第八話
「いい飲みっぷりだ!」
その喝采の声に、リットは目を覚ました。
暖房が効いた酒場で酒を飲んでいるうちに、いつの間にか寝てしまっていた。
寝ぼけ眼のかすれた視界を声のする方へ向けると、何やら人だかりができている。酒場にいる男達が酒を注いでは、野太い歓声を上げていた。
リットはしばらくカウンターに突っ伏したまま、黙ってその様子を見ていたが終わることはない。寝起きのあくびが出なくなると、ようやく顔を上げて騒ぎの中心へと目を向けた。
囲まれているのは一人の女だった。
その女が、次々に注がれていく酒を全て飲み干していく。乾いた大地へ水が染み込むように、あっという間に酒が消えていく。客達は面白がって自分の分の酒を女のコップへと注いでいた。
「ベビーシッターの子守唄にしちゃうるせぇな……」
リットがつぶやくと、木のジョッキがテーブルに叩きつけられた。
それと同時に、客達が道を開けたので、リットは女としっかり目が合うことになった。
女は不敵に笑うと、人差し指を立てて、それに合わせてリズムよく舌を鳴らす。
「ベビーシッターか、大酒飲みか、――いや違う。人は私をこう呼ぶ『正義の味方リッチー』と!」
椅子の上に片足を乗せて叫んだ女は燃えていた。
「おっさん。オレ、酒を何杯飲んだ?」
リットが聞くと、店主は指を折って数え始めた。
「一、二、三杯目でウトウトし始めて、それからも飲んでたから……五、六杯ってとこか。それがどうしたんだ?」
「いい年の女が、恥ずかしげもなく正義の味方を名乗ってんだぞ。どうやら、飲み過ぎて頭がおかしくなったらしい」
「まぁまぁ、お兄さん。聞きなさいって。正義の味方ってのは何でも屋のことだよ。――お酒の飲み過ぎは悩める証拠。悩みがあればさっと解決。それが何でも屋!」
女は近寄ってきて、馴れ馴れしくリットの肩を抱くと、目の前にあるリットの空のコップに勝手に乾杯をかわした。
「本当になんでも、悩みを解決できるのか?」
「モチのロンロン。愛しのあの子への恋文の代筆も、伸びすぎた雑草の処理も、どんとこいこい!」
女がずいっと顔を近づけながら喋ってきたので、リットも顔を近づけた。
「それじゃ、ヴィクターのうるせぇガキをなんとかしてくれ」
「そこで酔いつぶれて眠ってるお馬さんのことだね」
女はグンヴァを指差すが、リットは首を横に振った。
「――いいや。オレに絡んできてる、燃える女をどうにかしてくれ」
リットが女のおでこへ向かって指を突き付けると、おでこに触れた指は熱くない炎に包まれた。
「バレるもんだね。お母さんとは火の色が違うからバレないと思ったよ。改めてよろしく。私は『チリチー・モエール』。リッチーでいいよ」
チリチーの肌火の色はオレンジ。メラニーの青白い肌火とは違っていた。
女性にしては全体的に短い髪が、まんま炎のように逆立っている。
「ウィル・オー・ウィスプなんて、その辺にいるもんじゃねぇだろ。嫌でも誰のガキかわかる」
「こっちは苦労したんだよ。ノーラの「お酒を飲んで、だらしくなく寝てる人がリットっス」って言うのは聞いたけど、そんな人はいっぱいいるんだもん。チルカの「アホ面晒して寝てる奴がいたらリットよ」って情報がなければわからなかったね」
チリチーは得意気に頷きながら言った。
「……小便引っ掛けて消すぞ」
「その程度じゃ消えないけど、おしっこをかけられるのは嫌だなぁ……。それに、私が言ったんじゃなくて、リットのお連れの二人が言ったんだよ」
「その情報で探し当てられるオレも問題か……。それにしても、親子似てねぇんだな」
その言葉は、リットの口から自然にこぼれ出た。
妖艶な雰囲気のメラニーとは違い、チリチーは健康的な感じだった。服装もドレスではなく、薄汚れたズボンをはいている。
「街中を駆け回るからね。スカートとかドレスは鬱陶しくて。今は特にお祭りの準備で忙しいからこんなんだけど、普段はもうちょっとマシな格好をしてるよ」
「そもそも、服を着る必要はあるのか?」
リットはまじまじとチリチーの体を見た。
人の形をしているが、炎でできた体は生物よりも精霊体に近い。
「そりゃあるよ。エッチだなぁ」
「エロでもなんでもいいから、静かに酒の続きを飲ませろよ」
「それはできない相談ってもんだね」
「人を騒音で起こしておいて、まだ邪魔し足りないってか」
