第九話
品のない夏の太陽の光が、否応無しに降り注ぐある日。
リット達はアリスが先導するボーン・ドレス号に乗り海を渡っていた。
炎天下に晒された海からは、体に染み付くような強い潮の匂いが漂っている。
これだけ日が照っているにも関わらず、汗か潮風かわからないもので体はベタつき潤っている。代わりに喉が、パンを食べた後のようにカラカラに乾いていた。
帆を畳んでいるせいで、甲板上には殆んど日陰がない。風があるのに帆を畳んだ理由は、暑さに耐え切れずに人魚達が海に飛び込んだからだ。
甲板に残されたリット達だけでは充分に帆を動かすことは出来ず、人魚達も火傷しそうなほど暑くなった甲板に戻ろうとはせず、ロープで船を引っ張って進むことになった。
やることがなくなったリットは、酒瓶を片手に日陰を探して甲板をぶらぶらしていた。
マストの影で涼むのが一番なのだが、影が伸びている方にはエミリアがいる。エミリアに見つかっては、甲板掃除をサボっているのがバレてしまうので、リットの足は自然と船尾楼甲板へと向かっていた。
船尾楼甲板では触手で舵輪を操作し、左手には羅針盤、右手には酒瓶を持ったアリスが、鼻歌交じりに上機嫌で海原を見渡していた。
「おい、アリス。あとどれくらい掛かるんだ?」
アリスは答えず、代わりに鼻歌を強くした。
「聞いてんのか? おーい、アリスちゃんよ」
リットがアリスの耳元で「アリスちゃん」と連呼していると、急に体が宙に浮いた。
アリスの触手がリットの胸ぐらを掴み、不機嫌な顔を近付けて怒鳴り散らした。
「ガポルトルだ! 何回訂正させれば気が済むんだ!」
「三文字で済む名前を、なんでわざわざ五文字で呼ばなきゃいけねぇんだよ。恋仲になんねぇと、アリスって名前で呼ばれるのが恥ずかしいってんなら別だがよ」
「バ、バカなこと言ってんじゃねぇ!」
アリスが急に触手を離したので、受け身を取る間もなくリットは叩きつけられるように尻餅をついた。
「人を持ち上げたり落としたり、勝手なことしやがって……。別にアリスだってなんだっていいじゃねぇか」
「せめてキャプテンを付けて呼べ。――キャプテン・アリス! いや……しっくりこねぇ……。やっぱりガポルトルだな。――キャプテン・ガポルトル!」
アリスは酒瓶を持った方の手を胸に当てると、それを広げながら名乗り上げた。潮風を貫いて、はるか遠くまで響くような大声だった。
残響が波に飲み込まれていくと、アリスは「やっぱり、こっちの方が良い響きだぜ」と言って、満足気に酒瓶をくわえ込む。
「気持ち良さそうに浸ってるとこわりいけどよ。船長はセイリンだろ」
「頭が乗っていないこの船で、今一番偉いのはアタシだからな。アタシがキャプテンだぜ」
「まぁ、酒さえ飲ませてくれりゃ、誰が船長だっていいけどな。あとはオレの言うことを何でも聞いてくれりゃ文句無しだ」
リットは手すりに寄りかかると、暇でたまらないといった風に大口を開けてあくびをする。
「リラックスしやがって……。普通はもっと海賊に恐れおののくもんだぜ」
「これでも少しは恐れてるぞ。街中の見世物にされたらたまったもんじゃねぇからな」
過去にイサリビィ海賊団との取引を拒んだ船の船長が、全裸で船首に括りつけられたことがあった。
ドゥゴングの港が見えるまで、イサリビィ海賊団に後ろを見張られていたため船員はロープを解く事もできず、その船長は見世物にされたまま帰港させられている。
「あれはアタシじゃねぇ! やったのはテレスだ!」
「どっちがやったって変わんねぇよ。同じ海賊なんだからな。そんなに男の裸を拝みたかったのか?」
「だからアタシじゃねぇって言ってんだろ! アタシは男になんか興味ねぇ!」
「どうりで女だらけの海賊団にいるわけだ」
「……アタシになんか恨みでもあんのか?」
アリスは睨むというよりも、うんざりとした瞳でリットを見ている。
「特にはねぇけど……。なんだったら適当に理由を作ってもいいぞ」
「そういう飄々としたとこ、頭にそっくりだぜ……」
「褒められた気がしねぇな」
「褒めてねぇよ。自分勝手だって言ってんだ。頭も急にどっかプラっといなくなっちまうし」
「そりゃ、人魚だからだろ」
「あいつらも人魚だけど、ずっとボーン・ドレス号か隠れ家にいるぜ」
アリスは船首の方を見ながら言った。
