第四話
「ちょっと、お兄ちゃん起きてよ」というシルヴァの声は聞こえていたが、リットは返事をすることができなかった。
何か言おうとはしているのだが、口から出るのは言葉ではなく息だ。それも、伏せっているカウンターに落ちていくのがわかるくらいとても重い息だった。
体の中で耳だけが起きていた。だからだろうか、周りの話し声がやたらにクリアに聞こえてくる。
「起きてってば。こいつチョーしつこいの。追っ払ってよ」
「僕をナンパ男と一緒にするのはやめてくれないか。王女なら相応の事を知っておくべきだ」
女の声は当然シルヴァなのだが、男の声に聞き覚えはなかった。まだ世間の理不尽さにすれた声でもなく、突拍子のない夢を爛々と語るような声でもない。シルヴァと同じくらい歳の若者だろう。
「それ以上しつこいと、どうなっても知らないよ。うちのお兄ちゃん……。お城で一番の腕前の剣士なんだから」
シルヴァの無責任な発言に、男は感心したように息を漏らした。
「わお、それは凄いね。でも、それとこれとは関係ない。問題は、なぜディアナ国がリル川に沿って発展したか」
「知らないっての。川でいい女が水浴びでもしてたんじゃないの。だから城を建てて、上から堂々と覗けるようにしたんでしょ。私が水浴びしてたら、周りに十個はお城ができるね。で、私を巡っての戦争が始まるの」
「戦争っていうのは間違ってないんだけど……。えっと……君的に言うと、いい女に他の奴を近づけさせたくなかったわけ」
「あぁ、だからいい女を守るために城を作ったんだ」
「そこをもっと深く考えてほしんだけど。君の言うように、水浴びをする女の子を覗くようなおバカさんが作った城なのか、それとも先の大戦時に水路をおさえたかったからなのか。よく考えればどっちが大事かわかるよね?」
「それより、その頭が痛くなる話を止めさせてくれる人のほうが大事」
シルヴァはカウンターに置いたままになっている小皿でリットの頭を叩いた。
ナッツの殻がリットの頭に落ちていく。
「いてっ……。おっ、声が出た。体も動く……」
リットは髪に絡まったナッツの殻を払いながら、カウンターにへばりついていた上半身を起こす。
リットがまだ開ききっていない目でシルヴァと話していた男を見ると、男は怯えるように一歩身を引いた。
「ど、どうもお兄さん」
少し震えた声で言う男の顔を、リットは頭を掻きながら眺めた。
中途半端に整えた、長くも短くもない黒い髪。目が大きく見えるのはメガネのせいだろう。
間違いなく知らない顔の人間だった。
「ウィルだ。ウィルダン・バーナー。あの爺さんの孫だ」
店主がコップを拭きながら、テーブルでいびきを立てる老人を顎で指した。
いつ渡したか覚えてない、シルヴァの勝負下着候補の白いブラを枕にして寝ている。
名前は知らないが、見知った顔だった。この間マックスが酔いつぶれた時もいた老人。その時だけに限らず、この酒場でよく見かける顔だ。
「ウィルです」と言って握手をしようと伸ばしてきた手は掴まず、リットは口だけで「リットだ」と自己紹介した。
「あの……怒ってます?」
ウィルは行き場のなくなった手を引っ込めると、遠慮気味に聞いた。
「怒ってるに決まってんじゃん。さっきからこの歴史オタク、マジうるさいの。早くおっぱらって」
「歴史オタクじゃなくて、歴史学者。君もこの国の王女なら、最低限の国の歴史は知っておくべきだと思うけど」
シルヴァは知らなくてもいい、ウィルは知るべきだと、言い合いは続いている。
「さわやかな朝が台無しだ」
リットはあくびをすると、こぼれ出た涙を乱暴に指で拭った。
「まだ、日も昇ってねぇよ」
店主はランプの火を強めて言う。
「なるほど……いびきが止まねぇはずだ」
