第二話
イミル婆さんの家の雪かきを終えると、太陽は身を隠し既に夜になっていた。
リットはイミル婆さんから貰ったパンを、片腕に抱くように持ちながら帰り道を歩いていた。
商品の売れ残りではなく、わざわざ帰りに合わせて焼いてくれたものだった。パンからはまだ湯気が立ち昇り、生物のニオイが消えた冬の乾いた空気に香ばしい匂いを広げていた。
月明かりは薄雲に隠れ、ほのかに照らされた大地は寒々しい青く煙るように染まっている。
雪がちらつきはじめ、積もる気配を見せ始めていた。
雪片は次第に大きくなり、リットが残してきた足跡を埋めるように舞い落ちてくる。きっと、今日の雪かきの分は明日の朝までに降る雪のせいで無駄になるだろう。そう考えると、このまま冬が終わらないのではないかとさえ思えてくる。
家の前に着くと、胸元にゴツゴツとしたものが当たっていることに気付いた。
パンだ。すっかり冷え固まってしまい、湯気も消えている。パンの皮に僅かに雪の染みが付いていた。
リットは鍵をかけていないドアを開けて店に入ると、錠を下ろして、カウンター奥の居間へと続くドアを開けた。
冬の外から家の中へと入ると、まるで夏の暑さのように感じた。
居間では、ノーラが薪を暖炉に焚べているところだった。
ノーラが投げ入れた薪が火に触れると、オイルを染み込ませていたかのように強く燃えた。
「旦那ァ、どこ行ってたんスか。店が開きっぱなしでしたぜェ」
ノーラが手についた木くずを払い落としながら、リットの元まで歩いてきた。
「仕事だ。ほらよ」
リットは持っていたパンをノーラに渡す。
ノーラがパンを割ると、まだほのかに湯気が立った。しかし、それは家の暖かさですぐに消えてしまった。
「私はてっきり、カーターのところで、お酒を飲んでると思ってましたよ」
「そのつもりだったんだけどな。イミルの婆さんの家の雪かきをしたら疲れちまった」
「自分の家の前の雪かきもろくにしない旦那が、人の家の雪かきをしてきたんスか?」
ノーラの驚きに、チルカが賛成するように首を縦に振る。
「どおりで雪が止まないわけね」
チルカは窓の外を見て言った。
雪は先程よりも強く降り続けている。風に飛ばされる雪は、虫がたかるようにガラスに叩きつけられていた。
「おい、ノーラ。外に出て、窓の板戸をおろしてこい。本物のガラスを使ってるから、割れたらもったいねぇ」
「はいさァ」
ノーラはパンをちぎって口に咥えると、裏庭へと続くドアを開ける。
リットがその背中に「店の方の窓も頼むぞ」と声をかけると、ノーラは一瞬面倒くさそうな表情を浮かべてからドアを閉めた。
「前から思ってたけど、アンタの家。稼ぎに対して立派過ぎない?」
チルカの言うとおり、リットの家は町の中でもかなり大きい家だ。二階建て自体は珍しくないが、一階に充分なスペースがあるのに二階があるのは、リットの家の他は宿屋くらいだ。
裏庭があり、そこに井戸もある。リットは町長以上の家を持っていた。
「なんだよ。人間社会の勉強でもしたのか?」
「一年も住んでれば、他の家と違うことくらいわかるわよ。こういうガラスだって、普通は使わないじゃない」
家の窓や保存容器のガラスは、『グラス・クラブ』という巨大な陸ガニの甲羅や、『グリッタホーン・ディア』という鹿の角を粉にして焼き上げたものから作られている。
リットが普段飲んでいる酒瓶も同じもので、あまり透明度は高くなく、子供が遊んだ後の川の水を掬ったように濁っている。
本物の透明なガラスは上流階級以上の身分の者が使うものであり、一般家庭で使われていることはあまりない。
