第六話
「――塩漬け肉の塊が十五、麦が八袋、キャベツの塩漬け一樽。ラム酒が三箱、ワインが二樽。それにビールも二樽です」
テレスがセイリンに取引した品目を報告している間、他の海賊達はせっせと商船から海賊船に荷物を運び入れていた。
「思っていたよりも、だいぶ酒が少ないな。帰りの航海で流す汗の方が多そうだ」
「カームが続きましたからしょうがないですね」
テレスの言うとおり、カームで船が動かせないせいで、商船の船員達は酒を飲んで暇をつぶしていた。
そのせいであまり酒が残っていなかった。
「ライムもありますけど、どうします?」
「積まなくていい。帰りに『難破船』に寄る」
三つの港を繋ぐ三角航路。軍艦、商船に限らず、船は全てこの航路を進む。
イサリビィ海賊団に襲われる可能性があるのに、今でも三角航路を使う理由は壊血病の予防にあった。
三角航路には小さな島が多数あり、そこには柑橘系の実がなる木が生えている。
航海中に新鮮な野菜や果物を補給するために船が停泊することから、全ての島を纏めて『フナノリ島』と呼ばれていた。
殆どのフナノリ島は無人島だが、その中の幾つかには人が住んでおり、航海中の船相手に商売をしている。
しかし、セイリンの言う難破船という場所は、三角航路から南に遠く離れた場所にあった。
「難破船ですね。でしたら、手土産用のロウソクを積んでおきます」
「そうだな。まだ、どこかの国と取引した甲冑が残っていただろう。アレと交換しろ」
「わかりました」
テレスが一人の人魚を呼び止めて命令すると、人魚はすぐに商船の船員と取引を始めた。
そして、全ての取引を終えると、セイリンは「邪魔をした。良い航海を」と言い残し、商船から海賊船へと帰っていった。
それから五日が経ち、順調に帰りの航海を始めていたイサリビィ海賊団だが、急に不可解な動きを始めた。
「帆を畳め! 錨を下ろせ!」
セイリンの命令により、海賊船は海のど真ん中で停船した。
風がないわけでもなく、近くに島があるわけでもない。しかし、海賊達は疑念を抱くことなくセイリンの命令に従っている。
帆を畳み、マストから降りてきたリットは、真っ先にセイリンの元まで向かった。
「錨まで下ろす必要があるのか?」
「ここから海賊船で進んだら、座礁するからな。ここからはボートで行く」
「行くたって、どこに行くんだよ。まさか、海底とか言わねぇよな」
「行きたければ行けばいい。この辺りはサメもいないから、五体満足のまま海底まで行けるぞ」
「船の上にもサメはいねぇからな。オレは残ってる」
「いいのか? 酒もあるぞ」
その言葉を聞いたリットは、騙されてると思いつつ、素直にセイリンの命令に従った。
エミリアとノーラは数人の海賊とともに、見張りのため船に残っていた。
リットが海賊船から下ろされたボートに乗り、しばらく漕いでいると、突然海の色が変わる。
水の色が変わったのではなく、海に砂の色が加わったのだ。
この辺りの海は、突然海底が高くなり浅瀬が続く。
嵐の夜は視界が悪くなり、その浅瀬に気付くことができずに難破してしまう船が多かった。
いつからか、船はここには近づかないことが決まり事のようになっていた。
イサリビィ海賊団の船も例外ではなく、こうしてボートに乗り換えたわけだった。
「よし、上陸だ」
そう言ってセイリンがボートから降りた。
「上陸って……どこに陸があんだよ」
当然陸は存在していない。
リットは膝丈程の浅瀬に飛び降りた。
浅瀬には緩い波が静かに押し寄せ、太陽の光を反射して、海底に亀の甲羅のような波模様を作っていた。
実際に亀も泳いでいる。
透き通った海水のおかげで、そこらの小魚の姿も目視で確認できた。
リットが浅瀬の様子を確認していると、後ろで豪快な水しぶきが上がった。
「相変わらず、しけた場所だぜ」
アリスが纏わりついてくる小魚を触手で散らしながら言った。
