第七話
飲み足りないと思ったリットとグンヴァは城を抜け出していた。
川沿い通りの近くにあるいつもの酒場に向かうのでなく、グンヴァの後について裏通りを歩いている。
寂しく響く足音が、すぐ横にそびえる家壁に吸い込まれるように消えていく。
月明かりも差し込まないような暗く細い道をしばらく歩くと、一軒だけドアを切り取ったかのように光が漏れる家があった。
グンヴァは手慣れた風にドアを開けると、中へと入っていった。
廊下に椅子とカウンターを並べたような狭い間取り。ただ歩くだけでも横腹に椅子の背もたれがぶつかる。
ドア横の掃除をしたことがなさそうな燭台にロウソク一本に火がついているだけで、明かりは外よりはましだと思う程度だ。
鼻につく何とも言えない臭いが広がっている。
グンヴァが歩きにくそうに椅子を膝で押し分けながら奥の壁際まで歩いて行く。と言っても、十歩も歩けばすぐぶつかってしまう狭さだ。
奥のカウンターだけ人ひとり分引っ込んでいる。深く考えなくても、グンヴァ専用の席なのがわかる。椅子を引いたらすぐ後ろの壁にぶつかってしまうこの狭い空間で、馬の胴体のグンヴァが落ち着けるのはそこしかないからだ。
グンヴァが「おーい」と声を張ると、重々しく引きずる音と一緒にカウンター奥の壁が動く気配がした。
すると、窓が開いたかのように明かりが差し、ワニの目がギョロッと壁から覗く。
「なんだグンヴァか。ちょっと待ってろ。おい、テイラー頼む」
その声はアリゲイルのものだった。
そして、再び壁の動く気配がすると、明かりの窓が消えた。
同時に臭いの正体もわかった。蒸れた麦汁の臭いだ。
「ここでなにをするつもりだ」
リットはアリゲイルの目があった壁を見ながら言った。
「なにって、酒を飲みに来たに決まってんだろ」
「酒場にしちゃ、牢屋よりせめぇな……」
「グンヴァの言うとおり、ここは酒を飲める場所だよ。もっとも酒場じゃなくて酒屋だけどね」
ドアが開くと、ランプを片手にテイラーが現れた。
そのランプを天井から吊り下げると、ようやく部屋を見渡せるほど明るくなった。
改めて明かりの元で見渡すと、感じていた以上に部屋は狭かった。
「なるほど。無理やり飲むスペースを作ったってわけか」
カウンター奥の壁だと思っていたものは、天井まで積まれた酒樽だった。
「そうさ。奥は醸造所。残念ながら、蒸留所じゃないからウイスキーはないよ」
テイラーは上の方にある壁の樽の栓を抜くと、滝のように流れ落ちるビールをコップに注いだ。
「なかなか……悪くない壮観だ」
リットはコップを受け取ると、喉を鳴らして飲み始めた。
「そうだろう。酒の滝なんて他じゃお目にかかれないよ」
「味はいまいちだけどな」
「うちは安さだけが売りだからね。味も飲みごたえもなし。ただゲップを出して酔いたいアナタにってやつさ」
テイラーは気にした様子もなく口をひん曲げて笑う。
「前に婚約周年祭で飲んだワインは、そこそこだったけどな」
「あれは趣味で作ったやつだからね。儲けを考えなければ、そこそこ美味いものは作れるさ」
「まぁ、オレも美味い酒より安い酒だ。当然友達割引はあるんだろ?」
「ただでいいよ。どうせここのは売れ残りだ」
テイラーは壁の樽を叩いた。
すると、そのうちの一つが奥に消えていき、代わりにアリゲイルの顔が出てきた。
「呼んだか?」
「いんや、ただ叩いただけだよ」
「そうか」
そう言うとアリゲイルは顔を引っ込めて、元の樽で穴を塞いだ。
「いちいちワニ顔が覗くんじゃ、一見さんお断りだな」
「元々、仲間内で飲むための場所だからね。売れ残りがたまったら、こうして開けてるわけさ。酒屋の玄関は表通りだから、お酒を買うならそっちで頼むよ」
「ただで飲めるのに買うかよ」
「こっちの酒はお腹を壊しても責任は取らないけどね。それより、こんな時間に出て大丈夫なのかい? お城は夜の出入りが厳しいんだろ?」
「変な奴を連れ込むわけじゃないからな。出るのは簡単だ。番兵に小一時間くだまいて諦めさせればいいだけだからな」
リットはコップに残った酒を味わうことなく流し込む。息を吐くと、麦臭さだけが口に残った。
「旦那ァ……聞いてます?」
「聞いてるように見えるか?」
リットは食べない朝食の席について部屋に戻ってきたばかりだった。ベッドに張り付くようにうつ伏せに寝転がっている。
まだ胃の中では昨夜に飲んだ酒が不快に波打っていた。
「返事が返ってきたってことは、聞いてるってことじゃないっスか。来週見に行く演劇の話っスよ」
