第二十一話
あれからしばらく経ち、覚えたての薄化粧のように、冬の空に僅かばかり春の日差しが混ざり始めた。
しかし、冬の盛りは過ぎたものの雪解けには至らず、冬の最後のあがきのような凍風が吹く。
スリー・ピー・アロウでは下から地面を見上げるしかないので、春の息吹を感じるにはまだかかるだろう。
リットは暗い土の中や木のうろに潜んでじっと春を待つ動物になったようだと思いながら、眠らずにスリー・ピー・アロウの穴から落ちてくる朝日を眺めていた。
その日は、昨夜の夜風でスリー・ピー・アロウの穴にできた剣のように鋭く伸びたつららが、水晶のように光る朝だった。
それを遠巻きに眺めながら、ノーデルの宿にある石のテーブルに足を伸ばし座っているチルカが急に口を開いた。
「思うんだけど、あの穴の下には花畑を作るべきね」
「オレも思う。たまにふっとい鼻毛が抜けるけど、毛穴がどうなってんだろうってな」
リットは今抜いたばかりの鼻毛を、ふっと吹いて飛ばしながらこたえた。
鼻毛を抜いた時に出た涙が、朝日を反射するつららを余計にぼやけさせた。
「たまに歩み寄って会話してあげてるんだから、もっとマシな返しはないの?」
チルカはつまらなさそうに顔を歪めて、手持ち無沙汰に石のテーブルを削ろうと踵を立てて強く押していた。
靴の裏についた土が石に擦れて、ジャリジャリと耳をくすぐるような音を立てる。
特に楽しいわけではないが、チルカはそれを続けていた。
リットもその音に耳を傾けながら、何をするわけでもなくただ椅子に座っている。そして、土に混じった小石が少し高い音を響かせると、それが合図だったかのようにおもむろに口を開いた。
「好きにすりゃいいじゃねぇか。花を植えんのも妖精の役割なんだろ」
「それがムリなのよ。あの穴の真下にある鉱石が太陽の光をよく反射するせいで、周りには苔も生えてないの。きっと光が強すぎるのね」
「オヤジの光るハゲ頭は、よくコケにされるけどな」
リットは気の抜けきったあくびをしながら言うと、気だるそうに両手を伸ばした。
次に足を上げてテーブルに乗せると、汚れた靴を見せられたチルカが少しムッと顔をしかめたが、舌打ちを鳴らすと視線を穴の方角へと戻していた。
「石が反射するから、遠くから見たら上から太陽の光が降り注いでいるように見えるけど、近くで見ると下から上に光が昇ってるように見えるのよね」
「そりゃすげぇや」
そう言ってリットは伸びかけの顎鬚に手をやって、伸び具合を確かめた。
「……アンタ会話する気あるの?」
「むしろなんでオレと世間話をする気になってんだよ」
「ここのバンシーは、皆無口なんだからしょうがないじゃない。私が何か話しても、首を縦に振るか横に振るかしかしないのよ。ノーラは寝てるし、海賊人魚は論外。マックスもいないから、適当にこき使っていびることもできない。腐れゾンビはのろけ話しかしない。わかる? 暇なの。まだ海賊船のほうがマシだったわよ」
チルカはテーブルに背中から倒れると、苛立たしげに両手両足をピンっと伸ばして、言葉にならない唸り声を上げる。
中途半端に陽が入ることが、かえってイライラするらしく、チルカは仰向けに寝たままで器用に地団駄を踏んだり、転がってたり、落ち着かない様子だ。
「マックスならおつかいだ。オレが飲む酒を買いに行ってる」
リットから言葉が返ってくると、チルカは天敵を警戒する小動物のように機敏に体を起こした。
「それくらい自分で行きなさいよ。いびる相手がいないじゃない」
「酒場にはセイリンがいんだよ。だからオレはいけねぇんだ」
「なになに、喧嘩したの?」
チルカは跳ねるように立ち上がると、これから起こる楽しいことを目一杯想像した子供のような笑みで、リットの顔の前まで飛んできた。
