第十八話
冬らしからぬ天気が続いた婚約周年祭。その分を取り戻すかのように雪が降り出していた。
窓に張り付いて景色を狭めていく夜に染まった灰色の雪の粒は、これからより激しく降ることを知らせるようだった。
「降り積もる雪ってのもいいもんですねェ、旦那ァ」
ノーラは暖炉前の揺り椅子の上にあぐらをかいて、ゆっくりと前後に揺れている。
「ありがたいねぇ。この分じゃ、明日になりゃ暇人が一人また一人とこの部屋に集まってくる」
リットの非難がましい視線は、部屋の棚を物色しているチリチーと、その横で手は出さないが好奇の目でリットの鞄を眺めているバニュウに向いていた。
「この城に来て一週間ちょっとだよね……。よくまぁ、こんなにお酒を集めたもんだねぇ。普段の生活の様子が伺えるよ」
チリチーは棚に並んだ酒瓶を適当に手に取って眺めると、飲むわけでもなく、ラベルだけ確認して棚に戻した。
「オレの話を聞いてるか?」
「聞いてるよ。適当に暇つぶすからお構いなくー」
チリチーは振り返ることなく、後ろ手にひらひらと手を振る。
「なんでオレの部屋なんだよ。他にも同じ玉袋に住んでた奴はいっぱいいるだろ」
「見飽きた兄弟の部屋を見てもつまんないじゃん。ねぇ、バニュウ」
「はい、リットお兄ちゃんと一緒にいると勉強になります。このカバンを背負って、様々な場所へ冒険したんですね」
バニュウは感慨深げに呟いて、リットの鞄をキラキラした瞳で眺めていた。
色褪せ、擦れ、何度も縫い直したあとがあるボロボロの鞄は、ところどころ酒瓶やランプや修理工具の形が付いて伸びている。
バニュウにとって、この年季の入った鞄は宝物のように見えていた。
「そうだ。リゼーネの酒場に、ヨルムウトルの酒の保管庫。ドゥゴングの酒場。いろんな国の酒があるところに行ったな。そしてそれは、オレの背中の汗とこぼした酒がたっぷり染み込んだ鞄だ」
「今にも臭ってきそうな鞄っスねェ」
「ノーラ……。オマエの鞄は本当に臭うだろ。食い物ばかり入れてると、そのうち鳥が巣を作りに来るぞ」
「なら、鳥の捌き方でも覚えておいたほうがよさそうっスね」
ノーラは揺り椅子の後ろに体重をかけて、逆さまの笑顔をリットに向けた。そのまま後転しそうになると慌てて前に体重を戻した。
急な勢いがついたので、揺り椅子は荒波に立ち向かう小舟のように前後に激しく揺れている。
「ヨルムウトルにも行ったんですね。ウィッチーズカーズは怖くなかったんですか?」
「恐怖に立ち向かってこその冒険っスよ。何を隠そう――この私が、燃えたぎる炎の槍でチョリンと一突き。ヨルムウトルに平和が訪れたわけっス」
揺り椅子の反動に負けたノーラは、揺り椅子から転がり落ちたままの体勢で右腕を高く突き上げた。
「うわー! さすがリットお兄ちゃんの右腕ですね」
バニュウはノーラの言うことを全て真に受けて、尊敬の瞳を送っている。
「あんな短え腕じゃ、オレの左腕とバランスが取れねぇよ。……あぁ、だからスムーズにいった試しがねぇのか」
「ところで、リットはさっきから何を読んでるのかな」
チリチーは丸テーブルの上に広げられた本を、リットの肩の上から覗き込んだ。
「ヴィクターから借りた冒険記だ。ちなみに著者名はヴィクターだ」
「お父さんの? そんなのあったんだねぇ。どこにあったの」
「ヴィクターの部屋」
「私もお父さんの部屋には何回も入ったことあるけど、そんな本あったかな?」
チリチーはヴィクターの部屋を思い出してみたが、ヴィクターが書いた本というのは記憶になかった。
「置いてあったぞ。鍵の掛かった棚の中に」
「それ、借りてないじゃん。もう、ただの泥棒だよ……」