リットは周りを見渡す。テーブル席、カウンター席、床。ほとんどの客は皆酔い潰れて寝ていた。
「ウィルは爺さんを起こしに来たんだけどよ……。知らない間に、シルヴァ様と言い合ってたんだ。もう、ずっとああしてる」
「城で見かけたことねぇな……歴史学者なら城に出入りくらいするだろ」
「まだ見習いだからだろ。それに、リットはウィルのことを知らなくても、ウィルはリットのことを知ってるはずだぜ」
「ヴィクターの不始末とか言わねぇだろな」
「酔っ払って、じいさんと一緒になってよく絡んでるだろ」
「覚えてねぇな……」
「そりゃそうだ。あれだけ酔っ払ってりゃな」
リットはもう一度思い出そうとしてみたが、やはりウィルのことを知らなかった。
それもそのはず、リットが酔っ払っている夜中の間に、ウィルが老人を連れ戻しに来ているからだ。
酔いが覚めた朝か、酔う前の夜に会うことがなければ、リットが覚えてるはずもなかった。
「なに、のんきに世間話してんの。早く秘剣かなんかでやっちゃってよ。こいつウザ過ぎ」
シルヴァはうんざりとした様子で、ウィルに向かって手を払う。
「悪いな。秘密にされすぎて、忘れちまった。つーか、日が昇る前に帰れよ。おい、歴史オタク。このブラオタクを城まで送ってけ」
「僕が?」
「そうだ。他に歴史オタクがいるか? 戻ってくるまでじいさんの面倒は見といてやるから」
「なんで……」
「説明は面倒くせえ。どうしても説明が欲しいなら、説明代わりにケツを蹴る。その前に行ったほうがいいぞ」
リットはシルヴァとウィルを無理やり酒場から追い出すと、テーブルに散らばったナッツの殻を床で寝ている酔っぱらいの上に払って、誰のかわからない酒瓶からコップに酒を注いだ。
「自分で送らないにしても、夜道を女の子一人で歩かせないとは……リットにしては気を使ったな」
洗い物を終えた店主が、やれやれと腰を叩きながら言った。
「ウィルが無事に戻って来たら、ソアレの頭も冷えてるってことだろ。そしたら、オレも安心して帰れる」
「……たまには自分が犠牲になろうと思わないのか?」
「たまには思うぞ。ただ今じゃないってだけだ」
酒場から追い出されたシルヴァとウィルは、月が雲に隠れ出る、風の強い夜道を歩いていた。
「前から思ってたんだけど、君のお兄さんって山賊かなにか? 僕がおじいちゃんを迎えに行くと、いつも酒をたかられるんだけど」
「まぁ……似たようなもん。唯一のいいところは、他のお兄ちゃんたちよりも少しだけ融通が利くってところ。皆口うるさくて最悪。可愛い子には旅をさせろ。可愛いんだから旅させなきゃ」
「君……意味わかって言ってる?」
「美人は得するから、旅をしても生きていけるってことでしょ」
「その言葉の可愛いっていうのは、容姿のことじゃなくて――」
シルヴァは説明をしようとするウィルから逃げるように少し足を速めると、ウィルの前で立ち止まり振り返った。
「もう、勉強の話はいい。大事なのは見た目。今、インテリに見えるポーズの研究してんの。ちょっと貸して」シルヴァはウィルから乱暴にメガネを取り上げると、それをかけて目を細める。そして、つるに軽く指先を触れた。「ね? インテリに見えるっしょ」
「何も見えない……」
ウィルは紙を挟めそうなほど眉間にしわを寄せて目を細めるが、目に映るシルヴァの顔は滲んだ絵画のようにぼやけていた。
「目悪すぎ。それでどうやって生きてんの」
「だから、メガネをかけて生きてるの。返して」
ウィルはシルヴァに返してもらったメガネをかけるが、レンズの縁にあるシルヴァの手脂のインクで押された指紋が気になり、一度外して服の裾で拭いてからかけ直した。
「なにそれ、嫌味?」
「むしろこっちが言いたいよ。メガネのレンズに指紋をつけて返す人なんて始めてだ」