「さっきも言った通り、私は何でも屋をやってるんだけど。そこに依頼が舞い込んできたわけ。いつまでも夜の街をふらついて帰ってこない息子二人を連れて帰ってきて欲しいと」
チリチーは人差し指と中指を立てると、腕を真っ直ぐ伸ばして、二本の指でそれぞれリットとグンヴァを指した。
「なんだよ。城には門限があんのか」
「そりゃそうだよ。いくら街の人とフレンドリーって言ったってお城だもん。なにかあった時に街の人を疑うのは嫌でしょ。だから夜はしっかり城門を閉めてるの」
「その辺に泊まるから心配すんな。朝には帰る」
「朝帰りなんてダメダメ。帰るんだよ」
チリチーが寝ているグンヴァのお尻あたりに手を置くと、グンヴァは悲痛な叫びを上げながら飛び起きた。
「誰だ! 俺様に火をつけたのは! オマエか!?」
辺りに絡み始めるグンヴァを見て、リットは不思議そうに顔をしかめた。
「その体は熱くないんじゃねぇのか?」
「普段はね。怒っちゃうとコントロールできるか不安になっちゃうなー」
チリチーはわざとらしい棒読み口調でニッコリ微笑んだ。
半ばチリチーに脅されて酒場を出ると、一瞬で酔いを醒ますような冷えた川風が吹き抜けていった。
「驚いたぜ……。てっきり、マックスの兄貴やゴウゴの兄貴みてぇに、糞真面目な兄貴だと思ってたからな」
グンヴァの酒臭い息は、寒空に白く染まりリットの顔を通り過ぎていく。
チリチーに起こされ酒場を出るまでの慌ただしい時間の間に、リットが兄だと知ったグンヴァは、不思議そうに眉を潜めて、確かめるように頷きながらリットの顔を見ていた。
「勝手な想像ありがとよ」
「昔、マックスの兄貴が言ってたんだよ。俺達には、自立して一人で暮らしてる立派な兄貴がいるって。……そういや、いつからかその話はしなくなったな」
「そりゃ、いつまでもおとぎ話の住人が実在するとは思わねぇだろ」
「マックスの兄貴が十六くらいの時の話だぜ。まぁ、俺様としては、はみ出し者の兄貴のほうが、親近感が湧いていいけどよ」
「一緒にすんな。オレは何年後かに、今の自分を思い出して赤面するようなはみ出し方はしてねぇよ」
「俺様のどこが恥だってんだ」
グンヴァは重そうに膨れ上がった前髪を持ち上げて、リットに睨みを利かせる。
「触ってるその頭だ。テカりすぎててカツラにしか見えねえよ」
「これは地毛だ。俺様の自慢の髪型に文句でもあるってのか?」
詰め寄ってくるグンヴァを、リットは手で払いのける。
「バカにしてるだけで文句はねぇよ」
「その髪、影の形がかわるくらい時間掛けてセットしてるもんね。シルヴァの次に、鏡の前から離れないし」
そう言ったチリチーの声は少し呆れているようだった。
「おうよ。たっぷり時間を掛けてセットするおかげで、もし乱れてもこの通りすぐ元通りよ」
グンヴァは上着のポケットからクシを取り出すと、飛び出た髪束を中心に押し込んで整えた。そして民家の窓ガラスに映る自分を確かめて、満足そうにしていた。
「んなもん入れてるなら、小銭くらい入れとけよ」
「今日はたまたまだ。今朝リッチーに金を払ってそのままだから、入ってなかったんだよ」
「兄弟間でも商売してんのか?」
「何でも屋だからね。髪型が決まらないと文句を言う人には、温風のサービスを。主にグンヴァとシルヴァがお得意様」
チリチーが口をすぼめてゆっくり息を吐くと、暖炉の前にいるような温かな風がリットの頬を撫でていった。一瞬暖かかったせいで、再び夜風に晒されると倍くらい寒く感じた。
「それ、城に着くまでずっとやっててくれよ」
リットは夜風から体を守るように身を縮こませながら言った。
「うーん……。ここから城までなら、しばらくは外に飲みにいけないくらいお金をもらうけどいいの?」
「オレからも金取んのかよ……。実家は金持ちなんだから、商売なんかしなくてもいいだろ」
「むしろ、なんでリットだとタダになるかがわからないよ。このまま城にいてもいなくても、商売を体験しとくのは悪くないでしょ。それに、街を歩いて街の人と話すだけで色々勉強になるしね」
チリチーは気軽に声をかけてくる人間全員に手を振り返していた。
「リッチーの影響で、俺様の弟は将来商人になりたがってる。兄である俺様の背中を見て育ってほしかったぜ」
「バカが透けて見えてるその背中をか?」