船首の方角では、イルカが群れで泳ぐように人魚達が泳いでいる。
「知らされてねぇのか?」
アリスが知らないということは、セイリンがハープの練習をしに出掛けていることは仲間にも内緒らしい。アリスは酒を飲んでる時に声を掛けられ、忘れているだけかもしれないが。
「なんだ、知ってるなら言えよ」
「教えてほしいなら……わかるだろ?」
リットは手のひらを上向きにしてアリスに伸ばす。
アリスはしばらくリットの手を見つめていたが、急に火がついたように頬を染めて、自分自身を抱きしめるようにして胸元を腕で隠した。
「バカ! 揉ませねぇよ! これは、膨らんでるからって揉ませる為についてるんじゃねぇよ!」
「……あほか。乳を揉ませろってんなら、ポーズが違えだろ。なんか寄越せってことだっつーの」
「なにをだ……」
アリスはまだ疑っているのか。胸元に巻いた薄い布をしきりに直している。
「アリスが飲む一生分の酒とか」
「やるわけねぇだろ! だいたい本当に知ってんだろうな」
「まぁ、それとなくな」
セイリンとの約束のこともあり、リットは濁した。
アリスにはそれが、知らないのに知っていると嘘を付いているように見えていた。
「それとなくってなんだよ」
「それを知りたかったら酒を寄越せよ」
「適当なこと言って、アタシから酒をもぎ取るつもりだろ」
「海賊らしくていいだろ」
アリスはリットの言葉を鼻で笑い返す。いかにも演技掛かった風に「ふん」という声が聞こえた。
「海賊らしいってのはアタシみたいのことを言うんだぜ」
「布一枚で乳を隠すのがか? そういう格好は海賊じゃなくて、痴女って言うんだぞ」
真っ赤な花が咲いたかと思うほどアリスは頬を染めると、思考停止したのか固まってしまった。
船の揺れに任せて転がる鉄球の音がやけに響く。鉄球が床を擦る重く鈍い音は、停止したアリスの脳内そのもののようだった。
動かないアリスを放っておいて、リットが酒を二、三口飲んだところで、弾けたようにアリスが叫んだ。
「うるせぇー! バーカ! そういうこと言うんじゃねぇよバーカ!」
「指摘されて恥ずかしがるなら、上着の一枚でも羽織れよ」
「この手でどうやって、上着を着ろってんだよ!」
アリスは差し出すように両手をリットに向けた。遅れて、鎖で繋がれた鉄球がリットの目の前に転がってくる。
手枷から伸びる鎖のせいで、どうやっても服に袖を通すことができないのだろう。
「テレスみたいに昆布でも肩からかけるか?」
「そっちの方が痴女じゃねぇか!」
「目くそ鼻くそだな」
「どっちが目くそで、どっちが鼻くそだ!」
「混乱すんなよ……。論点はそこじゃねぇだろ」
アリスは肩で息をしながら、水を飲んで心を落ち着かせるように、酒を一気に流し込んだ。
「落ち着いたか?」
「あぁ……」
「なら、とりあえず話を最初に戻すぞ。テレスが報告を受けた、珍しい船ってのはどれくらいで見つかる予定だ?」
「本当に最初に戻しやがったな……。三角航路には、二日もあれば着くぜ。そこからは運だ。向こうの船のスピードで変わるからな。海の上では気長にがルールだぜ」
今は余裕の口ぶりだが、アリスも気が長い方ではないので、三日もすれば人魚達に怒鳴り散らすことになるだろう。
「珍しい船ってのは聞いたが、どんな船なんだ?」
「さぁな、ドゥゴングの人魚達は詳しく教えてくれねぇよ。アイツらはどっち付かずでいるから、珍しい船としか言わねぇんだ。あとはこっちで見つけろってことだぜ」
「ってことは、珍しい加減ってのはこっち判断になるのか?」
「そういうことだぜ。珍しいって言ったって、殆んどが船首像に特徴があるだけだけどな……。――って、ちょっと待て。リットには甲板掃除を命じてなかったか? なんでアタシと話し込んでるんだ」
「甲板掃除? あぁ、ありゃ三日前に終わらせた」
「毎日するもんなんだよ!」
それから何日か経ち、三角航路の真ん中で船は停まった。
その間リットは甲板掃除はサボらずにやっていたが、それも終わればやることはなにもない。
食事は各々勝手に取っているし、修理などは素人のリット達にはできない。上手く暇をつぶせているのはエミリア一人だった。
「釣れませんねェ……」
相変わらずの好天気の中、声まで乾かされたようにノーラが小さくつぶやく。
