第二十二話
薄暗い船室の中で、リットとエミリアが向かいあっていた。
二人共椅子に座っており、間には机代わりの酒樽が一つ。その上に龍の鱗が置いてある。
青空と夜空。その両方を兼ね備えた天空に優しく溶けるような瑠璃色をした龍の鱗が、壁から漏れてくる僅かな陽の光を取り込むようにして輝いていた。
「キスケに確認しなければいけないが、龍の鱗に間違いなさそうだ」
エミリアは龍の鱗を眺めながら、満足気な笑みをこぼした。
「仮に違ってたとしても、龍の鱗の代わりになるだろ」
リットは龍の鱗を掴むと、傾けて光が当たる位置に調節した。
すると、部屋に入る塵のような光を全て集めたかのように、壁に向かって光の道筋ができた。
「そうだな。まだ、気を抜くわけにはいかないが、大手を振ってリゼーネに帰ることができそうだ」
「オレは帰ったところで、今とたいして変わらねぇ暮らしだけどな。いや……帰ったら、また長期間家を空けてた分の大掃除をしなけりゃいけねぇ……。帰りたいやら、帰りたくないやら……」
「そう嘆くな。帰ったら掃除くらいは手伝ってやる」
「わざわざ家まで送る気か?」
「そうしなければ、冬を越す分の妖精の白ユリのオイルが足りないからな」
「そっちの庭じゃ、まだ妖精の白ユリは咲かねぇのか?」
「まだ芽も出ていない。生えるのは雑草ばかりだ。姉上はどことなく寂しそうにしている」
「ライラの寂しそうな顔なんて想像できねぇけどな」
言いながらリットは、布で龍の鱗を包んだ。
こうしないと、龍の鱗が光を反射して周りを焦がしてしまうからだ。弱い光なら大丈夫だが、ランプの光だと船が燃えてしまう可能性もある。
龍の鱗がしっかり包まれるのを確認すると、エミリアはランプに火を灯した。
闇を押し広げるように、真昼の光線が広がる。
「あれで姉上は寂しがり屋だ」
光りに照らされたエミリアの顔は、花が咲きほころんだような優しい笑みを浮かべていた。
「ますますわかんねぇよ」
「わかりやすいと思うが……。リットには兄弟がいないのか?」
「……いるぞ。マッチョマンの天使の弟がな」
リットは腕の筋肉を見せ付けるようなポーズをとるが、腕が痙攣したように震えるだけで、力こぶはできてはいなかった。
「リットのような男でも、弟は天使のように可愛がっているのか」
エミリアは珍しくからかうような笑いを小さく響かせた。
「ようなじゃなくて、本物の天使だ。野暮ったい羽を背負ったな」
「ということは、リットも天使族なのか?」
エミリアは変わったところがないかと、リットをまじまじと眺めた。
「そう見えるんだったら、ハスキーのメガネでも借りろ」
リットが煙たそうにエミリアの視線から顔を逸らした時、杖を突く音、足音、尾びれを引きずる音の三つが響きながら階段を降りてきた。
「黒い羽は似合いそうだ」
セイリンは皮肉をたっぷり込めて言った。
「お互い様だ。もっとも、そっちに羽が生えたら、いよいよ何者かわからなくなるけどな」
「いっそ、その方が踏ん切りがつくかもな」
「欲張んなよ。次は角でも生やすつもりか?」
「それか、誰かさんを締め上げる触手でもいい。随分効果があるようだからな」
セイリンはリットの腕に残ったアリスの触手痕に指を付けると、まるで誘惑するかのように肩に向かって這わせた。
「このままで童貞の前に現れればオレは英雄扱いだ。――もしくは、キスマークなんて言葉を知らなくて病気扱いされるか。どっちにしろ悲鳴は上がる」
リットが肩をすくめると、セイリンも肩をすくめた。
「英雄も病気も人には理解され難いものだ。それと、偏屈な男もな」
「いいんだよ。理解されなくて。良き理解者なんて、言い換えればただのおせっかいだ。な?」
リットはエミリアを見る。
エミリアは難しい顔をして、鼻から少し吐息を漏らした。
「それは、私を良き理解者だと褒めてくれているのか、それともおせっかい者だと貶しているのか……」
「難しい問題だな。間を取って、融通が利かない堅物ってのはどうだ?」
「どう間を取ったらそうなるのか、聞きたいところだな」
「そこだ。そういうとこが、融通が利かねぇんだ。帰りの船くらいは融通を利かせてんだろうな」
東の国に来る時はエミリアの父親の船に乗って来たが、当初の予定より時間が掛かり過ぎてしまった。
迎えの船はもう行ってしまっていた。
「多少カラクサ村で待つことになるが、父上は秋に最後の取引をする為、東の国に来るはずだ。もし来なくても、ドゥゴングに向かう船に乗せてもらえばいいだけのことだ」
「……そういうとこは融通が利かなくていいんだけどな」
「嫌なのか? どうしても父上の船がいいのなら、手紙を出すぞ。なにか理由があるのか?」
「見知った船の方が、船仕事をサボりやすい」
