第二十三話
乾いた冷気の中にわずかな湿りが残る冬の匂いが、鼻孔を刺すように通り抜けて喉を刺激する。
まだひと気のない早朝。リットは眠い目を擦るチリチーに、無理やりガルベラの研究所へ案内させていた。
研究所は、ガルベラの墓とは正反対の街外れにあった。
川沿い通りの突き当り。岸が切れる川のほとりに、一つだけある小屋がガルベラの研究所だ。
石造りの小屋は天井の低そうな一階から、煙突のように細く二階の壁が飛び出していた。
小屋の周りは高い石壁で覆われており、入口部分は鍵付きの鉄の鎖で封鎖されている。
リットは鎖を跨いで中へと入ったが、ドアにも重そうな大きい鉄錠がかけられている。窓も元からの鉄格子で、中に入れそうにない。
「なんだって、こんなに厳重に鍵がかけられてんだ?」
リットは錠を掴んで乱暴に揺らした。わずかにドアが軋む音と、鉄錠のサビがこぼれ落ちる。
「昔、忍び込んで遊んでたスクーイが怪我してから、お父さんが鍵をかけたんだよ」
「アイツそんなに活発だったのか。枕持って寝てるところしか見たことねぇぞ」
「十年位前まではね。もう、いいでしょー。帰ろうよー。今帰ったら、まだ二、三時間は寝られるよ」
チリチーは大口を開けて何度もあくびを繰り返し、目尻に溜まった涙を指で拭いた。枕か布団のどちらかがあれば、今すぐに寝息を立てそうなほど眠そうにしている。
「たまの早起きくらい気合で乗り切れよ」
「私は健康なの。寝酒で眠りが浅いリットとは違うんだよ」
「炎でちょちょいと鉄錠を溶かしてくれりゃ、すぐに帰してやる」
「……無理。息子のスクーイが入らないように鍵をかけたのに、娘の私が簡単に開けられそうなものにするわけないでしょ」
「チルカでも連れてくりゃ、中の様子くらいは知れたのにな。リッチーは中に入ったことはねぇのか?」
リットの質問にチリチーは答えない。代わりに、頷きのようにうつらうつらと船を漕いでいた。
一度城に戻ってヴィクターの部屋から鍵を持ってくるのが一番手っ取り早そうだが、せっかくここまできたので、リットは小屋の周りを歩いて観察し始めた。
小屋の裏には、等間隔に並んだ三本の木がある。これは人工的に植えられたものだ。他の葉の落ちた膨らんだ枝が見える広葉樹とは違い、痛々しい葉を付けた枝が真っ直ぐ天に向かって針葉樹だ。
三本の針葉樹は見て取れるほど高さが違う。左から右へと、順に大きくなっている。
時折、風に揺られて寒そうに雪の衣を落としていた。
他に際立ったものはなく、特に広さもない小屋の周りをすぐに一周してしまった。
入口ではチリチーが石壁に寄りかかって、暖かい寝息で雪を溶かしていた。
「おい、起きろ。帰るぞ」
リットはしゃがむと、冷たい雪の上で眠るチリチーの肩を揺すって起こす。
チリチーは目を覚ますと、両腕を高く上げて体を伸ばして、気持ちよさそうに目を細めた。まるでベッドの上から起きたかのように自然な動作だった。
「酒も入ってないのに、よくこんなところで寝られるな」
「私にとっては固い城の廊下で寝るのと一緒だよ。それで、なにかわかったの?」
「ボロ小屋ってことくらいはな」
「それって、わざわざ鎖を跨いでまで確かめないとわからないこと?」
チリチーの言うことはもっともだった。
石壁が高いわけでもなく、遠目からでも小屋はしっかりとした造りではないことがわかった。
近寄れば近寄るほど、石壁の隙間や、積まれた石がずれて湾曲になった家壁や、腐った木の屋根など、粗が見つかるばかりだ。
「中に入れねぇんだ。わかることなんて、そんなもんしかねぇよ」
「リットってさぁ……気になったことは、すぐに確かめないと気が済まないタイプ?」
「そうかもな」
「キャラセット沼に行くことがあったら、赤い花が咲いてる苔だけを踏んで歩くんだよ。じゃないと、すぐに底なし沼の奥深くへ落ちていっちゃうから」
チリチーは足元の雪に故郷のキャラセット沼らしきものを描くと、その上を人に見立てた人差し指と中指を使い、歩くように交互に動かした。
「なんだよ突然」
「なんでも、興味本位で首を突っ込むと後悔するってこと。行き当たりばったりじゃなくて、安全を確認することも大事。お父さんみたいに、なんでも上手く行くとは限らないよ」
「ヴィクターと比べんなよ」
「お父さんの冒険者時代の話、聞いてないの? お父さんも、気になったことは自分の足で確かめるタイプだよ。とりあえずやってみれば、なにかわかるだろって感じ」
チリチーは直接ヴィクターと似てるとは言わなかったが、言わんとしてることは同じだった。
「結局、なにが言いてぇんだよ」
「リットのことは結構好きだし、あんまり無茶なことして死んでほしくないなーって」
