第二十五話
ヴィクターの死から一週間経ったが、まだ街は涙で灯りを消されたかのように、暗く静まり返っていた。
絵画の中心を乱暴にちぎり取られたような、呆然とする物悲しさが渦巻いている。
変わったことと言えば一つ。
一日の出来事を一言一句漏らさずに書いたような長い置き手紙を残して、グリザベルは逃げるようにしていなくなったことだ。
ガルベラの研究所にあるものが数点なくなっていたが、咎めるものは誰もいない。それどころか、何がなくなったかを気付く者も少なかった。
皆それどころじゃなかったし、知らない者には価値が無いようなものばかりだ。
城には、少しずつ生活らしい生活の音が響き始めるが、やはりいつもとはどこか違っていた。まるで、指揮者のいない演奏会だ。大きなことから小さなことまで、ヴィクターの与えていた影響は大きかったのだろう。
そんな音を壁向こうに聞きながら、リットは珍しく、たいした要点もないグリザベルの冗長な手紙を最後まで読んでいた。
そして、読み終えると、昨日のうちにまとめ終わった自分の荷物に目を向けた。
小さく破れた鞄の側面部から、酒瓶の瓶口が飛び出ている。
誰かに布を当てて縫ってもらおうと思ったが、その考えを頭から振り払った。
昨日はボロシャツのほつれをセレネに直してもらったし、一昨日はすり減らせるだけすり減らした靴を新調するためにシルヴァと買い物に出かけた。どれも、普段なら気にも留めないことだ。一日一つ不具合を見付けては、帰らない理由を探している。
しかし、今すぐに帰ろうと決めても、時間が掛かる。ノーラにもチルカにも、帰ろうとしていることさえ伝えていないからだ。
踏ん切りをつけないリットに付き合っていてはいつ帰れるかもわからず、そもそも帰る場所が違うので帰りを合わせる必要もない。
もし、グリザベルが「帰る」と言えば、リットも「オレもそろそろ帰るか」と言うだろう。帰るための理由作りにされたくないグリザベルは、手紙を残して先に帰ったというわけだ。
リットは手紙をテーブルに置くと、意を決したように立ち上がり、そのままの勢いで部屋のドアを開けた。
手に荷物はない。
途中に出会う城の者たちと適当に挨拶を交わすと、どの部屋に寄るでもなく、城の外へと出た。
のんきに流れる膨らんだ夏の雲が、青空を押し寄せるように流れている。
岩にぶつかり、柔らかに砕け、空気を飲み込む川の音が眠たげに響く。鋭い日差しに熱せられ、土の匂いが立ち上る。鳥は姿を見せず、鳴き声を日陰から響かせる。地面にひらめく影は、虫の影だ。
季節は間違いなく夏。一つの悲しみも含んでいなかった。
リットはせせらぎを聞きながら川沿い通りを歩いて、いつもの酒場に向かっていたが、思い立ったように足を早めて酒場を素通りした。
そして、何も持たないまま、荷馬車に乗せてもらうと、故郷の村へと向かっていた。
村に着く頃には、辺りはだいぶ暗くなっていたが、雲を黒く焦がす夏の夕日が、なかなか落ちずにしつこく空に残っている。
「助かった。今度オレの住む町に来ることがあったら、酒でも一杯奢るよ。顔を覚えてたらな」
「適当な町で適当な奴に声をかけるからいいよ。何人かに声をかければ、身に覚えのある奴に行き着く」
馬車は村に立ち寄ることなく、夕日に照らされて、黒い影となって消えていった。
ディアナ国とは違い、アールコール亭では火がつくような温かい光が漏れていた。
「ウイスキーとなんか食うもん頼む」
リットは入るなり注文を言うと、母親のルーチェの前のカウンター席に腰掛けた。
「ただいまの一言もないのかい? まぁ、でも……挨拶無しでとっくに帰ったと思ったよ」
「成り行きでな。いくつも季節を跨いじまった。……親父が死んだよ」
「知ってるよ。歩いてでも行ける距離の街の情報を、知らないとでも思ってるのかい?」
リットは唯一の荷物と言っていい、ズボンのポケットに入れっぱなしの紙切れを、ルーチェの顔に向かって押し付けるようにして渡した。
「親父の墓の場所だ。そのうち行くんだろ」
「湿っぽいのは苦手だから、ディアナが元気を取り戻した頃にね」
ルーチェは紙切れを受け取ると、子供の頃のリットがヴィクターとルーチェの間に挟まれて描かれている、小さな肖像画の裏にそっと置いた。
「それで、アンタはこれから帰るのかい?」