「この船に乗った時も、最初からサボっていただろ」
セイリンは呆れと嘲笑を合わせたような笑みを浮かべる。
リットは海の上で暇になったら働くが、大抵はアリスを調子付かせて自分の分をやらせるか、イトウ・サンに押し付けていた。
「聞いてたか? サボりやすいってのが大事なんだよ。サボることに頭を使ったら、サボる意味がねぇだろ」
「私達が下っ端という立場で船に乗せてもらっていることを忘れているんじゃないのか?」
サボることなく真面目に働いていたエミリアが、睨みを利かせた非難の視線をリットに浴びせる。
「出世したってことだろ。デキる男はすぐに出世するからな。船に乗って二、三歩で出世してもおかしくねぇ」
「セイリンがしづらいのならば、私から説教をするが?」
セイリンはエミリアの提案を、喉を鳴らした笑い声で返した。
「まぁ、アリス以外からは文句がきてないからな。それだけ海賊暮らしに水が合ったんだろ」
「そっちみたいに魚だったら水は大事だろうけど、こっちは酒があればいいんだよ」
「私にとってはどっちも同じようなものだ。人魚で酒飲みだからな。――それで、これが龍の鱗か」
セイリンは樽の上にある包みを開いた。
龍の鱗はランプの光を存分に反射して、壁に光を映す。
「あまり興味がそそられんな」
セイリンは壊れたおもちゃを見るような視線を向けると、龍の鱗を布に包み直した。
「興味を持たれても困るけどな。まぁ、ここまで反射率が高いと、ムカつく奴の家を燃やすくらいにしか使えねぇな」
「そんな使い方はしないぞ。龍の鱗は灯台の為に使うんだ」
エミリアが静かに強い口調で言った。冗談でもそういう言い方はよくないと目を細める。
リットはしばらくなにか言い返してやろうと思っていたが、エミリアの有無を言わせないような瞳を見ると、自然と頭から言葉がこぼれ落ちていってしまった。
「そういう力もあるってことだ。注意して運ばねぇとな」
リットから出た言葉は心にも思っていないことだった。そして、お手上げと言った風に肩をすくめた。
そんなリットの様子を見て、エミリアは一応は納得してみせた。
「そうだな。念の為に、布に包んだ龍の鱗は木箱にしまっておいた方がいいだろう。欠けたりしないように、詰め物もした方がいいだろうか?」
「ついでに上等な服でも着させて、化粧もさせるか?」
エミリアの心配ぶりに、思わず止めていた軽口がリットの口から飛び出した。
「冗談を言っている場合ではない。欠けるならまだしも、割れてしまったらどうする。今までの時間が無駄になるんだぞ」
「そんな簡単に割れるようなもんでもねぇだろ。隠れ家に戻るまで、大事に腕にでも抱いてるつもりか?」
「それも一つの手だな。一晩交代でどうだろうか?」
「鶏にでも頼めよ。そしたら鱗から雛が孵るかもな。龍と鶏。バジリスクとコカトリスどっちが生まれてくるか賭けでもするか?」
リットは子供をおどろかせるように手を広げて、エミリアをからかった。
「……それは協力する気がないということだな」
「良かった。伝わった。ハッキリ言わねぇとダメかと思った」
「今日は私が管理しておくが、明日はリットに頼むからな。一度引き受けたことは、例えノリ気ではなくても、最後まで責任を持つべきだからな」
エミリアはランプの火を消すと、龍の鱗を持ち、空き箱を探しに甲板へと上がっていった。
「なんか、子守を押し付けられる気分だな。めんどくさいことこの上ねぇ」
「夜泣きもお漏らしもしない赤ん坊の世話なんて楽じゃないか」
「それじゃ、セイリンがやるか?」
「私は鱗を赤ん坊代わりにして、夜な夜な抱いて眠る特殊な性的趣向は持ち合わせていない」
「……一つ聞きたいんだけどよ。酒瓶を抱いて寝るのは特殊な性的趣向には入ってないよな」
「股間に押し付けてなければな」
「それって無意識にやってるのも入るか?」
「もちろん」
「さて、潮風にでもあたってくるか……」
隠れ家に戻った数日後、リット達は帰るための荷造りをしていた。
「旦那ァ、これはどうするんスか?」
ノーラは人工的に作られた人魚の卵が入った木箱を引きずりだした。
「それはいらねぇ。ここで埃を蓄えて、カビでも生やしてもらう」
「なんかもったいないっスねェ」
「こっちに入り浸ってるけどよ。自分の荷造り済んだのかよ」
「バッチリすよ。私の荷物なんて、食べれば全部なくなりますから」
ノーラは食べ物ばかり取引していたおかげで、ここに来た時と荷物の量は変わらない。
変わってリットは、増えたかさばる酒瓶をどうやって持って帰ろうか悩んでいるところだった。
「全部詰め込んで背負うとなると、肩が抜けるな……」
「いっそ、今飲めるだけ飲んじゃえばどうっスか?」
