第十話
あてのないノーラの散歩に付き合いきれなくなったリットは、城の外に出ていた。
真昼になり、陽が積もった雪の下に埋まる大地を労うように、暖かく降り注いで雪を輝かせている。
雪捨て荷馬車に集められた雪の小山に腰掛けていたが、冷たい溶けた雪の水がズボンのお尻部分に染みこんでくると、たまらず白い息を吐きながら苛立たしげな声を上げた。
「だから言ったじゃないですか。普通は乗るもんじゃないですって」
御者の男はリットの声を聞いても、顔は前を向いたまま、のんびりした口調で言った。
冬にしては珍しい温かな太陽で雪が溶けやすくなっている上に、体温のせいで余計に雪が溶ける。
濡れたズボンに襲いかかる冬風は、小人の槍でチクチク刺されるように痛く身にしみた。
「この藁の固まり、なんの意味もねえぞ」
リットはお尻の下には、藁を編んで作った薄い絨毯のようなものがあるが、藁の隙間からどんどん水が染み出てくるのでなんの意味もなかった。
「立ち上がると危ないですよ」と御者の男が言った途端、車輪が雪の塊に乗り上げて、馬車が大きく揺れた。そして、「言ったとおりでしょう」とでも言いたげに、顔だけをリットに向けた。
「わかったから前を向いてくれ。手元が狂って馬が暴走なんかされたら困るからな」
「それにしても、本当に行くんですか? 今なら街に戻るほうが近いですよ。行ってもあるのは雪だけ。今の時期、楽しいことなんてなんにもありませんよ」
セレネの言葉が妙に気になったリットは、雪捨場に向かう荷馬車を捕まえて、半ば無理やり乗り込んだ。
御者の男の話によると、冬は雪捨場になるティアドロップ湖は、子供の遊び場になっているらしい。
「娯楽を求めて行くわけじゃねぇからな。つーか、その御者台。詰めたらもう一人くらい乗れねぇか?」
「この狭い御者台は、一人乗るのが精一杯です。私の膝の上に乗りたいなら乗れますがね」
「おっさんの膝の上か、冷たい雪の上か。どう考えても冷たい雪の上のほうがマシだな」
リットが膝の上に乗って周りから冷ややかな視線を浴びるよりも、冷たい雪の上に腰を下ろすと決めた時、雪捨場の方向から何も積んでいない荷馬車がやってきた。
御者達は片手を上げて簡単な挨拶を交わす。言葉も「よう」と言い合う程度だ。
そしてすれ違う時に、雪山の上で不機嫌に目を吊り上げるリットに訝しげな視線を寄せながら去っていった。
それからも、進む度に荷馬車とすれ違った。もう既に五台目の荷馬車だ。
「ずいぶん荷馬車が多いな」
リットは目を凝らして、六台目の荷馬車が向こうからやってくるのを見ていた。
「明日から婚約周年祭ですから。今日のうちに、街の雪を捨てられるだけ捨てに行くんですよ」
「そりゃ、迷惑な祭だな」
「いえいえ。皆楽しみにしている祭りですよ。働き者もはみ出し者も、皆が一つになって王様と王妃様を祝う祭りですから」
「一人残らず国王と王妃が好きだなんて、まるで洗脳された国だな」
「民の声に直接耳を傾けて、柔軟に応えてくれる。こんな国は他にありません。まぁ、他の国に住んだことはないんですけどね」
御者は自分が言ったジョークに自分で笑うと、手綱を引いて馬を止めた。
「さぁ、到着しましたよ。ね? なんにもないでしょう」
リットは雪捨ての行き来で踏み固められた雪の上に降りると、辺りを見回した。
一面の白い世界に、雪を捨てに来た荷馬車が数台。周りに木もなにもないこの場所では、広さを比べられるものがなく、小人が砂糖の山で遊んでいるように見えた。
「本当になにもないな」
「でしょう。帰りはどうします? 少しだったら、雪を捨てたあと、休憩がてらに待っててもいいですけど」
「気にせず帰ってくれていいぞ。この様子だと、帰りの荷馬車に困ることはなさそうだからな。ありがとよ。送ってくれて」
リットは片手を上げて礼を告げると、ティアドロップ湖と思わしき場所へと歩いて行った。
他のまっさらな雪面とは違い、凸凹になった雪面に向かって、雪を削って作られた階段を使って下りていく。
一番下まで行くと、リットは雪の壁を見上げた。
雪壁は大木ほどの高さがある。足下に積もった雪のことも考えると、この穴は結構な深さがありそうだった。
子供が木の板で滑った跡があるくらいで、特に変わったところは見当たらない。
リットが帰ろうとした時、後頭部に冷たいものが当たった。
「雪合戦しませんか?」
リットが振り返ると、やけに短いマフラーを巻いたバニュウが、雪球を投げ終えた体勢のまま立っていた。