「ここには、よく来るのか?」
「難破船だろ? 毎回は来ねぇけど、そこそこは来るぜ」
「おい……、難破船なんかどこにもねぇぞ」
リットはもう一度辺りを見回したが、浅瀬が続くだけだ。船らしきものは、今降りてきた海賊船が遠くに浮かんでいるだけだ。
「どうぞ」
目を凝らして疑うリットに、テレスが望遠鏡を渡した。
それを使って、テレスがさした方角を覗くと、何かが薄っすら見える。よくは見えないが、少なくとも船には見えない。
「本当に、難破船か?」
「何パーセントかの確率でそうです」
「本当に酒があるんだろうな……」
「アルコールが飲みたければ、歩こーう。ですよ」
「……いい具合に発酵してんな。頭が」
「そんなことを言われるなんて、今日は薄幸です」
テレスは無表情のままリットを見ている。リットの訝しげな視線にも眉一つ動かすことがない。
二人の間に流れる亡霊同士が対面したような微妙な空気を、アリスの声が吹き飛ばした。
「おい、リット! これ持ちな!」
アリスがロウソクの詰まった箱をボートから下ろすと、こっちに来るようにと触手で手招きをした。
リットは水音を立てながら、アリスの元まで足早に向かうと「喜んで」と一言返す。
「なんだよ、素直で気持ちワリィな……」
「困ってんだよ。テレスに呪いの言葉を呟かれて」
アリスは納得がいったというように頷いた。
少し間を置いてから「あれがアイツのコミュニケーションの取り方なんだ」と言って、アリスはバカにしたように笑った。
「どういうコミュニケーション方法だよ……」
「普段誰にも構ってもらえないから、ダジャレで気を引こうとする寂しい女なんだよ。テレスは」
アリスの口調は決めつけそのものだった。テレスが近付いてきているのを確認しながら、はっきり言い切る。
「違います。わたしの体は殆んどが水分ですから、飲んだら一瞬にしてお酒がまわってふらふらになるのです。だから、わたしはお酒が飲めません」
テレスの話をいくら聞いても、謎は深まるばかりだった。
リットは一度アリスと顔を見合わせるが、アリスは肩をすくめるだけだ。
「それで、なんでダジャレに行き着くんだよ。オレが聞きたいのはそこだ」
「酔った人はダジャレを言いますから。その気分を味わっているのです」
「意味わかんねぇよ……」
「時に意味とは、理解するのではなく感じるものですよ」
リットはテレスの通じ合う気がしない会話に、うんざり気味のため息を漏らすと、午後の光が射す浅瀬を歩き始めた。
砂に足を取られながら浅瀬の道を歩く。水を吸ったズボンは、よりいっそう足取りを重くさせた。
相変わらず波は静かで、歩く度に起きる人為的な波のほうが大きく波打つ。
リットは代わり映えのしない景色を見ているよりは、浅瀬を泳ぐ小魚を見ていた方がマシだと、下ばかりを見ていたので、「着いたぞ。難破船だ」というセイリンの声を聞くまで、目の前に目的の場所があることに気が付かなかった。
浅瀬にポツンと佇む小屋。ドアがなければゴミの山にしか見えないボロ小屋だった。
どうバランスをとっているのかわからない、厚さも幅も高さも色も違う木板を積み上げて作った壁が伸び、丸だか四角だかわからない形に枠組みされている。
その壁の上では、泥水に何十年も浸けこんだような汚い布の屋根の端が、時折風ではためいていた。
あのドアを開けたら、子供のつみ木のように崩れてしまうのではないかという不安に駆られる。
リットが気持ちの整理を終える前に、セイリンがドアを開けた。
錆びついたドアは断末魔のような音を上げるが、思い他建物は頑丈で軋むことすらなかった。
「入らないのか? 酒が飲めるぞ」
リットがセイリンの後をついて歩いたところ、一歩目で足を踏み外す。
入ってすぐ、階段になっていた。
「……こういうのは早く言ってくれ」
アリスの触手に襟を掴まれたおかげで、リットは前のめりに倒れこむことはなかった。
