第十二話
夜になり、夕食を終えたリットはグンヴァの部屋に来ていた。
「これを見てなにかしてるところなんて、想像もしたくないわね」
チルカが部屋にあるラウン・チ・ナスティの絵画を見て、嫌悪に顔を歪めている。
「誰もなにも言ってねぇんだから、想像する必要ねぇだろうが」
布を掛けて絵画を隠そうとするグンヴァの手をチルカが蹴り払った。
「ちょっと。まだ見てるんだから、勝手なことしないでよ。なによこのくびれ……四六時中ロープで縛られてたって、こんなにくびれることはないわよ」
「くびれてるっていうより、胸とお尻を大きく見せて無理やりくびれてるように見せてるって感じ。それにしても、グンヴァお兄ちゃんの趣味って少し年増よねぇ」
チルカとシルヴァはラウン・チ・ナスティの絵画を見ながら、あーでもないこーでもないと難癖をつける。
「ほっとけよ! だいたいこの絵は見せもんじゃねぇんだ。勝手に見るなよ」
グンヴァは絵画に強引に布を被せると、裏返して壁に立てかけた。
「お兄ちゃんこそ勝手なことしないでよ。男受けの良い体の研究してんだから」
「リットのアニキ……。なんでこんな奴らを連れてきたんだよ……」
グンヴァは恨みがましい瞳でリットを睨む。
「勝手に付いて来たんだ。だいたい、原因はオマエが堂々と城にエロい絵画を持ち込んだからだろ」
「俺様はコソコソ持ち込んだんだよ。それをリットのアニキが呼び止めたり、マックスのアニキにバラしたりするから」
「隠したところで、どうせメイドと執事にはバレてるだろ」
「口の軽い妹にもバレてんだよ! あー……俺様は明日からこの城で一番の笑いもんだぜ……」
「安心しろよ。コイツがいる限り、一番になるのはどうやったって無理だ」
リットは酒瓶から抜いたばかりのコルク栓を、チルカの背中に投げつけた。
「ちょっと! なにすんのよ!」
「気にしなくていいぞ。ほんの憂さ晴らしだ」
「それじゃあ、これも気にしなくていいわよ!」
チルカはコルク栓を拾うと、リットの鼻の穴に奥深くまでねじ込むように突っ込んだ。
「おい! 取れねぇぞ、これ! 鼻の穴が広がって戻んなくなったらどうすんだよ」
鼻血でツンとするように、アルコールの臭いがリットの鼻を刺激する。
「そのブサイクな顔にコルク栓が付いたところで、誰も気付きはしないわよ」
「そういう問題じゃねぇんだよ……」
やっとのことでリットが鼻からコルク栓を抜いても、まだ鼻の穴に詰められているような違和感があった。
「リットのアニキは、よくこんな物騒なもんを飼ってるな……」
グンヴァが恐恐つぶやくと、チルカに鼻を小さな足で蹴り上げられた。
「そこの駄馬! その言葉を今すぐ取り消さないと、犬の糞みたいなそのご自慢の頭で床の埃を掃くわよ」
「これは男の魂だ! 犬の糞なんかと一緒にすんじゃねぇ! マジムカつくぜ!」
グンヴァは痛む鼻を手で押さえながらチルカを睨みつける。
チルカは睨みに怯みもせずに、まず鼻で笑い返した。そして、バカにするような顔を作って見せた。
「じゃあ、馬糞でいいわよ。男の魂だかなんだから知らないけど、その髪型バカ丸出しよ。それに、ギトギトで気持ち悪すぎ」
チルカの標的はリットからグンヴァへと移り、執拗にグンヴァの髪型を責め立てた。
言い合いが続くうちに、グンヴァ自慢の髪型が崩れ始め、それをチルカがまたバカにする。グンヴァはチルカの言動にいちいち腹を立てて声を荒げていった。
すっかり蚊帳の外に置かれたリットは、勝手にグンヴァの部屋を漁って次に飲む酒を探し始めた。
飲みかけの酒瓶が並べられた棚。一見、空にも見える瓶の中には、惨めったらしく小指の爪の高さほど酒が残っている。
血が繋がっていると、こういうところまで似るのかと、リットは苦笑いを浮かべた。
「瓶に映った自分でも眺めてニヤニヤしてるわけ? それとも、自分の顔がブサイクすぎて笑ってるの?」
嫌味ったらしく語尾を上げたチルカの声が、リットの背中に刺さった。
チルカ対グンヴァの言い合いは、チルカに軍配が上がったらしく、グンヴァは四脚全ての膝をついてうなだれていた。
「そういうオマエは、瓶に映るとずいぶん美人に見えるな」
瓶に映る歪んだ顔になったチルカに向かって、リットは下卑た笑みを浮かべた。
「私の可愛さを認めるのが悔しいからって、悪態をつくなんて子供のすることよ」
「んなことばっか言ってると、行き着く先はアレだぞ」
