第三話
夜になり、リットは部屋に着くなり酒瓶のコルク栓を抜いた。
酒場では下劣なジョークを生み出す酒も、邪魔する者のいない部屋で一人で飲めば、酒が回るのと同時に頭も回る。あれこれ余計なことを思わずに、一つのことに集中して考えることができる。
限度はあるが、酒は考え耽るのに丁度いい。
今日もガルベラの研究所から持ってきた本を読みながら、夜を過ごすつもりだった。
しかし、耳に染みこむように優しく降る春雨の音に混じる、すすり泣く女の声が邪魔をした。
酔いが回れば気にならなくなるだろうとリットは無視していたが、すすり泣く声は止まることはない。それどころか、気付いてほしそうに部屋の前をウロウロとする足音まで混ざり始めた。
リットは苛立たしげにコップをテーブルに置くと、不機嫌な顔のままドアを開けた。
「なんか用か……」
「リット様……」
モントの妻になったソアレが立っていた。
ソアレは蜂蜜を糸引かせたような艶のある長い髪の隙間から憂いげに瞳を潤ませていた。
「すいません……なんでもないんです。リット様にお話を聞いてもらおうと思って来たわけではないです」
「あぁそう。元気そうで安心した」
リットがドアを閉めると、しくしくと泣き声が大きくなった。
ため息を付きながら再びドアを開けると、ソアレは両手で顔を覆い身体を小刻みに震わせていた。
「本当になんでもないんです」
ソアレは涙の隙間に震えた声を挟ませて言った。
「言え……。なんかあるんだろ」
リットはうんざりした顔で開けたままのドアに寄りかかった。
「リット様……優しいんですね」
ソアレは曇り顔に僅かに笑顔をみせる。
「素っ頓狂なこと言ってると、その長い髪を箒代わりにして豚小屋の掃除をするぞ」
「そんな……ひどい……」
ソアレはまたも顔を覆って泣き始める。
「おい、ノーラ。オマエに客だ」
リットは隣の部屋にいるはずのノーラに押し付けようと声をかけるが、返事は返ってこなかった。
「ノーラ様ならご用事で忙しいとおっしゃってました。それで、リット様ならと紹介されたんです。お酒と本がテーブルに出ていたら暇だと、ノーラ様がおっしゃっていたので……」ソアレは首を伸ばして部屋の様子を確認すると、「良かった……。お暇でしたのですね」と胸をなでおろした。
「ずいぶん余裕のある泣き方してんじゃねぇか……。旦那のモントに相談しろ。オレは酒を飲むのに忙しいんだ」
「モント様……」
そう呟くと、ソアレはさめざめと泣き出した。
女の涙は屁とも思わないリットだが、部屋の前で泣かれるのには困る。なにせ王妃だ。誰かに見られでもしたら、面倒くさい噂が広まるに決まっているからだ。
「わーったよ……。でも、オレの部屋はダメだぞ。寝室で二人きりってのは問題になるからな」
「そう思いまして、部屋を用意してもらってます」
そう言って顔を上げたソアレからは、新しい涙が溢れることはなかった。
ソアレに案内された部屋には、テーブルの上に二人分のティーセットが置かれていた。
「お茶、淹れるの好きなんです。少し冷めてしまっていますが、どうぞ」
ソアレがカップに注いだお茶からは、まだ湯気が立っている。
「まるで、オレが来るのがわかってて準備してたみたいだな」
部屋を用意している時点でそのことはわかっていたが、リットはあえて嫌味ったらしく言った。
「なぜ、リット様は私に酷いことばかりをおっしゃるのですか」
ソアレはすがりつくような泣き顔を一度リットに見せると、両手で顔を覆った。
「言っとくけどな。恥も外聞もなく本気で泣く奴を知ってるから、オレは嘘泣きでうろたえたりしねぇぞ」
「なら、やめます」
