第二話
「――海水が乾いて塩になり滑るので、念入りにゴシゴシしてください」
そう言った人魚は、セイリンの杖の跡やアリスの鉄球を引きずった跡が残る甲板の床をブラシで擦る。懸命に床を磨く度に揺れる金がかった茶褐色の尾びれが、太陽の光を浴びて輝いていた。
ノーラは話も聞かずに鞘から短剣を抜いて振り回している。初めて手にする人を殺す道具に変に高揚したのか、何度も剣を鞘に納めたり抜いたりしていた。
虫が食い荒らした腐葉土のような錆びがついた刃は、太陽の光を反射することはない。
「いいかげん剣をしまえよ」
リットは咥えていた瓶口から口を離すと、酒瓶にコルク栓をはめた。
「大丈夫っスよ。ちゃんと周りに気を配ってますから」
「周りってのは、床は含まれてねぇのか?」
ノーラの足下には、鞘を往復する度に擦れて削れ落ちた錆が散らばっていた。
「こんなもん、足でモシャっとやれば解決でさァ」
ノーラは足を床に滑らせて、錆を海に向かって蹴飛ばした。
錆屑は重いのか軽いのかわからない微妙な放物線を描いて、海の中へと消えていく。
「あの……海は汚さないで」
「だいたい、なんでオレが掃除をするんだよ」
リットが柄の折れたブラシを投げ捨てると、床を転がっていき海へと向かうが、すんでのところでエミリアがブラシを掴んだ。
「私達が一番下っ端だからだろう」
真面目に掃除をしているエミリアの額には汗が浮かんでいた。
エミリアはブラシを投げることなく、しっかりとリットの手に渡す。
「下っ端イコール掃除って制度は今すぐ変えるべきだな。古臭いしきたりにも程がある」
「旦那も最初は私に色々やらせてましたぜェ。下っ端の仕事だって」
「なにか一つでもまともにできたか?」
「できてたと思います?」
リットの睨みを若干含ませた瞳に、ノーラは子供をあやす時のような柔和な笑顔で誤魔化した。
「下っ端になるのはいいけど、自分の家の掃除もしねぇのに、人の船を掃除するのはどうも腑に落ちねぇ」
「まぁまぁ、下っ端の役目なんてどこもそんなもんっスよ」
「ノーラの言うとおり、どこもそうだ。私も城の兵士になりたての頃は、よく掃除をさせられたものだ。懐かしくも感じる」
「それじゃ、オレの分もやっといてくれ」
リットは酒瓶を持ち直すと、太陽に向かって大きなあくびをした。
そして、腰にぶら下がっていた短剣を外してその場に置くと、散歩にでも行くようにプラっと歩き出す。
「こらこら、人に押し付けてどこに行くつもりだ」
「サボった奴の分の掃除を押し付けられる。懐かしいだろ?」
「リゼーネの兵士に、そんなふしだらな者はいなかった」
「じゃあ、十年後懐かしめるように経験しとけ」
リットはエミリアに小言を言われる前に足を早めた。
「あの……どこへ」
一人の人魚が、殺人鬼にでも話しかけるようにオドオドした様子でリットを呼び止めた。
「喉が渇いたから、酒を取りに行くんだ。そっちはサボるなよ」
「は、はい……」
人魚は、口笛でも吹きそうなリットの足取りをただ眺めていた。
「イトウ・サン。行かせていいの?」
銀色の尾びれをした人魚が、リットの足取りを睨みながら言った。
「スズキ・サン。なんて注意すればいいかわからなくて……」
「せっかく私達にも部下ができたんだから、はっきり言わないと」
「でも、全然話を聞いてくれないし……。やっぱ敬語じゃダメなのかな」
「そんなことないわよ。上下関係をきっちり教えて、脱・下っ端よ」
スズキ・サンは鞘からカトラスを抜いて高く掲げた。
イトウ・サンも同じようにカトラスを抜き、スズキ・サンのカトラスに刃を合わせる。
刀身が短く湾曲した剣が二つ合わさる光景は海賊旗のようだった。
「でも、このままじゃ絶対無理だね……」
イトウ・サンは自分の格好を確認しながら落胆したように言う。
