第一話
ホオズキの実を包む袋状のがくのような赤い色の光が、闇に一つ揺れている。
「おい、気を付けろよ。もう、骨が脆くなってるんだから」と言う心配する男の声。
それに「まだ脆くはなっていない。この間、右手の百回目の白骨日のパーティーを終えたばかりだからな」と、極めて明るい声で男が返した。
その男が高い岩壁によじ登り、闇の切れ目に手をかけると、木が擦れたような乾いた音が響いた。
「バレないようにしろよ。今、外の人間に見付かると面倒くさいぞ」
「出るのは息をするより簡単なんだ。まぁ、帰りは少し大変だけど……。それより、ジャック。もっと手元を照らしてくれないか」
男が言うと、返事はなく、赤色の光だけが男の手元の方へと移動した。
すると、壁に空いた長い穴の入口がはっきり照らされる。
よじ登るためにかけた手は白骨化していた。手だけではない。捲られた袖から出ている腕も白骨化していた。
男が上半身を穴に潜り込ませると、流木が落ちるような音が響いた。
「おい、足が落ちたぞ」
もう一人の男は地面に転がった足を拾うと、それで穴に潜り込もうとしている男のお尻を叩いた。
すると、また木と木をぶつけたような音が鳴る。
「すまない、ハメてくれないか」
「見栄を張って長い足を選ぶから、股関節と合わないんだよ」
そう言いながら、拾った足をつけてやると「おぉ、いいぞぉ」という気持ちよさそうな声が返ってきた。
そして、穴に潜り込もうとした男は、ハメられたばかりの足が動くのを確認すると、穴の奥深くへと腹ばいに進んでいた。
赤い光も届かなくなった穴の奥から、「おーい! ノーデル! 何を持ってくればいいんだったー?」と声が響く。
「花だ! マリアに送るための花! 血のように赤い花を頼むぞ!」
ノーデルと呼ばれた男は、穴の中にいる男に向かって叫ぶようにこたえた。
「わかったぞー」と穴の奥から返ってくる言葉は、反響して不安気に響いた。
「まったく……どこか心配なんだよな……。ボンデッドは。オマエと一緒で空っぽだからかな?」
ノーデルは赤い光に目を向ける。
赤い光は少しだけ揺れた。
そして、ノーデルは独り言のように言葉を続けた。
「なに? 腐ってるよりマシだ? せめて熟れた男と呼んでくれ」
ノーデルの言葉に反応して、赤い光がまた揺れた。
「わかってるよ。ボンデッドには、感謝してるって。ここじゃ普通の花は咲かないからな」
ノーデルが誰もいなくなった穴に目を向けると、赤い光も心配するように、誰もいない穴の入口を照らした。
青臭い夏の緑が残る、まだ明けぬ早朝。
リットは揺れるランプの炎を頼りに、世界地図を眺めていた。ディアナ城で使っていた部屋にあったものだ。
ラット・バック砂漠、キャラセット沼、トジ山、ワンホン山など、ヴィクターが冒険者の時に調べ上げた土地が赤枠で囲んである。
その中でも、キャラセット沼があるペングイン大陸近辺を食い入るように見ていた。
ペングイン大陸の話題といえば二つ。
一つは、今もなおウィッチーズカーズの影響があるテスカガンドの城があるということ。
もう一つは、リットのいる『ミキシド大陸』と『東の国』。そして『ペングイン大陸』。その三角航路を繋ぐ一つである、オドベヌスという港町が闇に呑まれているということだ。
しかし、リットはその二つのことではなく、多くの魔族の故郷である『スリー・ピー・アロウ』という国を眺めていた。
しばらく地図を見て考え事をしていると、夜が明けるのと同時に庭が強烈に光りだす。
リットは庭が光るのを、部屋の中で見ていた。正しくは、裏戸の隙間から漏れる光を見ていた。
すると、庭へと出る裏戸をノックする音が響いた。
まるで風に転がされた石が、ドアにぶつかるような小さい音だ。それがノックの音だと思ったのは、リズムよく続けて鳴ったからだ。
庭にいるのはチルカしかいないだろうと思ったリットは、「出たところから入れよ」とドアに向かって言った。
しかし、チルカからの返事は来ず、代わりにまた小さいノックの音が響いた。
ノックの音は上ではなく下から響いていた。
チルカなら飛んでノックをするので、顔付近から音がするはず。しかし、今鳴っているノックの音は足元から聞こえている。
ノックは思い違いで、風に飛ばされて何かぶつかってきているのではないだろうか。そうならば、その元を蹴り飛ばしてやろうとリットはドアを開けた。
リットの目に飛び込んできたのは、まだ鋭さが残る初秋の日差しと、チルカの姿だった。