「開けたのはミニーだ。開けてあったら、置いておいたのと変わらないだろ。オレはそれを黙って借りてきただけだ。酒と一緒にな」
「正義の味方として悪を切るべきか、欲望に身を任せ私も本を見るべきか」
「一度悪に落ちる正義の味方ってのもオツなもんだぞ」
リットはチリチーにもよく見えるように本の位置をずらした。
最初チリチーの瞳は好奇に色付いていたが、すぐに色落ちたように眉をしかめた。
「記号ばっかりで、ほとんどわかんないね」
「冒険記というよりも、地図を書くためのメモの箇条書きだな。オレも読んでてほとんど理解できてねぇ」
「楽しい?」
「まぁ、ボチボチな。これなんかは、テスカガンドにどうにか入ろうとしたんだろうな」
リットはヴィクターが適当に書いたであろう魔法陣を指差した。その横にはテスカガンドの文字。東と北にはバツ印が書かれている。
「人間がテスカガンドなんかに行っちゃダメだよ。あっという間にウィッチーズカーズの影響を受けちゃう。私みたいに魔力を持って生まれた種族なら、少しは緩和されるけどね。だから、バニュウも行っちゃダメだよ」
魔族や妖精など元々魔力と深く関わりのある種族は、体内の魔力を循環させてウィッチーズカーズを無効化したり緩和したりできるが、それができない人間や獣人などの体にウィッチーズカーズの魔力が流れてしまうと、多大な影響を及ぼしてしまう。
「テスカガンドには行かねぇよ。オレが興味あるのは、その近くの『ヘル・ウインドウ』だ。これを見ると、ヴィクターはそっちの方には行かなかったみたいだな。道を変えて、リッチーの故郷のキャラセット沼に向かってる」
「ということは、このメモの辺りがお母さんとお父さんの出会いの日なのかな。でも、リットが興味あるのはヘル・ウインドウなんだよね。悪魔族に知り合いでもいるの?」
「無茶な利子付けてきそうな猫に借りを作ったままだからな。悪魔娘のパンツ一枚でもひったくって渡しておかねぇと、身を滅ぼすことになりそうだ」
「私は嫌だよ。お兄ちゃんがパンツ強盗なんて。恥ずかしくて顔から火が出ちゃう」
「だったら、なんか悪魔族のもんくれよ」
「あそこはなんか揉めてるみたいで、流通が麻痺してるからね。落ち着くまでは無理なんじゃないかな」
ヘル・ウインドウという洞窟は、魔族の土地と森とを繋ぐ唯一の流通路。そこで揉めていては、魔族の品が流通するわけもなかった。
「ヴィクターなら抜け道でも知ってるかもと思ったんだけどな」
「お父さんに直接聞けばいいのに」
「話が長くなるから嫌なんだよ」
リットは本を閉じると、乱暴にベッドに向かって投げ捨てた。
「それにしても、リットって結構読書家なんだね。……酒飲みと読書家って似合わないよ」
「本も酒も欲求を満たすものだろ。たいして変わんねぇよ」
「知的好奇心を満たす本と、欲求を満たすだけのお酒を一緒にするのはどうかと思うけどねぇ」
「優越をつけられるのは両方を楽しんでる奴だけだ。両方を楽しんでるオレが変わんねぇって言ってるんだから、変わんねぇんだよ。――バニュウ、メモしとけ」
リットが言うと、バニュウは腰に巻いた小道具入れから羽ペンと紙を取り出した。
「はい。えっと……なんてメモすれば」
「リッチーがオレに言い負かされた」
「別に言い負かされたわけじゃないよ。屁理屈に呆れて声も出なかっただけ」
チリチーは微笑をその場に残すと、ベッドに飛び込んで、リットが投げ置いたヴィクターの本を読み始めた。
「なんか面白そうなことが書いてあったら教えてくれ」とリットが言うと、チリチーは「はーい」と間延びした返事を返した。
