第二十四話
ヴィクターの葬儀があった日の晩。
街の灯りは全て消えていた。
誰かが亡くなると、街灯から暖炉、調理火まで消して、死者を月明かりに送るというのがディアナ国の風習だった。
そうして、月を見上げる度に故人を思い出すのだ。
今日は端無くも、ディアナの国旗と同じ満月の夜だった。
灯りのない地上から見上げる空に浮かぶ満月は、吸い込まれそうなほど大きく強く輝いていた。
リットは城でも街でもなく、水の干上がったティアドロップ湖に一人で来ていた。
かたい夏草の上に腰を下ろし、ヴィクターの好きな酒を傾けている。
誰かの泣き声を聞くのが嫌でここにきたのに、葉擦れさえも泣いているように聞こえてくる。
リットは夏草の上に寝転ぶと、月を見上げた。
感情が悲しみ一つに染まってしまえば、心の置き場もあったのだが、そうもいかなかった。
お腹が空いていることに気付くが、なにも食べる気がおきなかったり、整理のしようのない胸のざわめきに苛立ったり、なぜ自分が歩いてるのかわからなかったり、義務的な弔いの言葉や葬儀に嫌気がさしたり、心を無にすることもできず、雑念ばかりが湧いてくる。
あの月から客観的に自分を眺め、操っているような奇妙な感覚だ。
だからだろうか、夏草が踏みつけられ悲鳴を上げる音に、リットは敏感に反応した。
仰向けに寝転がったリットからは、誰かの足だけが見える。
もしかしてと思い慌てて立ち上がったが、誰の姿もない。視線を下げると、揺れるおさげがあった。
「急に立ち上がるからびっくりしましたよォ」
月明かりに照らされて、ノーラの輪郭が闇に浮かび上がった。驚きに目を大きく見開いている。
リットは一つ息を吐いて、再び腰を下ろすと、酒瓶を傾けた。
「びっくりしたのはこっちだ。もう、化けて出たのかと思った。……なんかようか?」
「今日は雲がないっスねェ」
ノーラはリットの後ろに回って腰を下ろすと、反対側にある月を見るために背中に体重を預けた。
夏草に冷やされたリットの背中に、灯るようにノーラの体温が流れ込んでくる。
「そうだな……。明日は暑くなりそうだ。それで、オマエは暗い中、食糧庫と道を間違えたのか?」
「星を繋いで星座を作るのからヒントを得て、昔の魔法使いが魔法陣を思いついたって知ってますか? 旦那がオークの村に行ってる時に、グリザベルが言ってたんスよ」
ノーラは手を真上に伸ばして、立てた人差し指で適当に星と星を線で繋いだ。
「さっきから食い違ったことばっか言ってるけどよ。オマエはちゃんと答える気があるのか?」
「必要あります?」
とぼけたノーラの声に、リットは小さく笑いをこぼした。
「いや……いい。帰ったらまた大掃除か……。それに帰る前に、おふくろに寄るって言っちまったしな」
「夏といえば蚊の季節ですねェ。なんで刺されると痒くなるんスかね。痒くなければほっとくのに」
「この国も本格的に忙しくなりそうだ。親父の時と全く同じの国。ってわけにはいかなさそうだしな。モントも大変そうだ」
「あの、手入れしていない庭が虫の住処になってると思うんスよ。チルカも、こんなの庭じゃなくて森よって言ってましたよ」
二人の言いたいことだけを言うチグハグな会話は続き、夜が更ける頃には、ノーラの返答は寝息と寝言になっていたが、気にせずリットは喋り続けていた。
やがて、短い夏の夜が白け始めた。
淡いピンクとグレーがかった白い雲、濃艶な青い空、鮮やかに世界を照らす。野鳥の鳴き声が互いに呼応し、大地や樹木の匂いが色濃く漂う。
世界は独特な空気を纏っていた。
リットは消えた月を眺め、眠ることなくゆっくりとした口調で喋り続けていた。
「一晩中ここにいたのか」
グリザベルの声を聞いて、リットは酒瓶に僅かに残る酒で口を潤した。
「そのつもりはなかったけど、結果的にそうなったな。きっと寝過ぎたせいだ。十五日も寝っぱなしなんてことは、いままでなかったからな」
リットが振り返ると、背中に寄りかかって寝ていたノーラが地面に倒れたが、起きることなく、草と地面に頬ずりしながら深い寝息を吐いた。
今までリットは気付いていなかったが、ノーラの頭には包帯が巻いてあった。
グリザベルはノーラの隣に腰掛けると、「ノーラに救われたな」と言いながら、ほどけかけていた包帯を直した。
