第七話
マックスの低く重々しい声に一瞬の静寂が訪れたが、リットは「久しぶりだろ」と軽い調子で答えた。
二人はとりあえず握手を交わしたものの、僅かにニヤケたリットの口元を見て、マックスはいっそう不機嫌に顔をしかめた。
そして、また「初めまして」と語気を強めて言った。
「まぁ……一回会ったのも、初対面も同じようなもんだからいいけどよ。しっかり自己紹介くらいしたらどうだ」
「あなたに言われる筋合いはない。それに、兄と認める気もない」
「兄貴ヅラされたくねぇなら、しっかり名乗れよ。正真正銘初対面の奴もいるだろ」
リットはノーラを手で、チルカを指でマックスの前へと押しやった。
「なにすんのよ」
乱暴に押されたチルカは振り返ってリットを睨む。
「いいから黙って聞いてろ、面白いもんが聞けるぞ」
「アンタの顔以上に面白いものがあったら驚きよ」
チルカは唾を飛ばすように言い切ると、蔑んだままの目をマックスに向けた。
マックスは歯のない老人のように口元をモゴモゴさせて、長いこと沈黙を響かせていたが、やがて地面に落とすように小さくつぶやいた。
「……マックス……です」
「それだけだと、苗字か名前かわからねぇな。それとも、恥ずかしがり屋の弟の代わりに、お兄ちゃんが紹介してやろうか?」
リットはこれでもかというくらいに、言葉にからかいを含ませた。
マックスはリットのニヤついた瞳を睨むと、頬を膨らませて大きく息を吐いた。それを三度繰り返し気持ちを落ちつけると、ノーラとチルカの顔を見て意を決したように頷いた。
「マックス……。『マックス・エロス』です」
マックスが名乗り終えると、再び一瞬の静寂が訪れた。
沈黙を破ったのはリットの笑い声だ。そして、後を追うようにチルカの笑い声も響き渡る。
二重に混ざる嫌味な笑い声はマックスの耳へこびり付いた。マックスの苛立ちの感情は表情にも現れたが、そんなことを気にすることはなく、リットとチルカは笑い声を響かせる。
「ここまでエロさを全面に押し出した自己紹介は初めて聞いたわ。よっぽど自分がエロいってことをアピールしたいのね」
「ただのエロスじゃなくてマックスだからな。コイツ以上にエロい奴はいねぇってわけだ」
リットが手を目一杯上に伸ばすと、チルカが手の先に立った。
「まだいるわよ。天使族でマックスなら、崇めるのはゴッド・エロスね」
「神が命を作るってのはそういうことなんだな」
リットとチルカが珍しく上機嫌にハイタッチなんてものを交わしていると、マックスが怒りをあらわにテーブルを叩いた。
「神を侮辱するとは何事だ! 神と言うのは最も偉大で、尊厳高いのだぞ!」
「誰かに語ってもらえねぇと威厳を伝えられねぇとは、神ってのも結局人任せな奴だな」
リットの鼻を鳴らすひねくれかえった物言いに、マックスは目を尖らせて震えた。
「――あなたのそういうところが嫌いなんだ!」
マックスが怒りに背中の白い羽を震わせながら叫んだ。
ヴィクターにもう一人兄がいると聞かされたマックスは、城で何不自由なく暮らすのではなく、自立して一人暮らしをしているリットはなんて立派な人物だろうと想像していた。
リットに頼れる兄という幻想を抱いたマックスは、やがてリットの住む町まで出向き、本人に会いに行った。
しかし、実際に会うリットは、理想とは違う自堕落な生活をしており、下卑たジョークで嘲笑ってきた。
マックスはすっかりリットに幻滅してしまっていた。
「オレは嫌いじゃねぇけどな。こんなからかいがいのある奴はそういねぇ。いいじゃねぇか、エロス。いかにも衰え知らずな名前だろ」
「僕はそういう下品なジョークが大嫌いなんだ!」
再びテーブルに怒りをぶつけようとしたマックスの手を、艶めかしい細い手が止めた。
「リットの言うとおり。『エロス』と言うのは、キューピットの中で最も格式の高い姓。恥ずかしがることじゃないのよ」
優しい声の女性はマックスの手を止めた後、リットに向かって微笑んだ。