「そういえば、イミルの婆ちゃんに何も言わずに来ちゃいましたね。オイルは春までもつんスかねェ」
ノーラは床に転がったままの体勢で、暖炉にあたりながら言った。リットがここに長居をするのがわかっているような口ぶりだった。
「ランプ屋はオレんとこだけじゃねぇんだ。他で買うだろ」
「お得意さんは大事にしないとですぜェ。旦那といると、いつ食いはぐれるか心配ってもんですよ」
「しばらくは、エミリアから巻きあげるから大丈夫だ。……手紙でも書いておくか」
何気なく言ったリットの言葉は、少なくとも春までは戻らないことを決意したことになる。
「おっと、リットが部屋を出るなら、私も出て行くよ」
リットが立ち上がったのを見て、チリチーが体を起こした。
「いいや、ここにいろ。オレが戻ってくるまでベッドから離れるなよ」
「気を使わなくても大丈夫。これくらいの分別はわきまえてるよ」
「今帰られると、寝るときに寒いだろうが。ギリギリまでしっかり温めておけ」
「私、アンカじゃないんだけどな……」
「もし帰るなら、腕一本切り落として置いてけよ」
リットはテーブルに置いてあるランプを手に取ると廊下に出て行った。
リットはセレネの部屋の前で立ち止まり、ノックと同時に声を響かせる。
「便箋持ってるか?」
ドアが開いて出てきたのはセレネではなかった。
出てきたのはメイドだ。ノックの主が誰かを確認すると、部屋にいるセレネに了承を取り、リットを部屋に招き入れた。
「聞こえてたわ。便箋ね」
リットが部屋にはいると、すでにセレネが便箋を出すために棚を開けているところだった。
「悪いな。夜に押しかけて」
「いいんですよ。リットさんも私の子供なんですから、わがままでも迷惑でも好きなだけかけてください」
「迷惑ねぇ……」
リットは視線を横に移す。
椅子には、濡れたままの髪で「セレネママぁ、早く髪乾かしてー」とふてくされるシルヴァの姿があった。
「今、乾かすわ。――はい、リットさん。好きに使ってください」
セレネはここで書いていきなさいと、便箋と一緒に羽ペンとインクも取り出してリットに渡した。
「落ち着かねぇから、部屋で書くよ」
「今書いて置いておいてくれたら、手紙はすぐに届きますよ。明日はビードルド・ウルエ運送が書類を取りに来る日ですから」
ビードルド・ウルエ運送というのは、シルキー・アップダウンというハーピィとファスティ・キューイックというケンタウロスが共同経営している運送屋で、陸と空どちらからでも届けられるので、最速の運び屋と呼ばれている。
「なら、書いちまうか。一言二言で終わるもんだしな」
リットはシルヴァが肘を付いていたテーブルを引き寄せると、手紙を書くために椅子に腰掛けた。
「ちょっと、見てわかんないの? 今使ってるんだけど」
「見て、使ってねぇと判断したから、オレが使うことにしたんだ。髪くらい自分でやれよ」
「リッチーがいないんだからしょうがないじゃん。セレネママにやってもらったほうが、明日の朝の髪のセットがしやすいの。その日の髪の巻き具合でイケてる女かどうか決まるの。私がダサダサの根暗女になったらお兄ちゃん責任取れるの?」
「下着みてぇな格好で歩いてんだ。誰も髪なんか見ねぇよ」
