第五話
マックスが来て一週間以上経ったが、いつも彼の朝は早かった。
マックスが目を覚ますのは夜明け前、ちょうど妖精の白ユリが光を放ち始める頃だ。
ベッドにすがることなく体を起こすと、軽く羽を伸ばしてから部屋を出て階段を降りていく。
冷たい井戸水で顔を洗うために裏庭へ行くが、寝起きでもノロノロと動かないため、まだ妖精の白ユリは光っている最中だった。
マックスは喉を潤すと、誰も起こさないようにそっとドアを開けて家を出た。
僅かに残った眠気を飛ばすように、その場で高く数回太ももを上げると走り出した。
リットの家に来た初日から、朝早く町を軽く一周していた。
ディアナにいた頃からの日課だが、景色が変わるだけで別物のような新鮮さがあった。
いつもならリル川の流れる音を聞きながら走っているが、この町には川がない。代わりに耳に流れてくるのは、近くの山から響く鳥の声と家畜を呼び集める人の声だ。
普段耳にしない音は、自分は別の場所にいるのだと改めて認識させる。
走っている間は景色を見るだけではなく、顔見知りになった何人かと朝の挨拶も交わす。
マックスの「おはようございます」という爽やかな挨拶に、同じく「おはよう」と爽やかな顔で返す人ばかりだ。
上り坂では足に力を入れ、下り坂では力を抜き、人と話す時はその場で軽くステップを踏む。上り坂の場所も、下り坂の場所も、人と合う場所もディアナとは違う。それだけでも、まるで新しい自分になったみたいで楽しかった。
真夏とは違う、自分の体温が上がることによって流れてくる心地良い汗をかきながら、明るさを増す空の下を走る。
家の前に着く頃には、頭だけではなく体も目覚めていた。
マックスは新鮮な空気を吸い息を整え、汗を拭こうと家に入ると、気だるそうに椅子に腰掛けたリットの姿があった。
一度は無視して裏庭で汗を拭き、井戸から飲み水を汲んだが、戻ってきても同じ格好のままでいるリットに、呆れた風に話しかけた。
「……また、朝まで酒場に?」
「決めつけんなよ」
「でも、昨日の夜に酒場に行くって聞いてから、一度も会っていないはず」
「そりゃそうだ。ついさっきまでその酒場にいたんだから。ただ、決めつけんなって言っただけだ」
リットはマックスが持ってきた井戸水から、コップに水を注ぐと一気に飲み干した。
「たまには運動するべきだと思いますけど」
口から水をこぼすリットに、マックスは冷ややかな日線を浴びせる。
「知ってるか? 運動と性欲ってのは密接に関係してる。つまり、朝から外で別のものを発散してるのと変わんねぇってことだ。オレにそんな変態的趣味はない」
「歳を取ったら思うように動けなくなりますよ」
「いいか、思うように動けねぇから歳を取ったって言うんだ。つーか、オマエは朝から何を怒ってんだ」
「別に怒ってないです」
「オマエが「です」「ます」をつけてる時は、大抵怒ったり不貞腐れてる時だ」
リットが酒臭いあくびをすると、目の前のテーブルが叩かれた。
「そういうところです! すぐに茶化す、店番は人に任せっきり、毎晩飲みに歩いて、人並みの生活をする気はないんですか!」
「酒に溺れてこそ人の生活だ。牛や豚が酒を作るか? 作らないだろ。それに、親父の血を継いだ奴は、いずれは酒に溺れる運命なんだよ」
「そんなわけないです。現に、僕はお酒とは無縁な生活を送っています」
力強く言い切るマックスの肩を掴むと、リットは引っ張るようにして歩き出した。
「仕方ねぇな……ついてこい」
「どこに?」
「隣町だ」
「なぜ?」
「オマエは質問が多すぎんだ。黙ってねぇと、ペガサスと称して馬車にくくりつけるぞ」
リットは無理やりマックスを家から連れ出した。
若干不貞腐れたマックスを連れて隣町に着いたリットは、教会を目指して歩いていた。
屋根に付けられた十字架が見えてくると、マックスの険しい表情がやわらぎはじめた。
「あなたが教会に?」
マックスが意外そうに言った。
「知ってるか? 神だって、酒は飲むんだぞ」
「神と人は違います」
「よくまぁ、姿形も存在すらもわからない奴をそこまで信じられるもんだ」
「あなたはすぐに神を侮辱する」
「侮辱できるほど神のことなんて知らねぇよ」
マックスは頭を抱えたが、諦めたようにため息を吐いた。そして、先程から気になっていた、リットの鞄から飛び出ている酒瓶に目を向けた。
この酒瓶は来る途中の店で買ったものだ。
「それで、その酒瓶は教会と何の関係が」
「ただの土産だ。手ぶらでするような話題でもないからな」
「話題?」
「そうだ。親父が死んだことを伝えないとな。まぁ、流石に知ってるとは思うけどよ。オマエも新しいアニキに会うんだから、ちゃんと自己紹介しろよ」
ちょうど教会前に着いたリットは、マックスが疑問を口にする前に、教会の中へと押し込んだ。