「いいや。セイリンが酒場にいると、オレにはどうしても言いたいジョークが出てくる。それが、我慢できねぇんだ。で、言った途端これだ」
リットは袖をまくって腕を見せた。腕にはセイリンの杖でしばかれた痕が、赤く残っていた。
「つまんない理由ね……。あーあ、ノーデルとマリアの仲でもこじらせて遊ぼうかしら。知ってる? あの腐れゾンビ達、仲直りの時に目玉を交換するのよ。アナタの瞳に私がどう映ってるか知りたいの――だって」チルカはリットの手元にある空のコップの縁に座ると、顔だけを上げてリットを見た。「ゾンビの考えることなんて、わけわかんないわね」
「……これだけオレに話しかけてくるってことは、本当に暇なんだな」
「さっきからそう言ってるじゃない。今なら存分に口喧嘩に付き合ってあげるけど?」
「じゃあ、始めよう。で始める仲でもねぇだろ。そんなに暇ならマックスの様子で見てこいよ」
「嫌よ。いくら暇でもアンタの役に立つことはしたくないの。心配なら自分で様子を見てきたら?」
「オレは行かねぇよ。先に結果がわかったらつまんねぇだろ」
リットは踏み固められて色の変わった地面を見た。これは街の中心から続いている道で、ノーデルの宿の先にはサキュバスの宿がある。
マックスがお使いに行ったのはだいぶ前だが、なかなか帰ってこないのを見ると、いつもどおりサキュバスに絡まれて時間を取られているのだろう。
「結果も何も、お酒を買って帰ってくるだけじゃない。それとも、無理難題でもふっかけたの?」
話している最中でチルカが光りだした。それは。朝日の入る時間の終わりを告げている。
リットはテーブルから足を下ろすと、傍らにあるランプに火をつけた。マッチを振って火を消すと、再びサキュバスの宿がある方へ目を向ける。
「ここに来る時、サキュバスの三人組にマックスが絡まれてただろ。あの中に一人、やたらマックスのことを気に入ってる奴がいんだ。疲弊して帰ってくるか、鼻歌交じりで帰ってくるか……。暇つぶしにはもってこいだ」.
「それで、わざわざ一人でおつかいに行かせてるのね。嫌な奴ねぇ、アンタは」
「じゃあ、なんでオマエはオレと同じ方向を見てんだ」
チルカはリットと同じくサキュバスの宿がある方を向いて、マックスがいつ帰ってくるのかを気にしている。
「楽しいからに決まってるじゃない。疲れて帰ってきたら、意気地なしって罵ってやるし、鼻歌交じりで帰ってきたら、親の血を継いでることをネチネチ言ってやるわ」
「オマエ……よく人のことを嫌な奴とか言えたな」
リットは椅子から立ち上がると、すぐにその場にしゃがんだ。
「うんこをするなら、せめて見えないところでしなさいよ……」
「糞するなら先にズボンを脱ぐだろ。どうせなら暇つぶしも有意義に過ごさねぇとな」
リットは手頃な小石を手に取ると、地面に何かを書き始めた。
しばらくして、朝日が嫌いな種族が活発になる時間になる頃に、マックスが戻ってきた。
「兄さぁん」と情けない声を出しながら、足を引きずるようにして歩いている。
「やっと戻ってきたか」
リットが地面から顔を上げると、マックスに背後霊のように抱きついているサキュバスの姿が見えた。
「減るもんじゃないんだからいいじゃない。目をつぶってたらすぐ終わるから」
サキュバスはマックスの頬を誘惑するように指で突いている。
「女を連れて帰ってきたか……」とリットが言うと、マックスは「勝手についてきたんです」と語気を強めた。
すると、リットとチルカは顔を見合わせてから、地面に書いた文字を覗き込んだ。
「女を連れてくるに賭けたのは……私ね」
チルカは床に書かれた文字を背中の羽で照らした。
「連れてきたんじゃなくて、ついてきただろ」