本物のガラスの方が強度が高いということもなく、割れて取り替えることも考えると、値段が高い本物のガラスよりも、安い方のガラスを使うのが一般的だ。
しかし、リットの家の窓は本物のガラスが使われている。
そのことが気になったチルカは、執拗に質問を繰り返した。
「話したら色々長くなるけど、一言でまとめるならコレだな。――黙れ」
「アンタねぇ……コミュニケーション能力が欠落してるわよ」
「夜更かしして「妖精さん」なんかと、楽しくおしゃべりをする少年時代は、とっくの昔に過ぎ去ってんだよ」
「気持ちの悪い少年時代を過ごしてたのね」
「そんな自分を卑下するなよ。妖精って言ったって、馬の糞にたかるハエに比べりゃいくらかマシだ」
「アンタよ! アンタが気持ち悪いの! どうせ、妖精に対して都合のいい妄想を抱いてたんでしょ」
チルカは軽蔑するように口をゆがめて、冷ややかな笑みと視線を浴びせた。
「少なくとも、こんなに口の悪い妖精がいるとは思ってはなかったな」
「私だって、こんな嫌味な人間がいるなんて思ってなかったわよ。アンタのその性格どうにかなんないわけ」
チルカの言葉に同意するように、薪が音を立てて爆ぜた。
リットは立ち上がり火かき棒を手に取ると、薪をつついて火の粉が散るのを眺めた。そうして空いたスペースに新たに薪を焚べる。
「さぁな。どうにかしようと思ったことがねぇからな。ただ、敵と味方の区別はつきやすい」
「つきやすいもなにも、アンタの周りは敵ばかりでしょ」
「まったくだ。人ん家の花を勝手に売りやがる奴がいるからな」
「アンタが不味い御飯しか作らないから、自分で生き抜く知恵を身に付けたのよ」
「文句があるならリゼーネの森にいりゃよかっただろ」
「お土産の一つもないんだから、文句くらい聞きなさいよ。海賊なんて楽しそうなことやるなんて聞いてなかったわよ」
チルカは「アレも奪ってコレも奪って」と楽しげに妄想を広げた後に、悔しそうな瞳でリットを睨みつけた。
「別に海賊になりにいったわけじゃねぇよ。成り行き上だ」
「初めて妖精が海賊になったなんて、皆に自慢できたのに。当然私が船長で、アンタは下僕ね」
「今だって、人の庭のもんを盗んで売ったり、人のツマミを盗んで食ったり、山賊見てぇな暮らしをしてんじゃねぇか」
リットは椅子に座ると、酒をコップに注いだ。
「アンタ耳にネズミでも住んでて、糞でも溜まってるの? 山賊じゃなくて海賊よ」
「どっちもたいして変わんねぇよ。バカやって酒飲んで寝るだけだ」
「それじゃあ、アンタとも変わらないじゃない」
「家にいて、山賊も海賊もあるかよ」
リットはコップの中の酒を放り込むようにして飲み干す。
酒と暖炉でリットの体が充分に温まった頃、「寒い寒い」とノーラが両手をすり合わせながら戻ってくると、すぐさま暖炉の前で体を温め始めた。
「おい、店の方の窓はどうした」
店の外の板戸をおろすには家の中を通って店に出ないと行けないはずだが、ノーラは裏庭のドアを開けて戻ってきたままだった。
「ちゃんと閉めてきましたよォ。庭の雪山を登って塀の外に出て、外の雪山を登って戻ってきました」
ノーラの言っていることは本当らしく、ズボンは雪が溶けて染みができていた。
「泥棒が入りたい放題だな」
「入るならここじゃなくて、ローレンのとこに行きますって。わざわざお酒を盗みに、民家に入る泥棒なんていないんスから」
ノーラはしばらく体をオレンジ色に染めると、テーブルの上のパンを手に取りまた暖炉のそばに戻る。そして、揺らめく炎を瞳に映しながら、パンの続きを食べ始めた。