「いいや、またディアナに戻る。荷物も持ってきてねぇしな。こっちには気が向いて来ただけだ」
「そうかい。なら、ゆっくり飲んでいきな」
ルーチェは空のコップとウイスキーの瓶を置くと、他の客の相手をし始めた。
リットも故郷の顔なじみ達と、挨拶をしたり話をする。
話と言っても、年寄りは決まって「大きくなったな」と言うし、同世代は「久しぶり」から始まる意味のない世間話だ。一言二言話せば、喧騒に紛れて途切れてしまう。
その中で「私もお酒一つ」という声は、喧騒を割るようにして響いた。
「前も酒場に来てたけどよ。酒飲みにでもなったのか?」
断りを入れることもなく隣の椅子に座るドラセナに、リットは顔だけ向けた。
「わざわざ幼馴染に会いに来たのよ。おじさま……残念だったわね」
「まぁな。ただでさえ夏で湿っぽくなってきたのに、これじゃカビが生える。いや……カビで作る酒ってのもあるらしいし……悪かねぇか」
リットは大げさに肩をすくめてみせた。
「そういう風に大事なことをジョークの裏に隠すのは、リットの悪い癖ね。そのうち、誰もリットの気持ちなんてわからなくなっちゃうわよ」
ドラセナの口調は咎めるというよりも、なだめるようなものだった。
「どうだかな。隠してても、勝手に気付くちんちくりんがいるからな」
「あの子がねぇ……」と、ドラセナは意外そうな顔をした。「それで、ディアナの暮らしはどう? 長いこといるけど、変わったことはあった?」
「弟と妹とアニキができたよ」
「それで、その兄弟と別れ辛くなって困ってここに来た。おじさまを亡くして、お兄さんまでいなくなったら寂しいものね。リットはそこに気を使ってるってわけね」
「占い師の真似事をしてぇなら、もっと幸の薄そうな奴を選べよ」
「周りの誰にも聞かせたくないからここに来たくせに。今更何を言ってるのよ」
ドラセナはお見通しと言わんばかりに笑みを作る。
「嫌だねぇ……。昔から自分を知ってる奴ってのは。気を使わないで、ズケズケ踏み込んでくる」
「昔の恋人に格好つけようとするのが間違いよ。格好悪いところも、好きになったところと同じくらい知ってるんだから。さっきみたいにジョークで誤魔化すとか、同じシャツを何日も来てるとか」
「まだ、二日目だ」
リットは「汚れていないだろ」とシャツを引っ張って見せたが、いつ出来たかわからない酒のシミをドラセナに指摘された。
「どうせ三日目くらいでしょう。そういう、どうでもいい嘘も格好悪いわよ」
押され気味のリットは、なんとも言い難い気持ちで頭を掻いた。
「……旦那に、口うるせえって言われねぇか?」
「言われないわよ。リットと違って、しっかりしてる人だもん」
「表に出さねぇだけで、裏じゃダメなところもいっぱいあるだろ」
「表に出さないから、しっかりしてるって言うのよ。まぁ、裏表ないのがリットの良いところでもあるんだけど……」
ドラセナは苦笑いを浮かべると、歯切れ悪く言った。そして、それを誤魔化すように、コップに口をつけた。
「けど、なんだよ。褒めてるなら「良いところ」で切れよ」
「普通、初対面の相手に「じいさん、命を落とす前に金を落としていけよ」とか客引きする?」
「あのじいさんは身寄りがいねぇんだ。金なんか残しててもしょうがねぇだろ。だから、ここで楽しい酒を飲んでけってことだ」
「そういうとこよ。素直に褒められないのは。言い方ってものがあるじゃない」
「昔のことをひっぱりだしてグチグチと……。慰めの言葉一つくらいあってもいいんじゃねぇか」
リットはコップに半分ほど残っていた酒を一気に飲み干すと、酒臭いため息を吐き出した。
すると、ドラセナが空になったコップにウイスキーを注いだ。
「そういう言葉をかけられるのは嫌いなくせに。それで、どうするの? 悩んでるくらいなら、ディアナに住めばいいじゃない。城じゃなくても、家を借りるとか、ディアナに近いこの村に戻ってくるとか、方法は一つじゃないでしょ」
「こっちでも、ランプ屋はできるけど……なんか違うんだよな」
楽しく過ごしているし、他の国や街で商売を始めるよりも、ディアナのほうが顔馴染みもいるしいいだろう。
だが、自分が根を下ろすのは違う気がしていた。
暮らすとなれば、この違和感をずっと抱えていなければならない。
「昔のよしみで一緒に考えてはあげるけど、答えは出してあげないわよ」
