第二十四話
生き急ぐような短い夕焼けが終わり、北の大灯台から伸びる光は月夜の空に残像を残す。
はっきりとした残像はすぐに消えることはなかった。空を焼いたかのようにしばらくは残り続け、やがて燃え尽きたかのようにゆっくりと端から光を薄めていく。
灯台からの光は視界の隅に消え、残像が薄くなる頃になると、反対側の視界から戻ってくる。
いつまでも光の線が空に残っているような状態だ。
光は空と海を分け、上には星空が、下には相変わらずの夜が広がっている。灯台の光が強すぎるせいで、月や星の光が水面に映ることはない。
誰一人として秋の冴えた星空の余韻に浸る暇はなく、灯台の光の向こうを見ようと目を凝らしていた。
「ニャーの望遠鏡でも、流石にペングイン大陸までは見えないのニャ」
パッチワークは半開きになったままの口を動かした。腕を目一杯伸ばして、望遠鏡を伸ばしているが、腕が短いせいで最大まで伸ばせない。
リットは黙ってパッチワークから望遠鏡を取り上げると、最大まで伸ばして覗き込んだ。
リットの目に映ったのは、最初にこの灯台から見た時とは違う光景だった。
闇に遮られて止まっていた光は、水平線の彼方にまっすぐと伸びている。
闇に呑まれている空間を突き破っていた。
しかし、パッチワークの言うとおり、ペングイン大陸まで光が届いているかは確認できないので、本当に届いているのか、それとも途中で光が消えているのかはわからなかった。
「なぁ、キスケ。向こうに光が届いたって確認する方法はねぇのか?」
「そうですね……。わかりやすい確認は、向こうから船が来ることなんですが……」
暗闇では距離感が狂う。それが闇に呑まれる真黒なら尚更のことだ。
本来は東の国から見えないはずの距離にあるペングイン大陸。そこで起きている闇に呑まれる現象が見えるはずないのだが、それが見えている時点で既に距離感がおかしくなっている。
そして今は、闇に呑まれる現象に光の線を引く灯台の明かりのせいで余計に距離感がおかしくなっていた。
闇夜よりも濃い本物の黒は、近くにあるか遠くにあるかがわからない。
「これじゃ、大灯台の復活に成功したのかイマイチわからねぇな」
リットが目から離した望遠鏡を縮めていると、キスケがおもむろに口を開いた。
「ペングイン大陸まで届いているかはまだ確認できませんが、闇を切り裂いていることは事実です。闇に呑まれた海で彷徨ってる船には届いているかもしれません」
キスケの声は、自分自身にも聴かせるようなゆっくりとした口調だった。
「これだけ強烈な光だ。確かに船が海に出てたら気付けるかもな。それにしても眩しい……。火種のオイルに、妖精の白ユリのオイルを使ったら灯台が燃えそうだ」
リットは灯火室中央で燃える火種を見ながら言った。
今この灯台で使われているのは、ガマの油と冬椿の花びらから抽出した油を混ぜたものだ。この油に火をつけて龍の鱗で反射させているわけだが、回転して光が体に当たると、何十年に一度の炎天に晒されているように暑い。
太陽と同じ光を発する妖精の白ユリのオイル。ランプのような小さい火種で反射鏡もなしで使うのなら安心だが、灯台の松明のような火種に龍の鱗の反射鏡の元で使うならば、灯火室は焦げ付き、灯台はロウソクのように燃えてしまうだろう。
「そうですね……。今使っている油も、龍の鱗に合わせて調合し直さなければいけませんね」
「大変っスねェ」
ノーラは緊張感が欠ける、どこか間延びしたような喋り方で話した。
「大灯台に誇りはありますが、船は灯台ではなく、光を目印にするのです。ペングイン大陸の人々に見える光じゃないと意味がありません。その為に苦労を惜しまないのが灯台守なのです」
キスケは誇らしげな自分に酔ったのか、強い口調で答えた。
「フェニックスの羽の時と比べて、今の光はどうなんスか?」
ノーラの言葉で、いい気分に水を差されて冷静に戻ったのか、キスケの顔が曇った。
「不死鳥の羽が十とするなら、今の光は七くらいですかね……。――でも、自分の力で九にまで持っていく自信はあります!」
