第二十話
リットが夕日に気付いたのは、大口を開けて流したあくびの涙に、溶けた鉄のような赤い光が反射したからだ。
酒場は賑わっていて、愚痴や噂や自慢話があちこちから聞こえている。おばさんたちの井戸端会議を、場所を移動して酒場でしているようなものだ。
リットは眠っていたわけではなく、カウンターからテーブル席へと移動したローレンの背中を眺めていた。
新鮮な空気が流れ込んでくるのを感じたローレンは、長い前髪に手を添えて乱れるのを防いだ。
酒場の蒸れた空気が循環するということは、誰かが店のドアを開けて入ってきたということになる。
入口付近にいる客以外は、来訪者に目をやることなく酒の続きを飲んでいる。
リットも気にせずに、カウンターに背をつけてローレンの後ろ姿を見たままだったが、夕焼けた影を引き連れたグンヴァが、視界の端から歩いてくるのに気付くと、隣の椅子をどかして迎え入れた。
しかし、グンヴァの馬の胴体をおさめるにはまだスペースが狭く、グンヴァは後ろ足でもう一つ椅子を蹴りどかしながらカウンターに肘をついた。
「リットのアニキの居場所を探すのは、毒キノコを探すより簡単だな」
「簡単に見つかる分、オレも毒持ちだから気を付けろよ」
「そういう注意は出会った頃――毒を吐かれる前に言ってほしかったぜ」
グンヴァは何も言わず肘をついた手を店主に向かって振ると、店主も言葉を返さないまま、グンヴァがいつも頼む酒をコップに注いでカウンターに置いた。
グンヴァがコップに口をつけると、店主はやれやれと肩をすくめながら口を開いた。
「挨拶なしの客の次は、言葉すらないときたもんだ。ヴィクター様はちゃんと挨拶してくれるっていうのに」
ヴィクターと比べられるのが嫌いなグンヴァは、聞こえないふりを決め込むとリットに向き直った。
「客人の部屋をどうするか聞いてくれってよ。用意するのかしないのか。ところで、そのアニキの客人ってどこにいるんだ?」
グンヴァはリットが一人でカウンターに座っているのを確認すると、それらしき人物を探そうと酒場の中心から端まで見渡した。
「今そこで今晩の宿の予約をしてる奴だ」
リットは顎をしゃくってローレンを指すが、グンヴァはローレンを見付けられない。宿の予約をしている者なんていなかったからだ。
「女と話してる前髪の長い男だ」
視線をさまよわせるグンヴァの視界に、ローレンを指したリットの人差し指が映る。
その指の先では、子供が飽きるまで積んだ砂山のように大きく膨らんだ胸の女性が、こぼれた料理で汚れたローレンの服を拭いていた。
「本当にごめんなさい。ちょっとむしゃくしてテーブルを叩いただけで……。あなたに料理をかけるつもりはなかったの」
「僕はむしろありがとうと言いたいよ。こぼされたのがお酒だったら、ありきたりな出会いになってしまったからね。こぼされたのが料理なおかげで、こうやって話を広げられる」
ローレンが優しく笑うと、今まで焦り顔だった女性は一瞬キョトンとした顔を見せ、小さく笑いをこぼした。
「まさか料理をこぼした相手に、優しく口説かれるとは思わなかったわ」
「僕はずっと口説こうと思ってたよ。でも、憂い顔のキミを見ると言葉が出てこなかった。キミはそのきっかけを作ってくれたんだ。こんな汚れは、グラスの水滴よりも気にならないよ」
ローレンは女性に見せ付けるように、わざとシャツの汚れた部分を指した。
「でも……高そうなシャツなのに汚して悪いわ」
「それじゃあ、汚れた服が乾くまでの時間。僕にキミを落とすチャンスをくれないかい? こんなわかりやすい下心を持った僕でも、むしゃくしゃしたキミにため息をこぼさせないことはできるよ。それに、料理もね」
女性のえくぼが深くなるのを見ると、ローレンはリットにだけわかるように立てた親指を見せた。
「宿の予約は済んだとよ。もっとでかい肉布団がない限り、城に泊まることはなさそうだ」
「でも、女の方は店を出て行ったぜ?」
グンヴァの言うとおり、ローレンと話していた女性はドアに手をかけたところだった。
しかし振り返り、甘えた笑顔でローレンに手を振ってから酒場を出て行った。
ローレンは手を振り返し、女性が出て行ったのを確認すると、軽い足取りでリットの隣まで歩いてきて椅子に座った。
「魚が網から逃げたぞ」
リットのからかいの言葉に、ローレンは勝利の笑みで返した。
