第十話
カモメたちが自由を謳歌する青空の下には、不自然に組み合わされた丸太が海に浮いていた。
丸太同士がロープで固定されているのを見ると、丸太は自然物ではない。
その上に緑色に変色した死体が一つ、マストに寄り掛かるようにポツリと乗っていた。
アリスはよく見えるように、船首に触手を巻きつけるようにして身を乗り出し様子を伺っている。
ボーン・ドレス号が漂流物の近くまでくると、マストはボーン・ドレス号に
「アンタらはなんだい? 」
マストだと思っていた物から、野暮ったそうな女の声が聞こえてきた。
アリスは雲を見上げるように視線を上げて、女の顔を捉えると驚きに目を丸くする。
船の上からでも見上げなければいけないほど大きな女は、海面に浮かぶ丸太から計ったとしたら五メートルくらいあることになる。
アリスが初めて見る巨人族にあっけにとられていると、視界に入っていない下の方で何かが動く気配がした。
緑色に変色した死体が動いたのだった。
「し、失礼なんだナ。乗り心地は抜群なんだナ」
どもりながらアリスを見上げた男は、鼻の穴を見せつけるような押しつぶされた鼻をしていた。
アリスが睨みつけると、男は怯んだようにさっと目を逸らして居心地が悪そうにブタ鼻を鳴らす。
「オークか?」
「そうさ、アタイのダーリンはオークだよ。なんか文句あるかい?」
巨人族の女がアリスの顔を覗く為にかがむと、巨人族の女が乗っている船が上下に揺れた。その時に発生した波でボーン・ドレス号も揺れる。
その揺れは、漂流者に興味が無いと船尾楼甲板で昼寝をしていたリットの体を転がした。
リットは後ろ周りのように転がり、船のへりに頭をぶつけた。
最悪の目覚め方をしたリットは、ぶつけた後頭部を手で押さえながら顔を上げる。その瞬間、見覚えのある顔が目に入り、それと同時に聞き覚えがある声が二つリットの耳に届いてきた。
リットは見つからないように、壁や樽に隠れながら声の主の正体を確かめようと船首に近づいていく。
女の方は間違いないと確信を持っていたが、男の方は声だけで姿が見えない。それでも、男の口調にも確信めいた覚えがあった。
リットが船べりの樽の影に隠れて、男の正体を確認しようと首を伸ばしたところで腰を掴まれた。
虫を掴むように親指と人差し指でリットを持ち上げた巨人族の女は、これまた虫を観察するように自分の顔へと近づけた。
「おや、久しぶりじゃないのさ。リット」
「……どっかで会ったことあったか? ――ブリジット」
「なんだ、リットの知り合いかよ。大砲をぶっ放すところだったぜ」
アリスは部下に砲列甲板から大砲を持ってくるように命令していたところだった。
「知り合いって言うか……。そうだな、龍の鱗を持ってるか?」
リットはもう一人の見覚えのある顔――ブヒヒに言った。
「リュウってなんなんだナ」
ブヒヒは久しぶりの再開を懐かしむように、リットに向かって大きく手を振りながら答えた。
「……酒は?」
「あっはっは! そんなもん航海一日目で、アタイが全部飲んじまったさね」
ブリジットは酒臭い息をわざとリットに吹き掛けるように口を近づけて喋る。
リットが顔をしかめるのを嬉しそうに眺めると、ブリジットはリットを甲板に降ろした。
何故かリットの隣には、いつの間にかブリジットに摘まれ降ろされていたブヒヒがいる。
「知り合いじゃない。人違いだ。遠慮無く大砲をぶっ放せ、アリス」
「それは薄情っていうもんなんだナ。オレの童貞を捨てさせてくれた恩人だっていうのニ」
「だ、旦那ァ? オークの村からの帰りが遅いと思ったら……」
変な勘ぐりをしてくるノーラの頭をリットが小突く。
「オレ“で”捨てたわけじゃねぇよ。――で、オークとフェムト・アマゾネス二人で何してんだ?」
リットの問いを聞くと、ブヒヒは元々大きい鼻の穴を更に自慢気に膨らませた。
「二人で住む新居を探してるところなんだナ」
「二人で住むだァ?」
リットは喉がひっくり返ったような声を上げた。
「オレ達、結婚したんだナ」
ブヒヒはブタ鼻を鳴らして照れくそうに、指をもじもじさせた。
「そういうことさね」
フェムト・アマゾネスは不計画な妊娠を避けるため、群れに男が入るのは禁止という決まりがある。なので、ブヒヒと結婚したブリジットは種族の群れから離れてオークの村で暮らしていた。
