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ランプ売りの青年  作者: ふん
命の灯火編(下)

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第二十三話

 それからしばらく、何も変わらない日々が続いた。

 いつもの酒場でグンヴァと酒を飲み、シルヴァに付き合ってもいないウィルとののろけ話をされ、なんでも信じるバニュウに適当な嘘をつき、チリチーと他愛のない話をして、マックスに絡んで怒られ、スクィークスの寝顔を眺め、モントとは政務の間に一言二言話し、ローレンの女の話を聞き、グリザベルをからかい、チルカと喧嘩して、ノーラの食べっぷりに呆れる。

 本当にいつもと何一つ変わりのない日々だ。


 青い空の海に高波の白雲が押し寄せた、そんな夏と呼べるある日。

 リル川では、子供が遠くから流した葉の船が岩に当たり沈み、川底を流れていった。

 そんな光景を背に、リットは川沿い通りの塀を背にしてローレンと話をしていた。

「それじゃあ……キミはわざわざ故郷の国の船を襲ったわけかい? 海賊になって? 信じられないね。自分から正体をバラしに行ってるようなもんじゃないか」

 ローレンは呆れたと言わんばかりに肩をすくめた。

「しょうがねぇだろ。たまたまムーン・ロード号に龍の鱗があったんだからよ。好きでディアナの船を狙ったわけじゃねぇよ」

「普通はもっと考えて海賊をやるもんさ」

「普通に考えたら海賊なんてやらねぇよ。まぁ、タダ酒飲めたのは良かったけどな」

「今だってタダ酒を飲んでるじゃないか」

「昨日はオレが奢っただろ」

 リットが言うと、ローレンが顔をしかめた。雲に陰った太陽が顔を出したからではない。

「帰ったら返すって。今、手持ちがねぇんだからしょうがねぇだろ」

「普通は旅の資金くらい持って出ると思うけど」

「こんな長居する予定じゃなかったんだ。街のランプの修理はあらかた終わっちまったし。いやー、オマエに手紙を出してよかった」

 リットが肩を抱くと、ローレンは顔をしかめて肩に乗った手を払った。

「いいかい、僕の肩を抱いていいのは、背中で潰れるほどの胸を持つ女性だけだ。キミはそんな胸を持ってるかい? それともキミは女性かい? いいや、両方違う」

「オマエはいつになったら乳離れすんだ」

「誰にでもあるじゃないか。優しい女性がいいとか、賢い女性がいいとか。僕は大きい胸が好きってだけさ。性格も顔も二の次。――でも、一番好きなのはノエル。キミだけさ」

 ローレンはいきなり振り返り、後ろから片手で目隠ししようとしている手を掴んで引き寄せると、手の主の腰を抱いた。

「まぁ、ローレン。私もあなたが一番好きよ」

 そう言ったのは酒場でローレンに口説かれていた女性だ。

 ノエルはローレンの頬に手を添えると、少し頬を染めてキスをした。

「おいおい、好きって言っただけでキスか」

「言葉だけじゃないのよ。ローレンは気持ちもこもってるから」

 ノエルは人差し指をローレンの胸元で遊ばせながら言う。

「もしかして、愛してるとも言ったか?」

「当然だよ。愛は全て言葉にする主義だからね。それがどうかしたかい?」

「好きでキスなら、愛してるならもっと凄いものが貰えるもんな」

 リットはノエルの谷間を枕代わりにしている赤ん坊を指した。

「ノエル……その生き物はなんだい?」

 ローレンは胸を突いてくるノエルの人差し指を摘んで、ゆっくり離すと、逃げるように距離を取った。

「なにって赤ちゃんよ。ほら、パパよ」

 ノエルは赤ん坊のお腹を抱えて、ローレンの眼前であやしてみせた。

「おい、この女恐ろしいこと言ったぞ……。まるで呪いだな。この調子じゃ来週には双子が生まれてるぞ」

「バカなこと言わないで。そんなにポンポン産んだらお腹が破裂しちゃうわよ。親戚の子を預かってるだけよ。この子の両親のお店が忙しいから、たまに誰かが預かって面倒を見てるの」