リットが何も言わず、ノーラの頭に巻かれた包帯を見ていると「心配するな。ただの擦り傷だ。傷も残らん」とグリザベルが言った。
「なにやったんだ? コイツは」
「夢で見なかったのか? なるほど……時うつしの鏡は、鏡を覗かなかった時の未来が見えるのかもしれぬな」
リットが「何が?」と聞く前に、手のひらに粉を落とされた。その粉は朝日を浴びてキラキラと輝いていた。
「それが、時うつしの鏡だ。ノーラの頭によって割られたな」
リットは粉を摘んで、手のひらの上に落とした。破片ではなく、砂浜のようにきめ細かやかな砂になっている。
「これが、時うつしの鏡なのか?」
「そうだ。割れた途端に崩れるようにして砂になったらしい。ノーラが転んで鏡を割らなかったら、お主はもっと寝ていたかもしれぬ。――いや、その心配はないか」
グリザベルは昨夜の月を見るような優しい顔で朝焼けを眺めた。
「スクィークスも起きてただろ」
「お主よりかなり早く起きておったぞ。ヴィクターが倒れるまで寝ていたとは、何も起こらぬ平安な人生だったようだな」
「何年も眠りこけて、平安もあるかよ」
「お主のように人生の分岐点が多々あれば、ヴィクターが倒れるまで夢を見ず、何年も前に目覚めた可能性があるということだ」
「オレの人生の分岐点なんざ、酒を飲み始めたことくらいだ」
リットは立ち上がると、澄んだ朝の空気を身体いっぱいに吸い込んだ。そして、だいぶ気持ちが落ち着いていることに気付いた。
「妖精の白ユリを見つけ、ヨルムウトルに光を取り戻し、東の国の大灯台に火を灯した。お主は自分で思う以上に、世界に関わっているぞ。ヴィクターが言っていた、オレに一番に似ていると言う言葉は、そういうことなのだろう」
グリザベルは真っ直ぐリットを見つめて言ったが、言われたリットは呆れた様子で顔をしかめた。
「オマエは、もう一つ気を使えねぇな……」
「我はいいことを言ったつもりだぞ。なぜ、非難されねばならぬのだ」
「そういう言葉を聞くのが嫌で、城からも街からも離れた場所にいんだよ。わかるだろ、普通」
「言わねばわかるわけがなかろう。城に帰らぬお主の心配をして探しに来たのだぞ。納得いかぬぅ!」
「察せよ。もし、一人で泣き明かしてたら、どうするつもりだ」
「泣かぬのか? 泣いても、咎める者もからかう者もおらんぞ。人に涙を見せるのが嫌ならば、我は朝焼けを眺めていよう」
グリザベルは立ち上がり、数歩歩いてリットに背中を見せる。
わかりやすい気の使われ方に、リットは思わず笑いをこぼした。
「心配されなくても、泣きたくなったら泣く。別に我慢してるわけじゃねぇしな。酒を飲んで弔えば充分だ」
強がりではなく本心だった。
きっといつかは、今日と似た月を見上げて泣くだろう。だが今は、飲めなくなったヴィクターの好きな酒を、代わりに飲んでやりたい気持ちだった。そこに憂いも嘆きもなく、ただ語らうようにだ。
「そうか……。なら我も付き合おうではないか」
グリザベルはリットの目の前に座ると、コップを探して視線をさまよわせた。
「気持ちはありがてぇけどな。もう飲んじまった。それに、人に飲ませるのはもったいねぇよ」
「そうだな。確かに、お主が飲むべき酒だ」
「いや、高え酒なんだこれ。帰ったらまだ一本残ってるけど……。飲みたけりゃ、金を取るぞ」
リットは空になった瓶を拾い上げて、ラベルをグリザベルに見せるようにした。
「お主は……少しさばさばし過ぎではないか?」
「いいんだよ。これがオレと親父の関係だ。それより、もう未来を見る鏡はなくなっちまったんだな」
今度はグリザベルが呆れた様子で顔をしかめた。
「そうだ。鏡も割れたし、額縁の魔法陣も意味がなくなってしまった。我もお主に一つ問いたい。何を見たのだ?」
リットは夢の内容を話した。
ヴィクターが倒れたという知らせが入る以前のことも、現実に起こったことのように、断片的に記憶に残っていた。
そして、そのことはいくつか現実世界の出来事ともリンクしていた。
「なるほど……。グンヴァが飲みすぎて酒場のテーブルを酔って壊し、怒られていたしょうもない夢を見ていたわけだな」
「人の夢にケチつけんじゃねぇよ」