「暗いから気を付けろ」
セイリンの言うとおり、壁の隙間から微妙に光が漏れるだけで、足下を確認するのもやっとの暗さだ。まばたきをいくらしても一向に目が慣れない、
「……今更、忠告ありがとよ」
足下や辺りを注意深く確認するのはリットだけで、他の海賊達は友人の家を訪れたかのように自然に歩いている。
十段もない短い階段を下りながら、リットは小屋の中を見渡した。
小屋の中は、ここ最近で見慣れたものが多い。
小屋の中央の柱はメインマストだ。まるで生えてきたかのようにそびえ立って、屋根代わりの布を支えている。
今降りている階段も、看板とデッキを繋ぐ階段にそっくりだった。
床は少し掘り下げられていて、壁の下の隙間から浅瀬の水が入り込んでいた。
リットがそれに気付いたのは、階段を下りきったセイリンから水音が聞こえたからだった。
「まったく……相変わらず暗すぎるな」
セイリンは手探りで何かを探すと、何かを動かし始める。ロープが擦れる音と共に、屋根の布がせり上がっていく。
太陽の光が差し込み明るくなった小屋の中でリットが最初に見たのは、舵輪を回しているセイリンの姿だ。
改めて周りを見渡すことで、ようやく『難破船』と呼ばれている意味を理解した。壁も階段も屋根の布も、全て船の廃品を使っていたからだ。
外観からは想像できないほど中は広いが、所狭しと生えている果実の生っている木のせいで、結局は手狭になっている。
床板はなく、浅瀬のままなので、外と同じく歩きにくい。
人魚達は海蛇が浅瀬を泳ぎ這うようにスイスイと歩いて行く。
「アルラ! いるんだろ!」
アリスがカウンターと思わしき場所を拳で叩いた。
するとカウンター奥で漂っていた昆布が突然盛り上がり、人のように立ち上がった。
昆布をミイラの包帯のように巻きつけた女の姿だった。無造作に垂れ下がった前髪のせいで、顔はよく見えない。
「やかましいと思えば、海賊の稚魚達か」
アルラと呼ばれた女は、あくびを混ぜながら言った。
「酒を頼むぜ」
浅瀬に腰を下ろしたアリスを、アルラは無視する。
「ラウネ。久しぶりだな。妹よ」
アルラは若干の猫なで声を混ぜながら、カウンターを回ってテレスに近付いていった。
「海洋生物は皆兄弟ってか?」
リットにはクラゲと昆布の共通点が見つからず、アルラがなぜテレスに近づいたかわからなかった。
「わたしではなくて、この昆布のことですよ」
テレスは肩にかけていた昆布の束を外して浅瀬に差し込むと、昆布の束の中をかき分けて顔が出てくる。
昆布束の中から顔だけ見える姿は、生まれてから一度も髪を切ったことがない女性が、自分の髪の毛に包まれているようだ。
「共生関係です。わたしはラウネに日差しから守ってもらい、ラウネはわたしの体で水分を補給しているのです」
リットがなにか言う前に、テレスは疑問の瞳に答えた。
「ということは……」
リットは海藻のように癖の強いアリスの髪を見る。
「アタシの髪は地毛だ! ぶっ飛ばすぞ!」
アルラはアリスに怒鳴られたリットを見ると、興味深しげに瞳を揺らした。
「ここに生きた人間か来るのは珍しいね……。悪いけど人間の席はないから、適当なところに座っておくれ」
言われた通り、リットは隅にある適当な樽の上に腰を下ろした。
「なんだ生きた人間ってのは、死んだ人間は来るって言うのか?」
「ここは『難破船』だよ。運良く命があって漂流しても、海に取り残された人間は長くは生きられないさ。来るのは人魚やスキュラ、たまにセイレーンといったところだね」
「難破船ね……。見たところ真水はなさそうだし、好き好んで来る人間はいねぇだろうな」
「真水はないよ。ここは海のど真ん中だからね。今でも無茶な航路を辿って来る船がたまにある。その船から拝借した積み荷をこうして振る舞ってるわけさ」
アルラは見るからに古そうな樽をカウンターに置いた。