「そう、網から逃げて家に帰ったよ。僕が来る前に掃除をするって。だから僕は、後からベッドの上に散らす為の花を持って彼女の家に向かうってわけさ」
「それじゃ、最短記録更新ってことか。」
「僕が考案した、スリーステップ方式のおかげだね。ステップワン、彼女の笑顔を崩させない。ステップツー、下心を見せて彼女に大人の付き合いを予想させる。ステップスリー、ベッドの上で朝日を浴びながら勝利の紅茶を飲む」
ローレンは数字通りの指を立てながら、口笛でも吹きそうな軽い口調で言った。
「最後だけステップじゃなくて、ジャンプしたぞ……」
グンヴァが言葉を漏らすと、ローレンは初めてグンヴァの存在に気付いた。
「誰だい? このステップもジャンプもできなさそうなお馬さんは」
「アニキ、コイツ殴ってもいいか……」
いつもならこの程度の軽口ならそこまで気にならないグンヴァだが、目の前でナンパが成功するのを見て、モヤモヤが胸の奥で粘液のようにネタネタと引っ付いているのを感じていた。
「いいけど、女に慰めてもらう理由を作るだけだぞ。口説きの一端に手を貸すことになってもいいなら、存分に妬みをぶつけろ」
「いい……惨めになるだけだからな。それでアニキはなんで黙ってそれを見てたんだ」
「昔話が盛り上がってな。前にやってた賭けの内容を思い出したんだよ。オレが酒を一杯飲んでる間に、ローレンが女を口説けるかどうか。前はオレの勝ちだったな。……今回はなにか賭けてたか?」
「いいや、賭けてないね。もし賭けていたら、文無しのキミは死んだふりをして、この酒場から逃げ出すハメになってたね」
「ずいぶん余裕だったんだな。ドン・ファニーの愛詩でも手に入れたのか?」
勝ち誇ったローレンの笑みに、リットは「オマエの実力じゃないだろ」と皮肉を込める。
グンヴァは聞いたことのない単語に首を傾げた。
「なんだ? 愛詩って?」
「神の産物だ。それを聞かせた女を簡単に口説けるって話だ」
「それは生涯女性に困らなかったドン・ファニーの話を聞いて、後から誰かが作った伝説だよ。神の産物なんて見たこともない。それだけすごい人物ってことさ、ドンは」
ローレンはただ一人、男で敬愛しているドン・ファニーの話を誇らしげにする。
「オマエの持ってるコンプリートの木笛もそうだと思うぞ」
「これがかい?」ローレンはポケットからとんがり靴型の木笛を取り出すと、しげしげ眺めた。「吹いても来るのがレプラコーンじゃねぇ……。僕にとっては神の産物なんて大それたもんじゃないよ」
「ここに来る前に見せた大鏡も、そうじゃねぇかと思って調べてるところだ」
「それで、皆が鏡の前に張り付いていたってわけかい。それで、あの鏡はなにが起こるっていうんだい?」
「だから言っただろ、調べてるって。使い方すらわかんねぇよ」
「鏡の使い道なんて、見るしかないと思うけどね」
「俺様もそう思うぜ。鏡は見るもんだ」
グンヴァは高く盛り上げた栗色の前髪の形を整えながら言った。
ローレンは油で固められたグンヴァの髪を、怪訝な表情で見る。
「キミは頭に大便を乗せるのに鏡を使うのかい?」
ローレンがそう言うと、すかさずリットが訂正した。
「あれはリスの尻尾を乗せてんだ」
「どっちもちげぇよ! これは地毛だ! 自由を象徴する男の髪型だぜ」
グンヴァは両サイドの毛をきっちり頭の形に沿わせて後頭部に流して整えると、ガンをつけるように目を細めて、満足げに息を漏らした。
リットは大げさに顔をしかめて、グンヴァから距離を取るように身体を後ろへと引いた。
「そうやって、ところかまわず男の象徴を弄るなよ。吐息まで漏らすなんざ、変態の極みでしかねぇよ」
「男の象徴じゃなくて自由の象徴だって、リットのアニキには何回も説明してるだろ」
「だから、からかってんだよ。感謝しろよ、誰にもからかわれなかったら惨めだぞ」
「何を言われても、俺様はこの髪型はやめねぇ」
「ところでキミ」ローレンは椅子から立ち上がると、少し歩き、馴れ馴れしくグンヴァの肩に肘を置いた。「リットの弟だろ?」
「だったらなんだって言うんだ?」
「ということはチリチーの家族でもあるわけだ」
「リッチーか? まぁ、アネキだけどよ。狙ってるならやめたほうがいいぜ。アンタには望みなしだ」
グンヴァはローレンの手を払いながら言った。
「なぜ? 彼女、女性が好きなのかい? ……まぁ、それもまた一興」