「知らねぇよそんなもん」
「だから今言ってるじゃないっスか。正装じゃなくてもいいけど、それなりの服を用意するようにって言ってましたよ」
「なんでオレが行くことになってんだ」
「そんなの私が見てみたいからに決まってんじゃないっスか。天空の青とかいうタイトルらしいっス」
リットはそのタイトルに聞き覚えがあった。前にマックスとゴウゴが、どっちを見に行くかで争っていたうちの一つだ。
「演劇なんてのは、見てる間は酒も飲めねぇんだぞ」
「演技には呑まれるらしいっスよ」
「なんか食うこともできねぇぞ」
「食い入るように見るから大丈夫っス」
ノーラは間を置くことなく答えていく。
「まぁ、いいけどよ」
「あらら……もうちょっとゴネてくれたほうがよかったんスけど。せっかくの問答トークが台無しっスよ」
「天空の青だろ」リットは人差し指で上を指す。「なんかわかるかも知れないしな」
「まぁ、見に行けるなら。で、服はどうします? 旦那が選ぶんじゃちょっと……」
ノーラはリットの着古した服を見て苦笑いを浮かべた。
「酒場の出入りはこの服でいいんだよ。ゲロ吐かれても気軽に捨てられるしな」
「拍手じゃなくて、嘔吐物を浴びるようなお芝居は見たくないっスよォ……」
「まぁ、服のことはシルヴァに聞きゃいいだろ」
リットは重い体をベッドから起こすと、のろのろとドアに向かって歩き出した。
広い城の中をどう探そうかと悩んだが、幸いシルヴァの足音はすぐにわかる。四つ脚の中でも軽い足取りで響く足音がシルヴァだ。
ちょうど曲がり廊下から、こっちに向かってくるシルヴァの足音が聞こえた。
「シルヴァ、ちょうど良かった。う――」
「――わかった。ウィルは確かに今までにいないタイプ。ダサい服にダサいメガネで、ダサい顔。それで、ダサい口からマジ頭痛くなるようなこと言うわけ。「その言葉の使い方だと、意味がわからない」とか。こっちがマジ意味わかんないっての。でも、送ってくれた時の下心のない優しさにちょっとクラっときた。……わかったわよ、文句ある? オタクに惚れた」
シルヴァは早口で言い切ると、最後にハンっと鼻を鳴らした。
「うちのちんちくりんの服を選んでくれって言おうとしたんだが……」
「……あっそう。別にいいけど……」
世界の音が消えたのかと思うくらい、静寂の間が訪れる。
風が吹き、葉擦れが静寂を破ると、リットはおもむろに口を開いた。
「いいじゃねぇか、オタクに惚れたくらい」
「よくないわよ。ダサいやつに惚れたら、私までダサくなっちゃう。将来私までメガネかけて、子供もメガネかけて生まれてくるの。メガネがメガネを産み、そのメガネがまたメガネを生む。いずれこの国はダサいメガネに支配されて、ダサい国になるの。それで、私はそのダサい国にダサいままで生きていくことになる。わかる? これは恐怖以外なんでもない。メガネ恐怖政治の始まりだよ」
「始まってるのは、オマエのバカげた妄想だけだろ……。」
「でも、オタクに惚れるのはありえない」
「確かにありえねぇな。ウィルだろ。頭が良くて、気を使えて、悪い噂もない。ふむ……魅力ゼロだ」
「もう、私のことはいいの。来週の演劇を見る時の服買いに行くんでしょ。お兄ちゃんのもノーラのもバッチリ選んであげる。見ただけで役者が自信を失って山ごもりしたくなるようなやつ。で、そいつはそこで熊みたいに一生鮭とって暮らすの。いいでしょ」
「……普通のやつにしてくれ」
順調に夏へと歩を進める春のうららかな日差しが、リル川の緩やかな流れに網をかける。
川の流れのように街もゆっくりと時間が流れていた。
しかし、シルヴァの声が時間を進める。
「お兄ちゃん、早く。いい服といい男は早く売り切れるんだから」
本屋の前で立ち止まるリットの背中を、シルヴァがせわしなく叩く。
「服は売り切れてもまた作られるし、男も売り切れてもまた生まれてくんだろ。でも、役に立つ本を書くやつはなかなか生まれて来ねぇんだよ」
リットは一冊の本を手に取り、しげしげと眺めている。
「買うのかい? 買わないのかい?」
本屋のおじさんが、本を持ったまま動こうとしないリットに苛立たしげに言った。
「これの原本ねぇか? この写本家は自己解釈を付け加えるから嫌いなんだよ」
「あったら、そこに並んでるよ」
「ねぇのかよ……。仕方ねぇな」
リットは代金を払うと、妥協して選んだ本を小脇に抱えて歩き出した。
「なんの本を買ったんスか?」
ノーラは腋に隠れてよく見えない本のタイトルを見ようと、リットの横をちょこまかと着いて歩く。