マックスと同じく大きな純白の羽を持っていた。所々に白い羽をあしらったドレスを着ているが、ドレスの上からでも、雪に溶けそうな白い肌がわかるほど生地が透けている。
「……まぁ、大体予想はつくけどよ。アンタは、なにエロスなんだ?」
「リット・アールコールね。ヴィクターから聞いてるわ。私は『ミニー・エロス』。マックスの母です」
ミニーはリットの鎖骨から耳たぶへと指を這わせ、視線を絡ませながら名乗った。
「おい、ヴィクター。アンタの女房が誘惑してきてるけどいいのか」
ヴィクターはリットの言葉を豪快に笑い飛ばした。
「浮気は許さんが、誘惑は許す」
「そうね。血は繋がってなくても息子は息子。だから、これは母親からの挨拶よ」
リットの頬に生暖かい唇が吸い付いた。
ミニーがほとんど白に近い金色の髪の毛が、リットの首筋をくすぐる。
「今、恐ろしいこと言わなかったか?」
「あら、どうして? ここでは皆が母で、皆の子供よ」
ミニーはまるで恋人にでもするように、リットの胸板の上で人差し指を遊ばせながら言う。
「オレには産んだわけでもねぇ、育てられたわけでもねぇ女を、おふくろなんて呼ぶ特殊な性癖は持ちあわせてねぇよ」
「あら、残念ね、あの人はそういうプレイも好きなのに」
「本当、残念な奴だ……」
ヴィクターはバツが悪そうに瞳を彷徨わせて、リットの視線から目をそらした。
リットの視界は突然マックスによって遮られた。
マックスはリットを押しのけると、ミニーの前へと立つ。
「母さん! そんな格好で人前に出るなんて、一体何を考えてるんです!」
「いつもの格好じゃない」
「こんな野獣のような男の前に、そんな格好で現れたらなにをされるか」
マックスは槍先を向けるような気迫で、リットに人差し指を突きつけた。
「野獣なんて初めて言われたな。ガオーってか」
リットが爪を立ててひっかく仕草をすると、チルカが鼻の奥で笑いを響かせた。
「アンタは女みたいにひっかくんでしょ」
「アホか、女のひら手とひっかきは立派な武器だ。なんか知らねぇけど、防いだらダメな雰囲気を出すし、ありゃ一種の魔法だな」
「ただアンタが亀みたいにノロマなだけじゃないの?」
「それじゃ、ノロマの亀よりもノロマなオマエは道端に落ちてる石か? それとも、その裏に貼っ付いてるダンゴムシかなんかか?」
「……どうあっても、私を虫扱いするのを止めないようね」
チルカの冷めた視線が、リットの目に突き刺さる。
「いいか、いい機会だから言ってやるけどよ。普通は羽って言ったら、あーいうのを思い浮かべんだ」
リットはマックスの羽を顎で指した。
「なに、アンタ。布団の中身になるしかない下等な鳥の羽と、私の宝石のように輝く妖精の羽を比べてるの?」
「いいや。筆になったり布団の中身になる便利な羽と、暗闇でうざったく光るだけの虫の羽を比べてんだ」
「空も飛べない人間ごときが、なにわかった風に言ってるのよ」
「飛べなきゃ目線も合わせられないようなちっちゃい生き物が、肩を並べようとするからだろ」
リットとチルカがにらみ合いを始めると、リットのズボンをノーラが引っ張った。
「旦那、旦那」
「後にしろ。今、季節外れのやぶ蚊退治をするところだからな」
「蚊だって、アンタの臭い血なんか吸わないわよ」
「さすが、蚊のことはなんでも知ってんだな」
「旦那、旦那」
ノーラがしつこくリットのズボンを引っ張る。
「なんだよ……」
「お腹減りましたよォ。さっきからヌーヌー鳴ってます」
どうせ城で食うからとリットの言葉を信じてお預けを食らっていたノーラは、両手をお腹に当てて空腹を訴える。
「では、飯にするか。実はな。いつでも食べられるように、準備を言いつけてあるんだ」というヴィクターの言葉に、ノーラは「待ってましたっス。やんややんや」と拍手を送った。
「……それじゃ、勝手に食え。オレは気分転換に外で酒でも飲んでくる」
「リット、せっかくの家族の食事だぞ。せめて一緒の席で酒を飲まないか? それが家族というものだろ」