「そう冷たいこと言うなよ。一言「帰れ」って言ってくれりゃ済むんだからよ」
「あら、答えは決まってるんじゃない」
散々回りくどくしていたリットが、あっさり答えを言ったので、ドラセナはおかしくてたまらなかった。
「おうおう、笑ってろ、笑ってろ」
リットはカウンターに肘をついて、不貞腐れたように視線をそらした。
「前に、あなたは変わらないわねって言ったの取り消すわ。リットは変わったわよ」
「珍しく繊細に悩んでるのを、笑ってくれてありがとよ」
「また来ればいいじゃない。もう意地なんて残ってないんだから、いつでも会いに来れるでしょ」
「そうだな。帰るか……明日」
リットはウイスキーに映る自分の顔を眺めながら言った。
次の日の朝。リットは城に帰ってくるなり、ノーラの部屋へと直行した。
朝ごはんを食べ終え、二度寝しているノーラを乱暴に起こすと、帰ることを告げる。
「今日、帰るんスか? 急っスねェ。ローレンはどうするんで?」
ノーラは枕を抱いて、まだ眠そうにあくびをした。
「ローレンは二股がバレるまでは、ディアナにいるとよ。オレが帰るって言うのは、いつも急だろ」
「まぁ、そうっスけど……。立つ鳥跡を濁さずが旦那ですし。でも、お別れはどうするんですか? ほとんど出掛けてたりしてますよ」
「会った奴にだけ言えばいいだろ。もし、全員が集まってお見送りされてみろよ。恥ずかしくて死んじまうだろ」
「私は盛大にお見送りしてほしいっスけどねェ。パーティーとか開いて」
「飯が目当てだろ。昼前に出るから、さっさと支度しとけよ」
てっきり文句の一つでも出ると思っていたが、ノーラから帰ってきたのは「はいさァ」の一言だった。
「本当にわかったのか?」
「わかってますって。旦那ってば顔に似合わず、お別れが苦手っスからね。解決したのに長居すると、どうしていいかわからなくなるんでしょ」
ノーラはベッドから飛び降りると、腕を右に左に伸ばして最後のあくびをした。
リットは聞こえないふりをすると、ドアを閉めた。
同じことをチルカにも告げて、自分の部屋に戻る途中。満足気にお腹をさすりながら歩いてくるグンヴァに出くわした。
「よう、アニキ。どこに行ってたんだ? 今行っても、もう朝ごはんはないぜ。残りもんまで、俺様が食っちまった」
「いらねぇよ。帰りに乗せてもらった馬車のオッサンに、よくわかんねぇ木の実で作ったパンを貰ったからな。それより、元気そうだな」
「おうよ。いつまでも辛気臭いのはオヤジも嫌いだろうしな。俺様は俺様らしく、武勇伝でもオヤジの墓前に添えるってなもんだ。そのためにも、ガッツリ朝飯を食ってきたぜ」
「そりゃよかった。添えられる笑い話が聞けねぇのは残念だな」
「笑い話じゃなくて、武勇伝だ! って、なんだ聞けねぇってのは」
「家に帰んだよ。ちょっと考えりゃわかるだろ。これから暇な兵士を見付けて、馬車を出させるから忙しいんだ。馬車を引く気がねぇなら、邪魔すんな」
リットは人差し指でグンヴァの肩を強く押すと、「じゃあな」と声を掛けて歩いていった。
時刻は昼。城門前では、見るからに血統の良さそうな白馬に、兵士が馬車と繋ぐための馬具を取り付けているところだった。
リットは馬車の車輪に寄りかかりながら、ため息をこぼした。
「おい、グンヴァ。知ってるか? オレは今から戦争に行くわけじゃねぇんだぞ」
途切れることのない影を右から左まで見渡すと、リットは顔を上げる。
リットを見送るために、家族総出で城門まで見送りに来ていた。
「戦争に行くなら止めてるぜ。そうじゃないから、見送りに来てんだ」
グンヴァの肩を掴んで、モントが一歩前に出た。
「そうだぞ。いくら忙しくても、弟を見送る時間くらいはいつでも作れる」
そう言って顎鬚を撫でる仕草は、ヴィクターの面影がある。
「時間より、ガキを作れよ。じゃねぇと、呪いの手紙を送ってきそうな奴がいんだよ……」
リットはノーラの頭に手を置いて少ししゃがむと、モントに耳打ちをする。そして、モントの肩越しに、口元に笑みを浮かべているが目は笑っていないソアレを見た。
「あまりプレッシャーをかけるな。変に意識すると、ベッドの上で、その……色々問題があるんだ。久々で……なんというか……雨ざらしのブリキだ」
モントもコソッとリットに耳打ちで返す。