「それ、すっごいわかる! 私もこの間、この間っていっても一年くらい前なんだけど。ラバドーラに指輪貸したの。別の男にプレゼント貰った風にヤキモチ焼かせたいって。だから自分の持ってる指輪じゃダメなんだって。なら、自分で買えよ。って言いたいけど、まぁ私もラバドーラから結構借りてるし、オッケーって言って貸したの。モルガナイトの指輪。ほら、私って茶髪だから薄いピンクが似合うじゃん。真珠でもいいんだけど、あれどっちかというと指輪よりネックレス系じゃん? ネックレスはチェーン系って決めてんの。で、ラバドーラに指輪を返してもらったんだけど、なんか曇ってんの。オマエの巻いてる包帯は飾りかっての」
シルヴァの手紙を流し読みしているかのような早口な言葉を、ウィルは考えているのかいないかわからない奇妙な表情で聞いていた。路地裏から表通りをぼーっと眺める猫のような顔だ。
「君の話長すぎ……。指輪を貸したら、手入れされずに返されたで済む話じゃない」
「だから、そういう話をしてるの。でも、アクセサリーとか服の貸し借りはダメだね。趣味被っちゃうもん。同じ服来て歩いてる姿想像できる? 擬態生物かっての」
「君……悩みとかないの?」
先程から飛び出すシルヴァの自分勝手な発言を聞いて、ウィルは呆然とした顔に少しの嘲笑を混ぜていた。
「あるよ。勝負下着でチョー迷ってんの。この春の一生を決める大事なこと」
「君がこの春で死ぬなら訂正しないけど、死なないならその言葉はおかしい」
「女の春は、男の一生分より価値があるの。おわかり?」
「君が一生かけて服を選んでる間、僕は起きてから朝ごはんを食べる間に済ませることができる。つまり、君は人生を無駄に過ごしてるってこと。おわかり?」
「アンタの言葉って、胃の毛がよだつよね」
「君の言葉こそ、身の毛がよだつよ」
ウィルは呆れ顔でシルヴァからの言い返しを待っていたが、シルヴァは怪訝そうにウィルの顔を見たまま、言い返すことなく小首を傾げた。
「君の間違いを訂正したつもりだけど?」
「はいはい……秀才君の言うとおりです。偉そうに訂正するくらいなら決められるよね? どっちのブラがいいか」
シルヴァは城を出る前まではたしかに持っていたブラを探すが、両手にもポケットの中にもない。念のため胸元を引っ張り、身につけているブラも確認したが、これではなかった。
「あれ……どこいったんだろ」
「黒のブラジャーと白のブラジャーのこと?」
突然ドレスの胸元を引っ張り始めたシルヴァから、ウィルは少し赤く色付いた顔を逸らしながら答えた。
「そうそう、なんで知ってんのよ」
「君のお兄さんが持ってた。……あと、僕のおじいちゃんも」
「なんであの二人が持ってんの。ブラで抑えるものなんてついてないじゃん」
「さぁ、吐き袋にちょうどいい大きさなんじゃないの?」
「アンタさぁ、私と歩いてるのにもっとないわけ? 他の男の子は、顔とかスタイルとか服とか、あと顔とか褒めるよ」
ウィルはシルヴァの主張を鼻で笑い返した。
「ご飯を奢ってもらいたいくらいだよ」
「こんなに可愛いこと話しながら歩けるのに?」
「三食分だね」
「あっそ。もう、ここでいい」
気付けば、二人は城門が見えるところまで歩いてきていた。
「城の中まで送るよ」
「パパの小言まで聞きたいの?」
「それじゃ、ここで」
ウィルは変わり身早く、手を振ってシルヴァに別れを告げた。
「ばーい」
シルヴァも手を振ると、城門に向かって歩き出した。
一人分の四つの足音だけが響く。
ウィルの帰りの足音が聞こえないとシルヴァが思った時、複数の足音がシルヴァに向かって近付いてきた。
数人の兵士があっという間にシルヴァを囲んだ。
「シルヴァ様! どこに行かれていたのですか? つい先程、捜索隊を出したところですよ」