頭にはバンダナ。服は麻のシャツ。腰にはボロボロのスカーフを巻きつけて、そこにカトラスをぶら下げている。いかにも海賊の下っ端という格好だ。
スズキ・サンも全く同じ格好をしている。
「でも、ガポルトル副船長とかテレス副船長みたいな恥知らずの格好は絶対嫌」
「あの掟なくならないかなぁ……」
二人の深いため息は、エミリアの「そこの二人サボるな」という声に掻き消されてしまった。
リットが酒を探しに階段を下りていくと、貯蔵庫にはセイリンとアリスとテレスの三人がいた。
「会議中だ。用なら後にしてくれ」
セイリンはリットに振り返ることなく、帳簿に目を通していた。
「用があるのは酒だ。邪魔するつもりはねぇよ」
リットが棚にある酒瓶を見付けて歩いて行こうとすると、アリスの触手が獲物の絡めるようにして行く手を阻んだ。
「幹部会議中だって言っただろ。幹部以外は立入禁止だぜ」
「じゃあ、オレも今から幹部だ。酒を取り終わったら降格してくれ」
「はん! どうやら、イサリビィ海賊団の掟を知らないらしいな」
「知るわけないだろ」
「じゃあ、今覚えるんだな」
アリスは壁からボロボロになった紙を剥がすと、叩きつけるようにリットの眼前に向けた。
イサリビィ海賊団七つの鉄の掟
其の一、起きたい時に起きろ
其のニ、飯は早いもの勝ち
其の三、争いごとは本人同士で決着をつけろ
其の四、横領した者は干物の刑
其の五、賭博は大金を賭けろ
其の六、洗濯は溜まってから
其の七、個性を持たない奴に出世の道なし
この掟を破った者は猫の島に島流し
「厳しいのか厳しくねぇのか、まったくわかんねぇ掟だな」
「其の七を見な。つまりリットは出世できねぇってわけだ」
アリスはこれ見よがしに大きく腕を振って、腕についた鉄の手枷と、そこから伸びる鉄の重りを強調した。
「オレはこの船唯一の男だ。充分個性があるだろ」
「玉無し野郎が男とは笑わせるぜ」
「玉どころか竿まで付いてるぞ」
「そういう意味じゃねぇよ!」
アリスは赤褐色の肌を更に赤くさせて怒鳴った。
「それは、そういう意味だっつーの」
「マジかよ……知らずに使ってたぜ……」
「まぁ、魚の玉は体の中だしな。実物を見たかったら金払えよ」
「誰が見るかってんだ!」
アリスがリットの胸ぐらを掴もうと手を伸ばした瞬間、鉄球が音を立てる。
この場にいる全員が危ないと思った瞬間。鉄球は棚に当たり、酒瓶が床に盛大に落ちた。
「あーあ、もったいねえ」
リットは鋭角に割れた瓶の破片を拾いながら、アリスに非難の声を浴びせる。掃除のためではなく、どこの銘柄か確かめるためだ。
見たことない名前は、どこか知らないの国の酒だった。
「オマエが変なこと言うからだろうが」
「鉄球なんか引きずってるからだろ。そんだけ触手があって、まだ引きずるものが欲しいのか」
「そうです。アリスは頻繁に割りすぎです」
テレスがリットに同調するように頷く。
「テレス! どっちの味方だ!」
「海が干上がっても、アリスの味方になることはありません」
「ガポルトルと呼べっていつも言ってるだろ!」
アリスとテレスが口喧嘩が始めたのを見計らって、リットは酒瓶を二本棚から取り出した。
「で、この船はどこに向かってんだ?」
「邪魔しないんじゃなかったのか?」
「よく考えたら、何も聞いてねぇからな。干物になるまで船の上にいるつもりじゃないだろ」
「アジトだ。二週間も船に揺られていれば着く」
「乗せろって脅したのはオレだけど、アジトの場所をバラしてもいいのか?」
「問題ない。場所がわかっても普通の船は絶対に入ってこれない場所にあるからな」
北の大灯台がある北島から出航した船は、南の灯台がある南島が見えるところまで来るのに一週間かかった。
さらにそこから一週間船を走らせたところにある孤島。そこにイサリビィ海賊団のアジトがあった。
「岩山か?」