「同じよ。アンタが女がついてきたに賭けてたなら別だけど。そんな項目ある?」
「……ねぇよ」
リットは舌打ちをすると、ポケットからお金を取ってチルカに渡した。
「賭けていたんですか……人の不幸を……」
不機嫌になるマックスの顎を、サキュバスがいたずらっぽく撫でた。
「不幸だなんて。背中の羽で、私の胸を触ってたくせに」
すると、リットとチルカはまた顔を見合わせた。
「我慢できずに、さりげなく胸を触る……また私の勝ちね」
チルカは勝ち誇った笑みを浮かべて手を出した。
リットはまたポケットからお金を出して乱暴にチルカに渡すと、マックスを睨むようにして見た。
「我慢できねぇなら、しっかり揉めよ。また負けたじゃねぇか」
「触ってないです。だいたい、そんなに細かく項目を分けて、嫌味な賭けをしていたんですか」
「細かくなんかねぇよ。だが……」リットは地面に羅列された文字を食い入るように見て、確かめながら口にした。「数年後、マックスの元に見知らぬ子供が訪ねてきたら、オレは大金持ちになれる」
「それが……双子だったら、私はそれより金持ちになれるわね」
チルカも地面の文字を食い入るようにして見ながら言った。
マックスは絶句した後、「もういいから、この人を剥がしてください!」と絶叫した。
「仕方ねぇな。後で話は聞くぞ。背中にキスマークがあれば、負け分を取り返せんだ」
リットがマックスの背中に抱きつくサキュバスの肩に手をやると、サキュバスは妖艶に唇を舐めた。角につけたランプピアスの紫の光が、唾液で濡れた唇を妖しく照らした。
「あら、三人? 別に嫌いじゃないわよ。なんなら妖精ちゃんも混ざって四人でもいいけど。っていうか、二対二でちょうどいいかも。初心な子一人よりも、ぶっきらぼうな男がいたほうが幅が広がるっていうか。でも、あれだよね。両方ガツガツしてないから、ちょっと淡白になりそう。サービスのしがいがないっていうか。マジありえないことあったんだけど。このあいだの客とか最悪で――」
「やめろよ、その喋り方……。妹を思い出すだろ」
リットは懐かしい長台詞に頭を抱えた。
「あー、そっちのプレイね。それなら私よりもちっちゃいサキュバスがいるよ。ママもいるから、細かい要望があれば寝る前に言ってね。淫夢の中であれこれ言われると冷めちゃうから」
「じゃあ、まずその喋り方をやめろ。シルヴァを思い出すだろ。次に、そいつから離れろ。じゃねぇと、マックスが持ってる酒がいつまで経ってもオレのものにならねぇだろ」
サキュバスはごねることなく、すぐにマックスの背中から降りた。代わりにキスをしそうなほどマックスに顔を近づける。
そして、リットにも顔を近付けた。
サキュバスからしている下腹部を刺激するような濁った甘い匂いが、リットの鼻孔をくすぐる。
「シルヴァって、シルヴァ・クリゲイロ?」
「だったらなんだよ」
「マジ? シルヴァのお兄さん? どうりで親近感が湧くわけだ。私、シルヴァの友達だよ。聞いてない? イジリーナ。『イジリーナ・タゲット』。そっかー、友達のお兄ちゃんを誘惑しちゃってたかー。それも、王族だもんねぇ……」
「わかってくれたみたいで、よかった……」
シルヴァの友達ならもう絡んでくることはないだろうと、マックスはほっと一息ついた。
「それはそれですっごい興奮するんだけどね。シルヴァからの手紙に、お兄ちゃんが行くみたいだからよろしくって書いてあったから、ケンタウロスだと思ってたじゃん」
イジリーナはリットの鼻に自分の鼻先を合わせながら喋る。
「手紙? いつ届いた」
「今日の朝方届いたばっかり。帰ったばっかりのボンデッドから届いたの。しかも、封蝋が破けてて、アイツ中身見たんじゃないのかって。でも、見てないって言うから、ついさっきまで言い合ってたわけ。そしたら、マックス登場。これはもう憂さ晴らしに、誘惑するしかないっしょ」
