第十一話
天空の青の内容は、前にマックスが言ったとおりのものだった。
孤独の勇者が困難の果てに平和を取り戻す物語。聞こえはいいが、リットにとっては独りよがりの主人公が自棄になって突っ走ってるようにしか見えずにいた。
まだ劇は終わっていないし、すっかり興味もなくなってしまっていたが、一人立ち上がれる雰囲気でもない。
中身が空っぽの蛹の羽化を見守るような時間だけが過ぎる。
暇をつぶすと言えばあくびを噛み殺すことくらいだ。
早朝のバニュウ達との散歩で、いつもより朝食を食べすぎたからか、適度の疲れからか、あるいはその両方か。とにかくあくびだけは出る。
いっそ寝てしまえばいいのだが、ちょうどうつらうつらとし始めると、役者の大声や観客の歓声が起こしに来る。
リットの左隣にいるノーラやチルカは初めての劇を興味深く見ているし、右隣にいる徹夜したグリザベルもあくびすることなく真剣な眼差しで劇の行く末を眺めていた。
過去にこの劇を見たことのあるウィルは、答え合わせをするように時折頷いていた。それを見て、シルヴァはウィルに合わせるようにして頷いているが、真剣に劇を見ているウィルはそれに気付いていない。二人がなにか動作をする度に、ヴィクターが刺すような視線をウィルだけに浴びせていた。
あらかたの人間観察を終えたリットは、何十回目になるかわからないあくびをすると、のけぞるように背もたれに背中を預けた。
すると見えてきたのが真後ろに座っているマックスの顔だ。
マックスはなじるような視線をリットに向けた。集中できないからいいかげんにしろとでも言いたげだ。
リットが素知らぬ顔でマックスの視線を受け流すと、マックスは苛立ちを咳払いで押さえつけた。
「前を向いて、あくびはしないで、動かない。もっと大人マナーを身に着けて」
他の劇を見る者の邪魔をしないように小声だが、苛立ちは充分に伝わる低い声だ。
「息は?」
「根まで止めてくれると助かります」
マックスが睨むと、辺りが静寂以上に静まった。
マックスに怯んだわけではなく、劇が盛り上がりを見せたからだ。
孤独の旅に出ようとする主人公を一人の女声が引きとめようとしていた。
「過去は変わります。過去はただの記憶よ。記憶は独りよがり……自分にしかわからないものだから。私がそばにいたことを思い出して、正しい記憶に塗り替えて。あなたは孤独じゃなかった。わかるでしょ? 変えられないのは未来だけだわ」
「そのとおり、それがしの未来は変わらない。すなわちこの決意は、鏡の中の自分でさえ止められぬということだ」
主人公は哀願する女性の腕を払うと舞台袖へとはけていった。
舞台では、一人さめざめと泣く女性だけが残っている。
「それがしだってよ」
グンヴァは小馬鹿にしたように呟くと、小さく喉を鳴らして笑った。
グンヴァと同じことを思っていたリットは肩を震わせて笑う。
マックスは隣りにいるグンヴァに、「笑う場面じゃないだろう。くだらないことを言うな。劇に集中しろ」と注意をした。
リットは後ろのグンヴァのほうに首をそらしながら「いや、笑える」と声を震わせながら言うと、「だよな」とグンヴァも小笑いをこぼした。
劇を楽しむ気のないリットとグンヴァの存在は、夏の羽虫より迷惑な存在にしかならない。マックスはうんざりとした顔でため息をついた。
劇が終わり、会場は不思議な一体感に包まれていた。悲しさや楽しさを役者を通してともに感じた客たちは、皆すぐには立ち去ろうとせずに、誰もいなくなった舞台を眺めて余韻に浸っていたが、リットだけがそそくさと立ち上がり会場を後にした。
そのままの足で城の外に出て、昼間の短い影を引き連れて歩く。
向かう先は川沿い通りのいつもの酒場だ。
鍵の掛かったドアを執拗にノックすると、悲鳴のような音を立ててドアが開いた。
「まだ、やってないよ。って言っても聞かねぇんだよな」
準備中の店に入ってきたリットを追い出すことなく、店主は夜に出す予定のツマミの仕込みを続けた。
「まいった。おそろしくつまんねぇ」
リットはカウンター席につくなり、肩肘を付いてため息を落とした。
「なにがだ? いきなり感想だけ言われてもわかんねぇよ」
「芝居だよ。なんだありゃ、グリザベルの真っ黒な服よりも暗い内容だった」
「あぁ、今やってる天空の青か」
「天空の青だなんていうけどよ。最後に空を見上げただけじゃねぇか」