「そうじゃねぇよ。アネキに彼氏ができようが勝手だけど、今は男より仕事に入り込んでる。正義の味方とか言って、なんでも屋で忙しいからな」
「つまり、そのなんでも屋に依頼すればいいわけだね。僕とデートしてくれって」
「だいたい――えっと……」
グンヴァが悩む素振りを見せると、ローレンは今更名前を名乗った。
「ここで彼女を作ったってことは、ローレンはこっちに引っ越してくるってことだろ。王族の娘とさっきの女。両方に手を出すってのは問題になるぜ」
「王族……。言われてみれば……。キミ達は本当に王族っぽくないね」ローレンはリットとグンヴァの顔を見ると、小馬鹿にしたように息を吐いた。「リットだけかと思ったら、キミも護衛無しでこんな酒場に来るんだから。危機管理はどうなってるんだい?」
「アネキを狙おうとしてる男に、危機管理がどうとか言われたくないぜ……。気付いてないだけで、そこら中に城の兵士がいるからな。何かされる前に、ナイフを首でスパッっといかれるぜ」
「そうなのか? オレは知らねえぞ」
リットはそれらしき人物を探そうとしたが、堂々と兵士の格好をしてれば気付くはずだ。それに気付かなかったということは変装をしているということ。なら、探す意味もないと諦めた。
「俺様も前は気付かなかったけどよ。一人で夜の街をうろつくようになってから気付いたんだ。オヤジ達に守られてるってな」
「そうそう、グンヴァのここのツケもヴィクター様が払ってんだぞ」
店主が口を挟むと、グンヴァは歯をむき出しにして余計なことを言うなと威嚇したが、店主はどこ吹く風で楽しそうに笑い返した。
「だいたい、王族の娘とか関係ないにしてもよ。二股なんてすぐバレるだろ」
グンヴァの言葉を、ローレンは甘いと言わんばかりに首を振った。
「五股しても半年はバレなかったこともあるからな」
リットは酒のお代わりを頼みながら、ローレンの首振りの意味を言葉にして伝えた。
「すげー……。でも、バレたんだろ? そういう時はどうするんだ?」
グンヴァの声色には、いつからかローレンへの変な尊敬の念が滲んでいた。
「そういう時は、家にこもって寝るに限る。未来がどうあろうと、寝ている間は何も変わらないからね。で、ある程度結果が過ぎ去ってから起き上がるわけさ。去る者は追わずだよ」
『未来がどうあろうと、寝ている間は何も変わらない』。その言葉は、リットの耳にかさぶたのようにこびりついた。気にならないフリをしようにも、気にせずにはいられない。
もう一つ、前に聞いたある言葉が、そのかさぶたから膿がドロっとたれ出し、熱く漏れるように耳をふさぎ、外の音を止めた。
聞こえてくるのは頭で思う自分の言葉だけになっていた。
『変えられないのは未来だけ』。天空の青という演劇を見て、グリザベルが気になっていた言葉だ。
もし、未来を知ったなら、人は行動を変える。ならば、未来は変わってしまうことになる。
未来を変えられないものとするならば、未来を知った者の行動を制限する必要がある。
必要最低限の会話に、必要最低限の移動。
そして、寝ている間は何も変わらない。
リットは、そんな人物が身近にいることに気が付いた。
「――かい?」
ローレンの声が聴こえると、窮屈に音をせき止めていたリットの耳に、いつもの酒場の喧騒が流れ込んできた。
まるで、海の底からこの酒場に瞬間移動させられたような気分だった。
「リット、大丈夫かい? 急に黙ったまま動かなくなったけど」
ローレンはコップをリットに渡した。中には酒ではなく、水が入っていた。
リットはそれを一気に飲み干し、冷たい水が喉を通り抜けていくのを感じると、身体に興奮の熱がこもっているのに気付いた。
「あぁ、大丈夫だ。ちょっと考え事してた。マヌケの声が聞こえてきたせいで、途中で終わったけどな」
「たしかに大丈夫そうだ。それじゃあ、僕は花を買いに行かなくちゃいけないから、先に失礼するよ」
ローレンはリットの分の代金も店主に支払っていくと、襟首を正しながら店を出て行った。
「俺様も帰るぜ。客人の部屋はいらないって伝えないといけねぇし、晩飯の時間だからな。アニキはどうする?」
「オレも帰る。ここで飯を食う金なんて持ってないしな」
リットが帰ろうとすると、店主が「次は金を持ってから来てくれよと」声をかけた。
リットは「次も金を持ってる奴を連れて来るよと」と返すと、酒場を出た。




