第十一話
「嫁にでも行くのか?」
城へと帰ったリットが発した第一声がこれだった。
目の前にはドレス姿のチリチーがいる。オレンジ色に光るチリチーの肌が白いドレスに透けて、まるで東の国で見た提灯の明かりのように優しい炎の色に染まっていた。
「違うよ。明日は私のお母さんとお父さんの婚約周年祭だから、正装をしなくちゃいけないんだ」
チリチーが着慣れないドレスの袖を肩までまくろうとすると、隣りにいたシルヴァが手を叩いて止めた。
「もう、動かしちゃ合わせらんないでしょ。太って見えてもいいの?」
シルヴァはドレスの裾を整えたり、ウエスト部分を締めあげたり、器用にチリチーの体に合わせていく。
「祭りは明日なんだろ。なんで今着てんだ」
「去年一度着たきりで、一度も袖を通してないから、こうして今合わせてるのよ。信じられないわよね。女の子なのにズボンばっかはくとか」
「ズボンが動きやすいんだよ。シルヴァみたいに、オシャレをする趣味もないしね」
変に良い姿勢でチリチーが答えた。ドレスのあちこちを締めあげられているせいで、支え棒に縫い付けられた人形のような姿勢で固まっている。
「リッチーはオシャレしなさすぎ。髪とか下ろしたほうが可愛いじゃん。髪も肌と同じでコントロールできるんでしょ?」
「できるけど、めんどくさいよ。四六時中髪を気にしてる人なんかいる?」
「いるわよ。美人の絶対条件じゃない。私が権力を持ったら、街に鏡の数を増やすね。それで、街の男の子達は鏡越しに私を見るの」
シルヴァは花の匂いを嗅ぐように、うっとりとした表情で目を閉じた。
「この国じゃ、危ない奴に直接声を掛けるなって教えでもあるのか」
リットの呆れ混じりの言葉を聞くと、シルヴァは急に目を見開いた。
「そう! 美人って意識しなくても危険な香りが出ちゃうのよね。意気地のない男は遠巻きにチラチラ見るだけ。で、私が通り過ぎると、どうやって口説くか相談してんの」
「腹壊さないか心配されてんだろ」
リットはシルヴァのむき出しになったお腹に目を向けた。形の良いへそが露出している。
「なに、お兄ちゃんもパパみたいに服着ろっていうの? それって横暴。自己啓発の阻害だよ」
「それ、意味わかって言ってんのか」
「わかるわけないでしょ。適当に言い訳に使っただけなんだから。それに、こんな暖かい部屋で着こむほうがわけわかんない」
シルヴァの言うとおり、赤々と燃える暖炉のおかげで、部屋の中は初夏のような暖かさがある。
「普段は庶民くせえのに、薪を無駄遣いするところはいかにも城って感じだな」
リットは暖炉の前まで歩いて行くと、近くの椅子に脱いだばかりの上着を掛けてから、暖炉の火を覗き込んだ。暖炉の中から飛び出そうなほど、大きな火が揺らめいている。
「無駄遣いはしてないわよ。でも、確かに暑いわね。――火を小さくしてよ」
「オレじゃなくて使用人に頼めよ」
「リットお兄ちゃんには言ってないわよ。早くー、馬毛が蒸れちゃうでしょ」
シルヴァの声に反応するように、暖炉の火が小さくなった。
「……便利な暖炉だな。どうなってんだ?」
リットが再び暖炉の中を覗くと、リットの顔を大きな炎が包んだ。
暖炉から飛び出た炎は、寝起きの人間のように大きく腕を伸ばして唸りあげた。
「ダメだ! 細かい作業はオレには合わねぇ! 火を大きくするか消すか、どっちかにしてくれ」
「今まで匿ってあげてたんだから、それくらい融通利かせてよね。――ゴウゴお兄ちゃん」
みるみるうちに炎は人型になっていき、リットの前でストレッチを始めた。
「一日こんな狭いところにいると、体がどうにかなりそうだ」そう言いながらゴウゴが首を回していると、ふいにリットと目が合った。「リットだろ? オレの兄になる。昨日からこの暖炉の中にいたから、話は全部聞いてる」
「オレは聞かなくてもわかる。暖炉の中に隠れて妹の着替えを覗く、燃える変態だろ」
「オレは妹に欲情するほど、道は外れていない」
「全裸で言っても説得力ねぇよ」
ゴウゴは何一つ身に纏っていなかった。リットの目の前で、強風に揺られる炎のようにゴウゴの股間のモノが揺れていた。