教会は静まり返っており、厳かな雰囲気が漂う。そこに、リットの乱暴な足音と、マックスの静かな足音が響いた。
肌に感じる空気、差し込む日差し、石造り壁の湿気た匂い、全てが神聖なものに思える。
口には出さないが、マックスは落ち着く場所だと感じていた。
前室を抜け身廊に入ると、祭壇前で神父が跪いて祈りを捧げているところだった。
マックスは自分も共に祈ろうとしたが、それより早くリットの手が神父の頭を軽く叩いた。
「よう、ビーダッシュ。また、祈りにかこつけてサボってんのか?」
マックスは絶句した、いくら無作法者のリットでも神父に手を上げると思っていなかったからだ。
神父は気にした様子もなく、立ち上がって振り返った。
「旅の方、我が教会に何か御用ですかな」
ビーダッシュはリットのことなど知らないと言った口ぶりだった。
しかし、リットが酒瓶を見せびらかすように持って「麦に、ホップに、水。量が違えばパンは液体になり」と問いかけると、ビーダッシュは一呼吸置いてから「液体はパンになる」と静かに答えた。
その答えにリットは満足げに笑みを浮かべると、椅子に座った。
「コップはあるか?」とリットが酒瓶を揺らすと、ビーダッシュはすぐにどこからかコップを取り出した。
「何年ぶりだ?」
そう言ったビーダッシュの声には、ひとかけらも神父らしさが残っていなかった。
「さぁな、教会なんて毎年来るようなもんでもないだろ」
リットは言いながらコップに酒を注ぎ、「乾杯」とどちらからともなく言うと、祭壇前で酒を飲み始めた。
リットはコップから口を離すと「親父が死んだよ」と、ビーダッシュに伝えた。
「知ってる。流石にディアナの王が死んだとなれば、情報はすぐに広まるからな」
「墓の場所を教えとこうか?」
「いやいい。そうそうここを離れられないからな。もし知りたくなったら、ディアナの誰かに聞けばわかるだろう」
「そうか。あと、後ろで固まってんのは、オレらの弟のマックスだ」
マックスはまだ唖然としていた。今度はリットにではなく、ビーダッシュに対してだ。
ビーダッシュはマックスを見るが、天使族ということには興味がないらしく、背中の白い羽には目もくれず、顔だけをじっと見ていた。
「あれがオレの弟か……。ヴィクターとは何度か会ってたが、弟に会うのは初めてだな」
「オレに会ってるだろ」
「リットはなぁ……弟って感じがしないからな。おーい、マックス。オマエも飲むか?」
ビーダッシュはにこやかな表情で、酒の入ったコップをマックスに向けて掲げた。
マックスは「いえ……」と一言だけ返すので精一杯だった。言いたいことは山ほどあるが、全て思いついた先から頭を抜けていってしまっていた。
「なんだ、緊張してるのか? 教会だからって固くならなくていいんだぞ。もっと楽にしろ」
ビーダッシュの言葉に、マックスは今度は返事も返せなかった。
「ほっといてやれ。アイツは夢見がちなんだ。教会前で、ここにアニキがいるって教えてやったからな。厳粛なアニキでも想像してたんだろ」
「先に言っといてくれれば、それらしい演技はできたぞ」
「いいんだよ。その夢を壊すために、マックスをこんなとこに連れてきたんだからな」
「こんなとこって一応教会だぞ。聖書をやるから、一度は読んでみたらどうだ?」
「聖書って、要はただの説明書だろ。興味ねぇよ」
「あぁ、信仰薄き者よ」
ビーダッシュはわざと神父らしいセリフでリットを咎めた。
「その代わり、持ってきた酒は濃いぞ」
リットはまだ半分しか減っていないビーダッシュのコップに酒を継ぎ足した。
「それで、本当に弟をからかいに連れてきただけなのか?」
ビーダッシュは飲みながら、まだぼーっとしているマックスを見た。
「マックスの故郷の浮遊大陸に行く予定なんだ。もし、なんかあった時に頼れるような知り合いとか浮遊大陸にいねぇか?」
「いないな……。マックスの故郷なら、実家に世話になれよ」
「マックスはまだ一度も浮遊大陸に帰ってねぇんだよ。生まれが地上だからな。地上で生まれて一度も帰ってねぇってことは、どうも親父が浮遊大陸からマックスの母親を連れ出したくさいしな。一応教会だろ? ここに天使族とか顔を出さないのか?」
「一応程度の教会だからな。信仰深い教会なら、たまに天使族が交流を求めて来ることもあるらしいぞ」
「来るのはいいけど、どうやって浮遊大陸に帰んだよ」
浮遊大陸は根無し草のようなもの。天使族でも帰れる保証はない。そう言っていたのはマックスだ。おそらくミニーが教えたものだ。
「普通は帰れるように用意をするもんだ。それを忘れて、はぐれ天使になって地上にいる天使族もいるけどな」
「帰る用意ってなぁ……。金魚のフンみてぇに、雲からロープでもぶら下げんのか?」
