第十九話
夜になり、薄雲が空に張り付き出していた。絹越しで見るように月はぼんやりと満ちている。
リットの瞳は夜にしか見えない情景を捉えていた。
ランプには火を灯さずに、光は窓から射す月明かりだけ。その細い月明かりが窓辺の妖精の白ユリと床を走り、部屋の中心辺りまで届いていた。しおれ枯れた妖精の白ユリと、ライラから了承を得て鉢に植え直した新しい妖精の白ユリ。二輪とも夜風に遊ばれる度に、床に影絵を作っている。
少し前まで妖精の白ユリはランプの灯りに照らされていた。太陽光だけではなく、光を当て続ければなにか変化が訪れるかもしれないと考えたからだ。
しかし、結果は変わらずだ。品種改良された妖精の白ユリは、花開いた形を保ったまま寂しげに咲いている。天然の妖精の白ユリはただただ枯れてそこにあるだけだった。
今度は月明かりだとどうなるのかと見守っているところだ。
結果を待っている間、リットは月明かりを頼りに本を読もうと思っていたのだが、めぼしい書物は読み終えてしまったので、空を見上げるしかやることがなかった。
明日になれば城内備え付けの図書館で調べ物が出来るようにポーチエッドが許可を取ってくれているのだが、今はボーっとするだけだ。
薄雲が重なり、一瞬だけ月の光を隠すと、代わりに違う光が窓の端から飛んでくるのが見えた。
開けられた窓からチルカが入ってくると、二つの花を見比べて、枯れていない方の妖精の白ユリの葉をソファー代わりにして座った。
「まだ起きてたの? 暇なのね」
チルカは茎の上にある葉を枕のように丸めると、その上に後頭部を置いた。
「お互い様だろ」
「アンタなんかと一緒にしないでよ。私は屋敷を探検してるのよ。昼間は怪物に追われて出来なかったから。それにしても……夜空を眺めて浸ってるなんて、根暗かナルシストくらいよ」
「好きでやってんだ、ほっとけ」
「ただボーッとしてるくらいなら、頼りない腹筋でも鍛えたら?」
チルカは嫌味な笑みを浮かべると、お腹を押さえるように軽く叩いた。
「夏の蚊と同じくらいやかましい奴め。だいたい、なにちゃっかり居座ってんだよ」
「アンタの家じゃないんだから、アンタの許可はいらないでしょ。エミリアが好きに居ていいって言ったのよ」
「この屋敷なら鳥籠くらい捨てるほどあるだろうしな」
リットの嫌味にチルカはふんっと鼻を鳴らし、そっぽを向くように空を眺めた。
「アンタじゃないんだから、エミリアがそんなことするハズないでしょ! ちゃんとアンタと同じような部屋に案内をされたわよ!」
妖精に人間と同じような部屋をあてがうのも変な話だと思うが、妖精の為の部屋など用意しているわけもない。
しかし、ライラを除いて屋敷の人間が妖精に順応してるのを見ると、改めてリゼーネは多種族国家なのだと実感した。
この国にいる限り、裸で街を練り歩いてさえいなければ好奇の目を向けられることはないだろう。
「部屋なんか用意されても使い道ないだろ。庭にでも厄介になりゃいいのに」
「確かにドアを開けるのにも一苦労なのよね。アンタにだったら思いっきり文句も言えるんだけど」そう言った苦労の声とは違う、真面目なトーンでチルカは続けた「ねぇ……エミリアのあれなんとかならないの?」
リットの部屋に来る前に屋敷を飛び回っていたチルカは、光が付いている部屋を片っ端から覗いていた。
新しく業務を覚えようとしているメイド、明日の朝食の仕込みをするコック。本を読む者、ランプをつけっぱなしで寝ている者。皆思い思いに夜を過ごしていた。その中には胸を押さえて苦しんでいるエミリアの姿もあった。
「ならねぇから、オレが夜遅くまで起きてるんだよ」
「私が話し相手にでもなってあげようかしら」
「余計なことしないで、ほっといてやれ」
「アンタって見た目どおり冷たいのね」
「オレやオマエが行ったって嫌味ぐらいしか言うことがないだろ。エミリアの性格上平気なフリするだろうし、一人で楽に苦しませておいてやれよ。それに、メイドが定期的に様子を見に行ってるよ」
時折メイドは足音を静かに響かせながら、エミリアの部屋へと向かっている。どんなに足音を忍ばせようと、自然音ばかりが響く夜中では良く耳に付いた。
「へぇ、なんだかんだ考えてるのね」
「珍しく褒めてるのか?」
「カエルと、あとライラって言ったけ? あの女のおかげでアンタの評価は急上昇よ」
「下がることもなさそうだけど、これ以上あがることもなさそうだな。それよりちょっと気になったんだが、妖精は普段なにに使ってるんだ?」