絵画と同じポーズを取って腰をくねらせているシルヴァを、リットは顎で指した。
「やっぱりケンタウロスは座ってるより、立ってたほうが映えるわよね。脚の長さが強調されるっていうか。そういえばこの間、超オシャレなアンクレット見つけたの。シルバーのスクリューチェーンで、太陽の光を反射してめちゃ輝くやつね。シルヴァとシルバーとか組み合わせめちゃ良くない? で、それにゴールドにルビーを埋め込んだクロスも付いてたんだけど。したらマックスお兄ちゃんに「なんだそれは、神を踏みつけるつもりか」とか言って怒られたの。探しものをする時とか、こっちはいっつも神に拝んでるっての。それで、結局取り上げられちゃったし。今はターコイズのビーズのアンクレットをつけてるんだけど、これ明後日着ようと思ってるドレスに似合わないのよね」
「……だからなんだ?」
シルヴァの長台詞を聞いて、リットはうんざりとした様子で言った。
「クリゲイロ家の婚約周年祭の日につけるアンクレットがなくて困ってるってことでしょ」
答えたのはシルヴァではなくチルカだ。
「脚が長い話はどこにいったんだよ」
「そんなのとっくに終わってるでしょ。アンタなに聞いてたのよ」
理解不能に眉をひそめるリットとは違い、チルカは同調しながらシルヴァの話を聞いていた。
「話題は一つ一つ終わらせろよ。……頭痛くなるだろ」
「チルカには伝わってんじゃん。若者の話についていけなくなったのは、年取った証拠。そのうちすぐパパみたいになるね」
「……なにそれ超ムカつく」
リットがシルヴァを真似て言うと、シルヴァは「そうそうそれそれ。できんじゃん」と、リットを指差して偉そうに口端を吊り上げた。
「本当に頭痛くなってきやがった……。オレは自分の部屋に戻るぞ」
リットは棚から適当に一本酒を手に取ると、振り返ることなく部屋を出て行った。
翌朝、起き抜けのリットの目に映る、窓から見える空気の澄んだ冬の朝空は、南国の海のような淡い水色をしていた。
細い薄雲が白波を立たせて、ゆっくり風に流されて形を変える。
しかし、吐く息の白が目に映る景色を曇らせると、すぐに現実に引き戻された。
体から剥がれるように落ちた布団を引き寄せて包まると、既に布団の温もりは消えていた。
再び自分の体温で布団が温もるまでじっとしていると、急に城の中が慌ただしくなった気配がした。
気にせずに寝ようと思えば思うほど、耳は過敏になっていく。今ならネズミのため息すらも聞こえそうだ。
不本意にもくっきり目が覚めてしまったリットは、あきらめてベッドから上体を起こした。
それを皮切りのように、ディアナ城が目を覚まして行く。
一週間放置していた鶏小屋に餌を撒き散らしたかのような騒音が広がり、優雅とは程遠い朝だ。
リットがベッドから出て、寒さしのぎに厚ぼったい上着を羽織ると、風に押されたかのようにゆっくりと部屋のドアが開いた。
「おや、起きていましたか。リット様は早起きですな」
髪と同じ真っ白な髭を蓄えた老執事は「おはようございます」と朝の挨拶を付け加えると、部屋の暖炉に火を入れた。
「起きたんじゃなくて起こされたんだよ。城の朝ってのは静かに迎えるもんだろ」
「今日は特別な日ですから。大忙しですぞー」
老執事の声は隠すことなく弾んでいた。
「寒いのに元気なこった」
「部屋が暖まるまで、暖かいお茶でもいかがですかな?」
「いらねぇ。昨日グンヴァの部屋からくすねた酒がまだ残ってる」
リットはテーブルに置いてある、半分ほど減った酒瓶に目を向けた。
「リット様は、もう違和感なくお城に溶け込んでいますな」
老執事は嬉しそうに声を出して笑う。
「朝から嫌味をありがとよ」
「本当のことですぞ。ヴィクター王の子は、皆自分らしく生きております。リット様も例に漏れず、個性的なお方。お酒好きと聞いておりましたので、グンヴァ様とも馬が合うと思っていました」
「酒の席にはいいジョークだけどよ。朝から付き合いきれねぇよ」
「それは失礼を。では、朝食の支度ができたらお呼びしますぞ」
そう言って出て行った老執事と入れ替わるように、ドレス姿のチリチーが走って部屋に入ってきた。
「リット! 靴見なかった?」
「寝ぼけてんのか? 自分の足元を見ろよ」
「これじゃないやつ! 昨日シルヴァから貰った靴を探してるの! 今日履かなくちゃいけないのに!」
「じゃあ、シルヴァに聞けよ」
「部屋にいないの」
「昨日の夜はグンヴァの部屋にいたぞ」