「ケチをつけているわけではない。しょうもないからこそ、重要なことなのだ。グンヴァが酔って酒場のテーブルを壊したのは現実にもあった出来事だ。お主が眠りについていた間にな。取るに足りない出来事こそ、未来を見ていた証拠になる。確かめる術はもうないがな」
「そうは言うけどよ。夢の最後はよく覚えてねぇんだ。色んな情報がいっぺんに記憶の中でこねくり回されたみたいに、ごちゃごちゃになって目が覚めたからな。なんとなく親父が倒れたという言葉が頭に残って、気付いたら走ってた」
リットは眉間にしわを寄せて難しい顔をした。思い出せば思い出すほど、頭の中に浮かぶ夢の映像が褪せていくようだ。
「我が体験したわけではないから、確かなことは言えん。少なくとも、あれは未来を変えるための道具ではないということだ」
「未来が見えるのに、なにもできないとはな。なんのための神の産物なんだか」
「ディアドレが死期を悟り、空に行く決心をつけたように、今回もお主を少し素直にさせる力はあったということだ」
先程からリットがヴィクターのことを親父と呼ぶのを聞いて、グリザベルは顔をほころばせた。
リットは否定も肯定もせずに、笑い返した。照れくささに耳の裏をかきながら無意味に少し歩くと、ちょうどよく転がってるノーラの頭を蹴飛ばしてしまった。
「あ痛っ! もう少し普通の起こし方でお願いしやすぜェ」
ノーラが蹴られた頭を押さえながら起き上がった。目やにを丸めた手で乱暴にこすり落とし、まだ太陽が低いことに気がつくと、猫のように大きく口を開けてあくびをした。
「リンゴでも丸呑みにする気か?」
「口に入っても噛み砕けませんよ。蛇ならそのまま飲み込めるんでしょうけど……丸呑みにして味なんてわかるんスかね?」
ノーラは寝ぼけに任せて、よくわからないことを口走り、まるで湯に浸かったかのようにほうっと息を吐いた。そして、ひどく緩慢な動きで地面に座り込むと、また大きくあくびをした。
「無理もない、まだ朝方だからな。普段ならまだベッドにいる頃だ」
ノーラにあくびをうつされたグリザベルは、口元に手を添えて控えめにあくびをした。
「戻るか。拗ねた子供じゃあるまいし、いつまでもここにいる理由なんてねぇからな」
「お腹も減りましたしねェ」
ノーラは眠気を身体から吹き飛ばすように、両腕を伸ばしながら立ち上がった。そのままぐっと上体を後ろに傾けて、うーんと低く喉を鳴らす。
「そうだな。なにか腹に入れてぇな」
昨夜のことが嘘のように、リットの胃は食べ物を欲していた。
ヴィクターが死ぬ間際まで、いつも通り過ごしている意味がやっとわかった。自分との思い出にしがみつくのではなく、思い出として心の中に残しておいて欲しかったのだろう。
リットはノーラを通して、ヴィクターのいつも通りを見ていた。
「どうかしましたかァ?」と聞いてくるノーラに、リットは「なんでも」と言うと、酒瓶を拾って歩き出した。
しばらく歩いたところで、リットは「そう言えば、時うつしの鏡はどうするんだ?」と、グリザベルに話しかけた。
「ガルベラの研究所ではなく、ディアナ国で保管すると言っていたぞ」
「いいのか?」
「良いも悪いも、あの鏡はディアドレのものではなく、もうディアナ国のものだ。それに、鏡が割れてしまっては意味が無いものだからな」
グリザベルには時うつし鏡への執着心はなかった。何を当たり前のことを言っていると、疑問に眉をひそめている
「あの額縁は魔法陣だろ?」
「それならば、元となる二枚の魔法陣があればよい」
「もったいねぇ。言えば少しはくれると思うぞ」
「金銭が必要になれば、ガルベラのように魔宝石を売って歩く。お主の方こそ必要ではないのか? ヴィクターと一緒に調べたものだ。形見になるのではないか?」
「形見なら、もう貰った」
リットは酒瓶を胸元に掲げた。朝日に空の瓶が綺麗に透ける。
「空ではないか。いや、まだ部屋にあると言っていたな」
「たまに思い出して、ちびちびやりながら供養してやるよ」
「そうか、お主らしいな。お主らしいやり方のほうが、ヴィクターも喜ぶかもしれぬな」
「そう、いつも通りだ」
リットはいつも通りの足取りで、まだ悲しみの色に染まる街へと戻っていた。