イサリビィ海賊団のアジトと思われるようなものを見て、リットは疑問の声を上げる。
孤島。と言っても、とてつもなく大きな岩山が一つ海底から突き出たようなものだった。
見上げると首が痛くなるほど高い岩山で、これを見て島と呼ぶものはいないだろう。
「そう見えるだろ」
「人魚に山登りはキツくねぇか」
「安心しろ。島への入り口は岩陰に隠れているだけだ」
「それで、船は入ってこれねぇのか」
「それだけではない。潮の流れが複雑で、普通の船は絶対に入れないようになっている」
リットが「この船はどうするんだ?」と聞こうとしたところで、セイリンが「――帆をたため!」と船に声を響かせた。
セイリンが命じると、やまびこのように人伝いに同じ言葉が呼応していく。
帆の先端に向かって人魚の海賊達が上へ上へと登っていく。綱をつたい縦横無尽にマストを移動する姿は、人魚が青空を泳いでるように見えた。
「突然なんだ?」
「帆があると風の抵抗を受けて邪魔なんだ。リットも覚えろ。帆をたたむのは、この船に乗る必須条件だ。――船を引け!」
セイリンの命令で、船にいた人魚が全員海に飛び込んだ。
すぐに、強風が吹いたかのように船が大きく揺れる。
何事かとリットが船から身を乗り出して海面を覗くと、船の側面から突き出した鎖が船首の方に伸びているのが見えた。
鎖の先では人魚達がそれをしっかり掴み、孤島に向けて泳いでいる。
「まるで馬車だな」
「水の中では人魚が最速だ。まぁ、並の人魚では船を引っ張るほどの力はないがな」
船は潮に流されて大きく揺れるものの、順調に入口がある岩陰へと向かっていった。
岩陰から更に、洞窟のようになった岩山の隙間に船が入っていくが、立ち込める霧のせいで前がよく見えない。
しばらく進むと、叩きつけるような水の音が聞こえると共に、遠くに光の射す一点が見えてた。
ようやく抜けたと思ったが、まだ視界は霞んでいる。
出口のすぐ横に落ちる滝壺の飛沫のせいだ。
滝飛沫の中を船がくぐるように進むと、青々とした透明な水に浮かぶ入り江が顔を出した。
矛盾でも、誇張表現でもない。憂いのない空を溶かしたような青い水は、海底が見えるほど澄んでいる。そのよくわからない透明度のせいで入り江が浮かんでいるように見えた。
入り江は絶壁に囲まれているが、絶壁の上には草木様々な緑が広がる。そして緑を隠し閉じ込めるように、新たな絶壁の岩が天空へと伸びていた。
外から見れば味気のない岩山に見えたが、中に入れば苔生したような鮮やかな緑の風景が広がる。
絶壁に囲まれた入江は殆どが海に占められていて、心許ない程度の砂浜があるだけだ。
その砂浜に、打ち上げられたクジラのように船が佇んでいた。
それも、中心から真っ二つに割れた廃船だ。
割れた廃船の前部が、砂浜のほとんどを占領していた。
廃船の前部は既に風化しており、緑に侵食され風景の一部となっている。
リット達が乗っている船は砂浜に打ち上げられた廃船の前部ではなく、そのすぐ後ろにある海に浅く沈んだ船の後部へと向かっていた。
沈んだ廃船後部からは、折れて倒れたメインマストが桟橋のように伸びており、船の側面をそれにつけると、案の定錨が下ろされた。
「無駄な航海だったぜ」
アリスが酒樽だけを抱えて海に飛び込んだ。
てっきりメインマストを桟橋代わりに使っているのかと思ったが、ただの停泊させる場所の目安らしく、海賊達は次々海に飛び込むと、廃船の後部へと向かい泳いでいった。
「泳ぎます?」
人魚が飛び込み波紋が広がった海面を見ながら、ノーラが言った。
「無理するな。メインマストを歩けばいい」
セイリンは丸みの帯びたメインマストに乗ると、綱渡りでもするように危なっかしく歩いて行く。
「やっぱり、そういう使い方もするのか。……つーか、そっちこそ無理しないで泳いでいけよ」
「……肩を貸してくれてもいいんだぞ」
