第九話
川沿い通りでは、春の日差しに誘われた子供達が縦横無尽に意味もなく走り回っていた。
大人もわざと歩行速度を緩めて、太陽を浴びるだけ浴びようとしている。
リットとウィルも横顔に日差しを浴びながら、川沿い通りの塀に背中を預けて話をしていた。
「それじゃ、オーケストラベルは浮遊大陸では咲いてねぇのか」
「はい、僕が調べられた範囲内の話ですけど。植物は環境の違いに敏感ですからね。ここでは雨も雪も降りますが、上では一日中天気ですから」
ウィルは上を向いて、ちぎって浮かべたような雲がいくつも流れている空に目を移した。
「まぁ、オーケストラベルはなくとも、ここでもちらほら見かける植物はあるな」
リットは植物図鑑のページを捲っていく。浮遊大陸にも咲く植物には、ウィルが印を付けている。
「いわゆる雑草ばかりですけどね。ディアド・レイク周辺じゃなくても咲いてるものばかりです」
「ディアド・レイクね……。ディアドレの話は、この国に残ってないのか?」
リットはざっと図鑑に目を通しながら聞いた。
「そうですね。ディアドレほど有名な魔女ならば、語り継がれることがあってもおかしくないですが、この国はその名と無縁です。しかし、何をしていたか知らないガルベラの名が残っているのは、そういう意図があったのかも知れません」
ウィルが言った「そういう意図」とは、ディアドレがガルベラの名を隠れ蓑にしていたかもしれないということだ。
有名なら有名なほど研究資金や場所に困らなくなるが、それは研究内容や情報の開示をする必要がある。
秘密裏の研究をするには、影に隠れなければならない。隠れる影を作るには光を作るのが一番だ。つまりその光こそがガルベラということだ。
ディアド・レイクという名が早々に廃れていったのも、ディアナ国でディアドレが表舞台に立たなかったからだろう。
などとリットとウィルが論議を交わしていると、黄色い声を引き連れた団体が向こうから歩いてきた。
先頭を歩く男は鎧を着ているが、ディアナ国の鎧ではない。どこの国でも見かけないような鎧だ。金属板よりも布地の方が多く、戦争に出れば一日でゴミと化してしまいそうなほど頼りない。兜に至っては、被っているのにもかかわらず顔が隠れていない。顔面部を守るためのバイザーが付いていないせいで、端正な顔つきで笑顔を浮かべているのが見える。背中のマントも邪魔そうに身体に纏わりついて翻っている。
「宣伝も兼ねて、舞台衣装で練り歩くんですよ」
怪訝な目つきで団体を眺めるリットに、ウィルが天空の青に出演する役者だと教えた。
「それで顔面丸出しで歩いてるわけか。てっきり色男が顔を自慢しながら闊歩してるもんだと」
「その後ろにいるのも舞台役者さん達ですよ。村人の格好をしたり、妖精の格好をしたり、お姫様の格好をしたり。怪物の格好をしている人もいますね」
ウィルは少し首を伸ばして、歩いてくる役者たちを少しでも早く見ようとしている。
村人は村人らしく、お姫様はよりお姫様らしく。くどいほど役に合った衣装で歩いていた。
リットも少し体をそらして、ウィルの横から団体を眺める。すると、剣を掲げて歩く兵士役の鎧が、三つの光を反射しているのに気付いた。
「この劇っては本物を使うのか?」
ウィルはリットの視線を追い兵士を見る。
「あれですか? よくできてますよね。でも、あの剣の中身は木ですよ」
「いいや、妖精と姫さんのことだ」
リットがよく見てみろと顎をしゃくる先では、役者の影で羽を光らせるチルカ。その隣ではチリチーが肌火を光らせていた。
「あれは……チリチー様とチルカさんですね。劇に出るんでしょうか?」
「天空の青ってのは喜劇か?」
「いえ、どちらかというと悲劇です」