「ありがと! 行ってみる!」
チリチーは片手を上げてお礼を告げると、ドレスのスカートを膨らませて走っていった。
リットはチリチーが閉めずに出て行ったドアから廊下を眺めて、ボサボサの寝ぐせだらけの頭を掻いて溜息をつく。
今日はヴィクター・ウィンネルスとメラニー・モエールの婚約周年祭の朝。
国民は王様達の為に出店や出し物を開き、王様達は祭りに参加する一人一人に挨拶をしに回る。
このありえない図式が成り立つ国がディアナ国だ。殆どはヴィクターの人柄のおかげでとも言える。
ヴィクターは元々が王族ではないので、権威の玉座に座り偉そうにふんぞり返っているよりも、こうして国民と直に触れ合うほうが性に合っているのだった。
リットはふと壁に掛けられている世界地図に目をやった。
地図の一部が赤く枠組みされている。ヴィクターの冒険の軌跡だ。
『ラット・バック砂漠』。高くそびえ立つ山脈に囲まれており、湿った空気は完全に遮断され砂漠になっている。オアシスが発見されるまで生きて帰った者はいなかった。
『キャラセット沼』。水の下が赤褐色の土の沼であり、濃い緑色の苔が沼に浮くようにして群生している。沼の外周を歩くだけで数ヶ月は掛かると言われている広大な底なし沼で、その中心部にメラニー・モエールの故郷の村がある。
どちらも、足を踏み入れることは死という言葉が付き纏う前人未到の地だが、ヴィクターはそこを自分の足で歩き地図を描き、その土地の文化や伝統や気候などを調べあげた。
地図の赤枠はそういう意味だった。
リットがざっと地図に目を通していると、歩幅の狭い足音が部屋に近付いてきた。
「ありゃ、起きてたんですね」
開きっぱなしのドアから、ノーラが顔だけ覗かせて言った。
「通りかかる奴が、いちいち部屋に入ってくるおかげでな。オマエもどうせ暇を潰しに来たんだろ?」
「もうすぐご飯ってことを、執事さんの代わりに教えに来たんスよ」
「もう、そんな時間か。オマエよく朝めし前に起きれたな」
リットがボーッと地図を眺めている間に、時間は結構過ぎていたらしい。
「私が起こしたのよ」
セレネがノーラの真似をして、ドアから顔だけ出して言った。
「次から次へと……ここは暇を潰しに来る部屋じゃねぇんだぞ」
「あら、地図を見ていたのね」嬉しそうに言うと、セレネは部屋に入ってきてリットに隣りに並んで地図を見始める。そして、キャラセット沼に人差し指の先端を付けた。「このメラニーの故郷にはね。人の魂を吸って大きくなる木があるのよ」
セレネは子供を怖がらせるように大きく手を広げながら言った。
しかし、リットがなにも反応しないのを見ると、恥ずかしさに頬を染めて、コホンと小さく咳払いをした。
「オレをいくつだと思って接してんだよ……」
「これで怖がらないとは、リットさんはすっかり男らしくなりましたね」
「そりゃ良かった。前に初めて会った時、オレは女だったからな」
「衝撃の事実っスねェ……。なんで女から男に不気味変化を遂げたんスか?」
「酒の飲み比べに負けた、罰ゲームの期間が過ぎたからだ。まぁスカート履いてる間は、玉は蒸れなくて良かったな」
「私はリットさんが女の子でも良かったんですけど。リッチーは女の子らしい格好はしないですし、シルヴァは少し派手な格好が好きですから、普通の女の子の格好をしてくれる女の子も欲しかったわ」
「今からでも作りゃいいだろ」
「そうね。それもいいわね」
そう言ったセレネの目元には悲しみが滲んでいた。
「……悪かったよ。別にそういう意味で言ったわけじゃねぇ」
「私もこういう表情をするつもりはなかったんですけど。ごめんなさいね」
セレネは僅かに滲んだ涙を拭き取った。
「人妻を泣かせる……。なんか旦那がプレイボーイみたい見えるっスね」
「ローレンみたいなのと一緒にすんなよ。セレネももうおばさんだからな。歳のせいで涙もろいだけだろ」
「リットさん、それは失礼です。まだ私はお姉さんですよ」
セレネは赤ん坊を叱るように「メッ」っと人差し指を立てた。
「その歳でおばさんじゃなかったら、この世におばさんは存在しないことになるぞ」
「五十代まではお姉さんで、その後十歳だけおばさんになる時期があって、六十を超えたらお婆ちゃんになるのよ。覚えておきなさい」
「どうせ十年経ったら、また割り当てが変わるんだろ? 覚える意味ねぇじゃねぇか」
「そういうところは、ヴィクターに似なかったのね……」