「平和な国で、合戦なんて野蛮な思想を持つとはな」
「合戦と言ってもですね。ただ雪球を投げ合うだけの遊びですよ。えいっ」
バニュウの投げた雪球は、高い弧を描いてリットの足元に落ちた。
「知ってる。やんわり断ったんだ」
リットは地面に落ちて半壊した雪球を、踏みつけて完全に壊した。
「あの……なにか怒ってます?」
「怒ってる? オレが? まさか。どっかのお喋りなガキがオレのことを喋ったせいで、こんなところに連れてこられたとは思ってねぇよ」
「すみません! 兄だと言うことを知らなかったんで。それに、複雑な事情があるのも……えっと……その」
バニュウはしどろもどろになりながら困り顔を浮かべる。
「冗談だ。ガキに本気で怒るかよ」
「でも目が――いえ、なんでもないです。雪合戦がダメならお昼にしませんか? 母にお弁当を作ってもらったんですよ」
バニュウはバスケットを見せると、被っていた布を取って中身を見せた。
野菜をパンで挟んだものと果物をパンで挟んだものが入っている。
「いらねぇ」
「食べないと、夜までにお腹が空いちゃいますよ」
「冬毛が生えてくるオマエと違って、こっちは寒空の下で飯を食うような体にできちゃいねぇんだよ。ガキの体温も合わさりゃ、冬は恐いもんなしだな」
「もう子供じゃないです。先月で十三になりました」
「なら、こんな場所で立ち話するこたねぇな」
リットはバニュウの肩を掴むと、街に向かう荷馬車に声を掛けた。
「お客さん……困るって……」
「どうせ用意はもう終わったんだろ。昼から店を開けるくらいなんだってんだ」
「そこは、金も入るから良しとしてもだ。子供を連れてこられちゃなぁ。それも――」
店主はリットの横にいるバニュウに目をやりながら困った顔を浮かべた。
この店はグンヴァと会った時の酒場で、融通を利かせて店を開けてくれることを知ったリットは、図々しく昼から上がり込んでいた。
「別に酒を飲ませるわけじゃねぇんだからいいだろ」
「ハイヨ様に怒られたら責任とってくれよ……」
「酒場の空気を体験しとくのは早いほうがいいだろ。大人になって始めて酒場に足を踏み入れて、酔っ払った客に絡まれたら、一生酒が嫌いになっちまう」
「子供のうちに来て、人嫌いにならないかのほうが心配ってもんだ」
リットは物珍しげに酒場を見回すバニュウに「さっさと食え」と肩を叩いた。
「酒場で堂々とバスケットを広げられるとは……」
「オレは酒を頼んでるんだからいいじゃねぇか。それとも、酒場で出すようなしょっぱいツマミをガキに食わせろってか?」
「えらい人に気を許したもんだ。昨日店に入れるんじゃなかったぜ」
店主は溜息をつくと、リットの前にコップを置いた。
「昨日はリッチーのおかげで儲かったんだろ。文句ばっか言うんじゃねぇよ」
「そうだ。チリチー様のおかげで儲かった。アンタは寝てただけだけどな」
「オレを探しにこの店に来たんだ。オレが寝ずに帰ってたら、リッチーも来なかったってわけだ」
「その詐欺がかった物言い。アンタが一番王族らしくないな」
昨夜、チリチーとリットの会話を聞いていた店主は、リットもヴィクターの息子だということを知っていた。
この店に来る他の客となんら変わりのないリットに呆れ笑いを見せる。
「こいつらとは、同じ玉袋の中に入ってたってだけだからな。寝床が違えば他人と変わりゃしねぇよ」
「バニュウ様に悪影響が出ないか心配だ……」
「オレからの影響よりも、実の兄の影響を心配しろよ。オレがグンヴァくらいの年の頃は――店の酒を勝手に飲んで怒られてたな……」
「兄弟だねぇ」
店主はしみじみと言った。
「やめろよ。こっちはたった一日で、そうかもと思い始めてんだからよ」
「僕は兄が増えるのは嬉しいですよ。僕が弟じゃ嫌ですか?」
屈託のないバニュウの顔。そして、悪気のない問いかけ。
リットが長い溜息を吐いたのはすぐだった。
「あのなぁ、オマエがじゃない。誰が弟でも嫌なんだよ。今まで自由に生きてきたのに、急に制約ができたみたいでよ。人間、足を広げて寝ることを覚えたらな、窮屈じゃ生きられねぇんだよ」
「なんとなくわかります。僕もいつか行商人になって世界を回り、自分探しの旅に出たいんです」
「オレの生活を、オマエが食ってる野菜サンドみてぇな青くせぇもんと一緒にされるとは……」