「餌の付いてねぇ針に引っ掛かる魚がいりゃ、とっくに絶滅してるっつーの」
リットは釣り竿を海に垂らしていた。釣り竿といっても、適当な木材を削りだして作ったしならない棒に、太いロープを結び、釘を強引に曲げた針を付けたもので、餌のあるなしに関わらず魚が釣れるわけがないものだった。
「あの……お魚が食べたいなら捕ってきましょうか? 私が潜ればすぐ捕れますよ」
おずおずとした口調で、リットの隣りにいたイトウ・サンが提案する。
「食いたいわけじゃねぇよ。ただの暇つぶしだ。釣れようが釣れまいがどうでもいい」
リットは揺れるはずのない海面から目を離さずに言った。
「そうですか……。じゃ、じゃあ、私の為に魚を捕ってきな……さい!」
イトウ・サンはしどろもどろになりながら命令口調で言うが、目線は微妙にリットからずれている。
「なんだ? 魚が食いたいのか?」
「そ、そうです! 早くしてくださっ!」
イトウ・サンは古株の威厳を見せようとするが、慣れないことをしたせいで口の動きと舌の動きが一致せず、盛大に舌を噛んでしまい「痛い」という言葉を我慢する代わりに、甲板に尾びれを叩きつけて堪えている。
「下手くそなダンスだな」
「ほっといてください……」
「なら、ほっとくけどよ。魚が食いたけりゃ自分で言ったとおり、自分で潜って捕ってきたほうが早いんじゃねぇか?」
「……そうですよね。そうします……」
イトウ・サンは飛び込み自殺でもするように、すっと海の中に落ちていった。
大きな水しぶきを立てるわけでもなく、水を張った鍋に野菜を入れたような控えめな音だけが聞こえる。
「なんなんだありゃ」
リットはイトウ・サンが飛び込んだ場所を、ただぼーっと見ていた。
「さぁ、なんでしょうねェ。人魚の変わった風習ってやつっスかね」
「まぁ、マグニも変わった奴だったからな」
「そんなことより旦那ァ、早く何か釣ってみてくださいよォ」
ノーラはつまらなさそうに釣り竿を指でつつく。
「だから、こんなんで釣れねぇんだよ。酒でもぶら下げとけば、人魚かタコなら釣れるだろうけどな。そんな勿体ねぇことはしねぇ」
「海賊ってのも暇なもんですねェ……」
「本当だな。ランプ屋より暇だとは思いもしなかった」
リットとノーラは同時に空を見上げる。
大きな雲の塊が空に白い山を作っていた。のどかなのは目に見える光景だけで、甲板上からは暑苦しい掛け声がずっと響いている。
「――次!」
エミリアが凛とした声で言うと、「はい!」という人魚の返事が聞こえる。
そしてすぐに、金属同士がぶつかりこすれ合う甲高い音が響いた。
「おい、エミリア!」
鳴り響く度に肩をすくませる不快な音に、リットはたまらず叫んだ。
「なんだ? 今は鍛錬中だ。後にしてくれ」
エミリアの動きが止まると、人魚の動きも止まった。両者とも手には剣が握られている。
「部下の鍛錬こそ後にしてくれ……キャプテン・エミリア」
「誰がキャプテンだ。それに部下でもないぞ。自己鍛錬のついでに稽古をつけているだけだ。――さぁ、こい! 続きだ!」
エミリアが言うと、人魚は返事をしてエミリアに剣を打ち込み始める。
また耳障りな音が甲板に響き始めた。
「おい、アリス。この船、エミリアに乗っ取られるぞ」
「乗っ取られたらなんだって言うんだ」
アリスは妙に間延びした声で答えた。舵輪を握っているが、操作をしているわけではなく寄りかかっているだけだ。アリスもリット同様に、やることがなくて暇を持て余していた。
一向に船が来る気配がないからだ。報告にあった船どころか、普通の船さえも通らない。
人魚達も鍛錬が好きというわけではなく、暇つぶしのためにエミリアの稽古に参加していた。
「エミリアが船長になったら、禁酒させられるぞ」
「禁酒するほど、酒もなんも残ってねぇぜ。明日も船が通らなかったら、難破船で補充だな」
「難破船までもたねぇだろ」
「酒はないけど、食い物と水はフナノリ島に寄ればあるから大丈夫だぜ。酒はないけどな……」
「どっちにしろ禁酒じゃねぇか……」
リットとアリスが同時に肩を落とした瞬間、海から一人の人魚が顔を出した。
「ガポルトル副船長ー」
「おぉ! 船を見付けたか?」
「見付けたことは見付けたんですけど……。船じゃなくて漂流者ですー」