顔を上げたソアレの表情には、悲しみは一つも残っていなかった。
「なら、帰ってもいいんだよな。ありがとよ、時間を無駄にしてくれて」
「相談があるのは本当です」
ソアレはリットの服の裾を掴んで引き止めると、笑顔を向けた。確かに笑ってはいるが、どこかとらえどころのない雰囲気がある。
「どういう女なんだよ……」
「こういう女です。それで……いかにもな女性を演じてみたのですが……どうでしょう?」
「それは、右手で殴りたくなるような女か、左手で殴りたくなるような女かを聞いてんのか?」
「いえ、右手で頬を撫でたくなるか、左手で撫でたくなるかがわかれば充分です。よろしければ、ガレットもどうぞ」
ソアレは皿にガレットを取り分けると、紅茶を一口飲んで悩ましげに眉を寄せた。
「相談があるわりには、ずいぶん余裕だな」
「これでも真剣に悩んでるんですよ」
ソアレはあっという間にガレットを一切れ食べ終えると、ハンカチで口元を拭いた。
「婚姻の儀で話した時は、もっと淑やかな女に思えたもんだ」
「私だって、淑やかで良いなら淑やかでいたいです。でも、それではいけないのですよ……」
「いびられてても、助け船は出さねぇぞ。オレの船は一人用だ。面倒に巻き込まれる前に、それに乗って逃げる」
「お母様達はよくしてくださいますわ。ただ……」
ソアレは息を呑むように言葉を止めた。
「言いづらいことは誰にでもあるもんだ。だから何も言わなくていいぞ。」
リットが立ち上がろうとすると、ソアレが腕を掴んだ。
細い腕が余すことなく筋肉でできているような力で、リットを引き止める。
「モント様が抱いてくださらないのです」
ソアレはじめじめとした雨雲を作るような重いため息をついた。
「……この腕力で無理やり抱け。目の前で牛の首でも折ってやれば、モントもおとなしくなるだろ」
「いやですわ。真剣な悩みをジョークで返すなんて」
掴むというよりも、絞り上げてくるような力がリットの腕を襲う。
「真剣な悩みを、脅しで解決してもらうのはいいのか?」
「脅しではなくてお願いです。私のどこがいけないのかしら……」
ソアレが腕を離すと、掴まれた血液が一気に流れ出し、腕が熱くなるのを感じた。
「ズバリ、下着ね。一撃必殺の勝負下着を持ってないから、モントお兄ちゃんは手を出さないってわけ」
シルヴァがリットの肩に肘を置いて、チッチと舌を鳴らしてソアレに向かって人差し指を振った。
人差し指が揺れるたび、手に持ったブラの紐が鞭のようにリットの頬を打つ。
「オレは馬じゃねぇから、目の前に餌をぶら下げられても走んねぇぞ」
「これは私のこの春の勝負下着候補。どっちがいいと思う? 背伸びしてます的な魅惑の黒いブラか、押し付け清純の白いブラ。蜘蛛の巣のように狙った獲物は逃さない。どっちもスパイダーズ・シルクの春の新作」
「刃物を仕込んでるほう」
「そんなのつけるわけないでしょ。なんでブラでそんな物騒な発想が出てくるのよ」
「一撃必殺なんだろ?」
リットは自分の首に親指を当てると、掻っ切るように指を引いた。
「ものの例えじゃん。どっちがいいか選んでよー。誰に聞いてもまじめに答えてくんないの。モントお兄ちゃんは忙しいし、スクーイは寝てるし、ゴウゴお兄ちゃんはまた行方不明。マックスは意味不明なこと言って運動始めるし、グンヴァはゲーでしょ。バニュウは川で拾った丸石が宝物だって言ってるガキだよ。リットお兄ちゃんしかいないじゃん」
「ミニーかメラニーに聞けよ」