「あそこは主人公が孤独という名の外套を脱ぎ捨てて、足を止めて現実を見る印象的なラストだぞ。タイトルをセリフに使わないとこがいいんだ」
思いもよらない言葉に、リットは呆けて店主を見ていた。
店主は身の置き場がなさそうに片眉をピクリと動かした。
「……オレの言葉じゃねぇよ。昨日、見た感想を話してる客がいたんだ。オレは芝居なんかに興味はねぇよ。それで、そっちはわざわざ愚痴をこぼしに来てくれたのか? 嬉しいねぇ……。営業中に来てくれたらもっと嬉しいもんだ」
「この店はオレが来たら営業が始まるんだろ」
「あながち間違いでもないから困るんだよな……」
店主が入口のドアに目をやったので、リットも振り返るとちょうどドアが開くところだった。
「やっぱり開いてたか。リットのアニキがいなくなったからここだと思ったぜ」
グンヴァが陽気に片手を上げながら店の中に入ってくる。その後ろにはマックスの姿もあった。
「マックス様が来るとは珍しいですね。前みたいに飲まないほうがいいですよ。飲みつぶれるのが癖になると、晴れてバカ兄弟の仲間入りしちまいますからね」
「大丈夫です。僕は昼食を食べに来ただけですから」
「そ、たまには弟に付き合ってくれってな。マックスのアニキになんか食うもの出してやってくれ」
グンヴァは椅子を引いてどけると、リットの隣に立った。
「食うものって言ったってなぁ……。まだ仕込みの最中だぜ。なんか焼くだけでいいならできるけどよ」
「なんでも大丈夫です。僕は他の二人のようにわがままじゃありませんから」
マックスはグンヴァの隣の椅子に腰掛けると、頼まずともカウンターに置かれる酒を見てから、二人に呆れた視線を向けた。
確かにわがままじゃないものの、帰らない遠慮のなさに三人は似てると思い笑みを浮かべつつ店主は魚を焼き始めた。
「いいのか? 城にいなくて」
「オヤジがウィルに絡みだしたからな。こっちに矛先が向いて、前みたいにからかわれないうちに城を出たってわけよ」
「僕も話のわかりそうなウィルダン君となら劇の話を語り合おうと思ったけど、あの調子じゃね。劇を見た後に一緒にいるのが、教養のない二人とは……」
よりにもよって劇を見るのを邪魔してきた二人だ。マックスはため息をつくのも諦めていた。
「教養がある奴なら、孤独について仲間と語り合おうなんてのは、滑稽なことしてるって気付くんじゃねぇか」
「あの劇の言おうとしていることなんて、何一つわからないんでしょうね。アナタは」
「主人公が孤独という名の外套を脱ぎ捨てて、足を止めて現実を見る印象的なラストは見ものだったぞ。天空の青のタイトルをセリフに使わないこともいいな」
リットは店主から聞いたばかりの言葉を、さも自分の感想のように言ってのけた。
マックスはさっきのリットと同じような呆け顔で、語るリットを見ていた。
「なんだよ」
目を丸くするマックスとは視線を合わせずに、リットは一口酒を含む。
「意外だったので、単純に驚いてる。まさか、あのラストシーンを正確にとらえているとは……。とても劇を見ているようには思えなかったけど……」
「オレくらいになると、見なくてもわかるもんだ。誰かさんは、一語一句もらさずに詰め込みすぎるから心のゆとりがなくなんだ」
「リットのアニキに説教されるなんて、マックスのアニキも落ち目だな。歓迎するぜ、バカと堕落の世界に」
「グンヴァ……。君はもっと教養を身につけるべきだと思うけどね。せめて、高らかにバカ宣言をしないくらいになるまでは」
「もう、遅いぜ。昼間の酒場に足を踏み入れるってのは、その世界に足を踏み入れるのと同じことなんだぜ」
グンヴァが酒の入ったコップをドアに向かって高く掲げた。
魚の焼く匂いで酒場が開いてるとわかったのか、次々と客が入ってきたところだった。
リットとグンヴァからしたら見知った顔。マックスからしたら知らない顔ばかりだ。
リット達が「よう」と気軽に挨拶を交わすのを、マックスは居心地悪そうにして見ていた。
「おう、リット。また、昼間から酒場に来てるのか? ダメな男だな」
箒のような汚い髭をたくわえた一人の男が、リットの背中を叩いてから奥のテーブル席に腰掛けた。
「そっちはここをどこだと思ってきてんだ?」
