第十四話
海は百万の鏡を浮かべたような輝きを放っている。
そのどれか一つが龍の鱗だったらどんなに楽だっただろう。いや、百万から一つを探しだすのは楽なことではない。でも、最初に手を伸ばした一つが龍の鱗の可能性もある。しかし、そんな都合のいいことはない。大抵途中で止めておけば良かったと思うだろう。
リットは考えているようで考えていない思案を、海に浮かぶ一つの藻のように頭のなかに浮かばせていた。
そして、口からは頭の中に漂うこととは、全く違うものが吐き出されていた。
「ウイスキー……つまみはスモーキーなチーズで」
リットは戦場から帰ってきた兵士が、故郷の街を高台の風車小屋の窓から見下ろして物思いに耽るように、船の手すりに片肘を付いていた。
「ラム……つまみはナッツで……」
同じような体勢で、波の行末を目も虚ろに適当に眺めているアリスが答えた。
「ビール……つまみはいらねぇから大樽で……」
リットが喉に穴が空いているかのように声を震わせて言うと、アリスも同じように張りのない声で答えた。
「もう、なんでもいいぜ……酒なら……」
禁酒五日目の朝。予定では三日のはずだったが、一度禁酒を始めると、エミリアにいいように禁酒期間を伸ばされてしまっていた。
リットとアリスの二人は、二日酔いの時以上に生気のない表情を浮かべている。暑さにやられ舌を出した犬以上に、体から力が抜けていた。
アリスがこんな状態でもボーン・ドレス号は順調に波をかき分けて進んでいる。理由は単純にセイリンがいるからだ。
当初はアリスだけの予定だったが、急遽セイリンも船に乗ることになった。私用があり、途中で船から降りると言っている。大灯台の下でハープの練習をするためだろう。
アリスの乱暴な指示とも、テレスの緻密過ぎる指示とも違い、セイリンが指示をするボーン・ドレス号は存分に帆に風を孕ませ、気持ち良く海原を走っていた。
「すっかり仲良くなったな。二人で海を眺めるなんて」
清々しく吹き抜けていく潮風に、凛とした良く通る声が混ざる。
リットはその声の持ち主に、野暮ったく睨みを利かせた。
「それって皮肉か? エミリア」
「そんなところだ」
どこか満足気な表情で答えるエミリアの横では、ノーラが楽しげに笑っていた。
「上手くなったもんだ……。今のオレには堪えるよ」
「そう悪いことばかりではないはずだ。夜はぐっすり眠れるだろう? いつもより顔色もいいぞ。まぁ、表情は別としてだが……」
リットとアリスの顔を見て、エミリアは苦笑いを浮かべる。
「お酒を飲んでも飲まなくても、朝はいつも同じ表情ですねェ、旦那は」
「朝昼晩、三六五日、脳天気な顔してるオマエには言われたくねぇよ」
「脳天気。それは健康な証拠っス。旦那が暴飲して元気がなくても、私は暴食しても元気」
ノーラはシャツの袖を肩まで捲り、全く膨らまない力こぶをみせる。
「嘘つけ。しょっちゅう食い過ぎで気持ち悪くなって転がってるだろうが」
「あれは、消化に良い体勢を探してゴロゴロしてるんっスよ。次の日もおいしくご飯を食べるために」
ノーラは甘い考えとばかりに、短い人差し指を立てて左右に振ってみせた。
「脳みそまで消化されてんじゃねぇか? 次にその短い指を振ったら噛みちぎるぞ」
「ご機嫌斜めっスねェ……。もう、いっそお酒を飲ませたほうが良いんじゃないっスか? 飲まなくてもダラダラしてるんなら、飲んでても一緒ですよ」
ノーラは人差し指を引っ込めながら言う。
「いいこと言ったぞ、流石ノーラだ。もうちょっとエミリアに畳み掛けてくれ、泣き落としでも脅しでも何でもいい。ナイフなら貸すぞ」
「……前言撤回っス。情緒不安定っスね」
「だいたいなんで禁酒なんてさせんだよ。いいことなんか一つもねぇよ」
「そんなことはない。酒が抜けた日の朝は気持ち良いだろう」
「朝からこいつとグダグダしてるのに、気持ちいいもクソもないぜ」
アリスは顎をしゃくってリットを指す。
「同じ言葉を返すぞ……」
「夜もそうだ。部下達は酒を飲んでるのにアタシは飲めねぇから、暇をつぶすにはリットと居るしかねぇ。こんな男と一緒にいて楽しいわけねぇだろう」
「うるせぇなぁ……。なんなら、ついでにベッドも共にしようか?」
「旦那ァ……それ、ローレンみたいっスよ」
「……忘れろ。だいたい、オレ達だけ禁じられるってのがおかしいんだよ。エミリアとノーラもなんか禁止にしてみろってんだ」
リットは唾を吐くように言い放った。
「そうは言うが、私はお酒を飲まないからな」
「私も飲まないっスよ」
ノーラとエミリアの二人は顔を見合わせて小難しい表情を浮かべる。
「まず、ノーラ。断食しろ」
「そんなの死んじゃいますって」