二人はしばらくオークの村に住んでいたのだが、ブヒヒ一人だけ奥さん持ちということで少しずつ仲間との軋轢が生まれてきてしまった。
ブヒヒが一番仲の良いブホホと相談を重ねたところ、本格的に不仲になる前に新しい世界へと飛び出ることを決め、東の国へ向かっているところらしい。
「東の国は木の文化なんだナ。ヒッティング・ウッドを売って、そのお金で住むところを探す予定なんだナ」
「そのヒッティング・ウッドってこれか」
リットが船から身を乗り出してブヒヒが乗っていた物を見下ろすと、ブヒヒも同じような格好でヘリから身を乗り出した。
「そう、この船なんだナ。運ぶついでに船にしたんだな」
「どう見てもイカダだろ。よくこんなんで海に出ようと思えたな。嵐に合えば木っ端微塵だろ」
「ハニーがいれば、嵐なんて怖くないんだナ」
「照れるさね、ダーリン」
ブヒヒとブリジットは互いに顔を見合わせると照れ笑いを浮かべ合う。
「ハニーとダーリンって面かよ……。どう見ても、狼と食われる豚だろ」
「あっはっは! リットは相変わらずおもしろいことを言うね」
ブリジットは嵐でも呼び起こしそうな大声で笑い飛ばした。
「旦那ァ、あれって本当にオークなんスかァ?」
ブヒヒは思い描くオークのイメージと違っていたので、ノーラは不思議な生き物を見るような瞳でブヒヒを見ていた。
「ただの喋る豚だ。見ろこの腹を。ここに詰まってるのは欲望じゃなくて、ヘタレの都合のいい妄想が詰まってんだ」
リットはブヒヒの膨らんだお腹を軽く叩きながら言う。筋肉質のブヒヒのお腹は鼓のような良い音を響かせた。
「相変わらず口が悪いんだナ……。ところで、リットはなにをしてるんだナ」
ブヒヒはリットから視線を外して甲板を見渡す。
「おっと、そいつはアタシに言わせてもらうぜ」
アリスが触手を使ってリットを押しのけてブヒヒの前に出ると、腕を広げて声高々に叫んだ。
「ご機嫌麗しゅう、皆の諸君!」
「皆の諸君って、たった二人じゃねぇか」
「うるせぇよ! 黙ってろよ! こういう前口上が大事なんだから!」
アリスは触手でリットの口を塞ぐと、咳払いを一つ挟んで仕切りなおす。
「ご機嫌麗しゅう、皆の諸君! 快晴の空の下、このイサリビィ海賊団に――」
「イ、イサリビィ海賊団なんだナ!?」
アリスが前口上の途中で、ブヒヒが声を裏返しながら驚愕の声を上げた。
「だからそう言ってんだろ! 最後まで言わせろってんだ!」
腰砕けに倒れこむブヒヒに、アリスが噛みつくように吠える。
「ドゥゴングでイサリビィ海賊団には気を付けろと言われたんだナ。出会ったら最後お尻の毛までむしり取られるって聞いたんだナ」
「そうさ、アタシ達はあの悪名高いイサリビィ海賊団さ」
アリスが口の端を吊り上げると、ブヒヒは短い悲鳴を上げた。
ブヒヒの反応が気に入ったのか、アリスは執拗にブヒヒを脅している。
「遊んでないで、さっさと引き返さねぇか? もう、どうでもいいだろ」
リットは胸辺りに巻き付いているアリスの触手に肘をついて、最後の酒を喉に流し込みながら言った。
「よくねぇよ! なにも取引しないで帰したら、イサリビィ海賊団の名が廃るぜ!」
「よく確認しろよ。なにとなにを取引するつもりだ? 家畜代わりにブヒヒでも積んでくか? それとも、本当にケツ毛をむしり取るつもりか?」
ブヒヒとブリジットが乗っていたイカダの上には何もない。旅の支度はおろか、着替えの服さえもなかった。
「こいつら海をナメてやがるぜ……。食料も水も無しでよく生きてるもんだ」
「フナノリ島までガマンすればいいだけさね。アタイは狩りが得意だから、島に着けば海鳥でもなんでも穫れるよ」
アリスの呆れ言葉をブリジットは豪快に笑って返した。
「いいかアリス。ありゃ、どう見ても船じゃなくてイカダだ。あんなのを襲ったって噂が立った方が、イサリビィ海賊団の名が廃るぞ」
アリスは異物を吐き出すような重い舌打ちをすると、納得いったのかいってないのかわからない渋い顔を浮かべた。
「しょうがねぇ……。いいか! 言っとくが見逃したわけじゃねぇぜ。今日アタシ達は誰とも出会わなかった。オマエらも誰とも出会わなかった。いいな?」
アリスはブヒヒとブリジットに念を押すと、部下に面舵を命じながら身を翻した。
「……助かったんだナ?」
「聞いてただろ? 何もなかったんだとよ」
「リットにはまた借りができたんだナ。落ち着いたら返すんだナ」