キスケは自分の言葉に頷き、小さく拳を握った。そうして自分を奮わせて、決意を心に刻んだ。
「こういう自信家には挫折を味あわせたくなるよな」
パッチワークがリットの言葉に同意し頷きかけたところで急に頭を上げた。そして、なにもなかったかのように目を伏せた。
「どうしてリットは、そう捻くれているんだ……」
エミリアがそう言ったのを聞いて、今度はしっかりパッチワークが頷いた。
「エミリアさまに同感ニャ。今大事なのは、冷やかしじゃなくて応援の言葉ニャ」
リットは一度パッチワークに冷ややかな視線を浴びせてから、エミリアを見た。
「自信で培ってきた自尊心なんて、一度の失敗で簡単に再起不能になるぞ。だから、早いうちに挫折を味あわせてやろうっていう、オレの優しさだ」
「また、わけのわからないことを……。たまには真面目になったらどうだ?」
「息が詰まるようなことは嫌いなんだよ。真面目になったら呼吸ができねぇ」
「そんなことはないハズだ。私はしっかり呼吸をしているからな」
そう言ったエミリアは少し息苦しそうだった。
エミリアだけではなく、この場にいる全員がそうだ。回る反射鏡の光が体を通る度に、汗が体からブワッと噴き出す。
特に獣人の二人は人間のリット達よりキツそうだ。パッチワークは手を舐めて濡らし顔を拭き、ハスキーは舌を出して呼吸を荒げている。
そうした人間とは違った体温調節の動作をする度に毛が舞う。残暑厳しくも、抜け毛の季節になったことを教えていた。
人間でも暑いことは変わらず、エミリアは汗で首に張り付いた髪を指で絡め取り、熱のこもった吐息を漏らす。顔は上気し火照っていた。
「鼻血が出そうだ」と、思わずリットも声を漏らした。
「旦那ァ、それオヤジ臭いっスよ」
ノーラは、エミリアの汗で濡れた姿を見て言ったと思い、呆れた様子を見せた。
「暑いんだよ……。ローストチキンにでもなりそうだ……」
リットが脈打つようにズキズキ痛むこめかみを押さえると、手の横腹で擦れた汗が水滴になって頬を伝って落ちていった。
「旦那がローストチキンになったら、私が美味しくいただきますのでご心配なく」
ノーラは一人涼し気な顔をしている。背が小さいので、一人だけ回る光が体に当たることがないからだ。
「今日はまだパンツを履き替えてねぇけどいいのか。股ぐらが物凄ぇことになってんぞ」
「最初から食べる気はないっスけど、その情報は聞きたくなかったっス……」
ノーラは露骨に嫌な顔をリットに向けた。
「確かに暑い……」
エミリアも否定することなく、暑さを口にした。
エミリアの汗を吸ったシャツは、身体の輪郭や胸に張り付き、色々なものを強調している。涼を取ろうと濡れたシャツを肩からはがすと、蒸れた生々しい微香が漂い始めた。
キスケは顔を赤く染めた。暑さだけが原因ではない。
「大丈夫か? ひどく顔が赤いぞ」とエミリアが心配そうに尋ねると、キスケはしどろもどろになりながら「大丈夫です」と小さく答えた。
リットはその様子をニヤニヤと下卑た笑いを浮かべながら見ていた。
「なにを見ているんですか……」
キスケは気恥ずかしさからか、やや不機嫌そうに言った。
リットは一度鼻を鳴らして笑う。
「子供の頃のオレ」
リットがからかいで答えると、キスケの顔は羞恥でのぼせたように目元まで赤く染まった。
「なんの話をしているんだ?」
何もわかっていない疎いエミリアに、からかいの笑みを向けて曖昧に答えた後、リットは額の汗を拭った。
「とりあえず夜風に当たらねぇか? オレまで顔が赤くなりそうだ」
リットの言葉に異議を唱える者はいなく、一同は灯台を下りていった。
本来は秋の夜とは言えない暑い夜だったが、汗ばんだ身体を吹き抜けていく風は、木枯らしのように冷たく感じた。
「苦労して龍の鱗を手に入れたわりには、感動もへったくれもなかったな」
冷たい地べたに座り込み一息つきながらリットが言うと、エミリアは顔の汗を拭っていた手を止めた。
「言葉にはしなくても、皆心には感じていたはずだ」
エミリアは風に流すように髪を掻き上げると、灯台を見上げた。
灯火室にいる時よりも、光の道筋がはっきりと見て取れる。