「そうだ。体を燃やす時に、一緒に服も燃やしたんだった。悪いが上着を借りる」
ゴウゴは椅子にかけてあったリットの上着を手に取ると、それを腰に巻いた。
「やる……。絶対に返すなよ」
「新しい兄は、太っ腹でいいね」
ゴウゴはリットの肩に手を回して「よろしく」と軽く叩いた。
「ゴウゴは真面目って聞いてたけどな。脳みそを炙られておかしくなった奴だとは知らなかった」
「真面目よ。マイペースな真面目だけどね。マックスお兄ちゃんのほうは、協調性を求める真面目。だから、二人はいつも喧嘩してるのよ。馬が合わないっていうの。あっ、今の上手くない?」
「馬はオマエだろ。鳩と火を馬に例えて上手いも糞もあるかよ」
「ほんっと、お兄ちゃんていうのは口うるさいよね。モントもゴウゴもマックスもグンヴァも。なにも言わないのはスクーイだけよ。まぁ、寝言でいつもなんか喋ってるけど」
シルヴァは腕を組むと、不機嫌そうに首を揺らした。
「シルヴァー。お喋りもいいけど、早くしてくれないと。体がちぎれちゃう」
小刻みに震えたチリチーが苦しそうに叫んだ。お腹をギュウギュウに締め付けられているせいで、その叫びは小さなものだった。
「これ以上緩めたら、クビレが強調できなくなるわよ」
「公衆の面前で胴体が真っ二つになるよりいいよ」
腰のリボンを緩められて呼吸が楽になったチリチーは、海から上がったばかりのように大きく息を吸った。
「どうせ、一瞬姿を見せるだけなんだろ。少しくらい我慢すりゃいいじゃねぇか」
「違うよ。朝から晩まで一日掛けて、家族で街の中を歩くの。街の人とコミュニケーションを取りながらね。だから、あんまり締め付けられると途中で倒れちゃう」
「そう、人前に出るんだから綺麗な格好しないと。後はこの靴を履けば完璧」
シルヴァは高そうな木箱から靴を取り出して、チリチーの足元に置いた。
「この靴……新しい?」
花の模様に穴が空いた白い靴は、チリチーが履くと春の花畑のように色が灯った。
「昨日コンプリートの新作を買いに靴屋に行ったんだけど、一足だけ買ったら高いって。でも、三足買ったら安いって言われたの。ホントは五足買えばもっと安いって言われたんだけど、パパの目を盗んで買いに行ったからお金がなくて」
「それ、騙されてねぇか。普通そんなに靴いらねぇだろ」
「いるの。明後日は私の番だから、その時に着るドレスに合う靴がなくて買いに行ったの。でも、靴を買ったら、あのドレスよりも通りに売ってたドレスのほうがこの靴に合うかもって。そのドレスっていうのが、『スパイダー・シルク』の新作なの。シルクって言ったらあのカリスマのアラクネだよ。絶対買うしかないっしょって感じで、それで服も買ったんだけど、やっぱり別の靴のほうがいいかなーって、また靴屋に行ったの。これって、堂々巡りじゃん? だから、靴と服はいくらあってもいいの」
シルヴァの口早の言葉を、リットは口元をひくつかせながら聞いていた。
「結局……服と靴を買ったのか?」
「だからそう言ってんじゃん。聞いてなかったの?」
「聞いてたからわかんねぇんだよ……」
「わけのわかんないことを言ってても、私のことを考えて買ってくれたのが嬉しいよ。お姉ちゃん感激だよ」
チリチーはシルヴァに抱きつくと、頬ずりをして喜んだ。
「ちょっと、リッチー……。――ドレスがしわになるじゃない。せっかく完璧に直したんだから、明日まで綺麗にしててよ」
「ドレスより姉妹の愛だよ」
そう言ったチリチーは、より強くシルヴァを抱きしめた。
「姉妹の愛より、明日の婚約周年祭。他の国からも人が来るんだよ。この意味わかる?」
「わかってるよ。大事な社交の場になるってことでしょ」
「違うわよ。他の国から人が集まるってことは、各国のいい男が集まるってこと。いっぺんに見定めるチャンスってことだよ。こんなチャンスがあるのは私達以外だと、川魚を選んでるコックだけだね」
「シルヴァ……。包丁でも持って婚約周年祭に出るつもり?」
「持ったら危ない美人に見えるかな?」