「次にエミリア。禁酒するのを禁止にしろ」
「それは意味が無いだろう……」
二人はリットの提案に難色を示す。
「なんだよ。付き合う気がねぇのか」
「ないっスよ。旦那が勝手に言ってるだけなんですから」
「私はあるが。……そうだな。リットとアリスが禁酒をしている間、私は鍛錬をするのを禁じるか」
「そりゃ、ただの休憩だろ……」
リットは胃の内容物を吐き出すような重いため息をついた。
「アタシにいい考えがあるぜ」
アリスは触手をリットの腕に絡ませると、引き寄せて耳打ちをした。
「死体は海に流すのか? それともどっかの島に埋めるのか?」
「ちげえよ! エミリアに酒を飲ませて、酔い潰れたところでアタシ達が酒を飲むんだよ! 友好の証とかなんとか言っとけば、エミリアだって酒を飲むだろ」
「そりゃ、いい考えだ」
「だろ?」
アリスは得意気に鼻を鳴らすと、もう既に酒にありつけたかのような笑みをこぼした。
「今度から、そういういい考えが浮かんだ時は、小さな声で頼む」
リットの視線は横にいるアリスではなく、前を向いている。リットの視線の先を辿ると、エミリアが呆れて頭を抱えているのが見えた。
アリスはエミリアと目が合うと、視線を空に向けた。空を飛ぶ海鳥を目で追い、視線を一周させると、またリットを引き寄せた。
「……取り返しがつくと思うか?」
「さぁな。とりあえず試してみるか。――エミリア。親睦会も兼ねて食事会でもしねぇか?」
「この流れですると思うか? そこまで頭が悪いと思われているのは心外だな」
「だろうな。で、結局いつまで禁酒させれば気が済むんだよ。まさか、龍の鱗が見つかるまでとは言わねぇよな」
リットは疑心に満ちた目で、エミリアの次の言葉を待っていた。
「そうだな……。とりあえず、次のフナノリ島まで頑張ってみろ」
「そのとりあえずってのをやめてくんねぇか?
「目標が近いとやる気が出てくるだろう? 明日が明後日、明後日が一週間。一年だって遠くないはずだ」
「一年も禁酒したら、健康になっちまうだろ。オレは浅く長く生きるつもりはねぇんだよ。太くそこそこ長くでいいんだ」
「旦那って結構図々しいっスよね。普通は太く短くっスよ」
「そりゃ、オマエの足のことだろ」
「……私思うんスよ。もし、私が傷つきやすい、か弱い女の子だったらどうすんスか?」
「んなの、オレがどうこうよりも、三日も持たずに逃げ出してるだろ。それを何年も居座りやがって」
「そういえば、オマエらはどういう関係なんだ?」
アリスはリット達を順番に見渡した。セイリンに仲間が増えると聞かされてただけで、今まで身の上なんてものも気にしたことがなかった。
それが酒も抜け、暇になった今、ふと気になっていた。
「元依頼人の都合のいい世間だけを知ってるお嬢様と、足が短くて逃げきれなかった元パン泥棒の居候だ」
リットの説明にエミリアとノーラの二人は、あまり納得のいっていない顔をする。
「私は世間知らずというほど子供ではないぞ」
「男の欲望の薄汚さを知らねぇうちは、婆さんになっても世間知らずだよ。なぁ、アリス」
リットはオマエもそうだぞと、からかった風に聞いたが、アリスはそんなことには気付かずに、知った風に頷いていた。
「まったくだぜ。アタシみたいに男らしくなりたかったら、男を知れってんだ」
「男が男を知って男らしくなれるかよ……」
「意味がわかんねぇぜ」
リットが耳打ちをすると、アリスの顔をがみるみる紅潮していく。耳の先まで赤くなったところで、アリスは言葉が出ずに口を鯉のようにパクパクさせていた。
「なるほど。アリスの反応でわかった」
アリスが顔を赤くするのはそっち系の話しかないので、疎いエミリアでもだいたいの見当はついた。
「どこかズレてる二人のことは置いておいて、私を泥棒扱いとは酷いっスよ」
「オマエの場合は誇張なしだけどな」
「人生魔が差すってことはあると思うんスよ」
「まぁ、二十回くらいはあるな」
「そういうことですよ。ちゃんと恩は忘れてませんぜェ」
「返す気がねぇなら、忘れるのと変わんねぇよ」
「留守番したり、店番したりで少しずつ返してると思ってるんスけど」
「それは居候の分の借りだろ」
「最初の借りが、どんどん返せなくなっていく。まるで借金みたいっスね」
ノーラはまったく気にした様子がなく言う。
その後すぐにセイリンの「風向きが変わったぞ!」という声が響き、帆を動かすために全員バラバラに散っていった。
その頃ドゥゴングでは『ムーン・ロード号』と名付けられた巨大商船が出港したところだった。
外装は至ってシンプルで、大きさ以外に目立ったところといえば、女神が満月を胸に抱えている船首像くらいだろう。