「もちろん酒場よ。だからオレもダメ男ってわけだ」男はひとしきり笑った後、マックスがいることに気付いた。「おっ、今日はグンヴァだけじゃなくて、マックス様までいるのか。よし! オレに酒を奢らせてくれ。孫の代まで自慢できる」
「いや、あの僕は……お酒は……」
制止しようとする店主の腕を振り払って、男はなみなみとビールを注いだコップをマックスの前に置いた。
「ありがとよ」
リットは流れるような動作で、置かれたばかりのコップを手に取り、高く掲げてから一気に飲み干した。
「おいおい、オレはマックス様に奢ったんだぜ」
「こいつの酒はオレのものだからな。次に奢るときはウイスキーにしてくれ」
リットは空になったコップを男に返すと、グンヴァは「俺様はビールでもいいぜ」と付け加えた。
「オマエらに奢ったんじゃ自慢にならねぇよ」
そう言い残すと男は、別の盛り上がり始めたテーブルに向かっていった。
「悪かったね、マックス様。悪い奴らじゃないんだけど、ちょっと押しが強くてね。サービスするから許してくれよ」
店主が焼きあがった魚を乗せた皿を置きながら言った。
「いえ、むかし別の酒場でもっとたちの悪い男にからまれたことがありますから」
店主は「そうかい」と安堵の吐息を漏らした。
「真面目な顔して、こっそり酒場に行く奴だったとはな。こいつらよりたちが悪い奴なんて、そうそういねぇぞ」
リットは勝手にマックスの魚をツマミに飲んでいる。
マックスはその姿を、昔のとっつきにくかった頃のリットに照らし合わせて見ていた。昔と今はずいぶん違う雰囲気がすると。
「あの……さっきはどうも……ありがとうございます」
マックスは歯切れ悪く、代わりに酒を飲んでくれたことのお礼を述べる。
「気持ちわりいから、照れるくらいなら言うんじゃねぇよ。その筋肉は見掛け倒しか?」
「昔と変わってない……。言わなければよかった」
日はだいぶ傾いたが、オレンジに染まってはいない。
リット達はまだ酒場にいた。
酒場では酔いが進んだ男達が飽きることなく話をしている。
「だから、オレは橋を増やすべきだと思うね。そのほうが出入りがしやすい」
「オレは反対だ。出入りがしやすいってのは盗賊も同じだからな。めったに使わないならなおさらだ。利点は少ない」
「そのめったの時に大量の荷物を運ぶから困るんじゃねぇか。遠回りしなけりゃならないからな」
男達は酒を片手に、悩みのうなり声を上げている。
「意外だ……、てっきりバカ騒ぎばかりしているものだと」
マックスが漏らした言葉は、しっかり酔っ払い達に届いていた。
「あっはっは! マックス様に褒められたぜ」
一人の男が「マックス様のお言葉に乾杯!」とコップを掲げると、周りも同じように乾杯を始めた。
「いつもこんなもんだぜ。マックスのアニキは酒場に来ないから知らねぇだろうけど」
ノリで乾杯をしながらグンヴァが答えた。
「いつもこんな議論をしているのかい?」
「答えを出す気のない議論だからな。毎日似たようなことばっか話してるぜ」
「議論とは答えを出すものだろう。虚しくならないのかい?」
なんと答えようか迷っているグンヴァに代わって、リットが答えた。
「答えを出すのが目的じゃねぇからな。かみさんのことに、子供のことに、恋人のこと、愚痴に不平不満。要は共通の話題ならなんでもいいんだ」
「共通って……アナタに奥さんはいないはずだけど」
「たしかに、かみさんを貶めるジョークは言えねぇな。でも、からかうことはできる」
「やっぱり、あまり有意義な時間を過ごせる場所ではなさそうだ」
「答えはでねぇし、酔ってるからころころ話題も変わるしな。そもそも本格的な議論をしてぇ奴は酒場になんか来ねぇよ。ただのコミュニケーションだ」
リットとマックスは二人の酔っぱらいの会話に耳を傾けた。
「見に行けって。好きなんだろ? 彼女はそういうの」
「行っても、オレが理解できねぇよ。恥をかくだけだ」
「主人公が孤独という名の外套を脱ぎ捨てて、足を止めて現実を見る印象的なラスト。そして、最後に「タイトルをセリフに使わないとこがいいんだ」とでも言っておけば、教養がある風に思われるから大丈夫だ。彼女もまだ見たことないんだろ? 天空の青を。誘って行ってこいよ」
マックスは二人の会話を腑に落ちない表情で聞いていた。
「どこかで聞いたことのあるセリフだ……。覚えていないかい?」
マックスが疑いの視線を向けてくるが、リットは頬を緩めるだけだ。
「そうか? オレはもう忘れた」




