第九話
セイリンは階段入口にぶら下がっているキャンドルランプをひったくるように取ると、足元を照らして慎重に階段を下りていった。
壁に手をつきながら、人間の足である右足をゆっくり下ろし、遅れて人魚の尾びれが頼りなく音を立てる。片足で階段を下りるのは大変だった。
かえって、波に揺られている船の上のほうが、真っすぐ歩けているように見える。
部屋に入ると、セイリンはキャンドルランプの四面ガラスの蓋を開けて、中のロウソクの火を部屋のロウソクの火に移した。
直されることなく灯芯が傾いたままの部屋のロウソクは、切り立った断崖のように蝋が溶けていた。
部屋にあるいくつかのロウソク全てに火が灯ると、足の踏み場もない床が見えた。
理由はすぐにわかった。
セイリンが歩くと体が揺れる。揺れた体は棚にぶつかる。ぶつかると物が床に落ちるわけだ。
また落ちるものをいちいち元に戻すのもバカらしいので、そのままにしておいた結果。できあがったのがこの部屋だ。
リットは床に散乱したものを避けて歩こうとしたが、遠くの床に山積みになった本が足に向かって倒れてくると、途端に面倒くさくなり、落ちているものを踏みつけて歩いた。
「そういえば、この部屋に入るのは初めてだな」
リットは散らかったテーブルの上に置いてある酒瓶を手に取った。
中身は一口分もないが、酒瓶を高く掲げて、草花に水をやるように喉に酒を落とした。
一度喉を鳴らし、惨めに酒瓶に残った酒がポタポタと二、三滴舌に落ちるのを待つと、元の場所に戻した。
「普段は部下でも入れないからな。無論、アリスもテレスもだ」
「威厳を保つ努力をしてるとは思わなかった」
「威厳なんてものは、自分を卑下してる奴が勝手に感じるものだ。部下達を入れないのは、ろくに体も拭かないせいでカビが生えるからだ」
セイリンは床に置いてある。というよりも、落ちている酒瓶を取ってリットに投げ渡した。
中の酒は半分減っていた。蓋がしているということは飲みかけの酒だ。
投げ渡したセイリンはもとより、リットも気にすることなく瓶口に口をつけた。
「そんな部屋に入れて貰えるとはな」
「また脅されたらたまったもんじゃない。それも、人がいるところでな」
「威厳は気にしないんじゃなかったのか?」
「威厳はな。恥は隠すものだ。特に見られて情けないものはな。誰かがズボンを履くのと同じだ。それで、要件とは何だ?」
セイリンはベッドに座ると、また別の酒瓶を取り出して片手で器用にコルク栓を抜いた。ポンッという音とともにコルク栓が飛び出すと、勢い良く天井に当たり、力なく床に落ちて、散乱する服の隙間に音もなく挟まった。
「まずは、難破船にランプのオイルを届けてくれ。だいぶ時間が経っちまったけど、約束だからな」
「まずね……。まぁ、難破船にはちょくちょく寄る。いいだろう」
「あとは軽くペングイン大陸まで送ってくれればいい」
そう言って身を翻し、部屋を出ていこうとするリットの頬の横をナイフが飛んでいった。
今開けようとしたドアに刺さりたてのナイフは、わずかに振動して音を立てている。
「海賊船は乗り合いの馬車じゃないぞ。第一、闇に呑まれた海に船を向ける気はない」
「オドベヌスに行けって言ってんじゃねぇよ。あそこはなんて言ったか……そうだ、『ベルガ』だ」
リットはドアに刺さったナイフのグリップを人差し指で下に押した。指を離すと、さっきよりも振動音が大きく響いた。
そういった意味のないことをして、心を落ち着けてから振り返ると、セイリンは瓶口を咥えて酒を飲んでいた。
「行きたいなら東の国から出る船に乗ればいいだろう。ドゥゴングにだってペングイン大陸行きの船はあるはずだ」
「金がかかる。それにボーン・ドレス号は時化でも無風でも関係なく船を出せるだろ。一番手っ取り早く海を渡れるってわけだ」