耳につくのは恐怖を煽るような蜂の羽音。チルカの周りをミツバチが飛んでいる。それは、チルカがディアナから連れて帰ってきた、女王蜂を亡くした五匹のミツバチだった。
それだけではない。足元にはリスや小鳥などの小動物が横一列に並び、皆が一様にリットを見上げていた。
リットがもしかしてこいつらがノックをしたのかと、不思議そうに眉を潜めていると、「パンパカパーン!」という妙に明るいチルカの声と共に、砂利のようなものを顔に向かって投げつけられた。
「この庭は、森と認識されたわよ」
「なに言ってんだ。それより……まさか投げたのは、そこの小動物の糞じゃねぇだろうな」
リットは投げつけられた物体を拾う。赤くひしゃげた種だ。リットには見覚えがあった。
「妖精の白ユリは森じゃないと種ができないのよ。凄いわねアンタ。庭が森と認識されるなんて、普通は廃屋くらいなもんよ」
チルカがバカにしたように拍手をすると、下にいるリスも器用に拍手をした。蜂の羽音も、小鳥のさえずりも、拍手に合わせるように途切れ途切れに響いていた。
「いまさら何言ってんだ。種ができるから、妖精の白ユリに庭を埋め尽くされてんだろうが」
リットの家の裏庭は、井戸に向かう道だけ、リットとノーラの歩幅の違足跡が残っており、後は全て妖精の白ユリと雑草に覆われていた。
庭には手入れのされていない高い木もあり、日陰が出来るスペースもあるのだが、朝になるたびに妖精の白ユリが光るおかげで存分に光合成できるため、庭の雑草はいきいきと育っていた。
「今までは子株から増えてたり、アンタが摘み取ったとこの脇芽で増えてただけよ。今度は種からも繁殖するってことね」
しょっちゅう家を空けているからか、元々リットが庭の手入れなんかしないせいか、すっかり妖精の白ユリに家主になり変わられたようだ。
「で、オレの家を取り戻すにはどうすりゃいい。小便撒き散らしてマーキングすりゃいいのか?」
「変なことしないでよね……。アンタのおしっこで育つ草花とか最悪よ」
「最悪なのはこっちだ。なにが悲しくて、植物ごときに侵食されなくちゃいけねぇんだよ」
「そう最悪なことばかりじゃないわよ。庭が森になったってことは、妖精が暮らせるようになったってことだもん」
「つまり、オレは妖精ってことか」
リットが昨夜の酒のツマミの残りを庭にばら撒きながら言うと、足元の小動物たちは投げられた木の実に向かって走っていった。
「アンタ、本当に良い気分を害するのが得意ね……。まぁ、根こそぎ掘り返すしかないでしょうね。得意でしょ。人間は自然を破壊するのが」
「二、三年後。エミリアの屋敷の庭が、外観と釣り合いがとれないくらい汚くなってからそうする。あとは猫でも飼えば、小動物は駆除できるだろ」
リットは小動物の鳴き声が聞こえる庭をひと睨みすると、裏戸を開けたまま椅子に戻る。
いつもより乗ってこないリットに、チルカはつまらなそうに少し下唇を突き出した。
チルカは人差し指を立てて、腕を真っ直ぐに伸ばすと、庭に向けて腕を振り下ろす。すると、五匹のミツバチがそれに従い、庭の茂みへと消えていった。
チルカはそれを見送ってから、ふわふわ飛んで家に入る。そして、テーブルに置いたままの硬くなったパンの上に腰を下ろして、リットがさっきまで読んでいた地図を足の先で示した。
「また、ぼーっと眺めてるの? その地図」
「ぼーっとしてるわけじゃねぇよ。浮遊大陸に行くには、どのルートが一番金が掛からないか考えてんだ」
「いつも、そんなこと考えてないじゃない」
「今までは宿主に寄生して出掛けてたからな。普通はもっと滞在費とか移動費とか掛かるもんなんだよ」
リットは早い段階で浮遊大陸に行くと決めていたが、自分の意思で旅に出るとなると、金銭面で甘えられる者がいない。
リゼーネや東の国の時はエミリアに。ヨルムウトルの時はグリザベルに。ディアナの時はヴィクターに。
リット一人の力では、ロバが引く馬車で隣町まで行くのが精一杯だった。
「簡単じゃない。死ねばいいのよ。手伝いが欲しいなら言ってよね」
「アホ言ってんな。オレが死んだら行き先は地獄だ。遠ざかってどうすんだよ。後は、なるべく早く着く手段も必要だな。遠回りすればするほど金が掛かる」
「そんなの一直線が速いに決まってるじゃない」
チルカは地図の上に飛び降りると、お尻のパンくずを払ってから、天井に向かって飛んだ。
「あのなぁ……。オレは飛べねぇし、汚ぇパンツを人に見せる趣味もねぇよ」