 ノエルは、今度はリットに赤ん坊が見えるように抱いてみせた。

「そういえば、リッチーが預かってたガキと一緒だな」

 リットが赤ん坊の顔を覗き込むと、赤ん坊もリットを見たが、すぐに顔を背けてノエルの胸元へと甘えるように顔を埋めた。

「甘えん坊ね。ねぇ、どっちか抱いてみる?」

「この前は腕の骨を折ったって言い訳したから、今回は腕の骨が粉砕したことにしとく」

 リットは赤ん坊を押しのけるように腕を伸ばして拒否した。

「僕も遠慮しとく。落としそうで怖いよ」

「大の男が情けないでちゅね。本当にダメな大人でちゅねぇ」

 ノエルは赤ん坊に向かって話しかける。

「なんで女ってのは、赤ん坊を抱いてると強気なんだ?」

「そんなの――赤ん坊が僕らの弱点だからさ。特に、身に覚えがある場合は」

 言い終えると、ローレンはものすごい勢いで首を振って、ノエルの胸を見た。赤ん坊がノエルの両胸に手を置いて顔を埋めていたからだ。

「あら、お腹が減ったのかな? ごめんね、これはアナタのランチじゃないのよ」

「そうだよ、これは僕のディナーさ」

 ノエルの胸を揉む赤ん坊の手をローレンが掴んで離した。

「それで、今日はどっちのディナーを食べるんだ? 確か、今は二つ選べるはずだな」とリットがからかうと、ローレンは「余計なことは言わないように……」と、こそっと耳打ちをした。

「そういえば、なにかあったかお城で聞いてない?」

 ノエルが少し声を潜めた。

「なにがだ?」

 なにも思い当たることのないリットが逆に聞き返すと、ノエルは眉をひそめた。

「今、街を兵士が走り回ってるのよ。だからなにかあったのかと思って」

「晩飯のパンを後で食べようと取っておいたらカビが生えてたくらいだな。危うく食べられなくなるところだった」

「まさか……食べたのかい?」

 ローレンが軽蔑するような瞳をリットに向けると、リットは鼻で笑い返した。

「アホなこと聞くな。ちゃんとカビの部分は捨てた」

「そのうち、胃が変な生物の住処になるよ……」

 ローレンの笑みが強張った時、どよめきと喧騒が風に運ばれてきた。

「なんだ?」

 リットが疑問を口にすると、突然ノエルに肩を掴まれ揺さぶられた。

「ほら、兵士が走ってる」

 ノエルは珍しい鳥でも見つけたかのように、腕を目一杯伸ばして兵士を指した。


 そして、いつもの日常は気まぐれな冷たい川風に吹かれて、飛ばされていくかのように終わりを告げた。

 リット達に向かって城の兵士が急いで走ってくるのが見えたが、それは忽然と姿を消した。

 正しくは、人の姿から歪んだ世界の線へと変わった。

 川が飛び出て、家は曲がり、空が下に地面は上へ。

 視覚だけではなく、感覚全てが歪んでいる。

 右手を伸ばしたはずが、左足が宙を蹴り、今まで全くしていなかった甘い砂糖菓子の匂いがする。

 ローレンが口を開いたかと思えば、そこから出たのは兵士の声だった。大声を上げて囁いている。

 やがてリットの姿も歪んた世界の一つの線へと変わる。千切れそうなほど伸ばされ、左端が家と一体化し、右端が川魚と一体化した瞬間、世界中の光を集めて閃光にしたかと思うほど、急に世界が明るくなった。