「そういうことはな、将来の旦那にでも言ってやれ」
「顔も名前も年齢もわからないじゃん」
「髪の毛一本ありゃ呪いをかけられんだ。結婚相手くらいどうにでもなるだろ」
「さすがに、呪いと結婚を一緒にするのはどうかと思うよ」
「結婚は生活を縛る呪いの儀式だろ。そう言って、よく酒場で嘆いてるおっさんがいるぞ」
「せっかく、幸せな結婚をしてる家族がいるんだから、少しは酒場以外で見識を広げたほうがいいと思うけど」
「酒場ってのはな、そういう正論が嫌いな奴が集まる場所なんだよ。それより、鍵はヴィクターが持ってるんだよな?」
「そうだけど……研究所に入るつもりでいるの?」
チリチーは驚きの声を上げた。
「なんのために来たと思ってんだ。入れそうなら入るためだぞ」
「まぁ、そうだよね……。私が小さい頃から入るなって言われてるから、そんな考え浮かばなかったよ」
「普通は、そう言われると入りたくなんねぇか?」
「危なさそうな場所に入るのはただの悪い子。怒られるって絶対にわかってるのに、そこに入るのは頭の悪い子だよ。さぁさぁ、寒いからもう帰るよー」
リットはチリチーの温かい手に背中を押されながら、ガルベラの研究所を後にした。
チリチーと城へ戻り、全員揃っての朝食を済ませたリットは、ヴィクターの部屋に忍び込んでいた。
忍び込むと言っても、ヴィクターの部屋の前にいる兵士に姿を見られているし、部屋の鍵も開けてもらっている。要はヴィクターに内緒で部屋に入ったということだ。
いくらリットが家族と認識されたとはいえ、こうも簡単に国王の部屋に入れるというのは問題な気もするが、今はガルベラの研究所の鍵を手に入れるのが大事。
そんなことを気にする必要はないと、リットは乱暴に棚を漁っていた。
ヴィクターが冒険者時代に手に入れたと思える、謎の木彫りの民芸品をベッドの上に投げ捨てたところで、リットは異変に気付いた。
投げた物が、ベッドに跳ねる音が聞こえなかったのだ。
リットが振り返ると、見せ付けるように鍵を持ったヴィクターがベッドの前に立っていた。
「探してるのはこれか?」
ヴィクターの持っているのは錆びた大きな鍵で、年代的にも大きさな的にも、研究所の鉄錠に合ったものだった。
ヴィクターはそれを、取っ手の輪の部分を摘んで揺らしている。
「そうだ……」
「一言言えばいいだろ」
「まるで貸してくれるみたいな言い方だな」
「ほれ」
ヴィクターはリットが言い終えるのと同時に鍵をリットに投げ渡した。
「……どうも。でも、いいのか?」
「まだ子供だったスクーイが、懲りずに忍び込むのを防ぐために付けた鍵だ。誰かさんみたいにな」
ヴィクターはお見通しだと言わんばかりの得意気な笑顔をリットに向けると、ベッドの上に腰掛けた。
そして、ヴィクターは座れという代わりに自分の横のベッドを叩くが、リットはベッドではなくテーブル横の椅子に座った。
「大事じゃなかったら、持ち歩かねぇだろ」
「昨日立ち聞きした時から、どうせガルベラのことを調べると思って用意しておいたんだ。なのに、朝食の時になっても一言も話してくれん」
ヴィクターは拗ねたような瞳でリットを睨んだ。
「いちいち、調べ物をするのに宣言するかよ」
「チリチーには言っただろ」
ヴィクターの拗ねた瞳は、妬みに変わった。
「娘に嫉妬すんなよ。聞きてぇことができりゃ聞く。それとも、いつ下の毛が生えそろったかまで知りたいのか?」
「昨日、グンヴァとカロチーヌの話をしていて思ったんだ。父親と息子。もっとオープンな関係でいるべきではないかとな。そのほうが悩み事を話しやすいだろ。そして、オレはこう切り出すわけだ。「父さんも昔はな――」ってな。いいか、リット。下の毛が生えることは恥ずかしいことじゃないぞ。大人になった証拠だ。自分だけかと思って剃る必要はないぞ」
「その問題は、とっくの昔に自己解決したよ」
「つまらんなぁ。皆大人になっていく」
ヴィクターは瞳を曇らせたが、口元には笑みが浮かんでいる。寂しい気持ちと、嬉しい気持ちが半分ずつ同居していた。
「そりゃそうだろ。子供時代なんて人生の半分もねぇんだからよ」
「リットはこうして来てくれているが、他の子供達のことも気になる。元気でやっているのか」
「オレは連れてこられたんだ……。皆ディアナ国とは関係なくやってんだから、ほっといてやれよ」
「だからこそ気になるんだろ。ビーダッシュも最初のうちは顔を見せに来てくれたが、もう数年も音沙汰無しだ」
「ビーダッシュは神父やってるぞ。だから、教会を勝手に出てフラフラできねぇんだろ」
「そうだったのか。リットに負けず劣らずの酒好きなアイツが神父とはな。成長するもんだな」
「……酒はやめてねぇ」
