第十話
その日のうちにセイリンが船を出す指示をし、三日後には海の上にいた。
さらに十日経ち、ボーン・ドレス号はペングイン大陸のベルガに向かって舵をとっていた。
空には冬の寒さに押し負けた太陽が遅く顔を出し始め、昨夜のうちに積もった雪が光を反射して目を痛くさせる。
リットは白く濡れ光る甲板に、足跡をマストに向かってつけていた。
マストの下、視線と同じ高さには鳥籠がぶら下がっていた。昨夜の雪の発生源はここではないかと思わせるほど、白い蒸気を格子の隙間から噴き出していた。
「オマエも学習しねぇな。復讐は諦めろよ。そのうち魚釣りの餌にされるぞ」
鳥籠の中にいるチルカは、鼻から白い息を吐き出して憤慨していた。
「ほっといてよ。このまま引き下がったら負けを認めたことになるじゃない」
チルカはマストの影で羽を怒りに光らせていた。
昨夜、チルカは寝込みを襲おうとセイリンの船室に忍び込んだが、返り討ちにあい鳥籠に幽閉されてしまったのだ。
一度や二度のことではない。チルカは事あるごとにセイリンに襲いかかるが、その全てをセイリンに見透かされ返り討ちにあっていた。
セイリン曰く、あれだけ敵意を剥き出しにしていたら嫌でも気付くとのことだ。
チルカは一日中鳥籠に入れられてるわけではなく、隠すことなく鳥籠の横にぶら下がっている鍵によって、気付いた誰かが鳥籠の鍵を開ける。短ければ五分程度で誰かが見付けるし、長くても二、三時間のうちにはチルカは鳥籠から解放される。
それがまた情けをかけられているようで、余計に気に食わないらしい。
セイリンはというと、チルカの反応を含めて、船の上での暇つぶしができて楽しそうにしている。
「普通はこんな寒いとこにいたら、嫌でも頭が冷えるだろ」
「そんなことより、開ける気はあるのないの。あるならさっさと開けなさいよ」
チルカは鳥籠の横の鍵を睨みつけながら言った。
横といってもマストは円柱のため、手を伸ばしても、鳥籠をいくら揺らしても取れない場所に鍵はある。
リットは潮風ですっかり冷えた鍵を手に取ると、鳥籠の鍵穴に刺した。
鍵を回すと、鼓膜を不快にくすぐるように、サビが削り擦れる音が響いた。
「ほらよ」
リットが鳥籠を開けると、チルカはすぐに外に出て怒りの光を消した。
といっても、より強い太陽の光りで羽の光が目に見えなくなっただけであり、怒り自体が消えたわけではない。
「アンタより嫌な奴が、この世に存在してるなんて思いもしなかったわよ」
「オレはまだ、オマエよりうざったい小さい生物に会ったことないけどな」
「そういえば、アンタはあの女派だったわね」
「どっち派もねぇよ。当然オマエの味方でもねぇけどな」
「不細工な羽のキリギリスみたいないびきをかいて、あの女の隣で寝てたくせに何言ってるのよ」
「なんだ嫉妬か」
「マヌケな顔を見せるか、気持ち悪いこと言うか、どっちかにしなさいよ。まったく、船なんて最悪よ。こんなにやることがないなんて思わなかったわ」
チルカは水平線を眺めた。どこを見ても、目を凝らしても、変わらない景色に嫌気がさしていた。変化があるのは空模様くらいなもので、それも一日眺めていたらすぐに飽きてしまう。
なにより、チルカの好きな植物が一つもない。それが余計にイライラを募らせた。
「船に乗る前は、あんなに楽しみにしてただろ」
「せめてこれが普通の木だったら、楽しんだわよ。丸裸にされて加工されたものなんて、なんの魅力もないわ」
チルカはマストを蹴った。何度も蹴り、キツツキのように音を響かせていると、それに合わせるように軽快に階段を上がってくる音が聞こえた。
甲板に出るなり、マックスは気持ちよさそうに両腕を高く伸ばした。
立ったまま上体を反らして、逆さのリットとチルカの姿を見付けると、体勢を戻して「おはようございます」と笑顔で挨拶をした。
そんな爽やかなマックスに、チルカは「遅い!」と一喝した。「アンタが遅いせいで、私はこんな奴に助けられるはめになったじゃない」
「僕はいつもどおりの時間に起きてるはず。兄さんが早く起きただけでは?」
「そうよ。お酒を飲んでフラフラ起き上がってきただけのコイツより遅く起きるなんて、健康が取り柄なだけのアンタの存在意義ってなによ」
「少なくとも、鳥籠の鍵を開けるためではないかと」
「ちょっと、アンタのとこのバカな弟が口答えしたわよ」
チルカはイライラをぶつける相手を探すために、あっちへこっちへと喧嘩を売っていた。
「そのとおりだな。口答えはやめろ、マックス」
「でも」とマックスが口を開くと、リットは「やめろ」と止めた。「しかしですね」とマックスが続けたが、リットは「口答えはなしだ」とまた止めた。