「じゃあ、ありえねぇ。ま、他人の不幸が笑えるって話ならお似合いだけどな」
「他人の不幸って笑えますか?」
「自分の不幸は笑えねぇんだから、他人の不幸で笑うしかねぇだろ」リットが肩をすくめておどけてみると、列を歩くチリチーを呼び止めた。「おい、そこの奥さん。道を間違えてねぇか。そっちは華やかな奴が歩く道だ。負け組はこっち」
リットが手招きをすると、チリチーは手を振りながら役者達の列から抜け出した。
「おっ、リットじゃん。やほー。なにさ、奥さんて」
「いつの間にガキを産んだんだ?」
手を振るほうとは反対の手。チリチーの左手には赤ん坊が抱かれていた。
「産んだらお父さんに怒られるから、暇になったら近所から借りてるの。何でも屋に子守の依頼が入っただけだよ。賑やかなのが好きみたいでね。列に混ざって歩いてたら、ほらこのとおり」
チリチーの腕に抱かれている赤ん坊は、両手をバタバタさせて、発音できる数少ない文字を叫ぶだけの笑い声を響かせていた。
「なにが楽しくて笑ってんだか」
「見るもの聞くもの全部が楽しくてしょうがないんだよ」
チリチーは「ねー」と赤ん坊に笑いかけた。それと同時に、リットとウィルが鼻を摘んだ。
「オレなら小便を漏らしたら泣きたくなるけどな」
「え? チルカ! ちょっとおしめ取って」
赤ん坊のおしっこはチルカの肌火ですぐに蒸発し、臭いだけを当たりに撒き散らしていた。
「楽しかったのは放尿の快楽だったみてぇだな」
「だから、赤ん坊の世話なんて嫌だったのよ……」
おしめを取り替え終えたチルカは、川べりの塀に腰を下ろしてげんなりと肩を落とした。
「リッチーはともかく、なんでオマエまでガキの世話してんだ?」
「お酒飲む? って聞かれたらアンタはなんて答える?」
「飲む」
「それと同じよ。蜂蜜飲む? って聞かれたのよ」
「蜂蜜ってあれのことか? とても飲む気にはなんねぇけどな」リットは川に向かって振り返った。川ではおしっこで汚れたおしめを洗うチリチーがいる。「今更だけどよ、アイツの身体ってどうなってんだ? 川の水で消えねぇのか?」
「火じゃなくて、精霊体だからでしょ。じゃなければ、この子のおしっこで消滅してるわよ」
チルカはウィルが抱きかかえる赤ん坊に目を向けた。影に入るとキラキラ光るチルカがお気に入りらしく、目が合うと赤ん坊は雄叫びのような笑い声を響かせた。
「あの……なんで僕が抱いてるんでしょうか?」
「私が抱けるわけないでしょ。潰れろって言うの? なら、先にアンタを潰すわよ」
ウィルはそれならばとリットを見る。
「オレは無理だ。昨日腕の骨を折って、今日一日は酒瓶以外持つなって医者に言われてんだ」
リットの騙す気のない嘘に、ウィル短くため息を付いた。
「アンタそんなことばっかり言ってるけど、自分に子供ができた時どうするつもりなのよ」
「そん時は死んだフリで乗り切るって決めてる」
「呆れた。まぁ、アンタに子供ができるなんて想像もつかないけどね」
「そりゃそうだ。オレ自身、想像どころか、妄想する気もおきねぇよ」
「僕はいつまで抱いていれば……」
ウィルは慣れない赤ん坊を不安気に抱いている。
「借りたもんは借りた奴にかえせ」
リットはウィルの後ろに目を向けた。川でおしめを洗い終えたチリチーが戻ってきたところだ。
「いやー、ごめんごめん。えっと、ウィル君だったっけ?」
チリチーは赤ん坊を受け取りながら、まじまじとウィルの顔を見た。そして、合点がいったように頷くと笑顔を浮かべる。
「はい、ウィルダン・バーナーです」
「噂は聞いてるよ。ね?」
チリチーは同意を求めるようにリットの顔を覗き込んだ。笑顔の中になんともいい難い含みが混じっていた。