「この間の船旅でわかったんです。色々な人と触れ合い、視野を拡げることの大切さを。そして、この経験は国にも役立つことだと思うんです。その為には、自分を見付けることが大事だと思いました」
「旅に出て自分を探さなくても、すぐそこにいるじゃねぇか」
リットがバニュウを指すと、バニュウは一瞬あっけにとられて目を見開いた。
「そういうことじゃなくてですね……」
「狭くて探しやすいところにいるのに、わざわざ広い外に出て探す意味がわかんねぇ。なくしたものは行ったところにしか落ちてねぇよ」
店主は「うー」とからかうように高く唸ると、「至言だねぇ」とリットをおちょくった。
「だろ? 誰かさんは、店に落とした髪の毛さえ見付けられねぇらしいけどな」
「言うなよ。まだ女房にもバレてねぇんだから」
店主は年々広くなっていく額を隠すように手を置いた。
「……深い言葉ですね」
バニュウが尊敬の念にも似た瞳を輝かせると、リットはそれを鼻で笑い飛ばした。
「そうだろ。持って回った言い方をすりゃ、なんでもそう聞こえんだ。商人になりたけりゃ、騙すためにも騙されないためにも覚えとけ」
「はい! タメになる話をありがとうございます!」
バニュウのキラキラする視線から逃げるように、リットは店主へと向いた。
「……こいつが国を出るのを、国民全員で止めた方がいいんじゃねぇのか? この調子じゃ尻の毛まで抜かれて、どっかの変態の馬車を引かされるぞ」
「それまでには、バニュウ様も大人になってるだろうよ。……たぶんだけどな」
店主はまだあどけない顔のバニュウを見て、少し心配そうに笑った。
「リットさ……リッ……えっと……」
バニュウはリットをなんと呼ぼうかと口ごもる。
「呼び捨てでも、さん付けでも好きに呼べ」
「えっと……それでは、『リットお兄様』は――」
バニュウのお兄様発言を聞いて、リットは身震いしながらバニュウの言葉を遮った。
「……さっきの言葉は取り消す。その呼び方は禁止だ。あまりに寒気がして、背中にナメクジが入ってきたのかと思った」
「では、兄様」
「却下」
「兄上なら」
「却下」
「お兄ちゃん……リットお兄ちゃんでは」
「わかった……もうそれでいい」
どうあっても「兄」と言う言葉から離れないバニュウに、リットはヴィクターの意地の張り方を重ねて見ていた。
「それで、リットお兄ちゃんは、雪捨場でなにをしていたんですか」
「なーんもしてねぇよ。ただ見てただけだ。セレネからティアドロップ湖の話を聞いたんでな」
「あの話ですか。僕達だけではなく、この国の人達全員が、その話を聞いて育ってますよ」
バニュウが「そうですよね」と聞くと、店主は大きく頷いた。
「魔女の涙でできた湖の話は、ガキの頃によく聞かされたもんよ」
「だいたい魔女っていうけどよ。ここは魔女と縁があるのか?」
「ないとも言えないけどな……。どっちかというと錬金術だ。あの錬金術士『聖女ガルベラ』の墓もあるぜ」
「あっそ」
リットはあくびをするように気だるく答えた。
「なんだ興味ないのか? この国に来たら皆見に行くぜ」
「振る舞い酒でも出るのか?」
「出るわけねぇだろ。ガルベラが酒好きだったってんなら別だけどな。残ってる話じゃ、誰にも会うことなく、死ぬまで研究を続けたらしいぜ」
「ここではティアドロップ湖の話と同じくらい有名な話ですね。ただ、ガルベラ関連の話は、あまり残っていないんですよ」
バニュウは言い終えると、「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
「何聞かされても、興味ねぇな」
「オレもよ。有名ではあるけど薄れちまってるからな。今じゃヴィクター王のハーレム伝説のほうが有名よ。なんてったって、生ける伝説だからな」
「ただ下半身に堪え性がないだけだろ」
「そこよ、そこ。冒険者としての実績も凄いけどな。やっぱ男としては、かみさんを何人も持つって方に憧れるねぇ」
「遠慮するなよ。持ちゃいいじゃねぇか」
「かみさんに殺されるぜ。そうなっちまうのも、男としての格かねぇ……」
店主はヴィクターに負けを認めるように酒を一気に飲み干した。
「いいか、バニュウ。こうやって酒を飲む店主がいる酒場は良い酒場だ。知らない街で酒場を探す時は、こういう酒場を選べ」
「いい人が多いからですか?」
「人がいいからだ。酔えば勘定がゆるくなる」
リットの「ヴィクターに乾杯だ」と言う口車に乗ってしまった店主は、一杯、もう一杯と自分のコップにも酒を注いでいった。