ヴィクターは「家族」という言葉をやたらに強調して言った。
「しばらくは、でかい城で窮屈に過ごすんだ。酒くらい狭いとこで快適に飲ませてくれ」
リットはヴィクターの寂しそうな顔を一度見ると、ドアに向かって歩き始めた。
夕暮れに染まる街並み。リル川も油が流れているような黄金色に染まっている。
しかし、街はまだ忙しく動いていた。婚約周年祭の準備は、むしろ活気が増している。
祭りごとが好きなだけではなく、国王と王妃に喜んでもらいたいという国民の総意があり、国ではなく街で準備が進められている。
王族と国民の距離が近くにあり、ヴィクターに至っては全ての国民の名前を覚えているのではないかと思うほどだ。
国民から名前で呼ばれ、国王から名前で呼ばれる。それがこの国では普通のことだった。
リットがその話を聞いたのは、まだ空に微かに青が残っている時だった。
それから空が燃える今の時刻まで、リットは酒場の前で白い息を吐きながら待っていた。
「まだ、いたのか」
そう言ったのは酒場の主人。いかにヴィクターが素晴らしいかと、リットに話した人物だ。
「もう、夕方だ。いい加減店を開けてもいい頃だろ?」
「祭りの準備期間は夜からって決まってるんだ。他の酒場も、全部夜まで閉まってる」
「なんだよ……。酒飲みに行くって言ったんだから、それくらい言えってんだ」
「誰に言ったんだ?」
「国王」
「はっはっはっ! そりゃいいな。ヴィクター王はここにもよく来るよ」
酒場の店主は、まったく信じていない様子で笑った。
「笑ってろ。笑って終わりなら、オレもそうしてぇよ」
「そう前にいられると、気になって準備ができない。中に入んな。邪魔はするなよ」
酒場の主人はドアを開けてリットを迎え入れる。
酒場に入って最初に目に入ったのは提灯だ。天井からいくつか吊るされている。
「東の国出身なのか?」
リットは見覚えのある提灯を見上げながら椅子に座った。
「おっ、提灯を知ってるのか? まぁ、オレは東の国出身じゃないけど、この間商人から買ったんだ。ムーン・ロード号が初めて他国の海に浮かんだってもんで、東の国の物はちょっとしたトレンドになってる」
「なるほどね」
「海賊に襲われたりで、順調とはいかなかったみたいだ。バニュウ王子が怪我をしなくてよかったってもんよ」
「そりゃ、ひでぇ奴がいるもんだな」
「兄ちゃんも、東の国行くときは気を付けたほうがいい」
店主はコップに酒を注ぐと、後は勝手に飲めと言った具合に酒瓶をカウンターに置いた。
「当分行く予定はねぇよ」
リットは言いながらコップに口を付ける。
燃える暖炉よりも、酒を一口飲んだほうが体が温まった気がした。
そして、一気に酒を飲み干すと、リットは再び口を開いた。
「それより、提灯ってのはロウソクを中に入れるもんじゃないのか」
吊るされた提灯に火種は入っておらず、ただのインテリアになっていた。
「なんだ、そういう使い方をする道具なのか。祭事に使う物って聞いて買ったから、ただの飾り物だと思ってた」
店主が提灯の中にロウソクを入れて火を灯すと、熟れた杏のような色をした光がぼやけて広がった。
「これで、トックリとお猪口があれば、東の国だな」
「兄ちゃん、東の国に詳しいのかい? オレが今回してる祭りの準備がまさにそれよ。祭りの期間中だけ店を東の国風にしたいんだが、どうも思いつかねぇ。他にもあったら言ってくれよ」
「そうだな……東の国は豆ばかり食ってたな。豆を色々料理してたような」
「豆料理って言ったって、煮るか焼くくらいしかないぞ」
「オレもよく覚えちゃいねぇけどよ。臭かったり、黒かったり、しょっぱかったり、四角かったり」
「兄ちゃん……。たかが豆だぞ。夢でも見たんじゃないのか?」
「……オレもそんな気がしてきた」
リットが東の国のあやふやな記憶を整理しようとしていると、急に外が騒がしくなり始めた。御者のいない馬車が、好き勝手に走り回るような音だ。
「祭りは明後日じゃないのか?」
