第二話
「パンくれ」という一言とともに、リットはパン屋の中へと入っていった。
香ばしい匂いはせず、まだテーブルと手を粉だらけにしているところだ。
「まだ、日が昇ったばかり。出来上がるのはまだまだ先だよ」
イミル婆さんは枯れ木のような細い腕で、慣れたように重いパン生地をねっている。
「昨日の売れ残りでも構わねぇよ」
「だから、タダでくれって言うのかい? リットも商売をしてるならわかるだろうけど、なんでもタダであげてちゃ、暮らしてなんかいけないんだよ」
「そうは言うけどよ。オレが持ってかなけりゃ、せっかく分けたパンが無駄になるんじゃねぇか?」
リットは部屋の隅に置かれたパンを見る。
リットの他にも数人、いつもイミル婆さんの世話になっているので、その分だけ均等に売れ残ったパンが分けられて置いてあるのだった。
「一度甘い顔を見せればこれだよ……。これから何年もアンタ達の面倒を見るつもりはないよ」
「その歳になっても、何人もの若い男に頼りされるなんて、女冥利に尽きるだろ?」
「自分の食い扶持の管理もできない男にかい? この歳で、ダメな男を養う女にも、男をダメにする女にもなる気はないねぇ」
「しょうがねぇだろ。考え事のせいで、飯を作る時間がねぇんだ」
「時間があっても、アンタはまともなご飯なんて作らないだろう」
イミル婆さんはパン生地をねっている手を止めると、大きなパンを二つ手に取ってリットに渡した。
「二つもいらねぇよ。どうせ、硬くなって食えなくなんだから」
「もう一つは、カーターに届けておくれ。いちいち朝ごはんをくれって誰かに入って来られちゃ、いつまで経ってもパンができやしないよ」
イミル婆さんがため息を付くと、起床した息子夫婦がパンを作りに厨房に入ってきた。
イミル婆さんの娘が「あら、おはようございます」と、エプロンをしながら言う。
リットは軽く手を上げて挨拶を返し、厨房に人が増えたのを確認すると、「もう、年なんだから一人で無茶すんなよ」と、言い残してパン屋を出て行った。
背中に「余計なお世話だよ」という、イミル婆さんの声を聞きながら、リットはカーターの酒場へと向かった。
酒場の前に来ると、中からいびきの合唱が聞こえてきた。これが聞こえてくるということは、鍵が掛かっていない。
案の定、酒場の中は酔っ払いがテーブルや床で寝ている。それに紛れてカーターも眠っていた。
リットは足元に転がる酔っぱらいを避けずに、時には踏み、時には蹴りながら、カウンターに突っ伏すカーターの元まで歩いていった。
そして、椅子に座ると誰かの食べかけのツマミを口に放り込みながら、カーターの煮玉子のような浅黒いハゲ頭にパンを落とした。
「痛い」という言葉はなく、カーターは大型の獣が目覚めるかのようにのっそりと上体を起こした。
「なんだ……リット。いつの間に来てたんだ?」
頬に木目痕を付けたカーターは、それを消そうと自分の顔を撫でくりまわしている。
「今だ、今。イミルの婆さんに頼まれたんだ」
リットはパンを指しながら言った。
「おぉ、いつも助かるな」
「そうだろ」
「リットに言ったわけじゃねぇよ」
「つーか酒場なら、食うもんあるだろうよ」
リットはカウンターにこぼれたツマミを、カーターに向かって指で弾き飛ばしながら言った。
「カツカツの経営だからな。誰かがツケ払いばかりするせいで」
「ちょくちょく返してるだろ。それに、その誰かってのはここで寝てる奴全員じゃねぇか」
リットは足元に転がる男を、つま先で軽く小突きながら言った。
「実のところ、それは問題じゃねぇんだけどな。酔い潰れた奴から多めに代金を取っても気付かれないし。問題はツマミだ。闇に呑まれたせいで、輸送できなくなったり、そのものがとれなくなったり。代わりのものを探してたら、いつの間にか儲けがほとんどなくなっちまった」
「こだわりを捨てろよ。ここで、ツマミにこだわっても、朝にはこうだろ」
リットはテーブルや床にこぼれ落ちたツマミを指すが、カーターには気にした様子がなかった。
「いいんだよ。こだわりってのは究極に言えば自己満足なんだから。そんで、たまに美味い酒が飲めたって言われたら、もうこっちは言うことねぇってもんだ」
「その美味い酒が飲めたって言った客が、スリー・ピー・アロウへ良い行き方なんて話してなかったか?」
「ない」
カーターは剣で切ったようにきっぱりと言っきった。
「まぁ……だろうな。ペングイン大陸までは、行く算段がついたけど、スリー・ピー・アロウの中に入るとなるとな……」
「今は限られた奴しか出入り出来ないらしいな」