「オレはなんとも。馬に蹴られたくないからな」
リットは顔を逸らして、チリチーの顔でもなく、ウィルの顔でもなく、赤ん坊の顔でもなく、通り過ぎていった役者達の背中に目をやる。
「そう言えば、シルヴァがずっと話してたわね。メガネがどうとか、本がどうとか」
チルカもウィルの顔を睨みつけながら眺めた。
「あの、まず睨みつけられている理由の誤解を解きたいんですけど……」
「誤解も何も、アンタが私の胸を触ったのは事実じゃない」
ウィルの影の中で、チルカの羽が怒りに強く光った。その光景を見て赤ん坊が歓喜の笑い声を上げる。
「気にすんなウィル。どこからが乳で、どこからが腹かもわからないような体だっただろ」
「そのとおりです! 全然わからなかったので、たぶん触っていたとしたらお腹ですよ」
言ってからウィルは、リットから出されたのが助け舟ではなく、泥舟だということに気が付いた。
「なるほどね……」
チルカはゆっくり立ち上がると、準備運動のように羽をバタつかせた。そして、下唇を突き出し、ふっと息を吐いて前髪を揺らすと、一気にウィルの眼前にまで飛んで行く。
ウィルが反応する間もなく、鼻の頭にチルカの拳が突き刺さるように入った。
「お? 虫刺されか?」
ウィルの赤くなった鼻を見て、リットは笑いを押し殺しながら言った。
「そうです。これくらいなんともないですから。だからチルカさんも気にしないでください」
またもや、ウィルは言ってから気付いた。リットが船を沈没させにきていることに。
「たしかに……最近バカの相手をしてないから鈍ったわね……。私は虫扱いされるのが一番嫌いなのよ! その次にムカつくのは、身体的特徴をバカにされること!」
チルカはウィルに詰め寄ると、いつもの調子で罵詈雑言を浴びせ始めた。
「いつものタイプとは違うよね。シルヴァが熱を上げるって言えば、顔が良かったり、オシャレだったり。メガネでよれたシャツを着てる人に興味を示すなんて、今までじゃ考えられないね」
困り顔でチルカに謝るウィルを見ながら、チリチーは眉間にしわを寄せて悩んでいた。
「学者だって新種を発見したら、興奮と歓喜でそれ以外のことをしばらく考えられなくなるだろ。それと一緒なんじゃねぇのか」
「なるほど。ウィル君はシルヴァにとって新種君なわけだ。それは調べたくなるよね」チリチーはニコニコとニヤニヤの中間くらいの笑みを浮かべて、ウィルに近づこうとする。「お姉ちゃんとしては、もうちょっと詳しくウィルのことを知っておきたいな」
しかし、リットが言葉で止めた。
「さっきも言ったけど、余計なことしてると馬に蹴られるぞ」
「リットは気にならないの? 可愛い妹に男の影。どこの馬の骨ともわからない人に取られちゃうかもしれないんだよ」
「年中影があって、お先真っ暗。暗すぎて馬脚を現す暇もないだろ。心配なら、ご自慢の火で影を散らしてやりゃいいだろ」
「おや、君はランプ屋さんじゃなかったっけ? 影を照らすお仕事でしょう」
チリチーはおどけ口調でリットの頬をつついた。
「よく見ろ」リットはチルカを顎で指す。「オレがランプを作ったら虫が寄ってきた」
「まぁ、ウィル君は悪い虫じゃなさそうだね」
「それで、シルヴァは城でなんて話してんだ? ウィルのことを」
「次の王様は秀才だから、なんの心配もいらないって」
「あっそ」
自分から聞いたのに、リットは興味なさそうに返した。
「こういう話、本当に興味ないよね。リットは」
「フッたフラれたなんて話は、酒場にいりゃ嫌でも聞くからな。酒場のほうが悲惨な話で笑える」
「そんなに悲惨なの?」
「酒に溺れるような男がする恋愛だぞ。笑えなけりゃ死んでる」
「……悲惨なの?」
チリチーはじっとリットの目を見て言った。