「マックスの兄貴やゴウゴの兄貴と違って口がわりぃ……。マジでなんなんだよ! まだバカにされるほど、バカは見せてねぇはずだぜ!」
「口が悪いのは、海賊流の挨拶なんじゃなーいの」
チリチーはリットが海賊ではないことを知っていたが、グンヴァをからかい、妙に間延びした声で言った。
「そういえば、オヤジが金を出した船を襲ったんだよな……。――そこはマジカッケェっす!」
グンヴァは若干裏返り気味に言うと、胸元で熱く拳を握った。
「……やめろ。っすっすうるせぇのは一人いりゃ充分過ぎる」
「何者にも媚びずに、自由に生きる海賊。ふーっ! 憧れるぜ」
「グンヴァのは、族という名のただの親衛隊だもんね。――あぁ、愛しのカロチーヌ。空に浮かぶ星のように幾千の言葉が思い浮かぼうと、声を掛けることはできないが、星を見つめるようにキミを見守ることはできる」
チリチーは仰々しく飾り立てた言葉で、演技ぶった身振り手振りを加えてグンヴァの前に跪いた。
「関係ない話してんじゃねぇぞ!」
グンヴァが足元の雪を蹴り上げると、チリチーは燃える手で雪を払って蒸発させた。
「照れて怒鳴り散らしちゃってまぁ……。顔まで真っ赤なのに」
「寒いとこうなるんだよ!」
「嘘つけ。尻に敷かれたくてたまらねぇって背中してるくせに」
リットはグンヴァの背中を茶化すように叩いた。
「ケンタウロスはこういう背中なんだよ!」
グンヴァが必死に否定すればするほど、チリチーのからかいは勢いを増していく。
チリチーは「好きな子ができた。好きな子ができた」とリズムに乗せて、歌うように囃し立てる。
「俺様は女なんか一生好きになんねぇよ!」
グンヴァが癇癪を起こしたように怒鳴ると、チリチーの言葉が止まった。
しかし、チリチーの顔は反省でなく、ヘドロの中から女神が生まれてくるのを見たような信じられないといった顔をしていた。
「……その言葉、今すぐ取り消しておいたほうがいいぞ」
リットの心配をよそに、グンヴァは「女なんかいらねぇ! 男といるほうが楽しいんだ」と、喚き散らしながらずんずん歩いて行った。
人々は奇異の目を向けるが、大声の元がグンヴァだとわかると、また酔って暴れているだけだと、すぐにまた日常に戻っていた。
城に着き、リットがチリチーに部屋まで案内されている途中。廊下で大きな影が佇んでいた。
最初その影はピクリとも動いてなかったが、リット達の姿を見かけると大股で向かってきた。
影の正体はチリチーの炎によってあらわになった。
下から照らされたヴィクターの顔が不気味に浮き上がる。
ヴィクターは「いつまでふらついてるつもりだ」と睨んだ後、大げさに口の端を吊り上げた。「――だが、オマエ達を許そう。兄弟仲良く帰ってきたんだからな」
「こっちはな……冷たい川風のせいで、酔いが醒めて帰ってきてんだ。そういうつまらねぇことを言いてぇなら明日にしてくれ」
リットの丸まった背中を、ガハハと笑いながらヴィクターが叩いた。
「情けない奴だな。オレはいくら飲んでも、具合が悪くなったことはないぞ」
「年がら年中酔っ払ったみたいに、おめでてぇ頭をしてるから、気付く暇がねぇんだろ」
自分のことは棚に上げてヴィクターを批難するリットだが、ヴィクターはそんなことは気にせずに、いかにもな父親風にリットの肩をたたいて笑い飛ばす。
そして、いつの間にか部屋への案内人はチリチーではなく、先頭を歩くヴィクターに変わっていた。
「飲み過ぎるとそんなに辛いの?」
のろのろと歩くリットに、チリチーは心配そうに尋ねる。
「そっちも明日になりゃわかるだろ」
チリチーはリットのよりも酒を飲んでいるはずなのだが、健康そのものといった具合にケロッとしていた。
「私の場合は、アルコールは先に体の中で燃えちゃうからね。いくら飲んでも意味ないよ」
「あれだけ奢られておいてもったいねぇ……」
「別に酔いたくて飲んでるわけじゃないしね。ただのコミュニケーションだよ」
「それじゃ、今度から奢られる酒は全部オレが飲んでやる」
「そんな状態で、よく次のお酒のことを考えられるねぇ……」
部屋に案内されたリットは、服も着替えず、靴も履いたままベッドに倒れ込んだ。
なにかヴィクターが言っているのは聞こえたが、返事をする気力もなく、リットは闇に任せて眠りへと落ちていった。