「出した名前聞いてなかったの? 男の意見が聞きたいの。お気に入りの下着を探すならママ達に聞くわよ。今私が知りたいのは男ウケする下着。この間ジュエリーの買い物について行ったんだけど、チョー気合入ってんの。アーテルカラスの羽で染めた黒いやつで、スケスケなの。最初は私も「それチョーいいじゃん」とか言ってたんだけど、よく見ると気合い入り過ぎで寒すぎ。男に飢えてるの丸出しだね。でも、春の薄着に地味なブラつけんのいやじゃん。ちょっと聞いてる?」
シルヴァが音を立ててガレットを食べるリットの肩を揺すると、反対の肩をソアレが揺すった。
「そうです。聞いてますか? 私の相談もまだ終わってませんよ」
「大股で百歩譲ってシルヴァの話を聞くとしてもだ」とリットが言うと、シルヴァは勝ったとでも言うように「イエーイ」と親指を立てた。「なんで、夫婦の閨の問題にオレが口を出さなきゃいけねぇんだよ」
「それは、リット様が微妙な立場の人だからですわ。モント様と親しい方に話を聞いてもらうと、妻を抱かない冷淡な夫というレッテルが貼られてしまう可能性があります」
「不名誉というより不能者だな」
リットの下品な笑い声だけが響いた。
「モントお兄ちゃんはあれでしょ。一人前になるまで結婚しないって言ってたくらいだし、子供ももっと後でって考えてるんじゃないの。マックスやゴウゴお兄ちゃんと違って融通が利くのに、変なところで真面目なんだから」
「なら、話は簡単だ。酔わせろ。記憶を失ったところを襲え」
「それでは意味がないです」
「じゃあ、襲わずに一緒に寝ろ。で、朝になったら意味深なことを言え。昨日はごめんなさいでも、ありがとうございましたでも。それをチラつかせれば、真面目な奴が相手なら責任とってズルズルいくだろ」
「そんなんで上手くいくの?」
シルヴァが呆れ気味に聞いた。
「酒場で知り合った奴が、そうやって結婚したからな。男も女も泣きながら結婚の報告に来たぞ。まぁ、同じ感情で泣いてたかどうかは知らねぇが」
「……リットお兄ちゃんも、そうやって口説いてるの?」
「男がそれやったらシャレになんねぇだろうが……」
「それでも、抱いてくださらなければどうすれば……」
ソアレは泣き崩れるように肩を落とすが、もうリットには滑稽な演技を見せられてるようにしか思えなかった。
「どうするもなにも、そこまでしてなにもしてこなかったら、モントの性的対象は男だ。あきらめろ。そして、オレはモントから距離を置く」
言い終わると同時に、リットの目の前にフォークが突き刺さった。
「つまり、今リット様を始末すれば、モント様が男性に走らなくて済むということですね。死んでくださいます?」
ソアレはゆっくりテーブルからフォークを引き抜くと、フォークの先をリットの顔に向けた。口元の笑みは、牙を剥く獣と相違ないほどの重圧を放っている。焦点の合っていない瞳はどこを見ているかわからないが、目玉だけはリットに向いている。
「そうだよな……。こんなぶっ飛んだ奴だらけの城に嫁いでくる奴が、ぶっ飛んでないわけがないんだよな……。ましてや、嫁を選んだのがぶっ飛び筆頭のヴィクターだからな」
リットは素早く椅子から立ち上がると、シルヴァの背中にまたがった。
「シルヴァ、走れ」
「ちょっとぉ、勝手に乗らないでよ。まだ誰も乗せたことないんだからね」
「このままだと、今日中にもう一つ初めてのもんを奪われることになるぞ」
「なによ。これ以上奪われたくないんだけど」
「命だ」
壁にガレットの切り分け用のナイフが刺さる。
そのナイフが床に音を立てて落ちると、シルヴァはそれを目で追いながらおもむろに言った。
「逃げる?」
「そうしてくれ」
短く会話を済ませると、シルヴァは鞭で尻を叩かれたように一気に駆け出した。
勢いで外に飛び出したものの、しばらく雨風をしのげる場所が必要だった。