「オレを見るな……」
「この子に大人の闇を聞かせるには早すぎるね」
チリチーは熱くない指を燃え上がらせて赤ん坊をあやす。
「火遊びさせると、また小便漏らすぞ」
チリチーが「それもそうだね」と指の炎を緩めた時、突然お腹が膨らんだ。足の形にシャツが膨らんでいる。
「お姉ちゃんに寝取られたぁー! いつの間にウィルの子供を産んだのよ!」
シルヴァの前足がチリチーの炎の胴体を貫いていた。買い物帰りらしく、手には新しい服を抱えていた。
「ちょっと! シルヴァ! 赤ちゃんに当たったらどうするつもり!」
チリチーは痛がることなく、冷静にシルヴァの足を体から引き抜くと、リットの後ろに隠れた。
「ほら、余計な詮索するから馬に蹴られた」
「のんきなこと言ってないで、シルヴァをなだめてよ」
「はいどーどーってか」
「なに? 邪魔するなら、お兄ちゃんの頭から順番にかち割るよ」
シルヴァは手綱を引かれたかのように、両前足を高く上げた。
「……お先にどうぞ」
リットはウエイターのように手を広げて、チリチーを差し出した。
「ちょっと……それは薄情過ぎはしないかね」
チリチーは恨めしそうな声でリットに言うと、何でも屋の依頼で赤ん坊を預かっていることをシルヴァに言った。
「それならそうと早く言ってくれればいいのに」
誤解だとわかったシルヴァは安堵の笑みを浮かべた。
「言う間もなく、足を出してきたのはシルヴァでしょう。他の人にもこういうことしたらダメだよ」
「大丈夫。お姉ちゃんとゴウゴにしかしてないから。あと、たまにパパにも」それだけ言うと「あっ、ウィル」と、悪態をつくチルカを押しのけてウィルの元へと駆け寄っていった。
消化不良のチルカは崩れた塀の小さな一部を川に向かって蹴飛ばすが、川まで届くことはなく川べりに落ちて転がる。
飛来物の気配を感じた水鳥が、水面に慌ただしい波紋を残して一斉に飛び立ち、リット達の頭上を飛んでいった。
「あんな男のどこがいいんだか」
チルカは舞い落ちてくる水鳥の羽の隙間から、ウィルとシルヴァの二人を睨みつけていた。
「顔だけのミディム君よりはいいと思うけどね。次点でグリエル君だけど、一番ちゃんとしてそうなのはウィル君じゃない。なんにしても、グンヴァとカロチーヌよりはお似合いだと思うけどね」
チリチーは妹を思う姉の瞳で、シルヴァに目を向けた。
「ふーん……。リッチーはシルヴァとずいぶん雰囲気違うわよね」
「そっくりに育つ姉妹のほうが珍しいと思うけどな。例えお母さんが一緒だったとしても、鏡みたいに同じになることはないよ」
「ま、確かにね」
チルカはマルグリット姉妹を思い出しながら頷いた。妹のエミリアとは仲がいいが、姉のライラとは敵と呼ぶような関係だ。
「そうだよな。鏡は同じものを写すんだよな」
リットがぽつりと呟く。
「なに当たり前のことを感慨深く言ってるのよ。鏡に映ったらアンタの嫌味な顔も二つになるのよ」
「もし、鏡の中でオレの嫌味な顔が笑いかけたらどうする?」
「不気味の一言に尽きるわね。そもそも、鏡の中の景色が動いたら、もう鏡じゃないじゃない。いくら仮定の話でもありえないわよ」
「鏡に関するありえないことってそれだよな」
「なにがよ」
いまいち要領を得ない話に、チルカは若干イライラした口調で聞いた。
「ガルベラの研究所にある大鏡の話だ。ありえないことが起こるのが神の産物だろ」
「ありえないことなんていくらでもあるわよ。鏡に映るアンタの顔がマシになるとか、そこの赤ん坊が急激に成長して映るとか……」
一瞬の間があき、リットとチルカは同時にチリチーの腕の中で眠る赤ん坊に目をやった。
「……この子で変な実験はさせないからね」