「……見えるね。お父さんに部屋に監禁される前に、考え直したほうがいいよ」
靴を履いたチリチーを見て、シルヴァは再びドレスの調整を始める。
二人の衣装合わせはまだ少し長引きそうだった。
「で、暖炉の中から出てきてどうすんだ? 次は弟達の着替えでも覗くのか?」
リットは、妹達の仲の良い様子を笑顔で眺めていたゴウゴに話し掛ける。
「マックスへの謝罪の言葉を探していたんだ。その前に顔を合わせたら、また言い合いになりそうだからな。だから暖炉の中に隠れていたんだ。意見の相違での喧嘩は仕方ないと思っているが、長引かせたくはない。どうしたら良いと思う?」
「バニュウでも間に挟めよ。ガキがいたら熱くなんねぇだろ」
「そうだな。そうしてみることにする」
シルヴァの「さむいー」という言葉にゴウゴが暖炉に入るのを見て、リットは部屋を出た。
リットが夕食前に一度部屋に戻ろうと歩いていると、大きな体を縮こませてコソコソ歩くグンヴァの姿があった。背中には四角く大きな荷物を背負っているが、布が被っているせいで何かはわからない。
「おい、グンヴァなにしてんだ」
リットが声をかけると、グンヴァの背中が一度大きく跳ねた。そして、振り返ることなく急ぎ足で去ろうとしていく。
「待てって言ってんだろ」
リットは手を伸ばしてグンヴァを止めようとしたが、手に触れたのは体ではなく背中に背負った荷物だった。
指先に引っかかって布が床に落ちると、裸の女性の絵が現れた。
「アラスタンの絵画じゃねぇか。オマエに芸術の趣味があるとはな。……似合わねぇぞ」
「ほっとけ……。俺様は急ぐんだ。じゃあな」
「待て待て、よく見るとアラスタン絵画じゃねぇな」
清楚な女性が自然の中で佇むというのがアラスタン絵画の代名詞だが、グンヴァが持っている絵にいる女性は、若いと言うよりも盛りを迎えた頃の女性だった。
清楚というよりも、妖艶に描かれている。そして、自然の中ではなく、ベッドの上で誘うようなポーズをとっていた。
「手を離せよ! 見るんじゃねぇよ!」
「誰の絵だ? ……ラウン――」
リットが絵画の右下に書いてあるサインを読み上げた時だ。
絵画ごと近くの部屋に押し込まれた。
「廊下で堂々と見るんじゃねぇよ! バレたらどうすんだ!」
リットを部屋に押し込んだグンヴァの声には焦りに濁っていた。
しかし、リットはグンヴァの声を無視して絵画のサインを見ていた。
「『ラウン・チ・ナスティ』。あぁ、エロ過ぎる絵ばかり描いて、美術界を通報された奴の絵か」
「だから、声に出すんじゃねぇよ! いや、出さないでくれー……」
グンヴァの力ない声を聞いたリットは、絵画に布をかけ直すとグンヴァに渡した。
「男同士で隠すようなもんでもねぇだろ。ドギツイことされてる絵なら別だけどな」
「そうだよな。リットのアニキは、マックスのアニキ見てぇにお堅くねぇんだ」
グンヴァはほっと胸をなでおろすと、絵画の布を取り払ってテーブルの上に置いた。
「だからって、薄暗い部屋で仲良く裸の絵を鑑賞しろってか?」
「見終わったら仲間に回す約束をしてるから、見るなら今しかねぇぞ?」
「見終わったらじゃなくて、使い終わったらだろ。染みのアレンジを付けられた絵を見る奴は可哀想だな」
「もういいぜ。せっかく見せてやろうと思ったのによ……」
絵画をしまおうとするグンヴァの肩をリットが掴んだ。
「まぁまぁ、オマエも座れよ。誰も見ねぇとは言ってねぇ」
リットが椅子に腰掛けた瞬間、勢い良くドアが開かれた。
「誰だ! この部屋でコソコソしてるのは!」
「オマエのお兄ちゃんだよ」
リットは伸びた影に羽があるのを見付けると、振り返らずにマックスに向かって後ろ手に手を振った。
「コソコソなにをしていると聞いているんだ。そこにグンヴァもいるな」
マックスの冷え冷えとした声に、グンヴァは「やべぇやべぇ」と声を漏らした。
「やばいということは、ろくでもないことをしていたんだろ。ダメだろ。このろくでもない男に感化されては。もう少しディアナ国の王子という自覚を持ってだな――」