灯火室から龍の鱗で反射した太く強い光線が伸び、漏れた薄い光がその後ろと左右の三方向に伸びて十字架を作っていた。
月と重なると月が消えてしまうほど暴力的な強い光なのに、まるで聖なる光に見える。
これほどの光量は目にしたことがない。
興奮が血に混じり体中を流れたかのように、不思議な熱さをリットは感じていた。それは、久しく感じていない満ち足りた気持ちだった。
気付けば海岸や岬、あちらこちらに人と尻尾の影がある。シッポウ村の村人全員が、本来の姿を取り戻した大灯台を眺めていた。
変化が訪れたのは三日後だった。
一隻の船が現れ、瞬く間にその情報が村中に広がった。
時刻は昼で、灯台の明かりも消えているが、人々はひと目見ようと海岸付近に集まりだしている。
リットたちも海岸まで降りて、様子をうかがっていた。
最初はドゥゴングから船が来たのではないかと、期待に満ちた話をして船を眺めていたが、どうも船の様子がおかしい。
冬の海を渡ってきたかのように、船体からもうもうと霧のような白い煙りを漂わせている。
大きな穴が空きボロボロになった帆のせいで、船はかなり蛇行しながら風に流されていた。
誰かが操縦している気配はなく、ただ浮いているだけ。そう思えるほど不気味な動きだ。真昼の海に似付かわしくない異様な船は、風に流されるまま海岸へと近づいてくる。
「船だ! 船が来た」と誰かが突然叫んだ時は、それに応じるように次々と家から出て海を眺め始めたのに、ざわめきを広げるだけで誰も船に近づこうとはしない。
しかし、コジュウロウだけは違った。「幽霊船ならば、中の宝は早い者勝ちにござる! 一番槍は拙者がいただきもうす!」と、誰もが思っていたが口には出さなかったことを声高々に叫ぶと、海岸に吹き付けられた船へと乗り込んだ。
誰もコジュウロウを止める者はいなく、「人が居たのか」「宝があったのか」次の一声を待っていた。
誰もがそのどちらかの言葉を待っていたが、コジュウロウの一声は思いもしないものだった。
「リット殿!」
姿はなくコジュウロウが甲板から声だけを響かせた。
「リット。ご指名だぞ」
その場から動こうとしないリットの脇腹をエミリアが肘で突いた。
「聞こえなかったのか? コジュウロウは「一個どう?」と誰かに聞いたんだ。オレを呼んだわけじゃねぇ」
「リット殿! 早く来るでござる!」
コジュウロウは矢継ぎ早にリットの名を叫ぶように呼ぶと、縄梯子をおろした。
「聞こえたぞ。はっきり「リット」と言っているな」
エミリアは行って来いと、リットの肩を軽く叩いた。
「海賊船の次は幽霊船に乗れってか……」
リットは船を見上げる。蜘蛛の巣に埃が溜まったかのようなボロボロの帆が真っ先に目に入った。
船全体が灰を被ったような色をしている。元の木の色はどこにもない。
「まだ、そう決まったわけではないだろう」
「これに乗ったら、「まだ」が確信に変わっちまうだろうが」
リットは乗り込む気はなかったが、何度も名前を呼んで急かしてくるコジュウロウの声にイライラが溜まり、腹立ち紛れに縄梯子を上った。
甲板に足を下ろす頃には、リットはコジュウロウにのせられたことを早くも後悔していた。
甲板は氷の上に立っているように寒く、立ち込める水蒸気のせいで視界も悪い。
後部甲板にいるコジュウロウの姿が影になって見えている。
コジュウロウもリットの影に気付くと、「こっちにござる」と手を振って合図を送った。
「なんなんだよ」
リットは苛立たしげにコジュウロウの肩を掴んだ。――つもりだった。
手のひらには氷の彫像を触ったような冷たい感触が広がる。
リットは思わず手を離し、嫌な予感を感じながら顔を覗き込んだ。
コジュウロウではない。誰とも知らない顔は、不快な土気色の皮膚をしており、口は半開きで歯茎がありえない色に染まってる。そして、薄く飛び出た眼球でリットを見ていた。
リットが驚きに言葉にも声にもならない短い悲鳴を上げると、口から魂が抜けたかのように、大きな白い息が出る。
「恐いでござろう……。拙者も思わず心の臓が止まりそうになったでござる」