「オレも、一部の商人だけが出入りしてるってのは聞いた」
『スリー・ピー・アロウ』という魔族の国は、『ウッドノッカー』という森の下にあり、この二つは『ヘル・ウインドウの地下洞』によって繋がれている。
ヘル・ウインドウというのは、とても短い地下道であり、窓から覗くように簡単に魔族の土地へ行けるのでそう呼ばれているのだが、最近スリー・ピー・アロウ近辺の人間の村で、闇に呑まれた現象は魔族のせいではないのかという噂が立ったせいで、小競り合いが起きてしまっている。
「なんだ。知ってたのか」
「知り合いの猫に聞いたんだ。検問が厳しくなって輸出品が減ってるって。こちとら金もねぇし、いつもみたいに行き当たりばったりはできねぇしな」
「もし、スリー・ピー・アロウの中に入れたら、金のことは簡単だ。なにか売ればいい。輸出が少なくなってるってことは、輸入も減ってるってことだからな」
「なにを売れってんだよ」
「さぁな。でも、魔族の土地でとれないものなんて、いくらでもあるだろ」
売ると言えばランプくらいしかないだろうなと、リットが思っていると、カーターが「なんだって、魔族の土地に行くんだ?」と興味深そうに聞いた。
「魔族の土地が目標じゃねぇよ。その遥か上空にいる薄着の姉ちゃんが目当てだ」
最初カーターは何を言っているかわからないという表情を浮かべた。しかし、何か思い当たることが合ったように目を見開いたが、言葉が出てこず、立てた人差し指を懸命に振って、忘れた言葉を思い出そうとしている。
「天望の木だ」とリットが言うと、カーターは「それだ!」と、今まで振っていた人差し指をリットに突きつけた。
「天望の木を登るなら、スリー・ピー・アロウまで行く必要あるか? わざわざ大陸を渡ってまで」
「そこの天望の木が、一番浮遊大陸が近付くんだとよ」
リットは自分の分のパンを持って立ち上がった。
「おう、珍しいな酒を飲んで行かないのか?」
「朝からか?」
「いつも飲んでくだろ」
「うちの子豚に餌をやる時間だからな」
そのまま何も飲まず、リットは来た時同様に足元の酔っ払いを蹴り払いながら酒場から立ち去った。
リットは自分の家への帰り道に、魔族の土地で売れそうな物を考えていた。
食料品なんてものは腐ってしまうし、衣類はかさばる。高級なものならばかさばらないで済むかもしれないが、そんなものを買う余裕がない。
スリー・ピー・アロウは森の中にあるので、海のものがいいかもしれないが、海のもののほとんどは食べ物になってしまう。
自分の商売を考えてランプを売るのが一番だが、生活に必要な明かりはその土地土地で取れるものを利用するものだ。
必要なものが生活必需品ならば、不必要なものは嗜好品。嗜好品も輸出を代表するものだ。
そう考えた時に、リットは家にある一つのものがモヤモヤと形を作らずに浮かんだ。
海にあるもので、食べ物じゃなく、魔族の土地じゃなくても高値で売れるが、売る機会がなかったもの。
それがはっきりと頭の中に思い浮かぶと、リットの歩幅は自然に大きくなっていった。
リットは家に入るなり、手に持っていたパンを「遅いっスよォ」と文句を言うノーラに投げ渡した。
「これ、食っとけ」
「えぇ……パンだけで?」
「棚にチルカの隠してる蜂蜜があるから、それをつけろ」
リットは振り返らずに階段を上がっていった。
「ちょっと、アンタ! 隠してるって意味わかってんの!」
チルカが二階へ向かうリットに言うが、返事は帰ってこない。
代わりに、二階で部屋の物をひっくり返す音が聞こえてきた。
「まったく、なんなのよ……」と、チルカが振り返ると、チルカが部屋代わりにしている食器棚をノーラがあさっていた。
「ノーラ、今すぐその手を止めなさいよ」
「大丈夫っすよ。ちょっと一口分もらうだけっスから」
「ノーラの一口は、熊の一口と同じくらいの量じゃない」
「私なんて子熊くらいなもんでさァ。私はパンを切るんで、助け合っていきましょうってなもんです」
「なんかそれ、私だけ損してない? まぁ、しょうがないわね……無駄に使うんじゃないわよ」
チルカはどうせ一人では食べきれないし、またミツバチに集めさせればいいと諦めた。それに、隠し場所は一つではない。
そして、ノーラが切り分けたパンに蜂蜜を塗って二人で食べ始める。
「そういえば、旦那はなにしてるんスかねェ」
ノーラはひっきりなしに物音がする天井を見上げながら言った。
「今までの行いを反省して、壁に頭をぶつけてるんじゃないの。ちょっと、ノーラ。無駄に使うなって言ったでしょ」
ノーラのパンには垂れ落ちそうなくらいに蜂蜜が塗られている。