注意をしながら近づいてくるマックスに向かって、リットは絵画を見せつけた。
「やばいってのは、この体のことだ。見事なボン・キュッ・ボン。むんむんまっだ」
リットの行動を見ていたグンヴァは、やってしまったと額を押さえた。
何のことかとリットがマックスの顔を確かめると、暗がりの中でもわかるくらいに、顔を真赤に染め上げた。
「こういうのを見るのは女性に対しての侮辱だ! 母や姉や妹をも侮辱していることになるんだぞ!」
「なに言ってんだ。男が女の裸を見て反応するってのは、最高の賛美だろ。そんなんじゃ、エロスの名が泣くぞ」
「また、そうやって人の名をからかう! どういう神経をしていたら、人の嫌がることばかりできるんだ!」
「オレはこの絵を見て、侮辱だうんたら言う神経のほうがわかんねぇよ」
リットが絵画を突きつけると、マックスの目はしっかりと女性の裸を向いていたが、すぐに顔ごと背けた。
マックスは身を翻し背中を見せるが、リットからは真っ赤になった耳が見えた。
リットがそのことをからかうと、マックスはリットを睨みつけてから、足早にドアへと向かっていった。
「どこ行くんだ?」
「走ってくるんです! どこでもいいでしょう!」
「おい、マックス」
「なんですか!」
「ゴウゴが仲直りしたがってたぞ。真面目なら、意地を張ってても得することがないことくらいわかるだろ」
「あなたに言われなくても!」
マックスは吐き捨てるように言うと、勢い良くドアを締めた。
その後に、廊下を走っていく音が聞こえる。
「なるほど。あの肉体はこうやって作られてんのか。健康なのか不健康なのかわからねぇな」
「ほんとよねぇ。私の天使ちゃんが、あっという間に筋肉ダルマになっちゃうんだから」
熱のこもった嘆かわしいため息が、リットとグンヴァの耳を舐めるようにくすぐった。
「げっ! ミニー母ちゃん! なんでここに」
グンヴァが慌てて絵画を隠すが、既にミニーにはしっかりとどんな物かを見られてしまっていた。
「私が先にいたの。後から来たのはあなた達よ」
窓影から出てきたミニーは、わざわざリット達の正面のテーブルに腰掛けて足を組んだ。
「いるんだったら、ランプくらいつけろよ」
「ランプの明かりなんかあったらバレちゃうじゃない。ここからの窓だと、メイドと料理人の秘密の情事が覗けるの」
ミニーが指差す方向を覗くと、左斜め向かいの部屋でイチャイチャしている男女の姿が見えた。
「三時間はあーしてるわね」
「三時間も眺めてるアンタもそうだけど。三時間も仕事をサボって乳繰り合ってるあいつらもあいつらだな」
「仕事はしたくてもできないのよ。私が外から鍵をかけたの。想い合ってるのになかなかくっつかないんだもん。焦れったくて、見てるほうがどうにかなりそうだったのよねぇ」
ミニーの体温を外に吐き出すかのような熱い吐息は、なぜか甘ったるい匂いがした気がした。
「キューピットってのは、街のおせっかいおばさんの通称か?」
「変なことを言うと、リットとグンヴァに向かって恋の矢を打っちゃうわよ」
今までの甘々しく艶美な雰囲気とは違い、処刑執行人のような感情のない瞳がリットの目を見つめていた。
「それをするんだったら、すぐに本物の矢を心臓めがけて打ってくれ。脳天をぶちぬいてくれてもいい」
「女と男の愛。女と女の愛。男と男の愛。どれも変わりないわ。恋が愛に変わる瞬間は、いつみてもゾクゾクするわよ。あの人の指が、背中と羽の付け根を這ってくるみたいに」
「なるほどね。あの手この手で、人の恋愛にちょっかいかけて、欲求不満を解消しようとしてるんだな」
「やっぱりわかる? メラニーとの婚約周年祭の前日に、あの人のベッドに潜り込むわけにもいかないし……。この時期は溜まっても吐き出せないから、私達の婚約周年祭が終わるまでの一週間は長く感じるのよねぇ」
「今、吐き出してんじゃねぇか。聞かされるこっちの身にもなれよ」
「これは吐き出してるんじゃなくて、漏れてるのよ」
ミニーの欲求不満の愚痴は、バニュウが夕食を知らせるまで延々と続いた。