立ったままの男の死体の影から、コジュウロウが姿を現した。
「本当に幽霊船じゃねぇか……」
リットは平静を装うように言ったが、吐く息が白いせいで、落ち着きを取り戻していない荒い呼吸があらわになっている。
「正しくは死体船でござるな」
「……それで、なんでオレを呼んだんだ?」
「この恐ろしさを共感してほしかっただけでござる」
思わずリットがコジュウロウに殴りかかってやろうと思ったところで、驚いた拍子に何かを掴んでいたことに気付いた。
まるで髪の毛を触っているかのようなサラサラとした感触。リットがグッと力を込めて握ると、同じ感触のものに強く頬を叩かれた。
「ようやっと、気付いてくれたか」
テンコは、リットに握られ形が変わった毛並みを元に戻すように尻尾を振った。
「まだ気付く前だったよ」
リットは唇に張り付いたテンコの毛を、唾と一緒に吐き捨てた。
「テンコおばばも来たでござるか」
「こんな興味深いものを、妾が見逃すはずないのじゃ。それに生きてる者がおれば、薬が必要であろう」
テンコは持っていた大きい薬箱を床に置くと、恐れることなく死体の様子を確認し始めた。
「事切れてから、そんなに日にちが経っておらんのう。紅色の死斑……死因は凍死じゃ」
「やはり仏様でござったか。南無にござる」
コジュウロウは男の死体に向かって手を合わせた。
「まさかこの死体が、この船を動かしたのか?」
「目をよう見てみぃ。なにか信じられないものを見た後のように、驚きに見開いておるじゃろう?」
テンコの言うとおり、死体の目はなにか一点を見つめたまま固まっていた。
「そして、わずかに上がった口角。希望に心が緩んだ証拠じゃ」
テンコは扇子の先で、死体の上唇をなぞった。そして、その扇子を灯台に向ける。
「死の直前に目に入った。あれを目指して来たというわけか」
リットはテンコの扇子に導かれるように、灯台に目を向けた。
「灯台は無事、導きの光の役目を取り戻したらしいのう」
「導いたのが死人じゃな。もう、二、三日踏ん張れば太陽を拝めたってのに」
リットは死体の顔を見る。もう、最初に感じたような恐ろしさはなかった。傍らに落ちていた薄汚れた帽子を拾うと、軽く埃を払って死体にかぶせる。帽子は頭に吸い付くようにピッタリとハマった。長年かぶっていた証拠だ。
「このままでは死体が腐敗して異臭がしてしまう。そうなる前に埋めてやるでござる」
珍しくコジュウロウが真面目なトーンで言ったが、リットはそれを茶化すことなく「あぁ」と短い言葉で返した。
この船には老若男女合わせて五十余りもの凍死体が乗っており、角笛岬とは反対にある岬に村人の協力のもと埋められた。
全員を埋め終わる頃には、灯台から光が伸びていた。
寒くないようにと墓の傍らにかがり火を灯し、死者を送る。
「もう少し早く、龍の鱗を見つけていれば」
エミリアが風の音でかき消されそうな声で言った。
「これ以上早くても遅くても、あの船は助からねぇよ。最後は人の手で埋められたんだ。それでよしとしようじゃねぇか」
「そんなことは――いや、そうだな。すまない……気を使わせた」
「まぁ、故郷には埋めてやれねぇけどな」
リットは酒瓶の蓋を開けると、墓に向けて傾ける。
酒は墓石代わりに建てられた木に染み込み、吸いきれなかった分は地面に流れ落ちていった。掘り返したばかりの湿った土に酒溜まりをつくる。
「おい――リット!」
エミリアが慌ててリットの手首を掴んで、酒をかけるのを止めた。
「生きてる間に充分飲めなかったんだ。せめて、死んだら飲ませてやりてぇだろ」
リットの他にも数人が目の前の墓に酒をかけている。
リットが再び酒をかけようとしたところで、エミリアが恥ずかしげに言った。
「いや……そこは子供の墓だ」
エミリアはリットの無礼を、自分がしたことのように恥じて目を伏せた。
「まぁ……口に届く頃には、アルコールは飛んでるだろ」
リットはしゃがみ、「親にはバレるなよ」と誰にも聞こえないような小さな声で墓に向かって話しかけると、残りの酒を自分の口へと運んだ。