船が大きいということはそれだけ貯蔵するスペースも広くなるので、食料品は食料品のスペースへ、織物は織物のスペースへ、交易品を種類ごとの部屋に保管することができる。
仕分けが楽で、港に着いてからの仕事がスムーズに進む為、商船としてはうってつけだった。
年に数度船を出さなければいけないのを、一回で済ませるほどの大きさがあるムーン・ロード号は、ドゥゴングの港でも大層目立っていた。
様々な船を様々に輝かせる太陽の下。一人の男がドゥゴングの町を歩いていた。
落ちている小銭を探してるかのようにゆっくりとした足取りだ。
あまりの天気の良さに、妻の目をすり抜けて店から飛び出して町中を歩いていた。
最初、妻に店を任せてふらつく罪悪感はあったが、人混みに紛れると心まで紛れてしまったようで、こんな天気の良い日に働くのはバカのやることだと、心の中で悪態をつく余裕まで出てきた。
せっかく仕事をサボったものの、目的があるわけではなく、とにかく暇だった。
人波に任せて町をうろついていたら、いつのまにか船着場を歩いていた。
ちょうど今出港したばかりムーン・ロード号を後ろ姿を見送っている。
片手には手持ち無沙汰を解消するために、いつの間にか買っていた酒瓶を持っており、もうこの後に仕事に戻る気はない。
男は一口酒を飲むと、ふいに話し掛けた。
「あれは、どこの金持ちの船だ?」
「『ディアナ国』の船だそうよ」
隣に居合わせた、買い物帰りの若い女が答える。手に持ったカゴからは、カブやニンジンの葉が飛び出ていた。
「いいねぇ、不況知らずの国は。船もどでかいときたもんだ」
男は腕にくすぐるように当たっている根野菜の葉を手でどかすと、腕をかきながら言った。
「それがね、個人商船だけど国がお金を出したらしいわよ。なんでも、船の中は野菜畑が広がってて新鮮なまま野菜を運べるらしいって」
女は話したくてしょうがないといった様子で、聞きかじったうわさ話を大きく誇張して男に話す。
海のないディアナ国から、このドゥゴングに野菜を運ぶには収穫をしなければいけないし、仮に船に畑があったとするならば、最初から船で育てるしかない。
ムーン・ロード号に畑があるというのはまったくの嘘なのだが、それも有り得そうだと思えるほど大きな船だった。
「畑か……それは凄いな。畑があるってことは、農業だけじゃなく酪農もできるな」
「そうね。魚は海で捕れるから、あの船で一生生活できるわね」
カモメが飛び、人魚と共に暮らすドゥゴングの街らしく、噂は尾ひれはひれを付けて広がっていく。
一通り話が盛り上がり、あの船は空まで飛べるというところで落ち着くと、男は急に渋く声色を変えた。
「それじゃあ、えっと……キミは――」
男は片眉を上げながら女を見つめる。
「エシルよ。あなたの奥さんのベンナの親友の――初めましてよね? アーサー」
男がナンパしようとするのを鋭く察知した女は、にっこりと微笑んで切り返した。
男は顔をひきつらせて、目の前を飛ぶ虫を追うように視線をそらす。
「おっと……あっちで人だかりが」
「安売りをしてるのよ。船で届いたばかりの野菜のね」
「それは、買ってこなくちゃ。かみさんに頼まれてたんだ」
男が身を翻したところで、女が男の手から酒瓶を取り上げた。
「ベンナには黙っててあげるから、早く仕事に戻りなさい」
「さぁ、昼休みも終わりだ。勘違いされないうちに戻るかー」
男はわざとらしく大声を上げると、逃げるようにアバラ通り六本目の坂道を駆け上がっていった。
その時、元気よく走り降りてくる子供の群れとすれ違った。
「あっ、ごめんなさい」
男の足に体をぶつけた男の子が謝った。
「大丈夫だ。オレはこれから仕事に戻らないと。昼休みも終わりだからなー!」
男は気にするなと男の子の頭を撫でた後、足早に坂道を上っていった。
わけのわからない言い訳をされた男の子はキョトンとした顔を浮かべたが、すぐに視線を港へと戻した。
そして、自分だけの宝物を見付けたかのような満面の笑みを浮かべて「クジラだー!」と叫んだ。
周りの子供達も、口々に「クジラだクジラだ」と騒ぎ立て始める。
誰から走り始めたかわからないが、子供達はムチを打たれた馬のように足を早めて、人混みをすり抜けて坂道を一気に下っていった。
そのまま海に飛び込むのではないかという速度で桟橋の先まで走って行き、地団駄のような足踏みで止まると、海に向かってギリギリ声援に聞こえるテンションに任せた奇声を上げた。
子供達の視線の先にはムーン・ロード号の姿がある。
高々と伸びるマストは潮吹きのようで、雄々しく海をかき分けて進む姿はクジラのようだった。