「甘いわね、ノーラ。誘拐ってこともあるのよ。この家には、世界で一番かわいい妖精が住んでるんだから」
「チルカっスか? まぁ確かに、暗い中光ってるから狙われやすいかもっスねェ。甘いですし」
「ノーラ……。鱗粉の味は忘れなさいよ」
「やっぱり花蜜とかよく飲んでるから甘いんスかねェ」
「甘いのが食べたいなら、ジャムでも食べてなさいよ」
チルカは戸棚からジャム瓶を抱きかかえると、ノーラの目の前に置いた。
ノーラはパンを一口サイズにちぎると、それを瓶の中に突っ込んで食べ始める。
「チルカもすっかり人間の暮らしに慣れましたねェ。でも、ずっとこの家にいていいんスか?」
「リットと同じで、ノーラも私を追い出したいわけ?」
「森を捨てたら太陽神の加護がなくなるとか言ってませんでした?」
「別に捨てたわけじゃないから大丈夫よ。ちょっと森の外に出てるだけだもん。ここでも、植物の世話はちゃんとしてるわ」
「ここは森じゃないけどいいんスか?」
「植物はすべて一つの太陽により芽吹き、太陽の恵みとなって大地に根を張る。森の植物も、草原の植物も、庭の植物も、全部繋がってるのよ」
チルカは両手を広げて話の大きさを表現したが、ノーラはどちらかと言うと話よりもパンに夢中になっていた。
「ノーラ……。こんな奴のとこにずっといるせいで、脳天気に拍車がかかって暴走してんじゃないの」
チルカはテーブルで寝息を立て始めているリットに、一度視線を向けた。
「他のところにお世話になったことはないですけど、たぶんきっと、旦那のところが一番居心地がいいっスよ」
「まぁ、気を使う必要はないわね。でも、ムカつくことのほうが多いわよ」
「気軽にムカつくことができるのも、居心地がいい証拠っスよ」
ノーラは大きく口を開けてあくびをした。
「上で寝るなら、薪を足していってよ。今日は冷えそうだから」
ノーラはチルカの言うとおり暖炉に新たな薪を焚べる。
灰が舞い、煙と一緒に昇っていった。
チルカが食器棚に戻ったのを確認すると、テーブルの上のランプを消し、ノーラは二階へと上がっていった。
暖炉のちらつく火明かりが、リットの背中を照らしている。
雪が降り積もり、白い絨毯に誰の足跡も付いていない朝方。外は静まり返り、時折鳥の鳴き声を敏感に拾い上げて響かせた。
そんな心地よい朝の静寂を破るように、遠くから軋む車輪と馬の蹄の音が混じり始めた。
町に入ると、馬車は静かに車輪の跡を雪につけた。
車輪の跡が止まったのはリットの家の前。御者台から降りた男が、重々しい鉄の足跡を付けながらドアの前に立ち、ノックの音を響かせた。
ノックの音は、昨夜の深酒でテーブルに突っ伏して寝てしまったリットの耳には入らず、しばらく家の中に響いた。
先に起きたのはノーラだ。毛布に包まったまま階段を降りてきて、リットの背中に手を置いて揺さぶる。
「旦那ァ……お客ですよ……」
「凍死してんじゃないの?」
チルカが食器棚の隙間から顔を出し、あくびをしながら言った。
まだ寝ぼけて力が入らないノーラが、リットの背中から手を滑らせ頭をぶつけると、ようやくリットは目を覚ました。
「なんだよ……。まだ鳥も朝便をしてねぇような時間じゃねぇか……」
「なんだよって。アンタ、この音聞こえないの?」
チルカは食器棚から身を乗り出して、取っ手のところを何度も叩いた。
するとようやくリットの耳にも、外からのノック音が聞こえてきた。
リットは冷たくなった鼻の頭をこすり、眉を吊り上げながら店へと向かう。
怒りのため息は、目に見える白い息となって吐き出される。
居間から店へと続くドアを開けると、外にいる者も中の音に気付いたのかノックをやめた。