「見るわよ。まず、男が声かけやすいような悩ましげなポーズね」シルヴァは憂い顔を作ると、髪束に指を入れるて、渦を巻くように指を動かした。「で、ナンパ男は言うわけ「どうしたの一人で、彼氏にすっぽかされた?」って。こうやって私がフリーかどうか遠回しに確認してくるの。だから私はミディムとかグリエルの悪口を言うわけ。あぁ、ミディムとグリエルっていうのは私の男友達なんだけど、恋人にするにはもう一つ足りないのよね。ミディムは顔がいいけど優しくないし、グリエルは優しいけど趣味が貧乏くさぁって感じなの。料理に使った人参を取っておいて、植え直して育てるような奴だよ。ありえないっしょ。それで、適当に不満とか言ってたら、向こうも適当にあいづちするじゃん? 適当なのバレないように変化付けて相槌してるけど、こっちにはバレバレだっつーの。で、最終的にはどの男も「暇なら、一緒に遊びに行こうよ」って言うわけじゃん。――はい! オマエの視線と財布もらった」
シルヴァは早口で言い切ると、最後に指を鳴らして話を締めた。
「話が長すぎて、最後の王族のくせに貧乏くせぇとこしか覚えてねぇよ……。だいたい、胸出して歩いてるのに、そこから視線を外すような失礼なことをする男はこの世に存在しねぇよ」
「まぁ……一理あるわね。でも、別に貧乏くさいわけじゃないわよ。自分で買うよりも、プレゼントされるのが好きなの。「これ買ったんだー」って言うよりも、「これ買ってもらったんだ」のほうが自慢できるじゃん。自慢を重ねてできたものが女の自信なの」
「そりゃまた……自立してる女からみたら、鼻くそみてぇな持論だな。その鼻くそは鼻に戻すか、食って考えの足りない脳の栄養にしろ。こっちはこれから手紙を書くんだから、無駄話に付き合う暇はねぇ」
リットは妖精の白ユリのオイルの作り置きがあることを手紙に書いていく。
「誰に手紙書くの? お兄ちゃんの恋人?」
「客だ。渡すもんがあるけど、オレは家にいねぇからな。オレの知り合いが鍵の開け方を知ってるから、頼んで開けてもらって勝手に持って帰れって手紙だ」
「それじゃ、絶対落ちないね」
「女を落としたきゃ、ツラのいい男の周りに深い落とし穴でも掘る。引っ張り上げりゃ、何人かはほだされて騙されるだろ」
「ねぇねぇ、お兄ちゃんに女の落とし方教えてあげよっか?」
シルヴァは身を乗り出して、含みのある笑顔でリットの顔を見る。
「顔を近づけんな。髪のしずくが手紙に落ちるだろ。どうせ教えるなら、女の落とし方よりも、女の黙らせ方を教えろよ」
「その二つは別物のようで、密接な関係があるね。そう、まるで恋人同士のように」
「オレが悪かった。ハッキリ言えばよかったな。――黙れって」
「手紙には香水を付けないと。匂いを感じて思いを馳せながら読むの。お兄ちゃん香水とか付けてないの?」
シルヴァはリットの言葉などお構いなしに話し続ける。
リットはため息をつくと、走り書きで手紙を済ませた。
「オレの匂いは酒だ」
「そういうんじゃなくて、キュンってしたり、モヤモヤってしたりする良い匂いの話。なんて言うの……。フェロモン系? お酒の匂いなんて、加齢臭と変わんないっての。もろ親父の臭い。若い子なら嗅いだだけで吐くね」
「同じアルコールだろうが。――セレネ、書いたの置いておくぞ」
「誰に届ければいいのかしら」
セレネは乾かし終えたシルヴァの髪に櫛を通しながら、片手で手紙を受け取った。
「リゼーネに住んでる。リリシア・マルグリッドフォーカス・エルソル・ララ・トゥルミルスバー・カレナリエル・シルバーランド・エミリアだ」
「えっと……からかってます?」
「覚えられなかったら、リリシア・カタブツオンナデス・サケキンシ・モウ・ヤメテクレ・カネナクテモ・オレハヤメンゾ・エミリアでもいい。長ぇ名前なんて他にねぇから、間違ってても届くだろ」
「いいねそれ。私も、シルヴァ・チョーイケテルオンナ・クリゲイロに名前を変えようかな」
「婆さんになっても、その名前を言い続けれたら立派だな」