「アンタもようやくわかってきたじゃない」
チルカはリットの肩を小さな拳で叩くと、満更でもなさそうに笑った。
「口答えじゃなくて、やるならしっかりやり返せ」
リットは機嫌よく肩を叩いてくるチルカをデコピンで飛ばした。
「女性に手を上げるのはどうかと……」
「そうよ! アンタ最低よ! 少しは真面目の爪の垢でも煎じて飲めばぁ?」
チルカはマックス寄りに飛んで、リットを非難する。
「今日はいつも以上にイライラしてんな。そんなに植物がないのがダメなのか?」
「一緒にしたくはないけど……。アンタがお酒を飲めないのと一緒よ。アンタだってお酒が周りになかったらイライラするでしょ」
「なんだよ、そんなことか。ちょっと待ってろ」
リットは船に付着する貝を剥がす用の長い棒を船底に向けて伸ばした。それに海藻を小削ぎ付けると、持ち上げてチルカの目の前に棒ごと落とした。
「これで代わりが利くだろ」
「利くわけないでしょ! だいたい、どれが根で、どれが茎で、どれが葉だって言うのよ。こんなの植物じゃないわよ」
「わーったよ。捨てりゃいいんだろ」
リットが棒を持ち上げて海藻を海に捨てようとすると、チルカが棒の上に立ってそれを止めた。
「待ちなさいよ……。悔しいけど、少し癒やされるわね」
「なんだ、素直じゃねぇな」
「こんな得体の知れないものに、素直になれるわけないでしょ! 植物って言うのはね。根と茎と葉が分かれているもののことを言うのよ。まぁ、光合成はしてる分、アンタよりましね。それだけで少し癒やされるわ」
チルカは演技ぶった重いため息をついた。
「海に妖精がいないのは、そういう理由でしょうね」
マックスは海藻を取ると、棒だけを元の場所に戻した。
「太陽神がどうたらとか、森がどうたらとかあるらしいからな。コイツは好き勝手生きてるけどよ」
「なるほど……グンヴァの反骨心に似ているかもしれない」
こんなに長い間、家族と離れているのは初めてのことだ。グンヴァはどうしているのだろうか。マックスはふとそんなことを考えた。
しかし、郷愁を覚える前に、チルカの声で現実に引き戻された。
「そこの純情筋肉天使。あんな粋がりのお馬さんと一緒にしないでよね。私のはもっと優雅で、繊細な乙女心なのよ」
「今度はシルヴァみたいだ」
「マックス……アンタねぇ……。なんでも家族で例えるのをやめなさいよ。自分の世界の狭さを露呈してるわよ」
チルカは呆れて肩をすくめた。バカにするというよりも、少し心配が混ざったようだった。
「そうだぞ。ハエに、蛾に、蚊に、トンボに、いくらでも例えようがあるだろ」
リットが指折り数えながら「後は――」と、小指を折って付け足そうとすると、チルカが小指を反らせるように体当りした。
リットの小指の付け根に、こもるような痛みが襲う。
「アンタの世界も狭すぎるわよ! 全部虫じゃない!」
チルカはそれだけ言うと言葉を止めた。まだ続きはあるのだが、口はその頭文字の形で止まってしまった。
リットの肩越しに、甲板に上がってきたセイリンの姿が見えたからだ。
「ここで会ったが百年目よ!」
チルカはリットの肩を踏み台にして勢いをつけると、真っ直ぐにセイリンに向かって飛んでいった。
どこにパンチを入れてやろうかと、一瞬視線をさまよわせたすきに、セイリンは被っていた三角帽を振り下ろしてチルカを捕らえた。
「百年経っても同じだ。来るなら一昨日来いと、夜中に言っただろう」
セイリンはあくびを一つ挟むと、マストに掛けてある鳥籠の中にチルカを放り込んで鍵をかけた。そして、鍵はいつもの鳥籠の横にかける。
「日に二度も捕まるとは、チルカは海賊にはなれんな」
笑って鳥籠の中を覗いてくるセイリンに向かって、チルカは舌を伸ばした。
「まだ夜明けの最中だぞ。てっきり昼まで寝てると思った」
リットは自分が酔いつぶれる前に部屋に戻った後も、酒盛りを続けるセイリン達の声を聞いていた。
「そうしたいが、完全に太陽で隠れる前に進路の確認をしなければな」
「隠れるって、月でも見るのか?」
「もう忘れたのか? まだ見えるぞ」
リットがなにがと聞く前に、セイリンは指をさしてある方向を示した。
後部甲板よりも、更に後ろ。水平線の彼方に星のように小さな光が見えた。
その光は、ゆっくり空気を切るようにしてリットに向かってきた。そして、リットの体を通り抜けると、またゆっくりと遠ざかっていった。
「北島の大灯台か」
リットは手のひらを水平にしておでこに当てて、遠くを見ようと目を凝らしたが、見えるのは光だけで、東の国の北島の姿は見えなかった。