「ノリで飛び出したけど、行く宛あんの?」
雨音に混じり、リズムを取ったような楽しげなシルヴァの足音が混ざる。
「川沿い通りに行けば、馴染みの酒場がある。泣いて頼めば朝まで置いてくれるだろ」
「いいね」
シルヴァは口笛でも吹くように上機嫌に言った。
「何がいいってんだ……」
「だって、これ夜遊びだよ。連れ出したのはお兄ちゃんだから私は怒られる必要ないしィ。それに、ソアレもつまんない女じゃなくてよかったじゃん。こんな早く素が見られたなら、この国に馴染む日もすぐだよ。もう、気を使う必要もなさそう」
「気を使うような女じゃねぇだろ、オマエは」
「他にも兄弟が顔見せに来たことあるけど、リットお兄ちゃんくらいだよ。ズケズケ我が物顔で城の中を歩いてるのは。大抵はお互い気を使いあって、血が繋がってると思う前に別れちゃうからね」
「そこまで褒められるとはな」
リットはシルヴァの背中の上で得意気に笑い声を響かせた。
「うーん……ちょっとだけ褒めてるかな」
「……これで、金のにおいがしなかったら、オレももう少し素直に受け取れんのに」
「だって、コンプリートの靴が欲しいの。パパが王様やめてから、新作を買う回数が減ってんのよ。モントお兄ちゃん厳しいんだもん。「先週買っただろう?」って、先週とは乙女にとっては去年と同じくらい昔だっての」
雨に打たれながら、リットとシルヴァは酒場に向かった。
「さっきはマックス様で、今度はシルヴァ様か……。困るって言ってるだろ」
夕方ぶりに酒場にやってきたリットは、早速カウンターで一杯頼んでいた。
シルヴァも夜の酒場の雰囲気と、酔っぱらいにチヤホヤされるのが楽しいらしく、機嫌よく愛想を振りまいていた。
「仕方ねぇだろ……命がかかってたんだから。頭が冷えるまで帰れねぇんだよ」
「シルヴァ様がなにかやったのか、リットがなにかやったのか、両方ってことも充分ありえる」
「なんかやったのはモントの嫁だ。どうりで急な婚姻の儀にもかかわらず、モルゲレーテ国はソアレをすんなり送り出したわけだ。……厄介払いしやがったな」
「おいおい、滅多なことを言うもんじゃないぜ。淑やかで良い王妃様じゃないか、ソアレ様は」
「ソアレのことは婚姻の儀で見たっきりか?」
「そうだ。ヴィクター様が特別だっただけで、普通は毎日顔を合わせるようなもんじゃないしな」
「良かったな。ヴィクターが王様じゃなくなっても、お騒がせはまだまだ続くぞ。この国は静かになることがないな」
「何言ってんだか……」
呆れる店主の目の前に。リットはしわくちゃに畳まれた布を置いた。
「何言ってるついでに、もう一つ言っておきたいことがある……。急に飛び出してきたから金を持ってねぇ」
「わかってるよ。兵士に突き出せばいいんだろ?」
店主はさも当然といった風に言う。
「払わないとは言ってねぇだろ。今回はこれで済ましてくれって言ってんだ」
リットは黒い布を押し付けるように店主に渡した。
「なんだってんだ」
「シルヴァの勝負下着だ。黒が嫌なら白も――」
リットが言い終える前に、ブラが顔に向かって飛んできた。
「バカ野郎! こんなもん持ってたらヴィクター様に殺されるぜ!」
「そう言うなよ。欲しいって言うから持ってきてやったんだろ」
「オレを巻き込むんじゃねぇ……」
「じゃあ、今日の分は気持ちよく奢ってくれ」
「わかったよ……。頼みごとじゃなくて脅しじゃねぇか……」
店主は観念したように肩を落として答えた。
「ついでに朝までいてもいいか?」
「わかったよ」
「あと、一騒動あったから腹減った」
「わかったよ」
「この店オレに譲る気ねぇか?」
「わかったよ。って言わせようとしてるだろ……」