「タダより高いものはないと言うだろ」
「体払いでもしろってか?」
リットはセイリンのオーバーコートが掛かっている椅子に腰を下ろすと、自分の胸の中心を親指でトントンと突いておどけてみせた。
「五分で終わる体払いなんぞいらん」
「おいおい、頑張れば三分に縮められるぞ」
セイリンは鼻で笑うと、続きを話し始めた。
「ベルガはペングイン大陸でも西にある港町だな。何しに行くつもりだ? 場合によっては、考えてやらんこともない」
セイリンはベッドから人魚の尾びれを放り出したまま、人間の足で深くあぐらをかいて、かかとを股の下に敷いた。
「目的は浮遊大陸だ」
リットがこたえると、セイリンはつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「却下だ。眼の前にいるのは海賊だぞ。口説き文句としては最低だな」
「まだ話は終わってねぇよ。目的は浮遊大陸。そこに行くには、まずスリー・ピー・アロウって国に行く必要がある」
「それはいいな。惚れてしまいそうだ」
セイリンの言い方には、これでもかというほど皮肉がこめられていた。
「そうやってバカにしてるけどよ。スリー・ピー・アロウって国が、どんな国か知ってんのか?」
「魔族の国だろ。別に隠された国でもないから知っているぞ」
セイリンは興味なさそうに、酒の続きを飲み始めた。
しかし、次のリットの言葉を聞いて、充分に酒を飲むことなく瓶口を口から離すことになる。
「コウモリの羽に羊の角と言えば悪魔の代名詞。蛇の下半身に翼を持つエキドナ。スキュラだって、触手に犬の頭が付けば魔族だ」
セイリンは少し考えてから、「そうだな」とこぼした。
「行ったことは?」
「何が言いたい」
「マーメイド・ハープの調子はどうだ? 人魚のセイリン」
リットが空になった酒瓶を眺めながら言うと、セイリンから新しい酒瓶が投げられた。
「おかげさまで変わりなしだ」
「マーメイド・ハープってのはな、人魚が弾いてそれらしい音が鳴りゃ水を造形できんだ。音が鳴ってるのに、できねぇのは人魚以外の種族が弾いた時だ」
リットは角笛岬の風の音に紛れて響いていた、セイリンの弾くハープの音を思い出しながら言った。
音が思い出せるということは、マーメイド・ハープを弾けなかった頃のマグニの金切り音は鳴っていない。
少なくともセイリンは、マグニが弾いていた『波綾のノクターン』とは違う曲を弾いていたと認識できるほどの腕前を持っている。
「リットが人魚だとは知らなかった」
「オレが知ってる人魚の話だ。何にもできなかった人魚が、オイルを造形して鳥にするまでの過程を見てるからな」
セイリンは何か考えるように黙った。
リットはしばらくその沈黙を肴に酒を飲んでいたが、おもむろに「興味が出てきたか?」と口を開いた。そして酒瓶を傾けて、瓶口をセイリンに向ける。
「まぁ、悪くない。口説き文句としては合格だ」
セイリンも同じように酒瓶を傾けて、リットに瓶口を向ける。
瓶口が合わさると、チンっと短い音を立てた。
翌日。リットは強い光に、まぶたを叩かれるようにして目を覚ました。
目は開けなくとも、冷たい空気が肌を撫でているのに気付くには、そう時間はかからなかった。
イサリビィ海賊団の隠れ家が南に位置しているとはいえ、この時期に服を脱いでいたら寒いはずだ。
それからリットは身を震わせた。空気だけではなく、太ももに当たる冷たい感触に気付いたからだ。
リットがそれが何かを確かめようとした時、急かすようにドアがノックされた。
「なんだよ」と声を発すると、頭が痛んだ。考えるまでもなく酒のせいだ。
「人魚の卵らしきものが二箱。現物を見たことがないので、どっちが人魚の卵だか……」
マックスはドアを開けると、それぞれの箱から一つずつ手に取ってリットに見せた。