「そりゃあ、『天使の階段』だろう。厚い浮遊大陸の雲が太陽を遮り、光の階段を降ろして浮遊大陸に迎え入れるんだ」
「そんな便利なものがあんのか。なら、天望の木まで行かなくてもよさそうだな」
「正式に許可を得て地上に降りた天使にしか、天使の階段は下りてこないって話だ。まぁ、全部噂だけどな」
「噂の上に、帰ってねぇってことはミニーは正式な許可を得てない。おまけにここは信仰薄き教会ってわけだ。見事に三拍子そろったな」
「たまに地上にいる、はぐれの天使を捕まえて連れて帰りゃ、浮遊大陸でも歓迎されるんじゃねぇか?」
「オレに寄ってくんのは、はぐれどころか堕天使くらいなもんだ。孫の顔を見て優しく迎え入れてくれることでも、頼みの綱にするか」
リットがマックスを見て言うと、マックスは礼拝客の相手をしているところだった。
マックス自身が初めてきた場所にもかかわらず、懇切丁寧に説明をしている。
「神への信仰の深さは、どうあっても天使族には敵わねぇってことだな。いいのか? 酒を飲んでて」
「皆見慣れてるよ。それに、天使族が物珍しいだけだろう。じゃなきゃ、オレみたいのが神父なんてやれないって」
リットが耳を澄ませてマックスと礼拝客の会話を聞くと、ビーダッシュの言うとおり「どこから来たの?」や、「お名前は?」など、質問攻めにされていた。
「それにこう見えて、冠婚葬祭くらいはきちんとやる」
「んな、当たり前のことでいばるなよ……。そんじゃ、また何年後かに来る」
「おう、マックスにもいつでも来いって言っといてくれ」
ビーダッシュは酒の入ったコップを掲げて、リットを見送った。
リットは質問攻めというより、もはや絡まれているマックスの背中を押して教会を出て行った。
隣町からの帰り道、リットは唐突に「聞こえてただろ? 浮遊大陸に行くからな」とマックスに言った。
「はい?」
マックスは裏返った声を出し、足を止めた。
「どこに行くかは話してなかっただろ? 良かったな、里帰りだ」
「また急に、そんな……」
「言い忘れてただけで、急じゃねぇよ。まさか、店番させるためだけに、こっちに呼んだと思ってたのか? 家についた時に、船にも乗るし、別大陸にも行くって話しただろうが」
立ち止まるマックスに、リットは「いつか行ってみたいって話してたから。オマエを連れてってやるんだ」と手を伸ばした。
「まさか、そんなことを考えていてくれたとは……」
「どうだ、嬉しいもんだろ」というリットの言葉に、マックスは「はい、ありとうございます」と礼を言い、リットの手を掴んだ。そして、後に「兄さん」と続けようとした。
しかし、その前にリットからもう一声が出た。
「ところでだ……。天使族と悪魔族って、出会った瞬間に殺し合いとかしないよな?」
「ずっと地上暮らしなので、詳しいことは……。悪魔族は神を侮蔑するジョークが好きなので、それが原因で戦争に発展したことが過去にあったとは、母に……。なぜ今そんなことを」
リットの手を握るマックスの力が弱々しくなった。
「スリー・ピー・アロウって国のことは知ってるか?」
「はい、悪魔族の国ということは」
「天望の木は知ってたな。ディアナにいた時に話したからな」
「はい……」
「その二つを合わせると、なんと浮遊大陸になるわけだ」
リットはわざとおどけた風に言ったが、マックスからは反応がなかった。
マックスに手を離されたリットは、その手をマックスの肩に置いて続きを話し始めた。
「もう一つ大事なことがある。今回の旅には一か八かという言葉がついて回る。浮遊大陸に行けるのも一か八か。浮遊大陸から帰れるかも一か八か。そして、天使が悪魔に殺されないかも――一か八かだ」
マックスは重りでも乗せられたかのように深く肩を落とした。
「今日が楽しかったのは爽やかな朝だけだ……。ダメな兄をもう一人紹介され、命の保証のない旅に連れて行かれる……」
「なにが爽やかだ。汗臭くなって帰ってきやがって。それに、いつでも命の保証なんかねぇよ。それはオマエもわかってるだろ?」
マックスはヴィクターを思い出して、ゆっくり深く頷いた。
「だから、思いついたら行動しろ。思いつかなかったら、誰かに流されてみろ。流されて場所が変われば何か見付かる。浮遊大陸だって風に流されてるだろ」
「あなたは不思議だ……。たまに兄みたいなことを言う」
「そりゃ、いつもアニキでいたら大変だからな。割を食うのは全部オレになっちまう。わかったら、煙に巻かれてることに気付かないうちに、足を進めろ。途中で気付いても足を止めるな。素直に後をついてこい」
リットは言い終わると歩き出した。
「僕が素直になれない原因は、主にあなたにあると思うんだけど……」と、腑に落ちないまま、マックスはリットの後に続いて歩き出した。




