前に死んじゃうよ……」
声の大きな内緒話をする二人の人魚に、セイリンは木の実を渡そうと手を伸ばした。
「墓を作りに岬に登るのは面倒だ。食うなら食え。食わんなら、どこか別のところで死んでくれ」
先に手を伸ばしたのは空腹を訴えていた人魚ではなく、もう一人の人魚だった。
「そういうことなら食べてあげるわよ」
そう言って素早く木の実を取ると、果汁をお腹にこぼしながらかぶりついた。
「あっ! スズキ・サンずるいです!」
「物事は臨機応変によ。イトウ・サン」
二人が一気に木の実を平らげてひと息ついたところで、セイリンが切り出した。
「人魚というのはよく溺れるものなのか?」
「ここに来た理由をよく知ってるじゃない……。さては、私達が苦しんで流れ着いてくるところを黙って見てたわね」
スズキ・サンは蛇のように尾びれで立ち上がると、セイリンに詰め寄った。
「違うよ、スズキ・サン。全部、スズキ・サンが自分で言ったんだよ」
イトウ・サンがセイリンをかばうように立つと、スズキ・サンは偉そうに腰に手を当てて「なるほど……巧妙な罠ね」と呟いた。
「なんでもいいが、人魚ならさっさと泳いで帰ったらどうだ?」
「あなたも人魚でしょ。こんなところに一人でなにやってるの?」
スズキ・サンはセイリンの尾びれに目をやった。
「食べて、寝て、糞をして、たまに空を眺めて生きている」
「暗いわね……。尾びれを持ってるってことは、それだけ自由に生きられるってことよ。あなたはここにいるから知らないでしょうけど、世界の殆どは海なんだから」
「海を自由に生きるには、邪魔なものが一つついているからな」
セイリンはお尻に敷いていた足を放り出した。
イトウ・サンとスズキ・サンは驚きの声を上げたが、セイリンが予想していた驚きの声とは別物だった。
「へぇ、二股の人魚はよく見かけるけど、人間の脚があるのなんて初めて見たわ。水陸両用のエリートってわけ。それはそれは……高潮に流された私みたいな人魚見下すでしょうね」
スズキ・サンは拗ねたようにそっぽを向いた。
「いちいち突っかかるな。便利よりも不便なことのほうが多い。尾びれが乾くから、水辺じゃないと住めないからな」
「私なんか、水の中じゃないと住めないわよ」
「私は水の中に住めない。息は止められるが、水中で呼吸はほとんどできないからな」
スズキ・サンは「なーんだ」と笑顔を見せた。「つまり水の中じゃ私に勝てないってわけね」と、昔ながらの仲間のようにセイリンの肩を気安く叩く。
「ただ、私の頭は悪くないことに今気付いた。今まで比べる相手がいなかったからな」
「なるほど……そこまで言うなら、人魚と水が合わさった時の怖さを思い知らせてあげるわよ」
「ここは岩浜だぞ」
セイリンが呆れたため息混じりに言うと、スズキ・サンはゆっくりと辺りを見回してから、後ろの海を指した。
「……あっちの沖まで移動しない?」
「する気がないから、自分の頭が悪くないと確信したんだ」
セイリンとスズキ・サンの間に沈黙の間が流れると、それを割ってイトウさんが入ってきた。
「ねっねっ、スズキ・サン。人間の脚があるなら、あそこにも行けるよ。あれを採ってもらおうよ」
「そういえばそうね。ちょっとついてきなさいよ。えーっと……」
セイリンが「セイリンだ」と名前だけ言うと、「私はイトウ・サンです」とイトウ・サンが握手をした。
「私はスズキ・サンよ。早く用意しなさいよ、セイリン」
「……急すぎてついていけん」
「人魚しか入れない島があるの。その上に美味しそうな木の実がなってるんだけど、私達は陸じゃ満足に動けないから頼んでるのよ」
「前は惜しかったよね。雨が降って滝ができてたからイケると思ったんだけど……垂直な滝は泳いで登れないのは知らなかったね」
人魚の二人はそれぞれセイリンの左右の腕を掴んで、海へと引っ張ろうとするが、陸ではセイリンに分がある。簡単に振り払うことができた。
「だから行かないと言ってるだろう」
「そんなこと言ってた? イトウ・サン」
「うーん……なんかついてこいとは言ってたような……」
「なら、ついていくわよ。早くしてよね」
「話についていけないと言ったんだ……」セイリンは肩を落としてため息をつくと、人魚二人の腰を持って歩き始めた。「どうしてもついてきたいなら、理由を見せてやる」
セイリンは岩と木に体を預けながら、二人を担いで岬まで来た。
「母親の墓だ。わかるだろ」
「なるほどね」