「リブス・テーキが書いた古い薬草学の本だ。今じゃ間違ったことばかり書かれてる」
「間違ったことが書かれた本を買ってどうすんすか」
「間違える過程がおもしろい。だから、勝手な自己解釈を付け加えられたら嫌なんだよ」
「その性格で本を読むとか、詐欺だよね」
シルヴァは本には興味なさそうに、ブレスレットの位置を直しながら言った。
「そっちも、たまには本くらい買って読んでみたらどうだ? もう、一生裸になることはねぇくらい服は持ってるだろ」
「私も持ってるわよ。化粧道具箱の下に置くと、ちょうどいい高さになるんだよねぇ。もしかして、ノーラも読むの?」
「私はページを開いて読んだ気になってるだけっス。かしこくなった気がするんスよねェ」
「わかる。ちょっと貸して」シルヴァはリットから本を取ると、開いて背筋を伸ばした。「これはダメ、やりすぎ。ただの文学少女になっちゃうから。インテリはこう。ちょっと前かがみになって読むの」
「こうっスか?」
ノーラは真似して本を開くポーズをすると、少し前かがみになった。
「そうそう。お兄ちゃんもやってみ? ただ本読んでるだけじゃバカに見えるよ」
「男がそれやって歩いたら、別なことに勘違いされんだろ」
シルヴァに案内された服屋は思いの外地味な店だった。
それがリットの顔に出ていたらしく、シルヴァはリットに合う服を探しながら言った。
「ここは仕立てもしてくれるから。あちこち店回るの嫌なんでしょ。お兄ちゃんのことを考えてここにしたの」
「珍しく可愛いこと言うな」
「やめてよ。私はずっと可愛い。ノーラ、これのもっと色が濃いの探して」
シルヴァはリットの意見を聞くことなく、ノーラと服を探しに店内を回り始めた。
取り残されたリットに「どうも」と声がかかる。
「おう、ウィルか。服の歴史でも調べに来たのか?」
「仕立て直して貰った服を取りに来たんですよ。ほら、成長したから」
ウィルの背は、平均より頭半分ほど小さい。
「昔はこんなんだったもんな」
リットは親指で人差し指をくっつけて、小ささを表現する。
「あの……それじゃあ、見えないんですが」
「そりゃ、昔のオマエのことは存在すら知らねぇからな」
ウィルは愛想笑いを浮かべると、「お兄さんも服を?」と聞いた。
「演劇を見るのに、この服じゃダメらしいからな」
「天空の青ですか? 僕も見に行くんですよ。だから仕立て直して貰ったんです。天空の青は古典的な内容がいいんですよね。昔にも一度公演しているんですよ。見ました?」
「昔はここにいねぇよ。古典的って、要は古臭いってことだろ」
「古典的とは古いという意味だけではなく。時代を超えて感動を与えるものって意味もあるんですよ。つまり、文化の基盤になった――」
「確かに……。頭が痛くなる」
リットが頭を抱えたその時、シルヴァが声を荒げながら戻ってきた。
「ちょっと、お兄ちゃん。自分でも探してよ」
「やぁ、シルヴァ。また、服を買いに来たの?」
ウィルが手を上げてシルヴァに挨拶をすると、シルヴァは「はぁい、ウィル」と甘ったるい声で返事をした。
「違うよ、お兄ちゃんの面倒を見てるだけ。ほら、お兄ちゃん疎いから、「私の本」を買うついでに案内したの」
シルヴァは私の本と強調して言うと、リットの腋から本を抜き取りウィルに見せ付けるように持った。
ウィルはそれを手に取り、題名を読み上げる。
「リブス・テーキの薬草学? これ僕も読んだよ。シルヴァもこういうの読むの?」
「もち。間違う過程がおもしろいんだよね」
シルヴァはリットから聞きかじった知識で返した。
「その性格で本を読むとか、詐欺だよな」とリットが呟くと、シルヴァは「うるさい」と耳元で怒気を込めて言い返した。
「そうそう。先人の失敗を、今の成功に照らし合わせて読むと面白いんだ。だから、正解を知らないと楽しくないと思うけど?」
「こう見えても私は読書家だよ。ほら見て。ね?」
シルヴァは本を開くと、さっきノーラに教えていたインテリのポーズで本を読むふりをし始めた。
「へぇ、それじゃあ。カレナリエルの薬草本も読んだ?」
「もち。魚が空を飛ぶって聞いてるようなもんだよ。つまり、ありえないってこと。あれ読まないのは、人としてありえないね」
ウィルの話を、シルヴァは全て知っている体で受け答えを続けている。
それをリットは口元に笑みを浮かべて眺めていた。
「旦那、なにニヤニヤしてんスか?」
「男が女に騙される瞬間と、女の嘘が男に見破れる瞬間。どう転んでも面白いに決まってる」