「錆びついてるなら、早く油でもさせよ。ソアレだけじゃなく、全国民が子作りのことを心配してると言っても過言じゃねぇ。アンタの股間は注目の的ってわけだ」
「もう、絶対今日は無理だ……」
モントは落胆するように肩を落とした。
「あの……重いんだけど」
聞きなれない声が手の下から聞こえると、ようやくリットはノーラではなく、スクィークスの頭に手を置いていることに気付いた。
「悪かったな。ちょうど同じくらいのもんだから、ノーラと間違えた」
「いいよ。寝てる間に世話になってたみたいだし」
「そういえば、オマエとはあんまり話す時間がなかったな」
「夢の中では話してたよ。酒場で一緒にお酒を飲んでて、支払いの時お金が足りなかった。それで、リットがお金を持ってくるって言って出て行ったきり、帰ってこなかった」
スクィークスの声には恨みがこもっていた。
「……夢の中の話だろ。でも、覚えておく」
そういうただ酒の仕方があったかと、リットがニヤリと笑うと、突然いびきが響いた。
「神の産物の後遺症かな? まだ、いきなり寝ることがあるんだよ」
チリチーが倒れないように、スクィークスを支えながら言った。
「神の産物というより、生活のリズムが狂い過ぎてるだけだろうよ……」
「そうかもね。なんせ何十年も生活のリズムが狂ってたからね。それで、リットは帰ったらどうするの?」
「とりあえず、全裸で家の中を歩き回るよ。城の中でやったら変人扱いだからな」
「……他にやることないの?」
「後はスープでも作る。オマエも寄ったら食わせてやるよ。ちょくちょくリゼーネに来るんだろ?」
リットはゴウゴに向かって話しかけた。
「そうだな……リットの家のある町は通り道だしな。今度ご馳走してもらおうか」
ゴウゴがまんざらでもなく返事をすると、「やめておいたほうがいいっスよー」と言う声が、馬車の中から響いた。
リットが振り返って「オマエは嫌でも食うはめになるんだからな」とノーラに言っていると、「僕も行っていいですか?」とバニュウが服の裾を引っ張った。
「わざわざスープ食いにか?」
「はい!」と元気よくバニュウが返事をすると、「やめたほうがいいわよ。道草でも食べてる方が体にいいから」とチルカが囃し立てた。
「スープに虫が入っててもいいなら来いよ。なんなら今すぐ食わせてやる」
リットが嫌味を込めて言うと、ナッツの殻が頭にめがけて飛んできたが、風に流されてグンヴァとシルヴァの間へと落ちた。
リットはそれを視線で追うと、グンヴァとシルヴァの二人の方へ向いた。
「オマエらは……たぶん次来る時には、二人共フラれてんだろうな……」
「ちょっと、グンヴァと一緒にしないでよ。私はブラック・エンペラーとか言う変な集団を引き連れるほど頭がおかしくないし、グンヴァみたいにおかしい頭もしてないわよ」
「これは男の魂の髪型だって何回も言ってるだろ! 第一、おかしな服ばっか着てる奴には言われたくねぇぜ」
グンヴァとシルヴァは、リットをほっぽりだして口喧嘩を始めた。
リットは肩をすくめると馬車に乗り込んだ。
そして、顔だけを馬車から出す。
「マックス。オマエに言うことは、今度会う時に取っておくよ」
「また、来る気ですか」
マックスは眉をしかめて嫌な顔をしていたが、口元には笑みが浮かんでいた。
「来てほしけりゃ、リゼーネの王女とでも婚約を結んでくれ。その方が行き来が楽だからな」
リットは言いながら、御者に「出してくれ」とジェスチャーを送る。
馬車が走り出すと、王族らしからぬ柔らかな別れの言葉が飛んできた。
ディアナの城下町から馬車が出たところで、ノーラが急に振り返った。
「旦那ァ、なんか寂しいっスねェ」
「あぁ、そうだな」
リットは振り返らずに、御者台の隙間から見える風景を眺めて答えた。
すると突然、リットの視界はチルカの小さな体でいっぱいになった。
「なんだ、泣いてるのかと思って覗いたのに、ニヤニヤして気持ち悪いわね」
夏の昼は、遠い月を想う。
ゴウゴウと燃える夏の太陽の、肌をチリチリと焦がされるような日差しを浴びて、白い毛並みを銀色に輝かせる軍馬が、力強く馬車を引く。
夏の夜は、遠い太陽を想う。
夜道に停められた馬車。囲うは焚き火に煮える、馬の乳で作ったシチュー。
浮かぶ月は大きく、眠るリットを優しく照らしていた。
四章の「命の灯火編」はこれで終わりです。