スズキ・サンはそこらに生えている花を摘み取って墓に供えると、同じくイトウ・サンも花を供えた。
「それじゃあ、最後の別れも済んだし行くわよ」
「そういう意味で連れてきたんじゃない――」
セイリンが最後まで言い終える前に、イトウ・サンとスズキ・サンはセイリンの腕を両サイドから掴んで、岬から海へと飛び込んだ。
さっきと同じ陸だが、少しバランスを崩せば後は落ちるだけ。セイリンは抗う間もなく、二人の人魚と海へ落ちていく。
セイリンは水に叩きつけられる衝撃を覚悟して目を固く閉じたが、海面は秋の枯葉に寝転んだように優しく体を受け止めた。
「行きたい時に行き、戻りたい時に戻る。それが海に生きる種族よ」
というスズキ・サンの声は尾びれが立てる水しぶきにかき消されたが、セイリンの文句も同じようにかき消された。
水平線近くの雲が金色に縁取られ、赤錆色に染まる。太陽が水平線にくっつくと、ようやく泳ぐスピードが緩まった。
「沖も通り過ぎてしまったぞ……。これでは戻れん……」
セイリンが諦めのため息を吐いたところで、急に辺りが暗くなった。嵐に遅れた雨雲が今頃やってきたのかと顔を上げれば、大きな船体が夕日を隠すように通り過ぎているところだった。
「あれは船ですね。それも海賊船。あれも海を自由に生きる象徴の一つですよ。どうかしましたか?」
泳ぐのを止め、船を見上げるセイリンにイトウ・サンが少し心配そうに訪ねた。
しかしセイリンはこたえず、船が通り過ぎるまで、夕日に陰るドクロマークの旗に目を奪われていた。
「それで連れて行かれたのが、あの隠れ家だ。イトウ・サンとスズキ・サンの二人が、一番古い顔馴染みというとになるな」
「結局、古い記憶に両親のことは残ってねぇのか」
リットは重く開かないまぶたを閉じたまま聞いた。
「まぁ、そういうことになるな。それから、海賊になるまでのことは鮮明に覚えているが」
「わりぃけどよ。次起きたら、内容なんかほとんど覚えてねぇぞ」
「かまわん。そう思って話したからな。ただ、深酒をしたら、昔のことを思い出しただけだ」
セイリンが半分開けられた棺桶の蓋に何かを乗せる音が聞こえたが、リットはそのまま目を開けずに眠ってしまった。
それからまたしばらくして、リットが眠りの世界から現実の世界へとつま先を出し始めた辺りで、耳元で重いものが落ちる音が聞こえた。
リットが目を開けると、チルカの羽明かりが棺桶の蓋に落ちるところが見えた。そのまま首だけ顔だけ横に向けると、細長い石が刺すように耳元に置かれていた。
「なんだ……とどめを刺しに来たのか?」
「なに言ってるのよ。お見舞いの『像花』を持ってきたのよ。ありがたく思いなさいよね」
細長い部分は茎で、少し視線を上げれば石を細工して作られた花だというのがわかった。
花が咲かないスリー・ピー・アロウで、代わりに墓に供えられるものだ。
「どう見ても、見舞いの花じゃなくて手向けの花だな……」
「どっちでも同じようなもんよ。知ってる? アンタから巻き上げたお金で買ったのよ」
「わざわざ、嫌がらせのために金を使うとはな……」
「別に気にしなくていいわよ。マックスが将来見知らぬ双子の父親になったら、こんなお金は鼻くそみたいなものだから」
「鼻くそは、オマエにお似合いの花だろ」
リットは棺桶から腕を伸ばして、チルカをデコピンで飛ばそうとしたが、力の入らない指は軽々チルカに避けられてしまった。
「アンタねぇ……。具合が悪い時くらい、おとなしく寝てなさいよ」
「もう良くなったっつーの。キレのいい糞が出た後みたいにスッキリしてる。ただ、寝起きで力が入らねぇだけだ」
リットが体を起こすと、ノーラが持ってきて全て平らげた空の石皿にお金が積まれているのが見えた。
リットの視線を辿ったチルカは「これね」と嬉しそうに声を上ずらせた。「ノーデルはゾンビになってから起きてくる。ボンデッドは白骨化してから起きてくる。私は、アンタがマヌケなまんまで起きてくる。つまり私の勝ちってわけね」
「都合のいいカモを見付けやがって……。それで。この酒は誰が賭けたんだ?」
リットはお金の入った石皿の隣に置かれている、まだ開けていない酒瓶を手に取った。
「知らないわよ。だいたい、賭けはニコニコ現金って決めてるのよ」
「あんまりゲスい金を溜め込むと、浮遊大陸に行く前に重みで落っこちるぞ」
リットは酒瓶の栓を抜きながら言った。
瓶からはラム酒の匂いがしていた。