「そういえば、ディアナでマックスを誘う時に、シルヴァに事情を話して服をもらったな……。スリー・ピー・アロウに知り合いがいるなら、先に言えってんだ」
リットはイジリーナから離れると、マックスから酒瓶を受け取った。
「まぁ、あのお気楽娘の友達って言うんだから、同じお気楽娘よね」
チルカは賭けでリットから奪った二枚のお金を、お手玉のようにして遊ばせながら言った。
その中の一枚が高く上がった瞬間、リットはそれを奪い取った。
「なにすんのよ」と吠えるチルカに、リットは地面を指して「よく見ろ」と言った。
「マックスが疲れて帰ってくるに賭けたのはオレだ」
「もう、気付いてなさそうだから黙ってたのに……」
チルカは不満げに口を尖らせると、もう何があっても渡さないといったふうに、残った一枚をお尻の下に敷いた。
「それで、どうするの?」
イジリーナがリットの背中を突きながら言う。
「なにがだよ」
「なんなら、夢の中でシルヴァに化けるけど。どう? 禁断の道を進んでみる?」
「わざわざ夢の中で化けて出てこなくても、露出の高い服に長台詞。半分シルヴァみてぇなもんだろ……。それに、あの婆さんがいる限り、あの宿に泊まることはねぇよ」
「残念だね。お兄さんのこと婆ちゃん気に入ってたのに。昔に恋した男に似てるらしいよ」
「もう老眼なんだから、目と口と鼻があれば誰でも似て見えるんだろ。それより、もうマックスにはちょっかいかけるなよ」
リットは真面目な顔でイジリーナに詰め寄る。
「兄さん……」と感動の声を漏らすマックスの頭を踏みつけて、チルカがリットの元へと猛スピードで飛んでいくと、リットの頭を小突いてから地面に降りた。
そして、地面に書かれた文字をつま先で指した。
「ちょっと、ずるいわよ。マックスがこのまま何事もなく過ごせばアンタの大勝ちじゃない。誘導禁止よ!」
「今のは、兄としての言葉だからセーフだろ。弟のピンチを助けるのがアニキってもんだ」
「じゃあ、不正の気持ちはなかったって、私の目を真っ直ぐ見て言えるの?」
「不正の気持ちはなかった」
リットは真っ直ぐチルカの目を見て言った。
「アンタ……――よく平然な顔で嘘つけるわね」
「嘘じゃねぇだろ。先に助けを求めてきたのはアイツだ。なぁ、マックス」
「もう、どんなに良い言葉でも薄っぺらく聞こえます……」
マックスはどんより肩を落とした。頭をよしよしと撫でて慰めてくれるイジリーナに、先程まで煙たがっていたことを謝りたい気持ちでいっぱいになった。
そんなマックスの様子を見て、リットとチルカは同時に地面に書いてある文字を見た。
「肩を落とすってのは、オレだな」
「アンタのは肩を落として歩いてくるでしょ。話してる最中に肩を落とす。に賭けた私の勝ちよ。さっきの返しなさい」チルカはリットの手を蹴ると、その反動で飛び跳ねたお金をキャッチした。
「たくっ……暇つぶしに付き合うんじゃなかった」
「人魚の卵で稼いだんだから、ケチなこと言ってんじゃないわよ」
「オマエに負けるってのが嫌なんだよ」リットはうなだれるマックスに視線を合わせた。「おい、マックス。ここらで一発逆転を賭けて、宿のサキュバス全員の相手をしてくるってのはどうだ? 取り分はマックスが四でオレが六だ」
「だから、せこいことしてんじゃないわよ!」リットの頬を体で全部で押しやりながら、チルカが割って入る。「マックス。全員なんか相手しなくていいのよ。その半分を相手するだけで、私は勝てるんだから」
マックスは「もういやだ……」と腰砕けになったが、落ち込む暇もなく、リットとチルカの遊びの対象にされてしまった。