「童貞捨てて浮かれて、今度は結婚して浮かれて、どうせ次は子供が生まれて浮かれるんだろ? いつ落ち着くつもりだっつーの」
「そんナ、子供とかまだ気が早いんだナ」
照れるブヒヒの姿は気持ち悪かった。オークだからというわけではなく、だらしなく口元を緩ませブタ鼻を鳴らしているからだ。
「さて、もう行くさね。ダーリン、東の国で新居が待ってるよ」
ブリジットは短い別れの言葉を告げると、ブヒヒを摘んでイカダに乗せた。
そして、丸太をオール代わりにして海原を漕ぎだして行った。
ブヒヒとブリジットと別れたから数日が経ち、リット達は難破船がある浅瀬に来ていた。
難破船がある浅瀬は、前にも増して透明度が高いような気がした。
初めてこの浅瀬に降り立つノーラとエミリアは、海のど真ん中に浅瀬がある不思議な光景に心を奪われていた。
ノーラは意味もなく浅瀬を蹴り上げて飛沫を飛ばして遊んでいる。
エミリアは人を恐れない魚に手を伸ばしている。魚は伸ばされた指に口をつけるが、食べ物じゃないことがわかると、興味が失せたように離れていった。
「ここは面白いところだな。海面に太陽が反射するおかげか、体の調子がいつもより良い気がする」
エミリアは濡れたままの指で髪をかき上げた。いつものように鍛錬がてらに走るのではなく、時には足を止めてゆっくり歩いている。
「体の調子がいいのは、息抜きになってるからだろうよ。陸でも船の上でも、いつも鍛錬ばっかじゃねぇか。のんびり歩くだけでも、息抜きになるだろ」
「確かに、たまには悪く無い」
エミリアは足から伝わる海の冷たさと、降り注ぐ太陽の光の温かさを感じていた。
「旦那だって、息抜きってお酒だけじゃないっスか。息抜きの達人ってのは私見たいなことを言うんですぜェ」
ノーラは締りのない声で、リットの隣を足幅狭くちょこちょこと歩いていた。波紋と飛沫が人一倍に広がっている。
「酒を飲むのは息抜きじゃなくて趣味だ」
「そんな趣味があるわけないだろう……」
エミリアはくたびれたような低い声で呟いた。
「鍛錬が趣味ってのもありえねぇよ」
しばらく浅瀬を歩くとゴミの山が見えてきた。
前に来た時と変わらずに、綺麗な浅瀬に不釣り合いなボロ小屋が佇んでいる。
アリスは難破船に入るなり、カウンターに叩きつけるようにロウソクの入った箱を置いた。
「アルラ! 酒だ!」
アリスの無駄な大声に、うんざりとした様子でアルラがカウンターから顔を出す。
「やかましい……。勝手に置いてあるのを飲みなよ」
「それじゃ、遠慮無くいただくぜ」
アリスが近くにある樽を拳で叩き割ると、人魚が周りに集まりだした。
アリス達は何の意味もない航海に出た憂さを晴らすように、何度も乾杯を重ねて酒を飲み始める。
アルラがロウソクの入った木箱を棚にしまっていると、ノーラが興味の瞳を輝かせた。
「何の種族なんスか?」
「アルラウネだ。昆布のな」
「おー、アルラウネっスか。森にしかいないと思ってましたけど、海にもいるんスねェ」
「私は森にアルラウネがいることのほうが驚きだ。水の少ないところでよく生きていける」
「同じ種族でも色々いるもんスよ。私もドワーフっスけど、こうやって外に出てますしね」
ノーラとアルラが種族談義をしている間、エミリアは興味深げに店内を見回していた。
「どうしたんだ?」
アリスのところから貝殻コップいっぱいに酒を注いできたリットが、こぼれないようにコップの縁に口を付けながら言った。
「まるで船の中みたいだと思ってな」
エミリアは大砲の筒口をなぞっていた。
大砲が上向きに設置され、その中は海水で満たされていてライムが冷やされている。
「難破船の部品で作ったって言ってたからな。――このライム貰っていいか?」
「前にも言っただろう。ここの海水で育ったライムは特別栄養があるから、欲しがるにはロウソクが足りないってね」
「ケチケチすんなよ。オイルくらい後で大量に持ってきてやるからよ」
「信じるわけないだろう。人間が生きたままこの難破船に来るのは、本当に珍しい事なんだ。オイルを持ってこれるはずがない」
「なら、前金にノーラの首を置いていってやるよ。今度オイルを持ってきたら返してくれりゃいい」
リットはライムを二つ取ると、一つをエミリアに投げ渡す。
もう一つは皮ごとかじりついた。リットは酸っぱさに顔をしかめると、口内に纏わり付いた酸味を酒で流し込む。