「それはいいのか?」
「信仰が深い土地でもねぇからいいんだろ」
リットは鍵を眺めながら言った。
この問答に飽きてきたということもあるが、なぜこんなに頑丈な鍵でガルベラの研究所が封鎖されているか気になったからだ。
「しかしなぁ……。こうしてリットを見ていると、冒険者時代のことを思い出す。オレも、気になったことを片っ端から調べたものだ」
「オレは冒険者じゃねぇぞ」
リットは鍵から視線を外すと、心外だという声で反論した。
「妖精の白ユリ、魔神フェニックスの撃退、東の国の大灯台の復活。リットが冒険者を名乗れば、充分に箔が付く実績だぞ」
「なんでも知ってんだな……。ストーカー仲間からの報告か?」
リットの言葉に、ヴィクターはニヤリと口角を上げた。
「そうだ。冒険者時代の人脈を舐めるな。どうだ? 世界の謎に触れるというのは楽しいだろ。出会った人、目にした風景、感じる自由な風。全てが宝だ」
「よくそういうことを、恥ずかしげもなく素面で言えるな」
「言葉にできる感情は全て言葉にしろ。愛とはそうやって育まれる」
「愛の話はしてねぇだろ」
「同じことだ。世界を愛することが、冒険者としての第一歩だからな」
ヴィクターは両手を大きく左右に広げると、満面の笑みを浮かべた。
「そんな男がよく結婚なんかしたな」
「宝の価値が変わったからだ。妻と子供ためならば、愛した世界とも戦う覚悟がある。だから、オレはもう冒険者とは名乗らん。冒険者の冠は今この場でオマエに譲ろう」
ヴィクターは見えない冠を頭から外すと、リットの頭に被らせるように手を伸ばしたが、突然「隙ありだ!」と声を張ると、リットの頭を揉みくちゃに撫で回した。
「ガハハ! どうだ? 父さんには敵わないだろ」
「いっそ殺してくれ……」
「照れるな照れるな。今までできなかった分のスキンシップだ」
リットの頭を存分に撫で回したヴィクターは「よし!」と気合を入れた。
「オレは政務だ。リットも頑張れよ」と身を翻すと、首だけリットに向けた。「スクーイがいつも寝るようになったのは、あの研究所に忍び込んでからだ。あそこには何かあるぞ。オレにはわからなかったが、そういうニオイがあった」
「元冒険者は、ニオイを嗅いだだけで満足したのか?」
「あそこの謎を解いたら怒られるからな。あのニオイは、美人が住んでたニオイだ」
ヴィクターは豪快な笑い声を残して、部屋を出て行った。
ヴィクターの後、すぐに自分も部屋を出て行くのがきまり悪く感じたリットは、椅子に何度も腰掛けなおしたり、部屋の中をむやみにうろちょろしたりと、無駄に時間を過ごしてから部屋を出た。
普段だったらそのままの足で酒場に向かうのだが、今日は違った。
鍵を握りしめ、グリザベルが泊まっている部屋へと向かう。
部屋の前に着き、ドアをノックするが返答はない。
ドアノブを掴んだところで、ノーラとセレネがこっちに歩いてくるのが視界に入った。
「グリザベルならいないっスよ。グンヴァと出掛けました」
手を振りながらノーラが近づいてくる。
「グンヴァとか? バニュウじゃなくて」
「えぇ、グンヴァと一緒でしたね。二人一緒に高笑いを響かせて歩いてました」
セレネの言葉を、ノーラは人差し指を振って、舌をチッチっと鳴らしながら訂正する。
「あれは支配者スマイルって言うんスよ」
「まぁ、二人とも人生の敗者なのは変わりねぇな」
「リットさん。悪く言い過ぎるのは、よくない癖ですよ」
「女癖が悪いよりマシだろ」
セレネは複雑な笑みを浮かべて頷いた。そして、小さな咳払いを挟んで調子を戻すと、おもむろに口を開いた。
「グリザベルさんに会ったら、リットさんが探していたことを伝えておきます」
「それより、夕方にガルベラの研究所に来いって伝えてくれ。あと、晩飯もいらねぇ」
「あら、ダメですよ。夕食はしっかり食べなければ」
「食うよ。ただ、やりたいことがあるから、こっちでは食わねぇってことだ」
「なにかは知らないけど、やる気になったのね。今、リットさんは男の子の目をしてるわよ」
セレネは実の息子の成長を思うように目を細める。
頭を撫でようと伸びてきた手を、リットは身を引いてかわした。
「それはもういい。誰かに頭を撫でられる度に、寿命まで削られてる気分になる」
「それって、ただ恥ずかしいってことっスよね。気にすることなんてないっスよ」
ノーラは後押しするように、リットの背中を軽く何度も叩く。
「オレには羞恥心があるんだよ。オマエと違ってな」
「羞恥心があれば、昼間っから酒場にはいかないんじゃ?」
「いい返しだ。言い返せねぇから、やけ酒飲んでくる」
「どんな返しをしても、旦那の答えはいつも同じですねェ……」