リットはチルカが座っている妖精の白ユリを指しながら言った。
人間にとっては鑑賞や伝説の対象となる花は、妖精にとってはどういうものか、ふいに気になったからだ。
「日光浴代わりと、ベッド代わりくらいね。あと待ち合わせ場所にも使ってるわ。他の花と違って、咲いてる場所が決まってるから目印にしやすいのよ」
「花蜜とかは採らないのか?」
「この花の蜜は不味いのよねぇ……。なんか生温かいし、油っこいし」チルカは舌を出して不味そうに顔を歪めると「オレンジとかベリー系の花は爽やかな香りだし、ハーブ系の花のスッキリとした香りの蜜もいいのよね」と言って、今度は舌鼓を打った。
「オレは味がするかしないかわからない花の蜜よりも、蜂蜜の方が好きだけどな」
妖精以外にとって花蜜はあまり口にする機会がない。一つの花から少量しか採れないし、大して甘くもないからだ。蜂によって加水分解された蜂蜜のほうが甘く、保存も効くので、わざわざ花蜜を好んで食す者は少ない。
口にするのは一部の愛好家くらいだろう。蜂蜜は値段の高い砂糖の代用品としても良く使われている。
リットも子供が遊び半分で花を取って、蜜腺から直接口をつけて吸い出すくらいでしか味わったことがないので、チルカのように味を思い出して舌鼓を打つことはなかったが、チルカはリットの言葉に大きな声を出して反応した。
「蜂蜜はいいわよね! 粗暴で低俗な蜂が作るのに、どうして繊細で上質な味の蜜になるのかしら」
チルカが瞳を輝かせると、羽も一際強く輝き出した。チルカを見ていて気付いたが、妖精は感情の起伏により発光の輝度も変化するらしい。
「その羽根ってむしっても、また生えてくるのか?」
妖精の燐粉自体は出回っているが、羽ごと売られているのは聞いたことがない。一定にキラキラと光る妖精の鱗粉とは違い、チルカの感情に合わせて変化する羽の光は、リットが興味を示すには充分すぎるものだった。
リットの言葉を聞いたチルカの体に変化が起こる。ふっと一瞬光りが消えたかと思うと、周囲の影を消し去るように強く光った。
「はっ……生えてくるわけ無いでしょ! なに考えてるのよ! バカじゃないの!? バカなんでしょ! バカ以外の何者でもないわ!」
チルカは妖精の白ユリの影に体を隠すと、葉っぱや花びらをちぎってリットを目掛けて投げつける。投げられた葉っぱは、リットに届く前に急激に速度を落としてひらひらと舞い落ちる。その中には枯れた妖精の白ユリの葉っぱも混ざっていた。
リットは床に落ちた葉っぱを拾う為に立ち上がると「貰えるものなら貰っておこうと思ったんだがな」と言って、葉っぱを拾い集めた。
「恐ろしいこと言わないでよ! 羽は体の一部なの! アンタは「ちょっと腕一本ちょうだい?」って言われたらあげるの?」
チルカは怒った顔を見せ付けるようにリットの眼前まで飛んでいき、人差し指を目に突き刺すように伸ばして抗議をする。
「仮に生えてきても、やりたくはねぇな」
「そうでしょ! まったく……。いつもの嫌味と同じトーンで言わないでよね。本気かと思うじゃない」
チルカは大きく息を吐いて呼吸を整えると、リットの手元にある花びらを取って投げる。
今度はしっかりとリットの顔に当たり、頬をなぞりながら落ちてきた。
「なんだ?」
リットが花びらを拾い上げて見ると、こげ茶色の花びらにはチルカの手形が白色にくっきり付いていた。花びらを爪で擦ってみると、茶色の汚れのようなものが取れてきた。不思議に思い何度も確かめていると、チルカが「表面は耐熱性があるから焦げてるのよ。耐熱性のない普通の花びらや葉っぱだと、花が光る時に燃え尽きちゃうでしょ」と、のうのうと言い放った。
「そういうことは最初に言えよ」
「枯れてることには変わりないわよ」
チルカは窓辺まで飛んでいき、枯れた妖精の白ユリの葉っぱをちぎって戻ってくると、リットに見えるように手のひら全体を使って葉っぱの焦げを落としていく。
中心の緑色に反して、周囲は焦げてる箇所と同じような色をして枯れていた。
「枯れてるわりには、砕けないんだな。蜜が油っこいってのと関係有るのか?」
「知らないわよ。それを調べるのはアンタの役目なんじゃないの」
「それもそうだ」
リットはテーブルに置かれたマッチを擦ると、葉っぱを近づけた。枯れた箇所では火は上がらず、チリチリと赤色に攻められ、通った場所に真っ黒な色を残して崩れていく。中心の緑色の部分まで来ると火は一瞬止まったが、すぐに黄色の炎が音を立てて大きく燃え上がった。