「私はデュラハンじゃないから、首が取れたら死んじゃいますぜェ……」
「まったく、あそこの女共よりタチが悪いね。もう立入禁止だよ」
「そう言うなって。夜でも光合成のできるオイルを持ってきてやるからよ」
「そんなオイルがあるわけないだろう」
「あるんだよ。――おい、エミリア。ランプを貸してくれ」
「いいが、無駄遣いはするなよ。隠れ家に戻るまでオイルの予備がないんだ」
エミリアは自分用のランプをカウンターに置いた。
「ランプに火をつける前に、屋根を閉じてくれ。明るいと太陽なのか、ランプなのかわからないからね」
アルラに言われエミリアはざっと辺りを見回すが、どうすればいいのかわからず視線を彷徨わせていた。
「そこの舵輪を回せば屋根の布が閉じる」
リットが舵輪を指して言うと、エミリアが舵を切るように舵輪を回した。
屋根の布は乾いた音を立てて骨組みに這って降りてくる。
酔ったテンションで何が起こっても楽しいらしく、店内が暗くなると海賊達からよくわからない歓声が上がっている。
リットがエミリアが苦しみだす前に素早くランプに火をつけると、店内は先ほどと同じような明かりに包まれた。
妖精の白ユリの光で真昼の色に染まる部屋を見て、アルラの目が丸く驚きに開いているのが見えた。
「確かに……体のめぐりに変化はない。これなら、悪天候が続く日でも気持ちよく過ごすことが出来るな」
「それじゃ交渉成立だな。ついでに酒も何本か貰ってくぞ」
「まぁ、いいだろう」ラウネはリットの言葉に頷くと、エミリアの顔を観察するように見て、体を見て、また顔を見る。「そうは見えないけど、アルラウネなのかい?」
「私は違う。ただ、エルフの血が混ざっているせいで、少し難儀な症状が出ているだけだ」
「そうか、セイリンも人魚と人間の二つの血が流れているせいで悩んでいる。なにかあったら力を貸してやってくれ」
ラウネはランプの火を消しながら言った。
店内は掴まれるように真っ暗になっていくが、すぐにエミリアが舵輪を回して光を取り入れた。
「んなことよりも、前に聞きそびれたんだがよ。難破船と一緒に龍の鱗が流れ着いたりしてねぇか?」
「ナマズの坊主の鱗か」
「オオナマズじゃなくて、龍だって言っただろ」
「オオナマズは龍の子供だ。昔に聞いた話だが。嘘かも知れないが本当かもしれない。聞くか?」
アルラはリットの答えを聞く前に、ゆっくりとした口調で話し始めた。
龍は龍腕海峡の底にある洞窟に、充分に育った卵を産み落としてどこかへ行ってしまう。
子は冷たい海の洞窟で、卵の中のまま仮死状態で長い年月を過ごすことになる。
やがて、海流にもまれ少しずつ殻が割れていき、オオナマズが目覚めた時に大きな地震が起きる。これがオオナマズが地震を起こすという謂れだ。
生まれたばかりのオオナマズは栄養を孕み、龍に似つかわしくないほど肥えている。
そして、龍は子が生まれてくると、龍腕海峡に戻ってきてオオナマズを追い出してしまう。
追い出されたオオナマズは数十年を掛けて世界中を泳ぎまわり、チカラをつけると龍湾海峡を取り戻すために戻ってくるのだった。
龍はオオナマズが戻ってくると龍湾海峡を出て行くが、オオナマズの傷が癒えた頃に戻ってきてまたオオナマズを追い出す。
龍は龍湾海峡を奪い取ったり明け渡したりして、オオナマズを一人前の龍に育てている。
こうした戦いを百年余り続けることにより、オオナマズの姿は徐々に龍へと近づいていくのだ。
龍になったオオナマズが最初に空を飛ぶ時は、空を飛ぶ親の龍を噛み殺す時だ。それが世代交代の始まりで終わりである。
その時にオオナマズは龍になり、海の底から大空に飛び立っていく。
「余談だが、龍腕海峡の洞窟は竜宮と呼ばれている」
アルラの話が終わる頃には、ノーラはカウンターに突っ伏して寝息を立てていた。揺れない場所で寝るのが久しぶりのせいか、気持ちよさそうに深い眠りについている。
「龍がナマズだろうが、蛇だろうが何でもいいんだよ。鱗はあるのか?」
「ここには流れ着いてないな。しかし、鱗が落ちるということは、龍はそれだけ弱っているということだ。他にも取れ落ちて誰かの手に渡っていてもおかしくない」
「そう願いたいもんだ」
リットは立ち上がると、アリスが抱えている酒樽の元まで酒を注ぎに行った。