「飲めるんだろうな……」
「波に揺られて漂着した樽酒は格別だよ」
リットは早速といった具合に手を伸ばすが、アルラは樽を素早く引っ込める。
見かねたセイリンが、杖を伸ばしてリットの足下にある箱を叩いた。
「リット。手土産を渡せ」
リットはロウソクの入った箱をカウンターに置くと、アルラはすぐに箱を開いた。
「そうそう、この場所唯一の欠点は明かりの確保が難しいことさ。ここでは金でも食料でも酒でもなく、明かりが代金。また、来るつもりがあるなら覚えておくんだよ」
「光りゃなんでもいいのか?」
「ロウソクでも、ランプでも、なんでもさ。でも、木はダメだよ。煙りが邪魔だからね」
「そりゃいい。まさにオレの為に存在してる酒場だな」
リットが酒樽を無理やり開けると、中からは東の国の酒の匂いがした。
同時にアルラが長い細巻貝をカウンターに置いたのを見て、これがコップ代わりだと理解したリットは、それで酒をすくった。
酒の匂いが漂い始めたことによって、海賊達は皆リットがいる隅に集まっていたが、アリスが酒樽を持ち上げて小屋中央に移動していくと、カモの子のように人魚達はその後をついていった。
「あと、ライムも貰っていきたい」
セイリンが近くに生っているライムを、一つもぎ取りながら言った。
「このロウソクの量じゃ足りないよ。海水で育ったライムは特別栄養があるから、欲しけりゃもう一箱分いるね」
「困ったな……。ウチでもロウソクは使うから、これ以上は出せない。壺はどうだ? 良い陶磁器があるが」
「そんな物は、欲しくなくても勝手に流れて着いてくるよ。さっきこっちの男に、代金は明かりと説明したばかりだ。忘れたわけじゃないだろう?」
「なら、これで足りるだろ」
リットはポケットからヒハキトカゲのオイルが入った小瓶を取り出してカウンターに置いた。
アルラは小瓶を手に取ると、小皿にオイルを垂らす。
火をつける前からする焦げ臭いニオイに顔をしかめたが、火をつけた瞬間から広がる明かりを確認すると満足気に頷いた。
「好きにもっていきな」
アルラは少し小さめ空樽を出してきた。
これに入るだけ持っていっていいということらしい。
「助かった」
「貸し一つな」
「先に私がリットに貸したものはいつ返ってくる?」
「まぁ、死ぬまでには返す」
「期限を決めておけばよかったな」
「都合よく忘れてくれるのが、いい女ってもんだぞ」
「女が忘れるようなことを覚えていてくれるのが、いい男ってものだ」
しばらくアリスの酒盛りが続いたせいで、難破船を出る頃には既に夜になっていた。
干潮のせいで波は更に静けさを増し、浅瀬は水たまりのように足首の高さまでしかなくなっている。
リットは満天の星空を見下ろしていた。
「驚いたか? これが『難破船』の本当の由来。あそこは星空に乗り上げた船だ」
セイリンもリットと同じように、足下を見下ろしながら言う。
難破船は船の廃品を使っただけのただの小屋だが、一つしかない人工物のせいで星空に座礁した船に見えた。
星空は上空にも足下にも存在している。
浅瀬に薄く広がった海面のおかげで、上空に広がった満天の星空を鏡のように足下に映していた。
上下対称の星空は、星空の中に迷い込んだような錯覚を起こす。
延々と浅瀬が続くこの場所では、水平線の境目さえも見えない。三六〇度全てが星空に埋め尽くされていた。
「突然ひっくり返って、真っ逆さまってことにはならねぇだろうな……」
「そんなことにはならないが、よそ見をして歩いていると、浅瀬の終わりに気付かずに深海まで落ちていくことになる」
「浅瀬だから、星空が映ってんだろ? ボートがあるとことまで行けば、鏡張りの水面も終わるだろ」
「だが、終わりが近付くにつれ振り返って見たくなる光景だ」
「……まぁ、確かにな」
リットは一面鏡の世界に映る星空を踏みしめながら歩き出した。