「そうだ。おかげで航海がしやすくなったぞ。商船も――海賊もな」
セイリンはニヤリと口角を上げると、灯台とコンパスの針を確認して、大丈夫だと頷いた。
しばらくすると北の大灯台の光は、チルカの羽の光が太陽に消された時と同じように、見えなくなってしまった。
「私は寝るから、昼までは起こすな。何かあったらテレスに言え」
そう言って船室に下りていくセイリンに会釈をするのも忘れて、マックスは大灯台の光があった場所を黙って見つめていた。
「いくら見ても無駄だぞ。太陽より眩しいものなんてねぇからな。灯台の光なんて消されちまう」
マックスは人差し指を灯台に向けると「あそこに東の国が……」と呟いた。
「東の国に興味があんのか?」
「あなたと父さんが話していたから」
「あぁ、風呂で話したな。オレはさっきまで見えてたあの光を直しに行ってたんだ」
「直すとは?」
「龍とオオナマズの喧嘩で灯台が壊れた時、火種に使ってたフェニックスの羽もなくなっちまってな。その代わりを探したって言ったほうが正しいな。それで、オレは龍の鱗を探すために海賊になったわけだ」
リットは「この船だ」と言った風に、甲板の手すりを手の甲で叩いた。
「その龍の鱗は、ムーン・ロード号から盗んだという……」
マックスは少し眉をひそめた。
「言い方が悪いな。有効活用したんだ。それに、効果はあったしな。あの灯台に龍の鱗を取り付けてから数日後、闇に呑まれたオドベヌスの海から船が来たんだ。誰も生き残りはいなかったけどな。少なくとも、最後に光の導を辿ってきたとは思ってるよ」
マックスは黙ってリットの話を聞いていたが、話し終わっても口を開く気配がなかった。
「なんだ、また黙って」
「あなたを見直していたところです。人を助けることをしていたとは……」
「まさか、ずっと管を巻いて生きてるとでも思ってたのか?」
マックスは言葉には出さず、首を縦に振って肯定した。
「まぁ、それも間違いじゃねぇけどな」とリットは笑う。「エミリアの依頼からだ。闇に呑まれるなんて、現象に向き合ったのは。そのせいであっちこっち行くハメになったってわけだ」
リットの口調は面倒くさそうだったが、口元には笑みがこぼれていた。
「エミリアというのは?」
「こいつと出会う原因を作った依頼者だ」と、リットはチルカの入った鳥籠を揺らす。「東の国の大灯台も、そのエミリアが関わってる」
リットはおとぎ話を聞かせるように、時には大げさに、今までの旅のことをマックスに話した。
マックスは自分も一緒に旅をしていた気分を味わうかのように、細やかな質問を投げかけながら話を聞いていた。
まだ春とは呼べない冬の終わり頃、ボーン・ドレス号はペングイン大陸の海域に浮かんでいた。
望遠鏡で覗くペングイン大陸は、厚く白い絨毯を敷いたように深く雪が残っていた。
「ペングイン大陸が見えてきたぜ!」
アリスは見張り台の更に上、マストの先から海に向けて声高らかに叫んだ。
「なに浮かれてんだアイツは」とリットが聞くと、テレスが「セイリン船長がいない間、船長を任せられるから嬉しいんですよ。仮ですけどね」とこたえた。
「堂々とキャプテン・アリスを名乗れるわけか」
「ガポルトルだ! キャプテン・ガポルトル!」
アリスは今度は甲板にいるリットに向けて叫んだ。
「うるせぇな……」と、リットは片耳を小指で塞いだ。「さて、あとはどうやってベルガに行くかだな」
「ベルガ近くに安全な入江があるので、そこで降ろします」
「安全って言葉を聞いたはずなのに、不安になったぞ……」
「違法船相手にも商売をしている街ということです。違法船は堂々と港には停められませんから、別の港を作ったわけですね」
「そりゃ、また海賊らしい話だな」
「ほとんどが密漁船ですけどね。だから入江もあまり大きくないんです。ボーン・ドレス号も入れませんから、入江の入口でボートを降ろすことになります。ぼーっとしてたら置いて行かれますよ」
「そん時はアリスに縄つけて引っ張ってってもらう」
「罠は縄ということですね」
テレスは涼しい顔で言ってのける。
「テレスがそういう奴だと言うことを忘れてたな……」
「簡単な覚え方がありますよ。私は照れずに言うテレスです」
「この寒い中、よくそんなこと言えるな」
「雪でも言う勇気です」
「雪なんか降ってねぇよ」
「なら、降ってからまた言います。それはそうと、この時期は良いマスが釣れるんですよ」
「海にいるくせに、川の魚に詳しいんだな」
「……私も一つ思い出しました。リットはあまり相手にしてくれないことを」
それでもまだテレスはダジャレを言おうとしたが、アリスの陽気な声にかき消されてしまった。