「アホか」と続けようとするリットの鼻先めがけて、チルカの足が飛んで落ちてくる。
「鼻血なんか出してんじゃないわよ。変態!」
「まさか、オマエを見て反吐以外のものが出るとはな……」
リットはじんじんと痛む鼻を押さえるが、指の隙間からポタポタと鼻血がこぼれ落ちる。
「あーもう! アンタの汚い血が靴についちゃったじゃない」
チルカは靴の裏についた鼻血を拭き取るように、地図の上を歩いた。
ちょうどリットのいる町付近に足を下ろし、港町ドゥゴングの方へと血の足跡をつけていった。
思わずリットはチルカの体を掴み、テーブルに落ちた自分の鼻血に足を押し付けると、ドゥゴングから三角航路の真ん中あたりへと線を引いた。
「ドゥゴングの船に乗り込めれば、ボーン・ドレス号とでくわす可能性がある。そこからボーン・ドレス号に乗り換えりゃ、ペングイン大陸まで楽に行けるな。なにより酒もタダで飲み放題だ」
リットはいい考えが浮かんだと、ペンを投げ捨てるようにチルカをテーブルに転がした。
リットがしまったと思う間もなく、チルカの足が顔面に迫ってきていた。
「アンタは! とうとう私を生き物扱いさえしなくなったわね! ペン代わりってどういうことよ!」
チルカは突くように蹴りを入れて、リットの顔に赤い靴跡をいくつも残す。
「物の弾みだ。そう怒るなよ」
「これで怒らない奴なんていないわよ! アンタの鼻の穴で、妖精の白ユリの種を発芽させて、窒息死させるわよ! アンタの鼻水と鼻血で育つなんて、さぞ気持ち悪い花が咲くんでしょうね!」
「冷静に考えろよ。鼻で花なんか咲くわけねぇだろ」
「私は怒ってるの! 怒ってるってわかる? 冷静じゃないってことよ!」
チルカが怒りに羽を強く光らせて、リットの耳たぶを引っ張っていると、「もう……うるさいっスよォ……」とノーラが眠い目を擦りながら、裾が長い上着を足元に引きずって階段を下りてきた。
テーブルの上のパンを見ると、そこまで歩いて行くが、食べられないほど硬くなってるのを確認すると、がっかりしたように肩を落とし、そのついでにあくびもした。
「それで、旦那の顔はいつから妖精の通り道になったんで?」
ノーラはまだ開けきれていない目をリットに向けた。
リットは「さぁな」と言って鼻を鳴らすと、頬にべっとりついた鼻血の足跡を手で乱暴に擦った。
「朝から喧嘩をするなら、黙って静かに頬のつねり合いでもしててくださいよ。それか、せめてご飯ができてから、口喧嘩してくださいってなもんです」
「ご飯ならあるわよ。バカに焼き入れて、染みるほど辛いソースをかけるっていうのはどう? きっと嫌味な味がするわよ」
チルカが毒づくと、ノーラは眠るようにゆっくりまぶたを閉じて「うーん」と唸った。
「どうっスかねェ……」
「なによ、リットの肩を持つの?」
「だって、煮ても焼いても食べられないのが旦那っスよ?」
「じゃあ、焦がして灰にして庭に捨てるしかないわね」
「肥料になるんスかね? 旦那ァ、どうせなら庭になにか食べ物でも植えましょうよォ」
ノーラは開けっ放しの裏戸から庭を見た。
朝の涼しい風が、庭から緑の匂いを連れて吹き抜けている。
「さっき、庭に鳥とリスがいたぞ」
「……それをどうしろと言うんで?」
「チルカが言うには、うちの庭は森になったらしいからな。森と言えば自然だ。そして、自然と言えば弱肉強食。煮るなり焼くなり好きにしろよ」
「ちょっと、アンタ! 私の下僕を食う気?」
「言い方が悪いな。奴隷から開放してやるってことだ。そうすりゃ、オマエのために蜜を運び、オマエの為に木の実を集める必要なんてなくなる」
「早く逃げなさーい。こんなマヌケな奴に掴まって食べられるなんて、生まれ変わってもバカにされちゃうわよ」
チルカは庭に向かって叫んだ。
「あんな腹の足しにもならねぇのを本当に食うかよ……。生き血が酒だってんなら別だけどよ」
「私は腹の足しにならないものでもいいから欲しいんスよ。旦那だって朝ごはん食べるでしょ?」
「もう少し待て。パンの焼けた匂いがしてきたら、イミルの婆さんのとこにせびりに行くからよ」
リットがそう言うと、ノーラは何も言わずリットの顔をじっと見た。
「なんだよ」
「また、朝から行くんスか?」
「朝飯だから、そりゃ朝に買いに行くだろ。文句あるのか?」
「文句というか……。いちいち理由をつけないで、素直に様子を見に行けばいいと思うんスけどねェ」
「……ほっとけ」
リットは地図を丸めると、棚の隙間に突き刺して家を出ていった。