「お腹に入れば無駄になりませんて」
ノーラがパンにかぶりつくと、糸を引いた蜂蜜が手を濡らした。ノーラはそれを舐めとると幸せそうに目を細める。
「本当に子熊じゃない……」
「リゼーネの迷いの森にも熊はいたんスか?」
「いたわよ。たまにだけど、名前通り、迷って森の奥深くまで来る熊がね。森の近くに川があったでしょ? あれを伝って入ってくるのが多いのよね。よその動物って」
「でも、私と旦那が言った時は、動物なんてのはほとんどいなかったスよ」
「森に適応できそうなのは放っておくけど。できなさそうなのは追い出すの。無駄に繁殖されたら、生態系を崩されちゃうから。それも妖精の仕事の一つよ。そういえば、ノーラはどこで暮らしてたの?」
「真っ暗ァな石窟の中っスよ。まぁ、一日中炉の炎がついてるせいで、明るいっちゃ明るいんスけど。太陽の光なんて滅多に浴びないようなところっス」
「なんだ、私と住んでるところと似たようなところじゃない」
「全然違いますよォ。一に朝ご飯が美味しくなくって、ニにお昼ご飯が美味しくない。三の晩ご飯も美味しくなければ、四のおやつも美味しくないってなもんです」
ノーラは手に持ったパンを口に押し込みながら言う。そして、二切れ目のパンに手を伸ばそうとした時、リットが早足で階段を下りてきた。
「急いで下りて来たって、アンタの分の蜂蜜なんかないわよ」
「もう一瓶隠してるのがあんだろ。つーか、今はそんなもんいらねぇよ」
リットは床戸を開けて、地下の工房へと降りていった。
「なんなのよアイツ……」
「なんか探し物してるんじゃないっスか?」
「そうじゃなくて、なんで私の蜂蜜の隠し場所をアイツが知ってるのよ」
「だって、チルカが隠し物をする場所って決まってますから……。自分が開けられる重さの戸だったり、自分しか入れないような狭い隙間だったり」
「その口ぶりだと……ノーラ、アンタも知ってるわね」
「私は木の実を隠してる場所なんて知らないっスよ」
ノーラが吹けない口笛を唇の隙間からスースーとマヌケに鳴らしていると、リットが地下の工房から上がってきた。
「おい、ノーラ。『人魚の卵』見なかったか?」
「あの小汚い貝殻なら、旦那の部屋にあるんじゃ?」
「それはもう見つけた。そっちじゃなくて、海賊をしてた時に手に入れたほうだ」
「それなら、イサリビィ海賊団のアジトに置いてきてますよ。旦那が、こんなもの流通させてたまるかーって言って」
「なるほど……。探しても見つからねぇはずだ。やっぱり、セイリンに会うしかねぇな」
リットは椅子に座ると、人魚の卵が入った宝石箱をテーブルに置いて、疲れたと息を深く吐いた。
「なによこれ」
チルカは両手と両つま先を宝石箱の隙間に滑り込ませて開けた。初めは期待に瞳を輝かせていたが、中の苔色した貝を見るとつまらないものを見る瞳に変わった。
それは声色にも現れていた。
「なによこれ……」
「光る貝殻だ。水の中に入れると、小さな穴から空気を出して、その時に青白く光んだ」
「光っても、こんな汚いのいらないわよ」
「欲しいって言ってもやらねぇよ」
「こんなの何に使うんスか? 売れなくて埃被ってるやつでしょう?」
ノーラは一度人魚の卵を持ち上げるが、すぐに興味なさそうにもとに戻した。
「それが、売れそうだから探してたんだ」
「ということは、またどっか行くんスねェ。まぁ、行き先はわかってますけど」
「まぁな。今回は寄るところがありすぎるけどな」
「イサリビィ海賊団のアジトに、人魚の卵を取りに行くくらいでしょう?」
ノーラは二切れ目のパンを食べ終えると、すぐに三切れ目のパンに手を伸ばした。
「いいや、まずはディアナだ。ボーン・ドレス号に乗るには、船で沖まで出ないといけねぇからな。ムーン・ロード号に乗る許可を貰わねぇと」
「でも、セイリンならともかく、アリスが船を出してたら旦那のことを乗せないと思いますぜェ」
「むしろアリスじゃねぇと困る。アイツの好みはわかるからな。取引が楽だ」
「アリスといえば、個性的なものが好きっスよね。派手な服とかを取引しては、着れないから次の取引に使ったりしてましたけど」
「イコールアホな格好ってことだ。ディアナにいるだろ? アホみてぇな服が好きな奴」
シルヴァのことだとわかると、ノーラは「あぁ」と言いながら何回も頷いたが、突然縦に振っていた頭を横に傾けた。
「でも、アジトに行ってどうします? 私は持てませんよ。木箱いっぱいに詰まった人魚の卵なんて」
「それも、ディアナにいるだろ? 長旅で重い荷物を持つために筋肉を鍛えてる奴が」