「目ェ覚ましましたかァ?」と言うノーラの声が聞こえると、光は徐々に闇を取り戻し、リットの視界に城の一室を映し出した。

 今いるのがベッドの上だと気付くのに、荒くなった呼吸が治まるまで時間がかかった。

「大丈夫か? 十五日程寝ておったのだぞ」

 グリザベルは自分の足元にある桶に入っている布を取り出し、水を絞ると汗だくのリットの額を拭こうと手を伸ばした。

 グリザベルの力では水は絞りきれず、ぼたぼたと水が垂れ落ちている。余計にリットの顔とシャツを濡らした。

「おっと、すまぬ」というグリザベルの言葉も、まだリットには届いていない。

「まだ聞こえてないんじゃないの? こういう時は頬を叩くのが一番よ」

 言葉とは違い、リットの頬を蹴ろうとするチルカをローレンが止めた。

「まだ、状況が把握できてないんだよ。まずは水でもどうだい?」

 リットの目の前に差し出されたコップの水の表面に、心配そうにしているローレンの顔が映っていた。

 ローレンの顔を見た途端に、熱い血が全身の血管をめぐるのを感じた。背中から汗が吹き出るのと共に、リットはベッドから飛び起きた。

 そのまま走ろうと思ったが、寝たきりだったせいで身体が思うように動かない。受け身を取ることもできずに床に叩きつけられる。骨が鉄でできているようだった。

「旦那、急に動いちゃ危ないっスよ」と言うノーラに何も返さず、リットは床を這い、ドアまで行くと、取っ手を掴んで立ち上がった。

「起きていきなりどこに行こうって言うんだい?」

 ローレンの足音が近づいてくる前に、リットは「ヴィクターのところだ」と一言残すと、無理やり足を動かして走り出した。


 何度も転びそうになりながら廊下を走っていると、窓から青い空に浮かぶ、膨らんだ白い雲が見えた。

 夏の空だ。――夢で見た。

 その夢で見た、ローレンの口から聞こえた兵士の声は『ヴィクター様がお倒れになりました』と言っていた。耳に縫い付けられたようにしっかり、その言葉が残っている。

 ヴィクターの部屋の前では、セレネが袖口で涙を拭いていた。モント、メラニー、ゴウゴ、チリチー、ミニー、マックス、ハイヨ、グンヴァ、シルヴァ、バニュウ、ピースク。スクィークス以外の全員が揃っている。

 皆一様に顔を伏せていた。

 リットが肩で息をし、声を出せないでいると、シルヴァも嗚咽で出ない声の代わりに、すっとドアを指差した。

 リットは呼吸を整えることもないまま、ドアを開けた。

 すると部屋の中には、初めて見る立った姿のスクィークスがいた。

「今、眠ったところだよ」

 スクィークスの言葉通りだった。ヴィクターの口からは恐ろしく静かな寝息が漏れている。

「あぁ……そうか」

 リットは吐くほうが多い呼吸から、なんとか返事を絞り出した。

「座るでしょ?」

 スクィークスはリットの隣に椅子を運んでくると、そのまま部屋を出ていこうとする。

「おい、どこいくんだ」

「僕はもうゆっくり話したから」

 と残し、スクィークスは部屋から出ていった。

 リットは椅子に腰掛け、なにか考えていたが。なにを考えていたか、自分でも覚えていない。途中、誰かが部屋を出入りし、声をかけられたことだけをおぼろげに覚えていた。

 リットの意識が現実へと向いたのは、夕暮れを超え、夜になった頃だ。

 誰かにつけられたロウソクの明かりが、季節外れの朧月のようにぼんやりと光っていた。

「起きたか……リット」

 口頭が締め付けられているようにしわがれた声が、リットの頭を上げさせた。

「こっちのセリフだ」

 リットの瞳に映ったヴィクターは、ベッドから身体を起こさず、咳をして喉の調子を整えようとしているところだった。その姿が急に年を取ったように見えた。

 ヴィクターはひとしきり咳をすると、顔だけリットに向けてニヤッと笑った。

「昨日までとは立場が逆だな。リゼーネから帰ってきてから、ベッドで眠るオマエを見舞っていたんだぞ。先走るからそういうことになるんだ。そんながっつく男は女に嫌われるぞ」