「左だ。右は食い終わって捨てた、ただの貝殻だろ」
マックスからの返事はない。目を大きく見開いて、驚きの表情を浮かべている。そして、パンパンに膨らんだ革袋がしぼむように、次第に顔を歪めていった。
「不潔です!」
マックスは怒鳴ると、両手に持った貝を木箱に投げ捨てて部屋を出ていった。
リットは何かわからなかったが、開けた目に映る光の端を辿って天井を見ると「あぁ」と声を漏らした。
「不潔ってのはオマエのことか」
天井から吊るされた錆びた鳥籠に、怒りに羽を光らせたチルカが入っていた。まぶたに落ちていた光の正体だ。
モゴモゴ喋っているが、手を海藻で縛られ、口も何かに縛られているせいで、何を言っているかはわからなかった。
「朝から楽しそうだな、オマエは」とリットが話しかけると、チルカは窓を顎で指した。
窓の外はまだ陽が射していなかった。ただ、夜明けの期待感の空気は流れている。
窓を見るリットの視界の隅に、自分のではない細い手が映った。
念のため、自分の手を目の前に持ってきてみるが、やはりあの手は自分の手ではなかった。
そして、リットは自分の足に当たっている冷たい感触を思い出した。
足に被っている布団をめくって見て思ったことは、マグロでも抱いて寝たかなというマヌケな疑問だった。
当然そんなはずもなく、尾びれの先にはヘソ。さらにその先には二つの肉の膨らみ。その先端は寒さのせいで盛り上がり、自己主張気味に上を向いていた。
「おい……どういうことか説明しろよ」
リットはベッドに転がっていたコルク栓を拾って、チルカに向かって投げつけるが、鳥籠の格子にぶつかり跳ね返って落ちた。
リットを睨みつけるチルカの瞳からは、猿ぐつわを外せというのが見て取れた。
鳥籠の隙間に指を入れて、服の切れ端で作られた猿ぐつわを外してやると、チルカはリットの指に噛み付いた。
「痛えな。外してやっただろ」
「手も外しなさいよ。そして、この牢屋の鍵を開けなさいよ」
「鳥籠だろ」
「どっちでもいいわよ! そこの女を殺すんだから早くしてよ!」
チルカが一際大きく怒鳴ると、リットの隣に寝ていたセイリンが、不機嫌にうなりながらベッドから体を起こした。
「うるさいぞ……」
「あれ、やったのオマエか?」
リットが鳥籠を指すと、セイリンは目をこすりながら鳥籠に入っているチルカを見た。
「あぁ、そうだ。これから寝るって時に、部屋でブンブンうるさかったからな」
「ブンブンってなによ! ハエじゃないんだからそんな羽音しないわよ! 空洞の頭の中にダンゴムシが転がってるようなこの男だって、本当に籠の中に入れたりしないわよ!」
チルカが籠の中から吠えると、その上空で風を切る音が聞こえた。
セイリンの投げたナイフが、鳥籠を吊るす紐を切り壁に刺さった。
鳥籠は床に落ち、中にいたチルカは豚の尻を叩いたような濁った声を出したが、それっきり静かになった。
セイリンはというと、「それでいいだろ」と、腕を大きく伸ばしてあくびをした。
その時、肌の色とは違う二つの突起が縦に線を書いた。
「オレも一つ聞きたいんだが……いいか?」
「もう投げるナイフはないぞ」
セイリンは寝起き早々酒を口に含むと、口をゆすいで、ベッド横の丸窓を開け、外に酒を吐き出した。
「その……やったか? ナイフの投げっこ。もしくは、刺したのか? オレは」
「何を言ってる」と身震いをすると、セイリンはようやく自分が裸だということに気付いた。
そのまま特に体を隠すこともなく腕を組むと、悩む素振り見せが、顔を弛ませて後追いしてきた長いあくびをした。
「犬に噛まれたと思って忘れてやる。――と言ってやりたいところだが、噛まれたどころか、舐められた覚えすらない。むしろ何かしたなら、ナニをどうしてどうやったか聞きたいくらいだ。少なくとも、ナイフほど切れ味があったなら、痕跡は残るはずだ。まぁ――夢のような三分間は、短すぎて現実と気付かないまま終わった可能性も否定しないがな」