「そうだ。あの音は別もんだ。あの音はある意味名物だね。あの音が聞こえて来たってことは、そろそろこっちにも来るぞ」
「なにがだ?」
「――暴れ馬がだよ」
店主の言葉と同時に、店のドアが乱暴な音を立てて開いた。
「オヤジ、酒だ!」
入るなり男が叫んだ。
「グンヴァ! ドアを壊す気か!」
「細かいことは気にすんな。壊れたら俺様が直してやるってんだ。ったく、祭りの準備でどこの酒場もやってねぇ」
グンヴァと呼ばれた男はズカズカと酒場に入り込むと、カウンターにいるリットの横まで来た。
ケンタウロスのグンヴァは普通の椅子に座れないため、カウンターで飲むのが約束事になっていた。
そしてリットは、『グンヴァ』という名前を聞いてから、ずっとグンヴァの顔を見ていた。
しばらくは無視して酒を飲んでいたグンヴァだが、逸れることのない視線に堪らず叫んだ。
「辛気臭え顔でなに見てやがんだ!」
「おい、グンヴァ。客に絡むなよ。この人は国の人間じゃないんだ」
「知るかってんだ! どこ見てんだ。俺様に文句でもあんのか? あぁん?」
グンヴァはリットの胸ぐらを掴むと、ドスの利いた声で投げた。
「しいて言うなら、その頭だな」
グンヴァの栗色の前髪が高く盛り上がっており、両サイドはキッチリ後ろに流して固められている。
「油で固めた男の髪型だ。文句あんのか?」
「オレはてっきり、リスでも頭で飼ってんのかと思った。王族ってのは、まともじゃいけねぇって法律でもあんのか?」
グンヴァは一瞬、面食らって黙ったが、すぐガナリ声を上げた。
「うるせえ! オヤジとは関係ねぇだろうが! 俺様はこの自慢の足でのし上がってくんだ!」
グンヴァは自慢の馬脚で椅子を蹴り上げる。
リットは蹴りあげた椅子には見向きもせずに、店主に声を掛けた。
「なんだ。お客さん知ってたのか」
「まぁな。あと、乳離れできてねぇガキと、やかましい女も知ってる」
「バニュウ様とシルヴァ様だな。グンヴァの弟と妹だ」
「アイツだけグンヴァって呼び捨てだけどよ。国中でイジメでもしてんのか?」
「逆だよ。王族扱いすると怒るんだよ、グンヴァは。反骨心の固まりというか……。街の若いもんを集めて、まぁ、夜通し遊び歩いて困ったもんだ」
グンヴァは舌打ちを響かすと、一口飲んだだけのコップをカウンターに叩きつけるように置いた。
「こんなとこまで王族だ国だなんて話をされちゃ、酒が不味くなる。俺様は帰るぜ」
「帰るなら金を払っていきな」
「んなもん、ツケだツケ」
「いいけど。後でヴィクター王がこっそりツケの清算に来てることを忘れるなよ」
またも舌打ちを響かせると、グンヴァは上着のポケットをまさぐり始めた。しかし、小銭すら出てこない。
「王族の息子ってのも貧乏なんだな」
「俺様はオヤジから金をもらってねぇんだ。一人の力で生きていく為にもな」
「もう既に生きていけてねぇじゃねぇか。――なんかツマミをくれ。余った分はコイツの酒代にでも回してやれ」
リットはポケットから金を出すとカウンターに置いた。
「借りだなんて思ってんじゃねぇぞ。この分はいずれ返すからな」
グンヴァはカウンターに向き直り、コップの酒を半分飲むと、威圧するように眉間に皺を寄せてリットを睨んだ。
「飲むなら黙って飲めよ。誰のおかげで酒が飲めると思ってんだ」
「返すっつってんだろうが」
「そういうことじゃねぇよ。オレが嫌味ったらしく店の前で突っ立ってたから、この店はこうやって開いたんだぞ。オレがいなけりゃ、オマエはこの店に入ることさえできなかったってわけだ」
「お客さん。やっぱりわざとか……」
店主はカウンターにナッツの入った小皿を置くと苦笑いを浮かべた。
「やってない酒場を開けさせる方法なら百は知ってる。タダ酒を飲む方法もあるけど、わざわざ開けてくれたから使わないでおいてやるよ」
「ついでに儲ける方法も教えてもらいたいもんだ」
「そんなの、オレだって知りてぇよ」
いつしか店主は祭りの準備をやめて、リット達と一緒に酒を飲んでいた。