「大丈夫。リットお兄ちゃんと一緒だったから」
シルヴァが何気なく振り返ると、ちょうどウィルの影が消えるところだった。
「シルヴァ様、どうかしましたか?」
「なんでもない」
シルヴァはもう一度だけ振り返り、ウィルの影があった場所を見てから城門をくぐった。
結局朝まで酒場にいたリットは、二日酔いでだるい体を引きずりながら城へと帰っていた。
水を貰うために厨房へ向かっていると、ちょうど厨房から出てきたノーラと鉢合わせた。
「旦那ァ、出掛けたほうがいいっスよォ」
「オレは今から寝るんだよ。何のために帰ってきたと思ってんだ」
「私は忠告しましたからね」
それだけ言うと、ノーラは短い足でそそくさと遠ざかっていった。
そのちょこまかとした足音と入れ替わるように、厨房からシルヴァの声が聞こえてきた。
「だから、さえない歴史オタクに送ってもらっただけだってば」
「夜遊び、酒場、朝帰りだぞ。この三つが揃っているのに、信じられるわけないだろう」
ヴィクターが昨日の夜から今朝にかけてのことを、シルヴァに説教しているところだった。
「なんで厨房で説教してんだよ」
周りには朝食の準備をしているコック達。厨房のどまんなかに立っている二人は明らかに邪魔だった。
「ちょうど良かった。パパに言ってやってよ。なにもなかったって」
シルヴァはリットを味方につけようと、腕を引っ張って自分の隣に立たせた。
「……なにもなかったってよ」
リットはコックの一人から水をもらいながら、ヴィクターに言った。
「オレを見ろ。そういうチャンスをものにしてきた男だぞ。心配しかないだろ」
「アンタにかかれば、通りすがりに肩がぶつかっただけでも子供ができる。だいたいな、ブラオタクと歴史オタクだぞ。ブラの歴史を紐解くくらいしか話が合わねぇだろ」
「ブラの紐を解いただと!?」
「ちぃがぁう。私のブラを持ってるのは、ウィルじゃなくてリットお兄ちゃん」
その言葉でシルヴァのブラを持っていることを思い出したリットは、ポケットから黒のブラを取り出した。
「そうだ、忘れてた。わりぃな、一個じいさんにやっちまった。純白の天使のブラで天国にいけるって喜んでたぞ」
「アレ高かったんだけど」
「……いくらだ?」
「いくら出せる?」
数秒の沈黙の後、リットは意を決したようにヴィクターに向き直った。
「ヴィクター。シルヴァのことは、酒場でしっかりオレが見てた。送った奴は、今の女より過去の女に興奮するような歴史オタクだ。今を生き過ぎてるシルヴァに手なんか出さねぇよ」
「しかしだな……」
「ヴィクター、疑った分だけシルヴァに服を買ってやれ。シルヴァ、これでじいさんにやった分のブラ代はチャラだ」
リットは暴論で無理やり話を終わらせると、二人に「いいな」と念を押して厨房から出ようと身を翻した。
しかし、ヴィクターの手がリットの肩を掴む。
「まて、リット。この機会にじっくり話したいことがある。今回のシルヴァ。この間のマックス。それにバニュウも酒場に連れて行ったことがあるみたいだな」
「……フレンドリーな国を目指してんだろ」
「国じゃない。親としての責任から言いたいことがある」
「そりゃ、また後日。二日酔いが治ってからにしてくれ……」
「ダメだ。オマエは二日酔い中が一番話を聞くらしいからな」
「誰に聞いたんだよ……」
「ノーラだ。そのことを見つけた、エミリアとかいう娘にも感謝しなくてはな。言うことを聞かないと、チクチクお髭攻撃だぞー」
ヴィクターはがっちりリットの肩を掴むと、伸びかけの髭をリットの頬にこすりつけながら厨房を出て行った。
「ねぇ、ビクソーさん」
シルヴァは二人の背中を見送りながらコック長に話しかけた。
「はい、なんでしょう」
「あの光景、身の毛がよだつよね」
「はい?」