「そういうのは先に言え。――だとよ、エミリア」
リットはエミリアの背中を押して先に行かせる。
「私は構わないが、頼まれたのはリットじゃないのか?」
エミリアはセイリンに肩を貸しながら言う。
「首に剣を突きつけられるのは、一生に一度でいいからな」
「根に持つ男だ。それとも、女の柔肌に触れるのは怖いか?」
「惜しいな。怖いのは、その柔肌に隠されたどす黒い部分だ」
「なるほど、結婚という言葉を聞けば、逃げる男か」
「それも、惜しい。逃げた男だ。そんな話より、早く歩けよ」
リットは、バランスの悪いメインマストの上で立ち止まるセイリンを急かす。
セイリンとエミリアの後を続いて、メインマストの上を歩き、リットは甲板へと降りた。
廃船後部の甲板は、膝まで浸かるくらい海に沈んでいる。
人魚の海賊達が、下の部屋へと続く甲板の階段を泳いでいくのが見えた。
「何をボーっとしている。私達はこっちだ。水の中で呼吸できるのなら別だが」
セイリンが、明らかに後から設置されたハシゴに足を掛けながら言った。
このハシゴは、海に沈む廃船後部と砂浜に打ち上げられた廃船前部を繋ぐ唯一のものだ。
廃船後部は人魚達の部屋になっており、廃船前部はセイリン一人が使っていたらしい。
この島が隠れ家なのではなく、この廃船こそがイサリビィ海賊団の隠れ家だった。
「また、洒落たとこに住んでんな」
リットは辺りを見回しながら言う。
廃船前部の甲板は、今まで取引された荷物がそこかしこに積まれていて、それが通路になっている。
絶壁に生えた木から好き勝手伸びた枝葉で作られた天然の天井が作られていて、木漏れ日のおかげで昼間は暗くも明るくもなかった。
ここに積まれている物はいらないものばかりらしく、よくわからない絵画が木箱や甲冑に乱暴に釘で固定されていて、屋敷の廊下を歩いているような気分だ。
「これは最初に見付けた船だ。元々はこの船を直して乗ろうと思っていたが、流石に竜骨が真っ二つに割れていてはな」
「海賊なら奪った方が早えのに」
「前に言っただろう。いつの間にか海賊と呼ばれるようになっただけだ。今は気に入って、自らイサリビィ海賊団を名乗っているがな。やってることは変わらず物々交換だ。これからも一方的に奪うつもりはない」
「おかしな海賊だ。たちが悪いことには変わらねぇけど」
「義賊でもなんでもないからな。好きなように生きるのが海賊というものだ。――ここを降りる。木が古くなっているから気を付けろ」
甲板から階段で下に降りると、不気味な石像が立ち並ぶ部屋に出た。
キマイラやグリフォンにバジリスクといったような、他の生物の部分が色々合わさった生物のものばかりだ。
どれも部屋の中央を向いている。
「誰かに呪いでもかける気っスか?」
「気にするな、私の趣味だ。それから部屋は、この階の部屋を好きに使え。この下の階からは、全て私の部屋。無論立入禁止だ」
「寝て、酒が置けるスペースがありゃどこでもいい」
「あと、食料は船首下の洞窟に保存してある。勝手に持ち出して好きな時に食べろ。心配しなくても、無くなる前には船を出す。それと、この入り江の海水は真水で薄まっていて飲めないこともないが、喉を潤すには不十分だ。酒以外が飲みたければ、来る時にあった滝の上に湧き水がある。その近くに果樹も生っているから好きにとって食べろ」
「それは助かる。私は肉も魚も苦手だから、どうしようかと聞こうと思っていたところだ」
エミリアはセイリンに深々と頭を下げた。
「世話好きなのか?」
こちらから聞く前にあれこれと説明してくるセイリンに向かって、リットが意外そうな顔を向ける。
「船長だから、部下の面倒は見る。だが、下の世話までするつもりはない。それは自分で処理しろ」
セイリンはからかいの笑みをリットに向かって浮かべると「初仕事は五日後だ」と言い残し、下へと降りていった。