リットは怒りが伝わるように乱暴にドアを開け、外にいる男を睨みつけた。
男は二人。どちらも鎧を着ているが、顔が見えるように兜は小脇に抱えていた。
リットは鎧の胸元に付いている紋章に目を移す。
満月に見立てた円。その後ろには十字架。
ディアナ国の紋章だった。
「……ここはリゼーネの土地だぞ」
リットが言い終わりに長く息を吐くと、白い息が男達の顔に当たった。
「しっかり許可を取ってから来ています」
ディアナ国の兵士達はリットが隙間から逃げないように並ぶと、押し入るように店の中に入ってきた。
「旦那の友達っスか?」
ノーラもチルカも見覚えがないらしく、首を傾げていた。
「いいや、知らねぇな。リゼーネに兵士の知り合いがいるんだ。これ以上兵士の知り合いはいらねぇぞ」
兵士はリットに何も答えることなく、手に持っていた巻物の紐を外して縦に広げると、一つ咳を挟んだ。
「我が国――ディアナ国の船を襲った若者二名、海賊行為及び、違法取引、不品行の数々――」
罪状が読み上げられているあいだ、リットはあくびを響かせていた。
「旦那ァ、まずいんじゃないっスか?」
「なにがだ?」
「なにって、東の国でのことがバレてますよ」
ノーラの声には珍しく焦りが滲んでいた。
「そうらしいな……。面倒くせぇことになった……」
「アンタなにやったのよ。王様の鼻の穴に指でも突っ込んだわけ?」
チルカはからかいとも驚きとも取れない声色だった。
「罪状が知りたけりゃ、耳を傾けろよ。一生懸命読み上げてるだろ」
「罪状が多すぎてわけがわかんないわよ。どうすんのよアンタ」
「なんだ、心配してるのか?」
「違うわよ。アンタが処刑されるなら、この家必要ないでしょ。私が貰うわよ」
「道連れって言葉知ってるか?」
リットは親指を上に向けて、爪先を首の端に付けると、横にすっと線を引いた。
「悪あがきって言葉知ってる?」
チルカはぐっと拳を握ると、親指を突き出して下に向けた。
「そんなこと話してる場合じゃないと思うんスけど……」
ノーラの心配はもっともだが、兵士はリット達の雑談を止めることはなかった。ただ義務的に、つらつら文字を書くように読み上げるだけだ。
「――国王ヴィクターの令状により、二名――」
そう言った途端、読み上げていた兵士の言葉が止まった。礼状とチルカの顔を何度も見比べている。チルカを見て困惑の表情を浮かべていた。
「なに見てんのよボンクラ。私は関係ないわよ」
兵士たちは互いに顔を見合わせて、コソコソと相談をし始めた。
「感じ悪いわね! 男二人でコソコソと、そっちの趣味でもあるわけ?」
チルカは兵士に向かって唾を吐き捨てた。
「おい、人の店だぞ。マーキングすんじゃねぇよ」
「今度はそのつまらないジョークを、牢屋仲間に言うことになるわね。アンタが私の吐いた唾に額を擦り付けて懇願するなら、隙を突いて兵士の目玉を潰してあげるけど……どうする?」
「どうしたもんか……。成り行きに身を任せるってのはどうだ? ――チルカ・キャプテン」
リットはチルカの名前を呼ぶ時に、わざと声を大きくした。
「アンタ! なんてこと言うのよ!」
「自分で「船長は私で、アンタは下僕」って言ったんだろ。チルカ・キャプテン」
「それやめさいよ!」チルカはリットに吠えた後、兵士達に向き直った。「まともな脳みそしてれば、私が関係ないのはわかるでしょ。なんとか言いなさいよ」
リットに言う時よりも、チルカの声は大きくなっている。噛みつかんばかり勢いだ。
兵士達は話し合い頷き合うと、リット達に向かって姿勢を正した。
「――三名。身を拘束。移送します」