「あつっ!」
一度炎が上がると葉は瞬く間にして消し炭になり、リットの指までも焦がした。リットは慌てて指を離すと、手を冷やすように何度もブラブラさせて空気に当てた。
「なにやってるのよ……。タコ踊りの練習?」
「いっそタコなら、墨吐いて冷やせるんだけどな」
「タコの墨ってそんな効果があるの?」
「知るか。蜜だけじゃなくて、葉っぱまで油が濃いのか……」
リットは新たに葉っぱちぎり、真ん中に向かって縦に割くと、切られた箇所から粘着質な油の雫が溢れ出し始めた。
「最初からそうやって確認すればよかったのに」
「普通はただの葉っぱがこんなに燃えると思わないだろ」
リットはリュックの中からピンセットを取り出すと、今度は花びらを持ち上げて、先程と同じようにマッチで火をつけた。
枯れた部分は同じような燃え方をしたが、生花の部分までくると火が消えてしまった。よく目を凝らしてみると、景色が揺らめいて見えた。燃えていないのではなく、透明な炎が上がっている。
「同じ色ね」
チルカは窓の外に目を向けて言った。
気付けば、部屋に差し込む光は月明かりではなく太陽になっていた。
リットが窓の向こうを眺め朝の太陽を確認していると、ノックの音が響いた。
「おはようございます。リット様――とチルカ様」
ライラの声を聞いて、リットの背中へとすぐに身を隠したチルカだが、羽がリットの足元の影を照らし消してしまっているので、すぐに居場所がバレてしまった。
「なに? またやろうっていうの?」
チルカはリットの首後ろから顔を出して、ライラにファイティングポーズを見せ付ける。
「いえいえ、仲直りのしるしに贈り物をしようと思ったのですけど、お部屋に居らっしゃらなかったので、リット様のところかと思いまして」
「……部屋のドアは鍵をかけてたハズだけど?」
重いドアを開けるのは一苦労なので、窓から窓へと移動しているチルカはドアを使うことはなかった。ライラが入って来ないように鍵をかけたままのはずだ。
「家主の娘ですから」
ライラは手に持った鍵束を振って、チルカに見せた。
「ちょっとリット! アイツどうにかしなさいよ」
「無理だろ。オレもライラは苦手なんだ」
「もう、お二人とも酷いですわ。受け取ってくださいますよね?」
ライラは一度部屋を出ると、外に置いてあった贈り物を手に持って再び部屋居入って来た。手に持っているのは植木鉢で、鉢に植えられた植物は丸い葉っぱに刺のようなものが生えている。
「それって……」
口を開けて絶句するチルカをよそに、ライラは頬を染めて恍惚な表情で笑みを浮かべた。
「可愛いでしょう? 葉っぱが閉じると檻みたいになるんですよ」
「そりゃいいな。オレの部屋にも置いておいてくれよ」
「そうですわね。リット様のお部屋や、ノーラちゃんのお部屋に置いておいた方が効果的かもしれませんね。あと、エミリアちゃんの部屋にも置いておきませんと」
ライラは手のひらを開いて親指から順番に折って、部屋に置く数を数えている。小指を折りかけたところで「食料庫にも置いた方がいいかしら? 食いしん坊でいらっしゃいますか?」と、チルカに聞いた。
「知らないわよ!」
「耳の後ろで、でかい声をだすなよ。……まさか本当にハエトリソウに捕まることがあるのか?」
「普段は葉っぱの上に座ってるから、座りやすそうな葉っぱを見かけると、つい座りそうになっちゃうのよ」
「食うだけじゃなくて、色々生活に活用してんだな」
「食べないわよ!」
「いや、食うだろ。人間だって葉っぱは食うんだし」
「あっ……そうね。でも、なんかアンタの言い方って刺があるのよね」
チルカがリットの耳たぶを手持ち無沙汰に引っ張るのを見て、ライラはクスクスと笑った。
「おふたりは仲がよろしいのですね。本当に羨ましいですわ」
「まぁ、いざとなったら殺し合うくらいには仲が良いな」
「そうね。明日にでもアンタの頭の上に植木鉢でも落としてあげるわよ」
二人の会話を聞いて、ライラはもう一度笑うと「朝食は用意させていますので、なるべくお早めにいらしてください。私はお買い物に出かけるので、御用がありましたらメイドにおっしゃってください」と言って部屋を出て行った。
「ちょっと! ライラを止めなさいよ! ハエトリソウを増やすつもりよ!」
「悪いな。朝食前に頼りない腹筋を鍛えなくちゃいけないから忙しんだよ」
「アンタ根に持つタイプね……」