セイリンは布団の中に手を突っ込むと、体でプレスされた上着を引き抜いて着た。
「それはジョークの一つだろ。仮にそうだったとしたら、男として十倍くらいは見栄を張って言う」
「そんなに不安なら、自分の息子に聞いてみるんだな」
「今は元気がなくて、返事もできないとよ」
「朝なのにか?」
「死刑宣告されるかどうかの瀬戸際だからな」
リットも脱ぎ捨ててあった自分のシャツを拾った。服は酒の臭いをふりまいていた。どうやら、脱いだのは酒をこぼしたかららしい。
「情けない男だ。女の体が怖いとは」
「知らねぇところで、オレを父親と呼ぶ生命が生まれることが怖ぇんだ。気付いたら、世界中あちこちと森や山や海から湧いて出てきたらどうする」
「そんな軽薄な男がいるわけがない。せいぜい港港に女がいるくらいだ」
「オレは少なくとも二人は知ってる。港がなくても、自分で作る奴をな」
「だいたい、卵が転がってなければ子供なんてできん」
セイリンは立ち上がると、乱れていた前髪を直して、念入りに右目を隠した。
「……卵生むのか?」
リットは思わずセイリンの股ぐらを睨むようにして見ていた。
「いや、産んだことはない。だが、人魚なら卵を生むんじゃないか? リットはそれを取りに来たと言っていただろ」
「あれは発光する貝のことだ。つーか片足が人間の脚で、もう片方が尾びれだろ。中心はどうなってんだ」
「さぁな。せいぜい確かめるチャンスを逃したことを悔やむんだな。海賊なら目の前の宝を見過ごすことはしない」
セイリンは壁にかけた杖を取ると、乾いてきた尾びれを濡らすために部屋を出て行った。
話も終わり静かになると、物音に気付いた。
チルカが入った鳥籠が落ちたのは服の山だったらしく、暴れているのに気付かなかった。
リットが服をかき分けて鳥籠を拾い上げると、「いいかげん早く開けなさいよ!」と、チルカが睨みを利かせた。
「オレはこの籠の鍵なんて持ってねぇぞ」
「なら、あの生臭い脚を持った人間を追いかけるくらいしなさいっての!」
チルカは格子を握って力任せにカゴを揺らす。
「なぁ、妖精ってどうやって子供が生まれんだ?」
「はぁ? 朝からキモいこと言ってると、あの女の次にアンタを殺すわよ」
「卵を産まねぇとなると、やっぱり人魚とは違うもんだと思うんだがな」
「アンタねェ……会話もする気のないトンチンカンなことばっか言ってると、アンタが飲むお酒で靴を洗うわよ」
「しかたねぇな……。酒を毒薬に変えられたらたまったもんじゃねぇ」
リットが鳥籠を持って部屋を出て階段を上がると、規則正しい朝の時間にマックスに起こされたノーラが、まだ眠そうにしているところに出くわした。
「おっ、旦那。ジャック・オ・ランタンのマネっスか?」
ノーラはあくび混じりに言った。
「気を付けろよノーラ。籠の中にはアルコール消毒しないと、足の臭いが取れねぇ妖精が入ってるからな。怒らせると、威嚇で臭いをうつされるぞ」
「洗うって言ったのは靴よ! だいたい靴も臭くないわよ!」
「まぁ、どっちかと言うと臭いのは旦那っスよね。また朝まで飲んでたんスか?」
リットの酒臭い息に、ノーラは鼻を摘んだ。
「いいや、コイツの世話が終わったら昼まで飲むつもりだ。びっくりすることがあって、酒が抜けるどころか、二日酔いまでどっかいっちまったからな」
「それっていいことなんじゃないっスか?」
「二日酔いの苦しみを、グダグダ言いながら午後を過ごすもんなんだよ。それが酒飲みマナーだ。覚えとけ」
リットは鳥籠を高く持ち上げて中にいるチルカを揺らすと、貯蔵庫の洞窟に向かうついでにセイリンを探すことにした。