「起きて早々下ネタかよ……。ベッドに入ってるからって、オレに欲情したんじゃねぇだろうな」

「まったく……寝てる間は素直だったのにな。パパのこと好きか?って聞いたら、身を捩りながら「うん」って言ったんだぞ、オマエは」

「そりゃ、寝苦しくてうーんって唸ったんだろうよ」

 リットがため息を付くと、それに感化されたようにロウソクの火が一瞬大きくなって、リットの影を濃く壁に映した。

 波が引くように影が薄まると、ヴィクターは喋るように唇を動かして息を吐いてから、もう一度息を吸って話し始めた。

「リット……オマエにはな、父親として教えたいものがいっぱいあった。酒の飲み方、女の口説き方、妻への謝り方。一緒にやりたかったことも数え切れんくらいだ」

「全部、酒場の酔っぱらいに教えてもらったよ」

「怒鳴って怒るのはどうだ? 父親の威厳たっぷりの説教だ」

「それはおふくろに教わったよ。いつもこれを言ってから説教を始めんだ」

『文句は聞かないよ』と言うリットの言葉に、寸分の狂いもなくヴィクターが声を合わせた。

 リットが驚いて目を丸くすると、ヴィクターは嬉しさを滲ませたようなほほ笑みを浮かべた。

 そして、どちらからともなく笑い声を響かせた。

 ヴィクターは笑いの隙間に「ルーチェは気が強いからな。オレも何度も言われたもんだ」と、言葉を挟ませながら遠い昔を思い出していた。

「そうか……ルーチェが母親も父親もやってくれてたんだな」

 ヴィクターは口元に笑みだけを残し、笑い声をすっと消した。

「立ちションの仕方は教えてくれなかったけどな。小便で字を書く楽しさを知ったのは、ずいぶん後になってからだ」

「オレは雪の上に自分のフルネームを書けるぞ」

 ヴィクターは自慢げに笑い声を響かせた。

 リットはそのこじらせた子供のような笑顔を眺めていたが、ヴィクターは声の元へ顔を向けているだけで、自分と視線が合っていないことに気付いた。

 リットは一度深く呼吸をすると、おもむろに口を開いた。

「父親の存在に憧れたこともあった……。一人だけ木登りができなくて泣いた時とかな」

「木登りは得意中の得意だ。旅の行き先を、高い木に登って決めたくらいだからな。もっと昔にオマエに会いに行けたら、教えてやれたのにな」

「次の日、木こりのおっさんに教えてもらったよ。プロだからな、教え方が上手えんだ。すぐに登れるようになった。……オレが欲しかったのは、泣いてた時に「オレも昔は」って励ましてくれる存在だ」

「そうか……急ぎ足で父親になろうという考えがムリだったのかもな」

「別に今の関係も悪くねぇよ。子供の頃、おふくろは夜中まで酒場に出てたからな。寂しい時、部屋で一人で考えてたことがある。きっと父親がいたら友達みたいな関係だって。だから困ったんだよ。そのとおりの奴が急に現れたから」

 ヴィクターは息を吐いた。

 寝息かと思うほど、静かにゆっくりした呼吸だ。

「ありがとう、リット」

「……もう少し寝ろ。疲れただろ」

 リットが椅子から立ち上がるのに気付いたヴィクターは、ドア付近をおおまかに指差した。

「出ていく時、灯りを消していってくれないか?」

 リットは口をすぼめ、一度はぼやけるロウソクの火へ近付けたが、頼りなく揺れる炎が今のヴィクターの命のような気がして火を消す気にはなれなかった。

「消したぞ」というリットの嘘に気付かず、ヴィクターは「ありがとう」と礼を告げる。

 リットがドアに手を掛けると、ヴィクターの優しい声が耳から入り、体の中から全身を包んだ。

「おやすみ、愛する息子よ」

「おやすみ……バカ親父」



 次の日の朝、ヴィクターは普通に目を覚まし、普通に生活をして、普通に笑い声を響かせた。

 そして――それから一週間後の朝。再び目を開けることはなかった。






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