「あのなぁ、アホみてぇに飲んで泥酔してるところをエミリアに見られたら、持ち帰る前にエミリアに全部捨てられるだろうが」
「私は構いませんよ。お酒があってもなくても、損も得もありませんからねェ」
「オレにとっては損しかねぇんだよ」
そう言ってリットは部屋の中を見回す。
まるで大宴会後のように散らばった飲みかけの酒瓶は、部屋のいたるところに置いてある。狭い部屋のせいで、行き来のスペース以外は酒瓶で埋まってると言っても過言ではない。
今もハンモックの上にあぐらをかきながら荷物の整理をしていた。
他にも暇つぶしの為に取引して手に入れた本もあるが、もう一度読もうと思うような本ではないし、酒をこぼしてカビが生えたものなので持って帰る必要はない。
同じく取引で手に入れたトマトの苗が植えられた鉢もあるが、既に実は食べ終わり、焼かれたように茎や葉がしわがれている。
「五、六個はノーラに持たせるとして、なんとか残りの酒をエミリアに持たせられないもんか……」
「無理でしょうねェ。お酒じゃなくても、自分の物は自分で持てって言われそうっスよ。いいじゃないっスか。持てない分は置いていっても。きっとアリスとかが飲みますって」
「それが嫌なんだよ。タダで手に入れたものならまだしもだ。わざわざ取引したもんを誰かに飲まれるなんてな」
「タダで手に入れたようなもんじゃないっスか。あと、さっきは反論しませんでしたけど、私の鞄にはチルカへのお土産が入ってるんで、お酒なんか入れられませんよ」
ノーラは足を漕いで、ハンモックを軽く揺らしながら言った。
「詰めりゃ入るだろ。あんなのに土産を用意したとしても、大した量にはならねぇだろ」
「ところがどっこい! 貝殻なんで無理なんスよ。割れちゃいますからねェ」
「安っぽい土産だな。チルカにはお似合いだけどよ」
「旦那はチルカにお土産持って帰らないんスか?」
「あぁ?」
リットは何の意味もない返事をした。
「……聞いてみただけっスよ。チルカにじゃなくても、旦那はお土産なんて用意しませんもんね」
「土産話がありゃ充分だろ。他人のために重い荷物を増やす意味がわかんねぇよ」
「それが人の情ってもんス。当然イミル婆ちゃんの分のお土産もありますよ。媚を売っておけば、タダでパンを食べられるかもしれないですし」
「なにが人の情だ。浅はかな計算しやがって」
「でも、実際お土産にはイミルの婆ちゃんの小言を軽減する力があると思うんスよ」
「……それ、オレら二人からってことにしねぇか?」
「別にいいですけど、旦那と私からのお土産が貝殻って余計小言を言われないっスかね?」
「まったく……面倒くせえ婆さんだ」
リットが悪態をついていると、荷造りを終えたエミリアが酒瓶だらけの床を慎重に歩いてきた。
「何の話だ?」
「将来のエミリアの話だよ」
「……何の話だ?」
エミリアは同じセリフを、表情と声色を変えて言った。
「小言もほとほどにしとかねぇと、影でグチグチ言われるぞってこった。それより、そっちで龍の鱗を持ってくれねぇか?」
「いいぞ。いくらか余裕があるからな」
「保存食も頼む。オレが持ってると埃だらけになりそうだからな」
「しょうがない奴だ……。まぁいいだろう」
「あと酒瓶も頼む」
「いいぞ――と、この流れで言わせようとしているだろう。まさか、この部屋の酒瓶を全て持っていくつもりじゃないだろうな……」
「お残しはするなって言われて育ったんでな」
「それは食事のことだろう。持てないのなら、荷物を減らせばいいだけのこと。これはいらないだろう」
エミリアは一つ酒瓶を持ち上げた。中身はほとんど入っていない。傾けないと中身が確認できない程だ。
「いいか、中身が入ってるってことは必要なものってことだ。わかったら、今すぐその手を離せ」
リットはエミリアに向かって人差し指を突き付ける。
エミリアはその指を掴むと、リットの方に向けさせた。
「自分のせいだ。文句があるのならば、こういう中途半端な飲み方はするな。一瓶ずつ空ければいいだろう」
「それができたら聖職者にでもなってるつーの」
「今からなればいい。飲んでもいいから、ちゃんと残り少ないのは始末しておけ」
エミリアはリットの荷造りの様子を確かめると部屋を出て行った。
「それで、飲むんスか?」
「正直、こんな一口分にもならねぇ酒を飲むのはなぁ……。惨めったらし過ぎる……。かと言って捨てるのも嫌だ。――ノーラ。中途半端に残ってる酒を全部集めろ」
「私はお酒なんか飲みませんよ」
「全部混ぜてコジュウロウの土産にする」
「いくらなんでもバレると思いますけどねェ」
「高い酒だって言えば、騙せるだろ。普段飲まねぇもんは気付かねぇよ」
「どうせ旦那も気付かないんだから、自分で飲めばいいのに……」




